第三十七話 【垣間見えた素性】
車を回してくるから待っているように、とセバスチャンに言われ、わたしはアパートの駐車場に待機している。愛車の真っ赤なジュリエッタに背を預け、ぼんやりと空を見上げた。
(今日も暑くなりそう……日差しがきついな)
頭の上に浮かぶ入道雲を見つめ、目を細めた。働き者の蝉たちは、朝からミンミンと喧しく声を重ねている。
そんな蝉たちの声をかき消すエンジン音に顔を下げると、目の前に一台の高級車が止まっていた。
「ラ……ランボルギーニ・カウンタック……」
白いカウンタックだった。運転席のドアが開き、下りてきたのは言わずもがなスーツ姿のセバスチャン。長い髪は頭の低い位置でお団子になっている。
いつもの燕尾服ではないので、何度見ても新鮮な格好だった。家の中で飽きるほど目で追ったというのに、気が付くとわたしはスーツ姿のセバスチャンを、ぼうっと見つめていた。
「お待たせしました。さ、どうぞ」
助手席のドアも運転席と同様、面白い方向に開くので、失礼しますと言って高級車に乗り込んだ。
(天井低っ……)
こんな高級車なんて初めて乗るので緊張してしまう。手入れも掃除もよくされているようで、カウンタックも嬉しそうだ。
「しかし凄い車に乗ってますね……」
セバスチャンが会社の住所を聞くので伝えた後、内装を見回しながらわたしは呟いた。
「そう……ですかね」
スマートフォンの地図アプリに住所を入力した執事は、運転席に座り直すと車を発進させた。
わたしも人のことをとやかく言えないような車に乗っているが、この車は桁が違う。本物なんて初めて見たので、内装を更にじっくり観察した。
(こんな車持ってるなんて……ただ者じゃないよね、セバスさん)
隣に座るセバスチャンは、明け方に見せた寝顔の幼さなど微塵も感じさせず、涼しい顔でハンドルを握る。本当にこの人は一体何者なのだろうか。
「あの、セバスさん」
「何でしょうか?」
視線を正面に向けたままセバスチャンが答える。
「一つ聞いてもいいですか?」
「はい?」
「セバスさんは……おいくつなんでしょうか?」
「二十五です。この秋で二十六になります」
答えた。いともあっさりと。
「と……年下……」
「どうかしました?」
「いえ、別に……」
二十五という若さでこんな高級車を所持しているなんて。ひょっとしてどこかのお坊ちゃんなのだろうか。
「あの、お坊ちゃんなんですか?」
「誰がです?」
「セバスさんがですよ」
「まさか」
ふふっ、と魅惑的に微笑みながらセバスチャンは地図を確認する。
「それにしても、わたしより年下だなんて思わなかったですよ」
「そう……ですか? ふむ、そうなんですかね」
首をこてんと横に倒すセバスチャン。赤信号で停車すると、オーディオを触って音楽をかけた。
「全く、あまりわたしを甘やかさないで下さいね。貧血でも、運転くらいできますもん!」
少しだけ語調を強めて言う。セバスチャンは全く動じていなかったけれど。
「いいではありませんか。私が甘やかしたいから、甘やかすのです」
(年下に甘やかされるのか、わたしは……)
なんとなく「それも悪くないかも」と思ったりもしたが、口には出さないでおく。
オーディオから曲が流れ始めた。予測はしていたが、やはりクラシック曲だった。運転をしながらクラシックなんて聴いたら、わたしだったら眠ってしまうだろうな。
顔を左に向けると、ハンドルを握るセバスチャンの指がトントンとリズムを刻んでいた。まるでピアノを弾いているようだった。
「これ、聴いたことはあるんですけど……誰の何ていう曲なんですか?」
「ベートヴェン。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのピアノソナタ第八番……悲愴と呼ばれている曲です」
なんとなく悲しげな音色は、真夏の朝にはとても不似合いで、どうして彼がこの曲をかけたのかわたしにはさっぱりわからなかった。
「クラシック、好きなんですね。よく歌ってますよね、セバスさん」
鼻唄の時もあれば、英語の歌詞を口づさんでいる時もある。高確率で朝食準備の時は鼻唄で、夕食準備の時は英語の歌詞だった。
「クラシックが好きというよりも、楽器を弾きますので……その影響ですかね。勉強のようなものです」
「……楽器?」
「ピアノと、バイオリンを少し」
「ピアノとバイオリン……」
やっぱりお坊ちゃんじゃないか。ピアノとバイオリンを嗜む男子なんて、そうそういるものじゃないだろうに。
「大したことはありませんよ」
言いながらセバスチャンは、少し恥ずかしそうに頬を掻く。信号が青に変わり、窓の外の景色が移り変わってゆく。
「聴いてみたいですね」
「機会がありましたら、是非に」
程なくして車はわたしの勤めるオフィスビルに到着する。
──到着してまさかあんなことが起ころうとは、思ってもみなかったが。
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