第三十一話 【もっと素直に】
早く帰ろうとは思ったものの、いつもより安全運転でハンドルを握る。ゆっくり走るジュリエッタなんてカッコ悪いけど、運転手の体調がイマイチなんだから仕方がない。
「お酒お酒……コンビニ……と……あっ……」
そうか──もう仕事帰りにコンビニに寄って夕食を買うことも、お酒を買う必要もないんだ。今のわたしには、夕食を作りお酒を冷やして待ってくれている人が──執事がいるのだ。そう考えるとなんだか嬉しくなり、小さく笑ってコンビニを通りすぎた。
家の駐車場に車を止め、自室を見上げる。部屋の明かりが灯っているのを見て、言い様のない嬉しさが込み上げてきた。早足で階段を駆け上がり、鍵を開けて無事帰宅。ドアを開けると心地よい冷房のひんやりとした空気が顔を撫でた。
「ただいま……あれ?」
玄関を入ってすぐ右手の靴箱の上には、わたしがセバスチャンに渡した合鍵が置かれていた。外出したのだろうか、今朝まではついていなかったキーホルダーが鍵にぶら下がっている。鉢の中で泳ぐ、可愛らしい金魚のキーホルダーだった。ひょっとすると出先で購入したのかも知れない。
「あ! お帰りなさい、ほたるさん。お疲れ様です」
腰に巻いたエプロンで手を拭きながら、燕尾服姿のセバスチャンがぱたぱたと駆け寄ってきた。ニコニコと笑みを浮かべ、なんだか嬉しそうだ。
「お弁当、いかがでした?」
「美味しかったです、とっても」
「それはよかった!」
「でも少し豪華すぎましたね」
「それは……すみません、反省しております」
しゅん、と項垂れる執事。お弁当に添えられていた彼が書いてくれた手紙は、わたしのポーチの中に入っている。後でこっそり取り出して、花柄のお手紙ケースに入れておくのだ。
「……はっ!」
玄関で靴を脱ごうとするわたしの鞄を受け取ると、何故だろう、セバスチャンの顔付きが変わった。ニコニコ笑顔は何処へやら、キリッと凛々しい顔付きになり口を真一文字に結ぶ。
「どうしたんですか?」
「いえ……あの、その……」
「セバスさん?」
「私、執事だというのに……主であるあなた様と少し馴れ合いすぎていたな、と反省中でして」
咳払いをし、唇の端を少し上げてわたしから目を逸らすセバスチャン。
(──ああ、だからか。今朝感じた違和感はそのせいだったのか)
「……いいのに」
「えっ?」
「そんなの……そんなの今まで通りでいいのに!」
「ほたるさん? あっ……」
怒気の籠った声でわたしは叫んでいた。言葉尻は震え、目の端から涙が溢れた。急な感情の乱れだったので自分でも驚いたが、セバスチャンはもっと驚いたはずだ。
「ごめんなさい……」
ヒールを脱ぎ捨て、逃げるように部屋に駆け上がる。セバスチャンを追い抜こうとしたその時、手首を掴まれ引き止められた。
「申し訳ありません」
「セバスさんが……セバスさんが悪い訳じゃ、ないんです」
掴まれた手首は引き寄せられる。セバスチャンの手が──腕が──わたしの背を這い、腰に回された。刹那、二人の体が密着する。
「何かあったのですか?」
「……あの」
「……あっ! すみません」
わたしの体を包み込んでいたセバスチャンの腕が、パッと離れた。突き飛ばされるように解放され、互いの体が後退した。
「反省中だと言ったばかりだというのに、申し訳ありません。思わず抱き締めてしまいました……」
「……嫌じゃないですよ」
「え」
「わたしは──」
スッと持ち上がったわたしの腕は、セバスチャンのエプロンの裾を掴む。一歩足を踏み出せば互いの息がかかるほど、二人の距離は近くなった。
(もう一度、抱き締めて欲しい。でないと、わたしは、)
「やはり駄目です」
ゆるりと首を横に振ったセバスチャンは、膝を曲げて目線をわたしに合わせた。涙で揺れるわたしの視界の真ん中で、蒼い瞳の男が悲しそうに眉を下げた。
「駄目って……」
「ぎゅー、は駄目です。何かあったのならば、お話を聞かせて下さい……さ、座りましょう」
そう言ってくるりと背を向けリビングへ向かうセバスチャン。
(ねえ、待って。どうして──)
その言葉を口にする勇気は、沸いてこなかった。
溢れ落ちた涙も、揺れる心も、核村が原因というよりも寧ろ──寧ろ、セバスチャンの余所余所しい態度にあるというのに。
そんなことをセバスチャンが知る由もないのに、わたしは何を期待し、彼に何を求めているというのだろう。
考えてみれば身勝手な話だった。自分の都合で男を求めるなんて。一度押し倒された時にはあれほどこの人に恐怖したというのに、今の────わたしは彼に──。
(馬鹿みたい)
しっかりしろと己を叱責する。そう、彼はわたしの執事。ただの執事なのだから。
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