第三十四話 【離したくない】
ぴったりと、隙間など無いほど寄せた体。セバスチャンの長い髪がわたしを絡めとるように、体にまとわりついている。
「ほ、ほたるさん! なにを……」
「お詫びです」
動揺するセバスチャンとは違い、わたしは不思議と冷静だった。恥ずかしいという感情をしまいこみ、勇気を引っ張り出してきたのだ。我ながら大胆なことをしていると思う。しかしこうでもしなければ、きっとわたしの想いは伝わらない。
「お、お詫びですか?」
「色々と迷惑をかけてしまったお詫びです」
「そんなの、不要ですよ」
下りてください、と両肩を掴まれた。わたしはいやいやと首を横に振ってそれを拒絶した。
「ほたるさん、これ以上は……その」
セバスチャンが言わんとすることはわかっていた。これだけ体が密着して、ましてやわたしは彼に跨がっているのだ。感覚で
「お詫びって言ってるじゃないですか」
「な、え? は?」
「わたし、さっき言いましたよ『あなたが望むのならば、わたしはなんだってする』って」
「あの、それは」
「言わなきゃ、わかんないんですか、わたしは……わたしは──あっ……」
肩を掴まれ、無理矢理体を引き剥がされた。後退したわたしの体は反対側の湯船の壁に衝突する。
「言ったではありませんか、ぎゅーは駄目だと」
「いや、でしたか?」
「嫌じゃないです、嫌なわけがないです」
「それなら……」
「そういう意味ではなくて、ですね」
刹那、わたしの上にセバスチャンがのし掛かった。体重をかけられ、動くことが出来ない。体はまたしても隅々まで密着し、少し気を抜くと重なってしまいそうになるくらい、互いの唇の位置は近かった。
──恐怖は、なかった。
「駄目だと言ったのに、あなたは」
セバスチャンの吐く息が、わたしの耳を撫でる。びくんと体が跳ね、堪えていた声が口の端から漏れた。その拍子にセバスチャンはわたしから離れ、立ち上がった。
「……嫌」
手を伸ばし、触れ、掴んだ。
「……嫌、もう、嫌だ」
振り向いたセバスチャンが目を見開いて動きを止める。きっとわたしの目から零れ落ちている涙に驚いているのだろう。
「……ほたるさん?」
「もう、もう嫌なんです!」
腕に力を込めて立ち上がり、背中に抱きついた。その腕を解かれまいと必死になって指先を絡めた。
「何のことでしょうか」
「とぼけないで下さい! その……余所余所しい態度ですよ! 笑ってくれないし、冷たいし! ずっとじゃないですか! 人の気も知らないで! わたしがどれだけ苦しかったか! 何が『主であるあなた様と少し馴れ合いすぎていたな』ですか! なんで馴れ合いすぎちゃ駄目なんですか! わたしは、わたしは……」
叫び、力尽き、腕を解いたわたしはざぶんと湯船に浸かった。両手で顔を覆い言葉を発しようとするが、しゃくり泣いているせいで上手く言葉が出てこない。
「なんで、わたしは……そんなこと、望んでなんて、ないのに、なんで…………ごめんなさい、自分のことばかりで、わたし、」
ちゃぷん、という音に手を退けて顔を上げる。湯船の中で正座をしたセバスチャンが頭を下げていた。
「大変申し訳ありませんでした。あなた様がそこまで思い詰めていらっしゃるとは知らずに、私は……良かれと思ってやっていたのですが」
「全然良かれじゃないです! 何の為にこんな……こんな態度を」
「それは……あの、とりあえずお風呂から上がりませんか? のぼせてしまいそうで」
言われてみれば確かに、真夏だというのに長時間お風呂に入りすぎていた。頭に血が昇ったせいかぼーっとするし、顔は熱い。
「大丈夫です、逃げはしませんから、さあ」
差し出された手に掴まり立ち上がる。体を拭いて髪を乾かし着替えを済ませたわたし達はリビングへ向かう。汗をかきすぎたので二人揃ってスポーツドリンクを飲み干すと、並んでベッドへと腰かけた。
「私はあなたに恩があるのです。それを返すためにあなたのところへやって来たのです」
ベッドに腰掛けたまま溜め息を吐くと、うつ向き加減のセバスチャンは低い声でそう漏らした。
「恩、ですか?」
「はい」
「一体、何の恩なんでしょうか?」
恩を返すために来たというのならば、わたしは過去に彼に会ったことがあるということになる。しかしいくら記憶を辿っても、こんなイケメン執事に会った記憶などなかった。
「昔のことです。詳しいことはまだ言えません。あなたと馴れ合いすぎて深い仲になって──自分の目的を忘れてしまうことが怖かった。それ故……あのような機械的な態度を取ってしまいました」
半分ほど伏せた蒼い瞳は、膝の上で組んだ指をじいっと見つめたままこちらを向いてくれない。そわそわと落ち着かない様子で、指先をトントンと動かしては重苦しい息を何度も吐いている。
「詳しいことが言えないのは、どうしてですか?」
「真実を知ったらきっとあなたは私を拒絶する。それだけは避けなければならない」
「そんな、拒絶だなんて……わたしは」
言葉の途中でセバスチャンの顔がくるりとこちらを向いた。
「私の恩返しが済むまで、待ってください」
「恩返し……鶴の恩返し的なやつですか」
「まあ、そんなとこです。私のことは鶴とでも思って頂いて構いません」
「なんですか、それ」
堪らずフフっと笑い声が漏れた。それにつられてセバスチャンも小さく笑った。
「わかりました、待ちます。でも、今まで通りの態度でお願いします。じゃないと、わたし──」
「承知しました。ほたるさんがそれで良いと言われるのであれば、壁を取り払って態度を改めます」
恩返し、というのがよくわからないままだが、詳しく話せないと本人が言うのであれば仕方あるまい。わたしはそれ以上、詮索するのを止めた。
ドラマが始まった。テレビからきっちり二メートル程離れた場所に座ったセバスチャンは、食い入るように画面の中の主人公 蓮を追う。
(あれ……?)
食事の時には正座をしているくせに、テレビの前に座る彼は胡座をかいていることにわたしは気が付いた。先週は確か──テレビの前でも正座をしていたはずだ。
(少し、心を開いてくれたのか……な?)
そんなセバスチャンの隣で足を止めると、彼は不思議そうにわたしの顔を見上げた。テレビ画面にくるりと背を向け、彼の隣に腰を下ろした。
「……お邪魔します」
ぴったりと体を寄せ、二の腕に頭を預ける。右手でスマートフォンを操作して「小説家になろう」のマイページを開いていると、左手がなんだかくすぐったい。
「あの、セバスさん?」
わたしの左手は、セバスチャンの左手に絡め取られていた。指の一本一本がその場からわたしを逃がすまいと、上から押さえつけるように──かっちりと固定されていた。
ドラマが終わり、電気を消してベッドに入った。毎晩背を向け合い、わたしはチャーリーを抱き締めて眠っていたが、この日は──この日だけは、セバスチャンの背中に
翌朝のチャーリーは、なんだか少しだけ寂しそうに見えた。
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