第二十五話 【違和】

 スマートフォンのアラーム音──それに歌が聴こえる。


 起きなければ……今日は月曜日、仕事に行かなければならない。それにしても何だろう、お味噌汁の匂いに混じって甘い匂いがするような。それにこの歌。


「……ん」


 まだぼんやりとする頭を無理矢理に持ち上げて体を起こす。キッチンを見ると燕尾服にエプロン姿の三つ編み執事が、第九を口ずさみながら朝食を作っていた。


「御目覚めですかほたるさん、おはようございます」


 振り返りにこりと微笑む。相変わらず綺麗な顔をしている。


「おはよう……ございます。すみません、朝食……」

「私はあなた様の執事ですから、気になさらないで下さい」

「手伝い……ます」


 目を擦り、ふらふらとベッドから床に足を下ろした途端、違和感に気が付く。なんだろう…………ん?


(うそ、なんで)


 やけに胸元がスースーすると思ったら、わたしブラジャーを着けていない。なんで!?

 ベッドを見ると、ご丁寧に畳まれたそれが枕元に置いてあった。なんで!?


(何があったの、昨日の夜に……)


 思い出せない。セバスチャンがドラマを観ていて、わたしはお酒を飲んでそれで……。と、ここでわたしは昨夜、お風呂上がりに全裸の彼に抱きつかれたことを思い出してしまった。顔が熱を帯びていくのを、枕にダイブすることにより鎮める。


(なんか枕……わたしの匂いじゃない。これ、ひょっとしてセバスさんの髪の……?

 待って待って。昨夜は同じシャンプーを使ったハズだ──だから、匂いが違うとか、そんなハズはない。その……つまりこれは……うわああああ!)



「ほたるさん?」


 わたしがベッドでわたわたしているのに気が付いたのか、セバスチャンが歩み寄ってきた。そうだ、彼に聞けばいい。もしも──もしも昨夜「何かが」あったのならば、彼のことだ、顔に出るハズだ。そこを追及すればいいのだ。


「セバスさん」

「はい?」

「昨日の夜、お風呂から上がったあと……何かありました?」


 枕元のブラジャーにチラリと視線を送り、セバスチャンの蒼い瞳をじっと見つめる。


(さあ、どうなんだ……?)


「いいえ? 何も」


 エプロンで手を拭きながら、首を傾げるイケメン執事。その表情は至って普通だ──いや寧ろ、なんだか冷たいというか、余所余所しい。


「そう、ですか」

「どうしてですか?」

「いや……それは」


 まさかこの空気で、「いつもは着けて寝ているブラジャーが枕元にあるのは何故だと思いますか?」などと聞ける訳がない。セバスチャンがわたしの予想通りに動揺したのであれば茶化しながら聞けたかもしれない──が、何故だろう今の彼は上手く言えないが、なんだか


「朝食、出来ましたよ?」


 そう言って背を向ける彼に、わたしも背を向ける。パジャマを脱いでブラジャーを身に付けると、わたしはその背を追った。





「セバスさん、これ何ですか……?」


 流し台に放置されている不思議なケース。バナナケースよりも直線的で、長さは三十センチ程だろうか。淡いグリーンのこれは、一体何のケースなのだろうか。


「ネギケースです」

「ネギケース?」

「はい」


 言われてみれば確かに、半分に切ったネギを入れるのに丁度のさそうな細身のケースだ。手にとってぱかり、と蓋を開けてみた。うん、ネギくさい。


「こんなの、初めて見ました」

「売り物ではないですからね」

「売り物ではない?」

「ええ」


 言いながら淡々と盛り付けた朝食を盆に乗せるセバスチャン。手を止めてわたしの目を見てにこりと──微笑んではくれていなかった。彼は盆を持ち上げくるりと背を向けると、手早く且つ丁寧にそれらを食卓の上に並べた。


「さ、ほたるさん冷めないうちに」

「はい……」


 なんだろうこの違和感は。昨日までとは明らかに違うセバスチャンのこの態度。やはりわたしは昨夜、彼に何かしてしまったのではないのだろうか。


「それにしてもセバスさん、お味噌汁にネギ入れすぎじゃないですか?」


 彼の持つ汁椀は、味噌汁の汁の部分が全く見えなくなるほど、どっさりと青いネギが盛られてた。


「ネギ、好きなんですか?」

「ええ」


 それだけ言って、静かに味噌汁を啜る。長い睫毛の乗った瞼は、下を向いたままだ。


「ところでほたるさん、甘いものはお好きですか?」

「甘いもの? 好きですけど……どうしてですか?」


 添えられた大根おろしを少し乗せ、だし巻き卵を頬張った。うん、美味しい。直後に白米も頬張る、最高だ。


「……やっぱり」

「え?」

「いえ、御気になさらず」


 一体何だというのだ。本当にどうしてしまったというのだろう──


(──セバスさん)


 絶対におかしい。おかしいと思いながらも目の前の朝食を頬張る。美味しくて手が止まらないのだ、仕方がない。


「あの、セバスさん……?」

「なんですか?」


 ご馳走様でした、と手を合わせるセバスチャンの顔を、下からじろりと睨む。わたしがこんな顔を彼に見せるのは恐らく初めてだと思う──にも関わらず、当のセバスチャンは涼しい顔だ。


「やっぱりわたし、何かしましたよね?」

「いいえ?」

「本当に、本当に、本当ですか?」

「ええ。そうだほたるさん、御弁当を作りました。お口に合うかわかりませんが、御持ち下さい」

「え、あ……ありがとうございます」


 そそくさと二人分の食器を盆に乗せ、セバスチャンはキッチンへと向かう。


 なんだろう、この気持ちは。もやもやするような──それでいて少し寂しいような、この曇天のような気持ちは。

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