第三十九話 【良からぬ噂】
去り際にセバスチャンが「あまり無理をしてはいけませんよ!」と叫んだせいで、課長にわたしの体調不良が知れてしまった。
「出勤して大丈夫なのかね? 具合が悪ければ──」
「ただの貧血ですから……大丈夫です」
「……肩を貸そう」
そう言って十紋字課長は背中をスッと私に向ける。
「そんな、課長の肩を借りるわけには」
誰かに見られでもしたら何を言われるか、わかったもんじゃない。気丈に振る舞い、ゆっくりと足を進める。
「せめてオフィスまで付き添わせてくれ。一人で倒れられても困る」
「すみません」
「謝ることじゃない」
わたしの半歩前を歩く課長。心配してくれているのは嬉しいが、正面玄関に立つ警備員さんの視線が痛い。
七階に無事到着すると課長は「核村くんのところへ行ってくる」と言い残し、足早に去って行った。
(朝から疲れた……)
オフィスに入るがまだ誰も出勤しておらず、わたしは一人自分のデスクに突っ伏した。目を瞑るとウトウトと微睡んでしまいそうになる。顔を上げてパソコンの電源を入れると、ぼうっと窓の外に視線を投げた。
(核村、叱られるんだろうな……)
先週、駐車場であんなことをやらかしたばかりだというのに、本当に懲りない奴だ。はっきりと自分の口で迷惑だ、と伝えた方がいいのだろうか?
(……でも逆上されそうだよね)
「どうしたものかな……」
──と。
「おはようございまーす」
勢いよくドアを開け、オフィスに飛び込んできたのは
「おはよ、真戸乃。課長は?」
「おはようございます。ちょっと用があって……まだ来られてません」
「ラッキー」
椅子に座ってくるくると回り始める瑞河さん。決まって一番に出勤する課長がいないので、彼女は大喜びだ。
「ところで真戸乃、前勧めた“ブラッドラスト・リザレクション”読んだ?」
以前、屋上で昼食中に勧められた作品名を口にする瑞河さん。あの時は内容まで聞いていなかったのだが、あらすじを読んだ感じでは所謂ダークファンタジーであった。
「読みましたよ」
「面白かっただろう? BLっぽい雰囲気がさ……堪んない」
「……見ようによってはそう見えるかもしれませんね」
苦手ジャンルに苦笑するわたしを尻目に、瑞河さんは椅子を更にくるくると回す。
「推しは?」
「ゼヘルですね。戦う男はカッコいいです」
「……いや、他にも戦う男いたでしょうよ」
「長髪で強い男が好きなんです」
「真顔で言わないでよ怖いから」
「瑞河さんは?」
「ユークリッド様!」
「やっぱり~」
瑞河さんに勧められた小説は当たりばかりで、それはわたし達の趣味が似通っているということを示していた。しかしどうやらキャラクターの好みは全く違うようで、互いに推しを聞き合うと決まっていつも違う名前が出てくるのだ。
「瑞河さんこそ“愛殺”読みましたか?」
「読んだよ読んだ! いやあ、すごいよかっ──」
「おはよーございまーすっ!」
バンっ、とドアが開く。もっと静かに開けるようよく注意されているのに、三日置きに喧しくドアを開けるこの男。
「カニちゃん、おはよ。ドア、うるさいから」
「おはよう、
「サーセン! あれ、課長は?」
「課長なら用があって外してるよ」
「へえ……つーか! それよかさぁ! 真戸乃さんさぁ、噂になってるよ!」
「噂?」
「課長と核村と彼氏のこと!」
「え?」
わたしのデスクをバンバンと叩き、興奮気味の蟹澤君。ちらほらと他の社員も出勤し始めたので、少し声のトーンを落としながら彼は続ける。
「さっき駐車場で男三人が真戸乃さんのことを取り合ってたって」
「え……はあ!? 何それ!?」
「あ、真戸乃先輩、真戸乃先輩!」
新たに出勤してきた後輩の
「それさっき僕も聞きましたよお! カウンタックの彼氏でしょ?」
「え、え、ちょっと待って……」
瑞河さんは怪訝そうに眉をひそめている。説明を求めるような眼差しをわたしに向けるので、簡潔に彼女に事情を説明した。
「うわあ……最低ね、核村」
「俺も同期として、それはちょっちハズいな」
「あり得ないっす……ていうか真戸乃先輩、彼氏いたんですね……」
三人とも同情の眼差しをわたしに向ける。ややこしいことになるので、美鶴君の彼氏発言はスルーしておいた。
興味本意で話を聞いていた周りの同僚たちも、わたしの説明を盗み聞いて納得した顔になっている。そろりと近寄ってきた蝶野係長が「噂、どんどん広がってるよ」とわたしに耳打ちをした。
「やっぱり、誰か見てたんだ……」
溜め息一つ。あの時間、駐車場に人気は無かったがやはり誰かしらに見られていたようだった。
「核村と噂になるのはまだしも、課長はヤバいっしょ、真戸乃先輩」
「そうよね……」
別の課の御夫人方からは人気の高い十紋字課長。美鶴君によると「あの鋭さが堪らない」と虜になっている隠れファンが多いとのこと。
「うわ……真戸乃、あれ……」
瑞河さんの視線の先──オフィスの廊下側の窓を見ると、別課の御夫人方が数人、団子のように固まってこちらを見ていた。というよりも睨んでいた。
「めっちゃ睨んでないですかぁ……? オバサンこわっ……」
震え声の美鶴くんはサッと廊下に背を向ける。立ち上がった瑞河さんと蟹澤君は、御夫人方の視線からわたしを庇うように立ち塞がった。
「課長! 十紋字課長! どういうことですか!?」
急に廊下が騒がしくなる。渦中の課長が現れたのだ。御夫人方に取り囲まれた課長は、不満げに眉間に皺を寄せた。
「うわあ、やっばー……って、真戸乃さん大丈夫?」
青い顔のわたしを蟹澤君が覗き込む。顔が青いのは単に貧血だったが、視線の先の光景──というか、課長の表情が血の気が引くほど恐ろしく、指先が震え出してしまう始末。
「──?」
──ぎゅ、と。
指先が握られる。華奢な体躯に似合わぬ大きな手の主は美鶴君で、「大丈夫ですよ」と言って屈み込んで目線をわたしに合わせた。それを見て蟹澤君は驚き呆気にとられられているようだった。
「お前、さっき声震えてたくせに」
「蟹澤さん、女の子が震えてるんですよ? 男が体を張らないでどうするっていうんですか」
「張ってない奴が言うなよ……」
直後、課長を取り囲んでいた御夫人方は安堵の表情を浮かべながら皆立ち去って行った。課長は頭を掻きながら、オフィスのドアを開けた。
「おはようございます」
「……おはよう」
何事も無かったかのような顔付きの課長が横を通りすぎる。この人は本当に、なんというか──。
「課長」
その背中をわたしは呼び止める。美鶴君の手をそっと引き剥がし立ち上がると、課長はゆるりと振り返った。
「先程は、ありがとうございました」
「気にしなくていい」
「今の方たちは……」
「何やらおかしな噂を聴いたと言うので、噂は噂だと叱責しておいた」
「……すみません」
「君が謝ることではない」
そのままロッカールームへと課長が消えるのを見送って、蟹澤君が驚いた声を上げた。
「君が謝ることではない……って、あんなこと言うんだ、課長」
離れた所に立っていた蝶野係長も、開いた口が塞がらないようだった。ローズレッドの口紅の乗った唇が、ポカンと開いたままになっている。
「……課長はわたしたちが思っているよりも、ずっと優しい人なんだと思う」
わたしの発言にオフィスにいた皆は、揃ってどよめいたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます