第三十六話 【菓子のように甘い人】

 わたしは毎朝、スマートフォンのアラームと共に六時半には目を覚ます。

 目覚めると必ずキッチンからセバスチャンの鼻唄が聴こえてきて、毎回それはクラシック曲で。

 しっとりと寝汗をかいた肌の上を冷房の冷たい風が優しく撫で付ける。寝起きの蒸し暑い不快感が軽減されているのは、先に起きたセバスチャンが冷房を入れてくれているからで──。



 しかし今朝は違った。どう歯車が狂ったのか、明け方に目が覚めたのだ。外はまだ薄暗く、壁掛け時計で時刻を確認しようと首を動かすよりも早く、わたしは自分の体の状態に驚き、身を弾ませた。


「やっ……」


 ちょうど胸の谷間に顔を埋めるように、セバスチャンがわたしに抱きつき眠っていた。セバスチャンだけではない。わたしも彼にしっかりと抱きついていた。というよりもわたしが彼の頭を抱き寄せているようにも見える。


(夢じゃなかったんだ……)


 夢の中で、セバスチャンがわたしを抱き締めたのだ。嬉しくなってわたしはそれに応えたのだが、この光景から察するにあれは──夢ではなかったのかもしれない。


(どうしよう、これ)


 無理に引き剥がすと起こしてしまうかもしれない。アラームが鳴るにはまだ時間があるし、もう一眠りすることにする。



(というか寝るしかないよね、これ……)



「ん……」


「ああぁっ……や、ちょ……っと……」


 セバスチャンの顔面が更にぎゅう、っとわたしの胸に押し当てられる。というよりも押し込まれている。苦しくないのだろうか? 

 こちらは色々と問題有りなのだが、気持ち良さそうに眠るセバスチャンはそんなことお構いなしだ。


(そういえばわたし、セバスさんの寝顔って初めて見るな……)


 言うまでもなく可愛らしい寝顔だ。この顔だけを見ると、年下のようにも思えてくる。


(そう言えばセバスさんって、一体いくつなんだろう?)


 少し年が上なのかとも思っていたが、この寝顔を見るとかなり年下にも見えた。



(駄目だ──ねむ、い────)



 わたしの思考はそこで停止する。彼の長い黒髪を撫で付けながら、再び眠りに落ちた。











「──さん、ほ──るさん」


「ん……う……」


「ほたるさん、ほたるさん」


 左肩を優しくとんとんと叩かれている。眠い目をこすり薄目を開けると、目の前にセバスチャンの顔があった。


「わあっ!?」

「すみません、驚かせてしまって。アラームを止めても起きて来られなかったので……おはようございます」

「すみません、明け方に目が覚めちゃって……二度寝したら起きられませんでした……おはようございます」


 寝起きの顔をこんなに近くで見られるなんて、恥ずかしいったらありゃしない。手櫛で軽く髪を整え、体を起こす。いつも通り燕尾服と長い三つ編み姿のセバスチャンから慌てて目を逸らして立ち上がる。


「あ……朝ごはん、ありがとうございます。顔を洗ってきますね」


 既にエプロンを外したセバスチャンの後ろのテーブルには、いつも通り和食の朝食が配膳されていた。お味噌汁だけはまだよそわれていないようだ。どうやらわたしが起きてくるのを待ってくれていたようだ。


 顔を洗い、そのままトイレへ向かう。



(──あ)










「すみません、お待たせしました」


 テレビのニュースを見ていたセバスチャンが、わたしの姿を捉えて立ち上がる。どうやらお味噌汁をよそいに行ったようだ。見るといつも通り彼の汁椀にはたっぷりの葱が盛られていた。いや、流石に朝は匂いを気にしているのか、夜に比べて量は控え目だ。


「「頂きます」」


 手を合わせてもぐもぐと朝食を頂く。お味噌汁を一口飲んだところでわたしは、


「……ちょっと失礼します」


 立ち上がりキッチンへ。備え付けのキッチンクローゼットの中──薬箱の中から一つ、箱を取り出しリビングへと戻る。


「セバスさん」

「なんでしょうか」

「すみませんが今日から一週間程度、お風呂は別々に入らせて下さい」

「ええ!?」


 手にしていたお箸を床に落とすセバスチャン。危うくお茶碗も落下するところだった。危ないったらない。


「な、な、何故ですか!?」


 それにしても何なのだろう、彼のこの反応は。そんなに別々が嫌なのだろうか。


「あれです」

「……あれ、です? ん……お薬、どこか痛むのですか?」

「頭とお腹が痛いですね。このあと鉄剤も飲みます」


 食事を終えて薬を飲みほす。流石にここまで言えばセバスチャンもわかってくれたのか、それ以上口を出すことはなかった。ちらりと彼の表情を盗み見ると、なんだか少しだけ恥ずかしそうな顔をしていた。


「ごめんなさい、気にしないで下さい」


 空になった食器を手にし、立ち上がったわたしは、なんだか申し訳なくなって頭を下げた。


「い、いえ! こちらこそ気を遣えず……申し訳あり……って大丈夫ですか!?」


 頭を下げて、フッと顔を上げた瞬間──ぐわりと立ち眩んだ。視界がぐにゃりと曲がり、頭は鈍器で殴られたようにガンガンと痛む。セバスチャンが肩を支えてくれて、ようやく立っていられる状態だ。


「ただの貧血ですから、大丈夫です……」

「大丈夫じゃないでしょう! 御仕事、休まれては」

「こんなことで休めませんよ……今日は大事な会議があるんです。会社に着いてしまえばなんとかなりますから」


 薬が効いてくれば少しは楽になるはずだ。それまでの辛抱だと己に言い聞かせる。


「会議よりも、ほたるさんの御身体のほうが大切です!」


 涙目で訴えるセバスチャン。この人は本当に──どこまでもわたしに優しく、甘い、菓子のような人だ。


「大丈夫ですから、本当に」

「いいえ!」

「本当に、なんとかなりますから」

「……わかりました」


 わたしの肩から手を離し、セバスチャンは食器を下げに向かう。わたしの手の中にある食器も取り上げて下げると、何を思ったのか燕尾服の上着を脱ぎ、クローゼットから黒っぽいスーツを取り出した。


「私がなんと言おうと聞いてくださらないのですね」


 少しだけ表情が怖い。何を言われるのかと身構えていると、セバスチャンは自分のスーツケースから通勤鞄のようなものを取り出した。


「御仕事を休まれないのでしたら、会社まで私が車で送らせて頂きます。拒否権はありませんよ?」


「……え?」


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