第三十二話 【小さな亀裂】

 食事の準備はもう殆ど済んでいるようだった。料理の香りが漂うリビングのコーヒーテーブルを挟み、わたしとセバスチャンは向かい合って座った。


 ややあってわたしは、今日起こった出来事をセバスチャンに打ち明けた。彼は口を挟むことなく、時折相槌を打ちながら最後まで話を聞いてくれた。


 核村さねむらにスカートの中を覗かれるなんてハプニングはごく稀に起こるので、わたしの中では大した問題ではなかったのだ──が、それを聞いた瞬間セバスチャンの眉間に深い皺が寄った。課長に叱られたこと、そして駐車場で起こったことを聞き終えると、セバスチャンはすくっと立ち上がった。


「あの、セバスさん?」

「許さん」


 恐ろしく顔が怖い。昨日桃哉に向けた表情といい勝負だった。


「その男の家は何処ですか」

「え、あの……セバスさん?」

「殴ってやらないと」


 言いながら立ち上がり、エプロンを外す。この人は本気で核村を殴りに行くつもりなのだろうか?


「いや、核村の家なんてわたしも知りませんよ?」

「核村というのですか、そいつは」

「え、ええ……」

「あ……駄目だ、駄目だ」


 玄関に向かって進めていた足を止め、ふるふると頭を横に振った。

 胸に手を当て、ふうっと大きく息を吐くセバスチャン。それで落ち着いたのか、「すみません」とわたしに頭を下げた。


「取り乱してしまい、申し訳ありません。しかし覚えましたよ──核村」

「あの、セバスさん?」

「よし、夕食にしましょう。さ、手を洗ってきて下さいね」


 母親のようなことを言い、外したばかりのエプロンを腰に巻きながらキッチンへと消える執事。切り替えが早すぎて、わたしは一人取り残される。


 言われた通り手を洗い、洗面所で溜め息を吐く。くだらないことを考えるのは止めようと何度考えても、この腕に蘇るのはセバスチャンの体の温もりだった。


(こういう時こそ、小説の世界に浸らないとね……)


 瑞河みずかわさんに勧められた小説を検索し、ブックマークをつける。今夜読む小説に目星をつけようと、ブックマークページを移動する──が。


「あれ?」


 読もうと思っていた作品がないのだ。どういうことなんだろう。同じ作者の作品を検索してもヒットしない。


「削除したってこと? もう読めないの……? 嘘でしょ……」


 あんなにも読者を抱えていた作品が、突如として消えていた。驚きの余り言葉を失ったわたしに、リビングからセバスチャンが声をかけた。


「ほたるさーん?」

「あ、はいー」


 どうかされましたか、と声をかけられるが、何も、と否定し配膳を手伝う。


「デザートはクレープですよ」


 冷蔵庫のドアを開ければ、中にはチョコレートとバナナ、それにホイップクリームの甘い香りを纏ったクレープが二つ、お皿の上で冷やされていた。


「え、クレープ?」

「はい」

「どうして……」

「それが、悪いとは思ったのですが……」




────あれは日曜の夕方の事だった。とある小説を読みクレープを食べたくなったわたしは、クレープの画像やレシピを検索した挙句、ページを開いたままスマートフォンを床に投げ出しそのまま眠ってしまった。なんでもセバスチャンは、わたしがスマートフォンを放り投げた音に驚き、そろそろと近寄って来たらしい。それに関しては全く気がつかなかったけど。




「放り出されたスマートフォンをちらりと見ると、クレープの画像だらけでしたので、食べたいのかと思い……その、勝手に作ってしまいました。わたしもクレープ好きですし」


 あまりの気遣いに驚いて言葉を失う。「申し訳ありません」と頭を下げる執事の顔を下から覗き込み、わたしは目一杯微笑んだ。


「嬉しい……ありがとうございます」

「喜んで頂けてよかったです」

「あ、クレープは食後に食べるとして、おかずは何なんですか?」


 冷蔵庫を閉め、盆におかずを手早く載せるセバスチャン。


「クレープがありますので、おかずはヘルシーに致しましたよ。お味噌汁にキュウリのごま和え。それに鯖の味噌煮」

「鯖の、味噌煮」

「ええ。葱たっぷりです」


 盆に乗ったおかずを食卓に並べながら眺め、セバスチャンはにこにこと嬉しそうだ。


「葱がとろっとしていて、とても美味しそうです」


 見るとやはりお味噌汁にも大量の青葱が。


「葱、好きなんですね……」

「はい」


 反省モード中の、笑顔もない素っ気ない返事だった。


「こちらに来た初日は、葱が足りなくなるかもしれないと心配をして、控え目にしていたのですが、良い葱を売っている八百屋さんを見つけました。これで葱に困ることはありません」

「そうなんですね……」


 どれだけ葱好きなんだよと苦笑するわたし。ちらりと見ると、メインの鯖が霞んでしまうほど薄切りの白葱が、器の中を占領していた。


「さ、頂きましょう」




 食後に食べたクレープは、想像以上に美味だった。生クリームは少し甘めで、甘党としては嬉しい限りだった。

 お互い黙々と食べ進め完食し、いつも通り一緒にお風呂に入り、一緒に布団に潜った。



 


 それからしばらくの間、溶けきらない氷のようなこの関係は続いた。話しかけて無視されるわけではない。冷たい態度を取られるわけでもない。ただ──なんとなく見えない壁に阻まれているような、気持ちの悪い距離感があった。



 一週間近く経った頃──事が起きたのは日曜日の夜のことだった。

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