第三十三話 【この身を尽くして謝罪とお詫びを】
事が起きる前日の土曜日──。
この日のわたしは休日出勤を免れていた。というのも「スカート覗かれ事件」の起きた月曜日の翌日から、
わたしは休みだが、セバスチャンは仕事なので出掛けると言ってスーツに着替えている。
「は? え? 仕事っ!?」
「はい」
クローゼットの中からアッシュグレイのネクタイを取り出しながら、淡々と告げる執事。うちにやって来た当初、セバスチャンは持って来たスーツケースに衣類をしまっていたが、ある時「いつまでもそれは如何なものか」という話になった。今ではクローゼットの半分とその下段の引き出し部分が彼のスペースになっていた。
手早くネクタイを結び終えると、今度は長い髪を一括りに。頭の低い位置で緩めのお団子が完成した。
「仕事って……ええっと、仕事? セバスさん、お仕事されてるんですか!?」
「はい」
やはりこの態度。見えない壁に阻まれたわたしはベッドから身を起こしたものの、その背に歩み寄ることが出来ない。
「知りませんでした……」
「すみません、言っておりませんでしたね。毎日ほたるさんを見送ったあとに出勤しております」
「待って下さい、それならセバスさん一人に家事を押し付けるのはおかしくないですか? お互い働いているのなら、家事も分担するのが──」
「いいんですよ」
身支度を整えたセバスチャンは、最後に銀の腕時計を手首に巻きくるりと振り返る。
「私が好きでやっていることなのですから、お気になさらず。ほたるさんはゆっくり養生なさって下さい。夕方には帰りますから──では」
玄関扉がゆっくりと閉まる。はいそうですか、と消化するのは些か難しい。思えば、わたしは彼について知らないことばかりだった。
(──雨か)
昨夜から細い雨が降り続いていた。このところの体調不良も手伝って気分もブルーだ。
(少し小説読んで寝ようかな……)
小説家になろうのブックマークページを開く。あ、更新されてる、とわたしが開いたのは、
アンチリア・充先生著 “偽物ドライとロードポイント”
これがまたなんとも胸に刺さる作品なのだ。主人公のミーくんこと 橘 海月が、ヒロインであるミャー子こと 都 優美穂の部屋に転がり込んでいる姿は、なんだか自分達の境遇と重ねてしまう。
(でもわたし、ミャー子みたいに可愛くないんだよね……)
女のわたしから見てもミャー子は可愛い。あんな可愛い子が隣にいるのに手を出さないミーくんは、よく出来た男の子だと思う。
(わたしも──ミャー子みたいに可愛かったら……ひょっとして)
「……わたし、なに考えてんだろ」
頭の隅に沸いて出た馬鹿馬鹿しい考えを揉み消す。小説を読み終えたわたしは、セバスチャンの言う通りその日は大人しく過ごした。
夕方になってセバスチャンが帰宅してからも、雨は降り続いていた。
*
翌日。友人の葵と出掛ける予定をキャンセルして、わたしは死体のようにベッドに転がっていた。ここ数日、自分の中に溜まった不満は爆発寸前で、おまけに今日も体調がよろしくない。なんだか頭がボーッとするし、お腹からも鈍い痛み。これはあれだよ、あれ。寝てなきゃいけないやつだ。
「大丈夫ですか?」
「……はい」
心配してくれるセバスチャンの言葉も全て背中で受け止め、わたしは体を丸めてチャーリーにしがみつく。
「……ごめんなさい。少し、一人になりたいです」
セバスチャンがここに来た日のこと。『プライベートな時間が欲しいときは仰って下さいね』と言っていたことをわたしは思い出す。今が正にそうだった。
「わかりました。買い物に行ってきますね。夕方には帰ります」
変に気を使わせてしまった──申し訳ないと思いながらも、わたしは顔を上げることが出来なかった。
セバスチャンの声は、少しだけ悲しげに聴こえた。
夕方が過ぎ夜になる。言った通りの時間に帰宅したセバスチャンの作る夕食を食べ、入浴の時間となった。彼のお気に入りドラマ「ダークヒーロー」を視聴するため、お風呂のお湯をいつもより早めに溜めた。
「ほたるさん、あれから体調はいかがですか?」
心配してくれているのはわかる。でもなんだろう、上手く言えないがその声はやはりわたしには冷たく、機械的に聴こえた。
「美味しいごはんも食べましたし、お風呂に入って寝れば大丈夫だと思うんですけど」
「そうですか、でしたら早く入ってしまいましょう」
「……そうですね」
返事をしながら先行してスタスタと脱衣場に向かう。いつも通り背中合わせになって、わたしはルームワンピースをストンと脱いだ。燕尾服のセバスチャンよりも先に全てを脱ぎ終えたわたしは、「先に入りますね」と言ってお風呂の折り戸に手をかけた──その瞬間。
「きゃ……きゃああああああぁぁああっ!!」
「え、ちょ、ほたるさん!?」
「やだやだっ! 怖い気持ち悪いっ! やだあああああっ!」
手をかけた指の先に、爪の大きさほどの黒い蜘蛛がいた。虫女と呼ばれたわたしだったが、虫は大の苦手なのだ。羽虫ならまだしも、こういった類いのものは見た瞬間震え上がってしまう。
「落ち着いて、落ち着いてくださ……わああああ! ほたるさん、待って! む、胸が!」
「え、わ、ああっ! ごめんなさい! ああでも! 離れちゃやだ、怖い怖い怖い!」
──説明しよう。恐怖のあまりパニック状態になったわたしは、全裸の状態で背後のセバスチャンに抱きついていた。彼はまだシャツを脱いだだけだったので、互いに全裸でなかったことが不幸中の幸いだったかもしれない。
「指先、蜘蛛に触っちゃったかもしれない! 気持ち悪いっ!」
「じゃ、じゃあ洗いま……」
「離れちゃやだ! 怖い!」
「私も! そんなにおっぱ……じゃなくて、胸を押し当てられたら色々と不味いです!」
「性欲は捨て置いたんじゃなかったんですか!?」
「そうですけども!!」
涙声で叫ぶわたしを抱き寄せて、セバスチャンは洗面台へと向かう。御丁寧にハンドソープまで自らの手につけて、わたしの指先を洗ってくれた。鏡に映る全裸の自分と半裸の執事──なんとも滑稽だったが、今はそれどころではない。
「あの蜘蛛、ぽいしないと!」
「ぽい?」
「お外にぽい!です!」
「わかりました!」
セバスチャンは蜘蛛を逃がす為、わたしの体から手を離した。
「ほたるさんは先にお風呂に入っていて下さ……」
「だめっ! お風呂に仲間がいたらどうするんですかっ!」
「仲間って……じゃあ、一緒に来ますか?」
「……この格好で、ですか?」
「う、それは駄目です」
赤面したセバスチャンはきょろきょろと周りを見回す。脱いだばかりのカッターシャツを洗濯カゴから取り出し、わたしの肩にふわりとかけてくれた。
「すみません、これで我慢して下さい」
そう言った真っ直ぐな瞳を、わたしは恥ずかしくて見つめ返すことが出来なかった。
無事にベランダから蜘蛛を逃がし、セバスチャンは溜め息一つ、背を向けたままわたしに問うた。
「あの、ほたるさん。今まで虫が出た時はどうしていたんですか?」
「お隣の樹李さんを呼んでいました。樹李さんのいないときは大家さんに電話して……大家さんが駄目なときは、その……桃哉に」
「桃哉さん、ですか」
あれ、わたし何か変なこと言ったかな? 桃哉の名前を出した瞬間、セバスチャンの声色が変わった気がした。
そんなことよりも、だ。
「あの、セバスさん……」
「お風呂、入りませんか? いつまでもこの格好でいるのも……」
「う……そうですね」
謝るのはお風呂に入ってからにしよう。わたしだっていつまでも全裸にシャツ一枚じゃ落ち着かない。
セバスチャンは脱衣場に仲間の蜘蛛がいないか入念に探してくれた。大丈夫そうだということだったので、やっとのことでわたしたちはお風呂に入った。
「謝罪と、お詫びをさせて下さい」
湯船に浸かりながらわたしは、セバスチャンにこちらを向くよう要求した。湯船の中で向かい合うと、互いの恥ずかしい部分が見えてしまうのでずっと控えていたのだが、正面から顔を見て気持ちを伝えないと、駄目な気がしたのだ。
「変な格好で泣きついて……抱きついてしまい、すみませんでした。虫はどうしても駄目で」
「大丈夫ですよ、お役に立ててよかったです」
にこりと頬笑むセバスチャン。この人は本当にどこまでも優しい。
「体調が悪いからと言って、変な態度も取ってしまって……本当にすみませんでした。重ね重ね、お詫び申し上げます」
「ふふ、堅苦しいですよほたるさん」
(あ、セバスさん笑った……)
微笑んだのも束の間、キリッと顔を引き締めるセバスチャン。器用というか不器用というか。
「でも、ちゃんとしないと気が済まないんです!」
半分自棄になって、わたしはずいっとセバスチャンに接近した。驚いた彼は後退するが、湯船の中なので逃げ場はない。
「あなたが望むのならば、わたしはなんだって──」
すっ、と足を持ち上げ、セバスチャンに跨がった。さ迷っていた手を彼の首の後ろに回して、その体を抱き寄せた。二つの乳房が、彼の体にぎゅうっと押し当てられた。
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