第二十二話 【ぬくもり】

 人に抱き締められ、体温を感じると落ち着く──そういう風に思うのはわたしだけだろうか。


 今のわたしはすごく不安で、心細くて──誰かに抱きしめて欲しいと、心の底から切望している。人の体の体温に直接触れたい、そして「大丈夫だよ」と言って安心させてほしい。


 今まで辛い時、そんな相手がいなかったから──別れてからもずっと、桃哉を受け入れ続けてきた。それがよくないことだと、理解はしていた。わたしから別れを告げたのに、体だけは時々繋がって、交わって。


 ただただ虚しいだけなのに。行為の後には何も残らない、口から出るのは溜め息だけ。







 でも、そんな相手はもう誰もいないのだ。わたしは自らの手で桃哉を拒絶した。何故なのか、わからない──いや、わかっているけれど、認めるわけにはいかない、そんな感情のせい。


 こんなにも心がもやもやとしているのは、桃哉のせいだ。桃哉があんなことをしたからいけないんだ。


 わたしはもう──桃哉のことは断ち切ったのだから。こんなことを考えるのは止そう。大丈夫、わたしにはチャーリーがいるじゃないか。




「セバスさん」


 大家さんと桃哉が帰ってからしばらく、外廊下で何やら言い合っている声がしていたが、その声もすぐに消えた。それでも尚セバスチャンは、後ろから抱き寄せたわたしの手を離さず、身を寄せたままだ。


「セバスさん、お風呂に入ってしまいましょう」


 違う。本当はこんなことを言いたいんじゃないのに。もっと、もっと問いたい──問わなければならないことがあるというのに。


「……そうですね」


 昨夜とは違う重々しい空気の中、わたしたちは浴室へと向かい、再び入浴を共にした。自分でもどうやって体を洗ったのか……髪を洗ったのかよく覚えていない。ふと気が付くと目の前にセバスチャンの筋肉質な背があり、手にはタオルが握られていた。


「ほたるさん? 大丈夫ですか?」


 セバスチャンが振り返る。彼はわたしの手からタオルを奪い、わしゃわしゃと髪を拭いてくれた。


「一体どうしたというのです」


 そのタオルをわたしの肩に掛け、首を傾げる裸の執事。


「セバスさん」

「はい」

「セバスさんに一つ嘘をついていました」

「嘘?」

「はい……桃哉は、桃哉は幼馴染ですけど……二年前までわたしの彼氏でした」


 昨夜桃哉の話になった時、わたしは言ったのだ──桃哉はただの幼馴染みだと。嘘だというよりも事実を隠していたと言ったほうが正しいのかもしれない。自分でも、どうして彼に事実を隠したのかわからない。わからなかった。


 顔を上げてセバスチャンを見つめる。彼は伏し目がちに「そうですか」と呟くとわたしに背を向け、服を着ようと戸棚に手を伸ばした。


「一つ、聞いてもいいですか?」


 伸びかけていた手が空中でぴたりと止まり、下ろされた。無言のセバスチャンのそれをわたしは肯定と受け取り、意を決して──胸に溜め込んでいた言葉を吐き出した。


「どうして……どうして桃哉に彼氏と言われて、否定しなかったんですか」


 桃哉は完全に、わたしとセバスチャンが恋人同士だと勘違いしていた。一緒にお風呂に入ろうとしていたのだ、無理もない。


 でもどうして──どうして否定しなかったのか。


「私は……」


 セバスチャンが振り返る。長く黒い髪が張り付いた彼の腕が、わたしの方へと伸びてくる。


「あの場で彼氏ではないと否定してしまったら……あなたを奪われてしまうような気がして──」


 伸びてきた二本の腕が肩を掴み、腕を這い背中に回された。濡れたままのわたしの体に、拭いて渇ききったセバスチャンの体が密着する。


「──怖かった」


「え──」


「怖かったんです。ですからあのような態度を」


 申し訳ありませんと言う謝罪の声が、耳のすぐ側で聴こえる。体を一層抱き締められ、言葉を放つときに吐く吐息がわたしの耳を刺激した。


「っ────……」


 彼の体との間で押し潰された胸が苦しい。この

苦しみは単純な圧迫感だけではなかった。きっとこれは──。


「セバスさん、あの」


 奪われるのが怖かったって──どういう意味なのだろう。お互い素肌だというのに、セバスチャンはわたしを解放してくれる気配もない。彼は一体何を──




 ──きっと恋人同士ならこのままベッドインコースなのだろうが、残念ながらわたしたちはそういう関係ではないのだ。小さく溜め息をつき、目を伏せる。





 ちょっと待って。残念ながら? 溜め息をつき?



 何を考えているんだ、わたしは。



 わたしだってそういうことはまあ、人に話すことはないけれど……好きかと聞かれれば好きだ。でもセバスチャンとは昨日出会ったばかりで……その……流石に恋人関係でもない人とそういうことをするのは駄目……だと、うん、思う。駄目だ、駄目だ。


 馬鹿な桃哉とは違うのだ。確かに玄関先で拾ったこの執事はイケメンだし、桃哉と違って優しい。恋人にするにしても、そういうことをするにしても相手には申し分ないのかもしれない──でも。


「すみません、大変失礼をしました」

「えっと、あの……」


 漸くわたしを解放し頭を下げるセバスチャン。言いたいことは言えたし、聞きたいことも聞けた。しかし事の真意がわからないままなのだ。


「あの、セバスさん」


「あ……今何時ですかね……?」


「はい?」


 思い切り声が裏返ってしまう。彼は腰にタオルを巻き付けリビングまで駆けていくと時刻を確認。「うわ!」と小さく叫ぶとそのままUターン。


「どうしたんですか?」


 肩に掛けられていたタオルで咄嗟に体を隠す。セバスチャンは興奮気味にその場で足踏みをすると、「ドラマです!」と短く叫び、急いで衣服を身に付け始めた。


「ドラマ?」

「はい、毎週日曜二十三時から楽しみにしているドラマがあるのです。あと十五分で始まってしまいます!」

「そう、なんですか……」

「はい、ですから急ぎ髪を乾かさねば……ほたるさんも早く御肌の手入れをせねば、御顔が乾いてしまいますよ?」


 先程までの緊張感は何処へやら。「お先に」と短く言うとセバスチャンは素早く着衣を済ませ、髪を乾かし始める。



(なんなの、これ……)



 一人置いてきぼりを食らったわたしは、彼の背を見送りながら、のろのろと化粧水のキャップを開けた。

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