第三十八話 【一触即発】

 今日のお弁当のおかずの話をしているうちに、車はオフィスビルに到着した。少し早めに着いたので、人影は疎らだ。


「正面玄関に横付けしますか?」

「やめてください」

「何故ですか?」

「目立ちますっ!」


 カウンタックこんな車が街中を走っているだけでもかなり目立つというのに。正面玄関に横付けなんて、堪ったものではない。


「左に行くと駐車場があるので、せめてそこに駐車して下さい」

「承知しました」


 出来れば近くの路上にでも下ろして欲しかったのだが、セバスチャンは首を縦に振ってはくれなかった。おまけに、


『路上で倒れたらどうするんですか!?』


 と、叱られてしまう始末。全く、過保護な執事である。




 いつもは七割適度車が駐車されているが、早く着いた影響だろうか──今朝はまだ三割程度しか車が駐車されていない。車を停めて駐車場内を歩く社員に数人遭遇したが、皆目を丸くしてこちらを──というよりも、車を見ていた。


「ここで大丈夫です、ありがとうございました」

「あ、待って下さいほたるさん」


 鞄を手に車を降りようとするわたしを、セバスチャンが引き止める。右手には彼のスマートフォンが握られていた。


「御仕事が終わりましたら、御迎えに参ります」

「すみません、お手数をおかけして……」

「それで、ですね……あの」

「なにもじもじしてるんですか?」


 下を向いてなんだか少し恥ずかしそうな面持ちの執事は、ちらちらとわたしを見ながら何やら言いたげだ。


「電話番号を、ですね……」

「……あ、そうか」


 そういえばわたし達は、互いの連絡先を知らないままだった。特に不便はなかったので、気に留めることもなかったのだが。


 スマートフォンを取り出し、自分の電話番号を告げる。セバスチャンがそれを登録し終えると、続いてわたしが彼の番号を登録した。


「じゃあ、仕事が終わったら電話しますね」


 車を降りて軽く手を振ろうとした──その時。







「誰が降りてくるかと思ったら真戸乃かよ。おはよ」


 声の主は車の後ろ三メートル程度離れたところに立っていた。一週間ぶりに聴くその声にわたしは振り返る。


「さ……さね、むら……」


 ひょっとしたら意図的に彼がわたしを避けていたのかもしれない。先週の月曜にスカートの中を覗かれてから、核村とは全く顔を合わさなかったからだ。


「カウンタックなんて初めて見たぜ」


 言いながら核村は、車のボディを見つめながらこちらに向かってくる。


(やばい……わたし今、核村って言った……!)


 車内のセバスチャンにも聴こえていたかもしれない────まずい。彼はあの話をした後、核村のことを「殴り飛ばしてやらないと」と言ったのだ。


「セバ……」


「──あなたが」


 背後に人の気配。まるでわたしを庇うように、ずい、と前に出たセバスチャンは果たしてどんな顔をしているのか。


「あなたが核村さんですか?」

「そういうあんたは?」

「あなたに名乗る名などありません」

「……真戸乃の彼氏か」

「ちが……痛い!」


 思い切りセバスチャンの背中をつねってやった。くるりと振り返った彼は、わたしの肩に手を置いて小声で文句を垂れる。


「何をするのですか!」

「彼氏じゃないって否定したら、話が面倒なことになるので! すみませんが彼氏ってことにしてもらえませんか?」

「しかし!」

「お願いします!」


 不満げに頬を膨らませたセバスチャンは、核村の方を向いて「おっしゃる通りです」と答えた。


「違うって言いかけなかったか?」

「『違いない』って言いかけたのですよ」

「……ふうん」


 つかつかとセバスチャンに歩み寄った核村は、舐め回すように彼を見ている。


「核村、見すぎだって。セクハラだよ」

「男同士じゃんか」

「その発言は時代に逆行してる」


 わたしが言うと核村はようやくセバスチャンの観察を止めた。


「イケメン」

「え?」

「イケメンで料理も出来て金も持ってますってか……全く! ふざけるなよ!」

「核村っ!」


 叫ぶと同時に核村がセバスチャンに殴りかかった。握られた拳は、セバスチャンの眼前でぴたりと止まった。


「殴られる筋合いもない」


 セバスチャンは核村の右ストレートを止めていた。手首を捻り上げられた核村の表情は苦痛に歪む。


「それに、殴りたいのはこっちのほうだ。ほたるさんのスカートの中を覗きやがって。よくも彼女を辱しめたな」


 固く握り締めたセバスチャンの拳が、核村の鳩尾に入った。攻撃が速すぎて止める間もなかった。

 体を前に折った核村に、今度はアッパーを打ち込もうとするセバスチャン。すかさずわたしは止めに入る。


「ま、待って下さい!」

「しかし、ですね」

「しかしじゃないです! 気持ちは嬉しいですけど、誰かに見られでもしたら……」


 幸運にもわたし達以外、駐車場には誰の姿もなかったが、これから車が入ってくれば目撃されてしまう。それはあまり喜ばしいことではなかっ──



「──何をしているのだね」



 聴き覚えのある声に振り向くと、そこには言わずもがな十紋字じゅうもんじ課長の姿が。先週の火曜日から出張に行っていた彼の手にはお土産と思しき紙袋が握られ、通勤鞄は脇に挟まれていた。


「おは……おはようございます、課長……出張お疲れ様でした……」

「おはよう。土曜に戻ったんだ。で、これはなんだね真戸乃くん」


 誰がどう見ても、高級車とフェンスの間で男二人が喧嘩をしているようにしか見えない。


「多分、ご想像通りです……」

「ふむ。ずっと車内で様子を見ていたのだが……先週のあのことについて、彼が怒っているのかな」

「そんなところです……」


 課長はもう一度「ふむ」と言うと、額に汗を浮かべる核村の正面に立った。課長の方が背が高いので、核村の姿はまるで怯える小動物だ。いや、核村が小柄ってわけではないんだけれど。


「核村君」

「……はい」

「私は先日、君に注意をしたはずだ。真戸乃くん──いや、彼女に限らず、社内で人を傷付けるなと」

「……はい」

「この状況は?」

「すみません……ついカッとなって……殴ろうとして返り討ちに合いました」

「……良い気味だ」

「え?」


 課長が最後に何と言ったのか、誰一人として聞き取れなかった。


「君はもう行きたまえ」


 酷く冷たい声で課長が言うので、核村は「すみませんでした」とわたし達に頭を下げると、早足で去っていった。


「じゃ、じゃあ私もこれで。あまり無理をしてはいけませんよ、ほたるさん!」

「え、ちょっと!?」


 早口で言い終えたセバスチャンは駆け足で車へと乗り込み、大音量のエンジン音と共に去っていった。


「なに、急いでたんだろう……ひょっとして遅刻しそうだったのかな?」


 スマートフォンで時刻を確認する。ホーム画面にはA.M.7:57の表示。8:30の就業時間まで、まだかなり時間があった。


 わたしは知らない。セバスチャンが何時から、何処で、どんな仕事をしているのかを。


(ひょっとして8:00就業開始だった? でもそれだと早く家を出るよね。どっちにしても、帰ったら謝らなきゃな……)



 薬が効いてきたのか、腹痛はだいぶ治まっていた。



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