第三十話 【嘘吐きは煙草の香り】
少し考えれば分かることだった。
自分の車であれば、鍵は自分で開けるのが当然だ。わたしは何もしていないにも関わらず、現在助手席のシートに横たわっている。
そんな当たり前のことに理解が追い付かないほど、わたしは具合が悪かったのだ。
「ちょっと待ってろ」
そう言って駆けていった核村が、スポーツドリンクを二本持って帰ってきたのは一、二分後。屋外駐車場の入口の自動販売機で買ってきてくれたようだ。
「飲め」
「……ありがと」
「エアコン入れたる」
ここでようやくわたしは、この車が核村の乗る青いインプレッサであることに気が付く。
ハッとして顔を上げると、目の前に核村の顔があった。
「風いくか?」
「生ぬるいのがくる……」
「もうちょい待てや」
「核村さ、なんでここまでしてくれるの」
「はあ?」
運転席のシートにどかりと腰を下ろした彼は、呆れ返った顔で自分のスポーツドリンクに口をつけた。
「あのままお前放っといたら気持ち悪いじゃねえか。それに」
「それに、何よ」
「放っといたら十紋字課長に拾われてたんだぜ? 怖すぎるだろ」
「まあ、確かに」
エアコンの風が心地よい温度になってきた。スポーツドリンクを飲んだのも手伝って、気分もだいぶ良い。目眩も治まってきたようだ。
「なあ、真戸乃」
開け放っていた運転席側のドアを閉め振り返った核村は、今までわたしが見たこともない、真剣な顔だった。
──恐怖を覚えるほどに。
「え……なに?」
思わず視線を反らす。大丈夫、助手席側のドアは開けたままにしてある。いざとなったら逃げられるし、追い付かれても倒せる自信はある。
「今日の昼、トイレの前で言いそびれたことなんだけど」
「ああ、あれね」
時間が無いからと言って、わたしが拒絶したあの時のことか。
「どうして今日、食堂に来なかったんだ?」
「食堂?」
それは勿論、今日はセバスチャンの作ってくれたお弁当があったから──なんて言える訳もなく。
「……今日はお弁当持ってきてたんだよね」
「弁当? お前が? どうして?」
「気分よ気分。夕食が余っちゃって、詰めてきただけだから、さ」
「……ふうん」
車内のデジタル時計が十九時三十分を表示した。三階オフィスの電気はまだついたままだ。
「俺、毎日従食なんだよ。お前と一緒……気が付いてたか?」
「……ごめん、気が付かなかった」
「いつも見ていたんだ、真戸乃のこと」
「……」
わたしの中で警報器が作動した。核村のこの言葉は不味い──嫌な予感しかしない。人のスカートの中を覗くような男なのだ、こういった台詞を吐くと余計でも危険人物度が跳ね上がる。
「ありがとう核村、だいぶ良くなったから帰るよ」
スポーツドリンクのキャップを締め、ドアの隙間からするりと足を出そうとした次の瞬間──
「駄目だ、送る」
右手首を掴まれた。掴んだ犯人は勿論核村だ。
「大丈夫だって」
「途中で事故ったらどうすんだよ」
「大丈夫だから、離して」
「真戸乃」
「……離して」
静かに言い放ち、核村の手を振りほどいた。車から飛び出す──が、急に立ち上がったのが悪かったのか、案の定ふらりと足元からよろけてしまう。
「言わんこっちゃねえ。ほら、乗れよ。変なとこに連れん込んだりしねえよ」
「いいって言ってるじゃない」
「いいから」
「ちょ──」
腕を掴まれ、引きずられるように車内へ連れ込まれる。どう考えてもこの状況は不味い、危険だ。とてつもなく身の危険を感じる。
「いや、離してったら!」
「真戸乃、俺は……!」
「……!」
乱暴なことはあまりしたくないが仕方がない。投げ飛ばしてやろうと腕と足に力を込めた──次の瞬間。
「そこで何をしているのだね」
地を這うように低く、どこか怒りの込められた声に振り返る。振り返らずとも分かっていた。オフィスに残るのはただ一人──あの人だけなのだから。
「か、課長……」
「真戸乃くん、核村君。一体何をしている」
わたしの体から手を離した核村は、一歩後退り口を開いた。
「ま、真戸乃の具合が悪そうだったから介抱して……送ろうとしていたんです」
「ふむ、その割には嫌そうに見えるが?」
腕を組んだ課長は、スーツの胸ポケットを漁りライターを取り出した。ズボンのポケットからは煙草を取り出し、流れるような動作で火をつける。
「失礼。職場では吸わないようにしているんだが、腹の立つことがあると──つい、な」
ふぅ、と息を吐き出した課長の眼光に気圧されるように、核村は更に後ずさる。わたしだって怖いが、多分これは──。
「私が送ろう。君は帰りたまえ」
「え……あの……」
「帰りたまえ」
「……っ! 失礼します!」
振り返った核村は一言、「気を付けろよ」と言い残すと逃げるように車に乗り込み、猛スピードで去っていった。
「……ありがとうございました」
携帯灰皿に吸殻を押し込む課長に、わたしは頭を下げる。
「嘘を吐かせてしまってすみません」
「気にしなくていい」
真面目な課長がいくら腹が立ったからといって、禁煙の札が掲げられた駐車場内で煙草を吸うなんて有り得ない。わたしを庇って核村に嘘を吐いていたのだ。
「真戸乃くん、本当に自分で運転出来るのか?」
「はい、本当に大丈夫です」
「本当に、本当だな?」
私は無理矢理に引き込むのは嫌なのだ、と言って課長は咳払いをした。気のせいか、若干顔が赤い気がする。気のせいだろう、あの課長がこの程度のことで赤らむなんて絶対に無い。
「お気遣いありがとうございます。本当に大丈夫ですから」
「……わかった。明日、体調が悪ければ無理をしなくていい」
「はい」
「君の車まで付き合おう」
無言で先導されるので、三歩後ろを黙って着いていく。何事もなくジュリエッタに到着し、何事もなく乗り込んだ。
「この車は君のだったのかね」
「はは……ええ、まあ」
「凄い趣味だな」
わたしの自慢の愛車を不思議そうに見つめる課長。しばらく洗車をしていないから、ボディが若干汚れている。そろそろ洗ってあげないといけない。
「ありがとうございます……?」
「褒めたわけではない」
「す、すみません」
「気を付けて帰りたまえ」
くるりと背を向け、颯爽と去って行く課長。うっすらと煙草の香りが残る空気を追い払うように、わたしはドアをばたんと閉めた。
早く帰ろう、セバスチャンの待つあの部屋へ。
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