第二十九話 【危険因子】
オフィスの一番奥──窓を背にしたデスクに偉そうに座っているこのおっさんこそ、わたしに休日出勤を命じている張本人のハゲ上司。
ハゲとは言うが、実際禿げてはいない。髪はしっかりある──そうだよ、ただのふざけた悪口だよ。
(
整頓されたデスクの前で立ち止まり、首から下げられたネックストラップにくっついた名札を見る。ああ、十紋字
しかし部下からしてみれば、これほど恐ろしい人はいない。
「ちょっと」
気を遣っているのだろうか。立ち上がった課長は窓際の隅の方へ手招きをし、わたしを呼ぶ。
「始業十分前……いや、五分前には席に着いておきなさい」
「……すみません」
「子供ではないのだから、もっと時間に余裕をもって行動しなさい」
腹の中で「核村のせいだ!」と叫ぶ。あいつに絡まれてさえいなければ、ギリギリ間に合った……はずだ。
「それと」
(なんだ。まだ何かあるの……?)
「……課長?」
「その、なんだ」
ぷいっと横を向き、視線を反らされる。なんだこのおっさん、なに赤くなっているんだろう?
「……廊下でああいった話をするのは止めなさい」
「……へ?」
「だから……」
ごほん、と咳払い。アラフォーおっさんの顔の赤みが更に増してゆく。
「私はつい今しがた、コピー機の前で作業をしていたのだが」
「……え」
コピー機は廊下側に設置されている。廊下で大きな声を出していれば、耳に届いてしまうほど廊下側に。
「年頃の女性が、大声であんなことを話すものではない。核村くんは後で私の方から注意をしておく」
「なっ……ぇぇぇ……すみません……」
「いや、こちらこそ聞いてしまって申し訳ない」
何が楽しくてこんなおっさんに下着の色を知られなければいけないのだ。
何が楽しくてこんなおっさんと並んで茹でダコのようにならなければならないのだ。
「以後、気を付けます」
「……わかればいいのだ」
茹でダコになったわたしたちを、近くのデスクの同僚が不思議そうに見ている。恥ずかしいったらない。
「真戸乃くん」
「はい?」
まだ何かあるのだろうか。もうそろそろ勘弁してほしい。
再び手招きをする十紋字課長。先程よりも小刻みに指をパタパタさせている。指だけ見ると、女子高生が急かしている風に見えてくる。
「何でしょう?」
「君はブスなどではない」
「は?」
「核村くんが言っていただろう、『このブス』と。君は……ブスなどではない。わかったら席に戻りなさい」
「はあ……」
わかったらと言われても、わからない。意味がわからない。
(なんだこのおっさん、フォローが謎すぎるよ……)
廊下で立ち上がったときの目眩も手伝って、わたしはフラフラと覚束ない足取りで自分のデスクに戻った。
*
月曜日は比較的残業が少ない。とはいっても全くない訳ではない。何故毎日のように残業の日々なのか──単純に、人手不足なだけである。特にわたしの係に至っては育児休暇をとっている人が二人もいるのだ。時期が重なったのは仕方がないにしても、人員の補充はないままなので、結果仕事量は増える。
「お疲れ様でしたー」
同じ係りの同僚が、まだわりと元気な声で挨拶をし帰って行く。これが週末になるにつれ暗い声になることをわたしは知っている。
「おつかれ、真戸乃。帰ろ」
「瑞河さん、お疲れ様です」
バッグを手にし、まだデスクに残る課長に頭を下げてオフィスを後にする。
(七時か……)
スマートフォンで時刻を確認すると、十九時を少し回った所だった。早く帰ってお風呂に入りたいし、セバスチャンの作るご飯を食べてゆっくりしたい。
「あ、やば」
「どうしたんですか?」
瑞河さんのスマートフォンが、ポケットの中で
小さな通知音を鳴らした。
「歯医者予約してたの忘れてた……」
どうやらスケジュールアプリの通知音だったらしい。画面を見つめながら彼女は頭を掻いている。
「何時からなんですか?」
「七時半」
車飛ばせば間に合うな、と頷いた瑞河さんは「ごめん、お先に」と言うとダッシュで廊下を駆けて行った。
一人取り残されたわたしは、非常灯しか灯らない廊下をコツコツと歩く。お腹空いたな、今日の夜ご飯は何かな、なんて考えていたその時だった。
「う……」
突然視界がぐわりと揺れた。またしても目眩だった。どうやら今日は目眩に好かれる日のようだった。
立ち止まって屈み込み、目を瞑って目眩が治まるの待つ────と。
「何やってんの」
背後から声をかけられた。顔を上げずとも誰かわかる、声の主は──。
「……さね、むら」
「大丈夫かよ?」
お昼休み終了直前、トイレ前でぶつかりわたしのスカートの中を覗き見た、あの核村だった。彼も今帰りなのか、通勤鞄を肩に掛け心配そうに眉を寄せた顔をこちらに向けている。
「大丈夫、ちょっと目眩」
「貧血?」
「わかんない……」
「立てるか?」
「うーん……」
膝に力を込めて立ち上がり、前進。駄目だ、頭がぐわんぐわんする。
「フラフラじゃねえか……っよ」
「ばかっ! 何やってんの!?」
わたしを横抱き──所謂お姫様抱っこにした核村は、そのままエレベーターに乗り込む。
「恥ずかしすぎる! 誰かに見られたらどうすんの!」
「真戸乃軽いなー」
「あんた人の話、聞いてる!?」
「太股触り放題だし」
「ばかっ! 変態! 大丈夫だから下ろせっ!」
エレベーターが一階に到着した。わたしを抱えた核村は、そのまま駐車場へと向かう。
「残ってるのは多分、いつも通り十紋字課長と……それに俺らだけだから、大丈夫だろ」
「今ばっちり警備員のおじさんに見られたけどね!」
ビルの玄関横の警備室からひょっこりと顔を出した初老の警備員さんが、にこにこしながらわたし達を見ていた。最悪である。
「車に着いたら下ろしてやるよ」
電灯の殆ど灯らぬ暗い屋外駐車場に入り、オフィスビルを見上げる。確かに、電気が着いているのは三階──十紋字課長のいるオフィスだけだった。
「こうやって抱えてると、なんか『ザ・お持ち帰り』って感じだな!」
「……馬鹿言わないでよ」
無駄に元気な核村の声が、ぐわぐわと揺れる頭に響く。
「着いたぞ。ちょっと座って休め」
「……ありがと」
車の鍵とドアを開け、シートに下ろされた。この時のわたしは深く考えていなかった──否、気が付いていなかった。
自分が腰を下ろすシートが、核村の車の助手席だということに気が付いていなかったのだ。
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