第二十一話 【桃哉のこころ】

 ほたるの部屋を後にして外に出ると、真夏のむわっとした気持ちの悪い夜風が、俺の頬を撫でた。


 気分は最悪だ。


 何だったんだあの男は。意味がわからないくらい綺麗な顔をしやがって。髪があれだけ長かったのも、意味がわからない。

 酒を飲み過ぎたせいで、思考回路がぐちゃぐちゃだ。



──ほたるにあんなことをして。



 嫌だと口で言いながらも、今までのように受け入れてくれると思っていた。あいつは何だかんだ言っても男に抱かれるのが好きなのだ。


 でも違った。駄目だった。本気ではないにしても殴られて、拒絶された。あいつは震えていた──あの男に抱き寄せられた腕の中で。


 あの男は一体なんだ。あのほたるが、散らかっていた部屋を片付けて、男を招き入れるなんてあり得ない。俺のほうが絶対にほたるのことを好きなのになんで──。


「おー、樹李きりか、おつかれ」


 前を行く親父が階段を降りようと角を曲がったところで、知った顔に遭遇する。

 彼女は格子こうし 樹李きり。ほたるの隣の部屋に住む、変態スレンダーお姉さんだ。


「おっちゃん、桃哉とうやくん、こんばんは」

「バイト帰りか?」

「そうっす。珍しいですね、二人揃って」

「ああ……ちょっと色々あってな……」


 なんとなく口も悪いし目付きも悪いが、どことなく滲み出る色香は、きっとその長い手足と髪型のせいなのだろう。襟ぐりの開いたTシャツから覗く胸元は薄いが、何故だろう──不思議といつもそこに視線が行ってしまう。


「樹李さん、髪切ったんですね」

「あー、これか…………バイト帰りにな。いやあ、さっぱりしたわ。涼しくって楽だなこれは」


 俺の知っている限り、彼女はずっとロングヘアーだった。それが今はうなじを露にしたショートボブだ。


「似合ってますよ」

「言うねえ桃哉くん、流石モテる男は違うねえ。おねーさんが抱いてやろうか?」

「おい樹李、うちの息子をたぶらかすなよ?」

「へいへーい、すいません」


 親父は「じゃあな」と背を向けて階段を降りて行く。俺もそれに続こうとしたところで、


「桃哉くん」


 声をかけられる。


「なんです?」

「ほたると何かあったのか?」

「……」


 鋭いなこの人は、本当に……。誤魔化しきれないということは身をもって知っている。だからと言って正直に話すのも憚られる。


「ヨリを戻したいんなら、正直になりなよ。あの子もそれを望んでる」

「正直に?」

「君は偽りすぎだよ、色々とね。だから損をする」

「……」

「まだ好きなんだろ、ほたるのこと」

「でも、あいつ……彼氏がいて」

「ああん? 彼氏だぁ?」


 眉を寄せ、口をあんぐりと開けた彼女。こんな顔をしてしまっては、折角の美人が台無しだ。


「はい……髪がこのくらい長い、セバとかいう美人な彼氏」

「それ、彼氏じゃねーよ?」

「は?」

「背の高い、あのイケメンだろ?」

「多分そうです」

「彼氏じゃねえし、彼氏になる予定もないって言ってたぞ」


 ちょっと待て、それだとおかしな話になる。ほたるは彼氏でもない奴と一緒に風呂に入ろうとしてたってことか? それにあいつらはどちらも恋人関係を否定しなかったぞ?


「桃哉くん?」


 押し黙り、わなわなと震える俺を不思議そうに見つめる樹李さん。階段を下りていった親父が何か言っているが、耳に入ってこない。


「許さねえあの男」

「どーしたの?」

「……あの男、ほたるに何をするつもりなんだ」


 くるりと向きを変え、ほたるの部屋──三○三号室へと戻る。どういうことなのか、問い詰めなければ俺の気が済まない。たとえドアを開けたその先の部屋で、恋人同士であることを否定しなかった、恋人同士ではない二人が────交わっていようとも。


「桃哉! 何やっとるんじゃ!」


 インターホンに指を伸ばそうとしたところで、親父の怒鳴り声が背中に突き刺さった。


「だって親父! あいつら恋人同士じゃねえって……」

「知っとるわ、だったらなんだってんだ」

「なんだってんだって……」

「お前に何の関係がある? ほたるに辛い思いをさせたお前に」


 確かに親父の言う通り、俺は二年前まで交際していたほたるに──嫌な思いをさせた。付き合っているのに他の女と頻繁に飲みに行ったり、遊びに行ったり。でもそれは────。


「二人の間に割って入るんなら、誠意を尽くしてちゃんとほたるに謝ってからにしろ。とりあえず今は早く帰らねばならん!」


 俺の腕を掴み、無理矢理引っ張って行く親父。樹李さんは呆れ顔で手を振ると、「じゃあね」と言って自室へと消えた。


「何をそんなに急いでんだよ!」


 カンカンと階段を降り始めても尚、親父は強引に俺を引っ張っていく。このままではTシャツの袖がびろんびろんに伸びてしまう。


「ドラマだよ!」

「ドラマぁ?」

「十一時から始まるんじゃ!」

「録画かけてるだろ?」


 毎週日曜、二十三時から親父が毎週楽しみにしているドラマがある。いつもはジムから帰ってきて録画したものを観ているハズなのだが。


「折角間に合いそうな時間なんだ! リアルタイムで観るんじゃ!」

「どっちでも一緒じゃねえか……」

「楓ちゃんが沢山出る回なんだよ! 早く観たいんじゃ! 間に合うなら間に合わせたい!」


 またしても俺のTシャツの袖を掴み、ずんずんと足を進める親父。なんて自分勝手なやつだ──まあ、そこは俺も同じか。


 帰ったら飲み直そう。明日から仕事だが、そんなこと構うものか。眠って起きて、気持ちが落ち着いたらまたほたるに連絡をしよう。



 あんな訳のわからない男に、ほたるを取られてなるものか。

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