人生と運命の分岐点

 ピピピピッ⋯⋯、ピピピピッ⋯⋯。


「んぁ⋯⋯?」


 手探りで目覚まし時計を止める。


 いつも七時にセットしているタイマーを、今日は六時半に変えていた。

 契約のことについて考える時間と、余裕が欲しかったからだろう。


「あれ⋯⋯?」


 翔太はそのことを忘れていたようで、あと三十分、いつものように寝ていたい気持ちでいっぱいになる。


 でも頭が冴えてくるにつれて考える時間も欲しい。


「はー⋯⋯」


 二度寝しそうな自分を奮い立たせ、


「はぁ。起きるぞ」


 と言って時計を見ると、――七時だった。


 ――――――――――――――――――


「ぼーっとしてたら三十分過ぎてました、なんて社会じゃ通用しねぇぞおい⋯⋯」


 カーテンを開け、未だ眠い顔を洗う。


「よし、あとはコーヒー飲めば目が覚めるだろ」


 毎朝コーヒーを飲むのがルーティーンのため、ケトルでお湯を沸かし、六枚切りのパンを二枚トースターに入れる。焼いている間に、パンに挟むためのスクランブルエッグを作っていく。


 卵を器に割入れて、塩コショウを適量。あまり混ぜすぎずに焼くのが翔太流。白身が残ることでボリュームが出て美味しいんだとか。卵焼きの時も混ぜすぎないことでふっくら仕上がるため、基本卵は混ぜすぎない。


 次に卵焼き用フライパンを熱して、マーガリンを溶かす。

 卵焼き用フライパンでスクランブルエッグを作るのは、大きいフライパンより小さくて色々都合がいいからだ。


 マーガリンが焦げない程度に熱した所へ卵を一気に流し込む。バターの香りとジュワジュワと鳴る音が食欲をそそり、翔太の腹が鳴った。


 箸で混ぜながらフライパンを揺らし、火が通り過ぎないようにする。まだ卵液が残っているくらいで一度火を止め、余熱で調理。これも翔太流。


 いい具合に半熟とろふわになったところでスクランブルエッグをお皿に移し、テーブルに食器を置いたところで丁度パンが焼けた。


 パンの香ばしい香りも好きで、パンを食器に移す。トーストしたてのパンは熱いが、熱いうちが美味しい。


 コップにインスタントコーヒーを入れているとお湯が湧いた。コップにお湯を注ぎ、コーヒーのいい香りも漂って、朝ご飯ができ上がる。


「いただきます」


 手を合わせて挨拶をしてから食べ始める。


 一人だと特に喋る人もいないため挨拶が億劫になりがちだが、「こういう何気ないことがちゃんとできる人でありたい」と、思っている翔太はきっちりやっている。


 翔太が何気なくテレビをつけると、有名歌手の愛人が見つかったというニュースでどこも持ち切りだった。愛妻家で有名だったこともあって、メディアはノーマークだったらしい。


 そして驚くべきポイントは、そのマンションが家から近いこと。


 芸能人と言うと身近にいる存在ではないイメージがある。テレビの中の人や、アニメの中の人。画面の中の人物で、一般人とは違う存在だと思ってしまう。


「芸能人が比較的家から近いところに居るなんて⋯⋯現実味があるなぁ」


 芸能人も普通の人と一緒の人間なんだなと、翔太は思った。


 ニュースを見ているあいだも無意識に手を動かしていて、あっという間に朝ご飯を食べ終えていた。


 時間は八時。


 とりあえず洗い物を済ませて、洗濯物を干しておく。そして部屋の掃除もしておかなければ。女の人が来るのだから、ちゃんと清潔にしておくのも必須。


「契約か⋯⋯」


 芸能人が近くに住んでいるのは現実味がある。でも魔法が使えるのは現実味がない。全くもって現実味がない。昨日体験したけれど、現実味がない。


 契約のことについてまだ考えようとしない翔太。洗い物をしながら、洗濯物を干しながら気を紛らわせていた。


 ――――――――――――――――――


「⋯⋯」


 翔太がご飯を食べている間、シルクは――、


(こんなの予想してなかったわ⋯⋯)


 カメラを構えながら出待ちをしている報道陣を見て、驚いていた。


 なにも知らない有名歌手は報道陣の前へ。


 その瞬間、報道陣が有名歌手へ次々に問いかけをする。


「いつ愛人の方と知り合ったのですか!?」

「奥様への謝罪は!?」

「そもそも相手の方とどのように知り合ったのですか!?」


 有名歌手はどう答えれば良いのかわからず戸惑っている。

 とりあえず状況を把握したようで、逃げるように愛車に乗り、すぐに去ってしまった。


 それをマンションの屋上から眺めるシルク。


 昨日部屋を探しているときに見てしまったことをこっそり週刊誌に電話していたのだが、ここまでなるとは思っていなかったようだ。


「⋯⋯とりあえず朝ごはん、買いに行かないとよね」


 有名歌手に逃げられてしまった報道陣を背に、近くのコンビニを探す。


 探すためにタワーマンションから飛び降りる。

 その高さから飛び降りても、誰からも心配されはしない。周りからは見えない少女。


 歩道に着地してから、近くのコンビニをスマホで検索。


 実はシルク。スマホを持っている。そして戸籍もある。


 戸籍については改ざんしてあるもので、本物ではないが⋯⋯。

 まぁ魔法が使えるのだ。そのくらいどうにでもなる。


 スマホに関しては、魔界へ通じるスマホになっていて、魔力を少し流せば魔界のスマホになる。そうしたら電話番号を入れればいいだけだ。


 スマホでコンビニを検索し終わり、その方向へと飛んでいく。


 魔法を使えば瞬間移動もできるが、魔力温存のため使わないらしい。

 その癖やたらとビルの屋上へ飛び移ったり、飛び降りたりしているのはなぜなのだろうか。


 ⋯⋯きっとかっこいいからとかそんな理由だろう。考えるだけ無駄かもしれない。


 目標のコンビニまであと少しだが、このままだと透明人間のまま。これでは買えないため、人目につかないところで人に見えるようにする。


 ――これで完璧。


 お気に入りのツナマヨおにぎりを二個、あとはお茶を買って朝ごはんの調達完了。


 そしてまた人目のつかないところで透明人間に。


 これを繰り返すのがシルクの日常。


 そして透明人間状態でおにぎりを食べる。食べ終わった後のゴミは、街にあるゴミ箱に入れておしまい。


 ちなみに透明人間と周りから見えている時を繰り返しすぎて、自分が今、透明人間状態なのかわからなくなるときがあるらしい。


 そのときは人の前に立ってみて、相手に避けられるか避けられないかで判断する。周りから見られていれば、ただ棒立ちしてる人。迷惑だ。


 そこら辺はどうしようもない。確かめる方法がそれくらいしかないのだ。


 と、脱線したが、シルクはいつも通りの様子で全てをこなしていく。


 ――――翔太に会いに行く午前九時まで、あと一時間。


 シルクはできるだけいつも通りを心がけた。


 もし契約をすることになれば、今まで一人で生活していた『いつも通り』をすることがなくなるだろう。契約すると、基本的に相手の生活に合わせることになる。


 生活のすべてが変わると言ってもいいだろう。


 クイーンズにとって、契約は身近であり重要なこと。


 人生二回目の契約になるのか。断られ、また契約相手を探すことになるのか。


 シルクはあの有名歌手のように逃げ出したくなったらどうしようかと思いつつ、翔太に期待を寄せていた――。


 ――――――――――――――――――


 すー、はー。すー、はー。


 これからシルクが家に来る。約束の午前九時まで残り一分。


 物凄く緊張している。思わず深呼吸をしてしまったが、きっと告白するときはこのくらい緊張するのだろう。


 心臓がとてもうるさい。なにか変なものでも食べたか?

 いや、いつも通りスクランブルエッグとパンは美味しかった。本当にいつも通り。


 本番直前に緊張してテンパってしまう人だったのだろうか。俺はそういう人だっただろうか。もう思考がうまく回らない。というか昨日から正常に動いていないような気がする。


 昨日の出来事は夢じゃないのに、夢のようだった。


 夢のようだったというと、楽しかったこと。みたいに聞こえるが、最初は泥棒かストーカーかと思って怖かった。決して楽しかったのではない。


 そのあとの出来事が、非日常的すぎたのだ。魔法のくだりはあながち怖くはなかったかもしれないが、わくわくしてる自分がいたが!



 約束の午前九時になる。



 ピーンポーン、ピーンポーン。



 ――家のチャイムが鳴った。


 静かな部屋で、一人で考え事をしていたものだから、一瞬ビクっとなって肩が跳ねてしまった。


 急いで鍵を開け、シルクを招き入れる。

 シルクも俺もなにも言わず、玄関のドアが閉まって――、


「翔太。⋯⋯契約する気になってくれたかしら」


 いきなり本題を言われてまたビクっとなってしまった。シルクはストレート過ぎる。もう少し別の話題をしてから本題に入るのがよかったのだが⋯⋯昨日話した感じ、無理かもしれないな。


 こちらからもちゃんと話に沿って本題を話そう。


「俺は、⋯⋯自分で判断することに自信がない。今まで自分で人生を決めたことは、教師になることと、退職した時くらいだ。自分で決めたことはうまくいかず、いつも周りに流されるまま」


「じゃあ、契約はしないってこと?」


「人の話は最後まで聞いてくれ。今までのは一人でしてきたことだ。でも契約はシルクと一緒。つまり一人じゃない」


 きっと自分で判断することと同じくらい、人に頼るのが苦手なのだ。むしろ人に頼れないから、全てがうまくいかなかったのかもしれない。


 思えばすべてに当てはまる。


 ――同級生にパシリのように使われた時。

 ――先生の仕事を一人で抱え込んだ時。


 親に頼っていれば。気を使わずに同期に相談していれば。すべての仕事を受け入れなければ。周りに手伝ってもらえていれば。


 たらればがいくつも思い浮かぶ。いつだって後悔しかなかった。

 その後悔が全て上手くいっていたら? 俺は今、なんの仕事をしていただろう。


「俺は人を頼るのが苦手なんだ。契約すればそれも改善するかもしれない。相談相手として頼れる人ができる」


「でもそれじゃ魔法のことに関してなにも――」


「魔法のことに関しては、デメリットが気になりすぎる。けど⋯⋯めちゃめちゃ魔法使いたい。使いたい」


 切実に魔法が使いたいんだ。

 今の声と表情で、俺が魔法を使いたくないだなんて思う人がいるだろうか。


「それにどうせいつかは死ぬ。楽しんだもん勝ちってやつだ。デメリットに触れて死んでしまうことになっても、いきなり交通事故で死んでしまうよりは魔法が使えた分だけ得。そう俺は考えるよ」


「つまり⋯⋯、契約は⋯⋯?」


 シルクが困り眉で少し上目遣いで見てくるのがとても可愛い。

 なんだかドギマギしている自分が不思議だが、首を大きく縦に振って――、


「する! 契約するよ。契約すれば人生百八十度変わるだろうけど、それも特別な経験ってことで!」


 言ってしまった。後悔はない。


 気がつけば心臓のうるささが消えて、心なしか落ち着いていた。

 シルクは本当に俺でよかったのだろうか。フリーターでいつニートになるかわからないような、お先真っ暗みたいな人なのに。


「そう⋯⋯! 翔太ならきっと契約してくれるって思ってたのよ! これからよろしく。クソ野郎さん」


「ああ。よろしく。最後の一言だけ傷ついたがな!!」


 恐らく照れ隠しで言った言葉だろう。普通にグサッと心に刺さったが、シルクとなら上手くやっていけそうだ。ツッコミどころが多いのも面白い。


 ――――こうして、俺とシルクは。契約をした。

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