第5話 絶壁

 扉を開けた先は厳かな雰囲気の漂う一室だった。先ほどまで俺たちが戦っていた――というか一方的に嬲られ続けていた――部屋と同じ程度には広かった。内装は和の印象が強い。この世界にも同じような文化があるのだろうか。ここまでくると食事なども俺の下に合うものがあるかもしれない。得体のしれない虹色のスープとかがいきなり出てくるようなことは無さそうだ。多少のゲテモノなら覚悟を決めて喰らうこともできそうだが、そんな覚悟を決める必要はひとまずなさそうで安心した。

 華美では無いものの、精緻で芸術的な意匠がちりばめられた室内。よく分からない壺や掛け軸がある。異常に高そうなので近づくことはしないようにしようと思う。多少違和感はあるものの、趣を感じさせる日本建築だった。

 校長室にあるような大きな机に向かって筆を走らせていたこの部屋の主、先ほどのお爺さんが

「ふむ。ヒナミ、若人の方は?」

「…最高です、じいさま。玄関での行為でそれはご存知とは存じますが。彼はじいさまが求めている最高のであり、私の求めていたであります」

「おい待ってくれヒナミっ、どういうことだよそれ」

「どうもこうもない。アキトはもう私のもの、そう言ったはず。別に悪いようにはしない。あなたは強くなりたい。その方法はじいさまが教えてくれる」

 急に始まった話の展開についていけない俺がヒナミに問うと、さも当然と言った様子の返事が返ってくる。話の中心である俺は置いてけぼりで更に話が進む。どうやら俺は2人のお眼鏡にかなったということらしい。それが俺にとって吉と出るか凶と出るかは今のところ分からないが。

「でも待ってください。俺はもとの世界に戻りたいんです。気に入っていただけたなら俺にできることは何でもします。ですが元に戻る方法が見つかった暁には戻りたいのですが」

 俺の本来の目的とはそれなのだ。大抵の人間は自分以外の誰かに気にいられるのはとても嬉しいし、期待をされたらその分応えたくはなる。だがそれが今の状況において可能かどうかというのはまた別の話で。

 ジレンマというべきだろうか。困っているところを助けてもらった恩もある。だけど

 元の場所に戻るとなったらそうはいかない。

「…ふむ。そうか、誠に遺憾ではあるが致し方ない。彼の人生だ。私が介入しすぎるのも迷惑というものか」

 お爺さんは少し眉間にしわを寄せたが納得してくれたようだった。不本意だが致し方ないといった表情だ。なんだか胸が痛い。

「そう。じゃあ私も付いていくしかない。ご両親に挨拶しないといけない。準備をしておく」

「ちょっと待ってヒナミ」

「アキトが行けるなら私に行けない道理はない。ただそれだけ。何か問題が?」

 当たり前のようにきょとんと首を傾げて疑問符を浮かべるヒナミ。何がおかしいのか全然わかりませんとばかりにとぼけまくっているのが素なのかそういう演技なのかいまいち判断しかねるのがなんだか悔しいが、そういう理屈でいいのだろうか。

「問題がっていうか、もし何か見つかったとしてもヒナミが来てどうすんだよ。お金もないし家も服もないし…いや俺も大して状況変わんないけどさ」

 そう。そうなのだ。別にヒナミが来るのが嫌とかじゃない。むしろ一男子としては嬉しい。彼女という存在に無意識に惹かれているのか分からないが、一緒にいて楽しい。だから一緒に来るといわれて嬉しくないはずがない。だが現実の場合、そうは問屋が卸さない。そもそもお金があっても通貨単位が違うじゃないか。アルゼンチンじゃ日本円は使えないのだ。そういうこと。同じ地球の通貨なら両替ができなくもないが、こちらの通貨は向こうがわで価値が認められていないだろう。ならばいくら財産があったところでそれは無価値である。

「…?お金は、作れる。偽札を作るってわけじゃない。技術と物品はお金にできる。そして私は技術がある。だからだいじょうぶ」

「技術って…まぁいいや、何を言っても聞く気がなさそうだしそれでいい。その時考えればいいや」

 俺としてもだいぶ甘いかもしれない。俺の言葉ににんまりとほほ笑むヒナミ。可愛いが微妙にムカついた。何故だろう。

 ともあれ今日の宿の前に食事を探さなければいけない。大道芸でもして人を集めるしかないのだろうか。天才なのでジャグリングくらいは並の曲芸師よりはできる。

 すっかり適応しつつある自分が怖いが、正直なところそうでもしないとやっていられない。ぶるぶる震えているのは簡単だが、それは衰退と符合する。前を向けば割と何とかなるし今までなってきた。天才だから。

「じゃあじいさま、報告おしまい。アキトのことはじいさまが鍛えてくれる。私は実戦担当だから、オーダーに合わせて使う武器と立ち回りを変えて戦う。一本でも私から取れたら結婚ね」

「は?」

 意味が分からなかった。なんだココは。武道大国か?武道こそが人権?強さこそが可能性?修羅の国きたきゅうしゅうかここは。そもそも結婚だとか抜かしてやがるがそもそも俺はこの年齢では結婚できない。じゃなくてなんでそういう話になるのか理解できない。俺は一人でいたところを助けられてここまで連れてこられたんじゃなかったのか?まさかこれマッチポンプか?

「ご苦労。若人、食事と部屋は用意する。他のところに行きたくば行くがよい。だが一応伝えておくとここが一番安全だ。少なくとも若人にとってはな」

「は、はぁ…そう言ってくれると助かりますが。自分はどうすればよいのでしょうか」

 困惑する俺にお爺さんは何も心配がいらないとでも言わんばかりの口調で言う。

 本当に大丈夫なんだろうな、この人。

「あぁそれはな、私に指導をさせてほしい。若人のな」

「俺の…ですか?」

 ますます胡乱だった。指導、だと。学校の先生か何かだろうか。一般的な教養と道徳と運動能力は兼ね備えているから必要ないのだが。それともなにか、指導と言っていかがわしいまえをするんじゃないだろうな。貴族の世界では男色が嗜みだったと聞く。ここは異世界、我々が過ごしていた日本の常識は持ち込んではならないのだ。男色はいいけど俺は巻き込むのヤメテ。

「若人は、強くなりたいのであったな。先ほどヒナミにそう話していたと思うが」

「はぁ、まぁそうですが…指導と言ってもどういうことをなさるので?あらかじめ断っておきますと十分以上の素潜りはできませんし、体力も無尽蔵ではございません。大抵のことは完璧にできますが、それでも生態的に不可能なこともございます」

「良い。では昼前の運動といこうではないか。木刀を渡すから私に斬りかかってきなさい」

 はっはっは、とでもいいだしそうな朗らかな表情で俺に木刀を渡すお爺さん。最初に出会った時、そして今の表情のギャップに戸惑う俺はそのまま木刀を手にする。質感は普段持っているものと変わらない。刃渡りも普段のものよりわずかに長い程度だ。扱うには十分だ。軽すぎず、重すぎない。悪くない。

 着いてきなさい、そういってお爺さんは奥の扉を開ける。和風なのにドアノブが付いていた。やはり変わっている。いや、ほかの世界の文化を変だと捉える俺の方が変わっているのだろうか。どちらにせよ気になる。気になるが気にしていてもどうにもならなそうなので後についていく。

 そして同時に気を張り詰める。そこはどういう仕組みなのか、木の板で張られた床が地平線を形作るまで遠くまで連なっている。光源がないのに十分な光が供給されているのが不気味だ。流石は異世界、何でもありだ。こちらの常識というものはやはりあまりあてにしてはいけないらしい。

「若人、ここは如何様にも変化する空間。海にも空にも森にも雪原にも自由自在。ヒナミは基本的にここから出てこない。飯と湯浴み、厠以外は基本的にここに籠りっぱなしだ」

「ずっと、ここに?それはまた、ここはトレーニング用の空間ですよね?確かに様々な事に応用が利きそうですが。というかこの部屋一つでビジネスが一つ起こせますよ。映画館、水族館、動物園、それどころかここ一つで世界中を旅することだってできます。維持費や光熱費などを加味してもこの部屋だけでそれができるのであればいちいちお金なんて気にする必要なんてないのでは?」

 この空間はいわば究極の映像体験を可能にしている。AR拡張現実の最高傑作と呼んで差し支えない。これが俺たちのいた世に出れば生活が激変する。どこまで再現出来てどこまで利用できるか、そのスペックにもよるがむちゃくちゃな利益が出ることだけは間違いない。俺が自信をもって証明できる。

 だがそんな俺の発言は否定された。無言で首を横に振るお爺さんの動作によって。

「確かにそうであろうな。この秘術は世の理をも塗り替えるかもしれぬ。この空間の中に一つの宇宙すら内包できるであろうよ。だがここはヒナミの世界だ。誰にも渡す気はない。若人がここに入れるのも偏にヒナミの伴侶が故よ」

「伴侶ってなんですかそれ」

 はっはっはと陽気に笑うお爺さん。ヒナミの話をするときは雰囲気が柔らかくなるような気がする。どんな関係かは分からないが、とても仲がよさそうだ。

 親のような存在とでも言おうか。二人の間にはそれに似た絆があるように感じられる。だがそれはそれとして、だ。伴侶ってなんだ。

 どうして初対面なのにそこまで話が進んでいる。いや嬉しいけど。嬉しいけど納得できるかと言えばまたそれは別の話であって。

「それに関しても説明をしようか、若人。この世界のことについて詳しくな。

 ――だがその前に、若人の力量を見定めさせてもらう故、存分にかかってきなさい」

「あ、自分靴下脱いでいいですか。裸足の方がいいと思うので」

 お爺さんは俺の言葉に頷きを返しながら遠ざかる。

 そういって俺から数歩距離をとってこちらへ向きなおると、俺に向かって初対面の時のあの冷徹な視線をぶつけはじめる。相手を観察し、研究し、値踏みし見透かすように。それに対してとりあえず刀を普通に構える。剣道の基本スタイル。だが型には嵌めない。読まれやすくなるからだ。

 現在の状況が依然としてわからない。この状況におかれて自分は本当にこんなことをしていてて良いのだろうか。母や妹は無事だろうか。自分にはもっとやるべきことがあるのではないか。そんな不安もある。

 けれどもそんな風に思う自分がいるのと同時に、自分が世のしがらみ全てから解放された気分でもあった。今は、今この剣を握っている瞬間だけは自分は何者でもない。天才少年の向田アキトでもなければ家族を大切にする心優しき少年でもない。この俺は、何者でもない。

「安心したまえ、手荒な迎撃などするつもりはない。精々受け流しをする程度。私に見せてみなさ――」

 その言葉が終わるより前に床を蹴る。踏み込みに空間が震え、視界が一気に加速する。瞬く間に間合いを詰めて握った木刀で袈裟斬りを見舞う。軽く身をよじって回避されたが関係ない。一撃で仕留められない場合はいくらでも想定している。存分に来いと言われた以上加減は無し。加減は相手にも失礼だから。そう自分に言い聞かせて袈裟斬りの後の体制から更に重心を前に倒し、逆袈裟気味に刀を振り上げる。だがその動きも僅かに衣服を掠めたのみで手ごたえはない。

 お爺さんは余裕といった表情で俺の攻撃を二度躱す。見かけの堅牢さからてっきりその場から不動にしない鎧の様な立ち回りをするのかと思ったが違う。

 桜の花が舞い落ちるようにひらりひらりと重心を動かして攻撃の直線状に身を晒さないように立ち回る。ある種のダンスにも、また酔っぱらった飲んだくれのようにも見える動きだが、それ故につかみどころがない。剣道でも優秀な成績を収めているが、俺が今まで戦ってきた相手はそのような動きはしなかった。無理に回避しようとすることはあってもそれはあくまで剣道という武道の中で想定される動きであった。

 だがこの動きは違う。人間というより自然を相手にしているような立ち回り。

(…闇雲に振り回しても当たらない、か)

 逆袈裟気味に振り上げた刀を上段に構え、振り下ろす。相手がその動きに合わせて体を捌き回避行動を起こす。間違いなくそう来る。

 そして俺は振り上げた刀を一度流すように外へ逃がして内側へと鋭く叩きつける。空を裂く音ともに飛来した切っ先は、お爺さんの体を捉え――

「ふむ、良い動きだ。だがまだ足りない。君の剣は正直すぎる」

 フェイント気味に放った斬撃の先には姿。そのことに俺が気が付くのと時を同じくして、耳元で声が聞こえた。しわがれた年寄りの声だった。

空蝉うつせみ…だと?)

 空蝉。セミの抜け殻をそう呼ぶのだが、古来より伝わる忍術の一つに空蝉の術というものがある。俺がプレイしていたゲームの中にも敵の攻撃を回避して回り込むという技があった。原理は知らない。だがそんなことは重要ではない。俺の脳内で明確に何かが音を立ててブチギレる。

 回り込まれたという事実が

 何故捉えられない?俺の攻撃が当たらない?思考が加速する。世界がスローになり、色彩が失われ、水墨画のように明るさを失う。

 振り向きざまに振り切った刀が空を切るが、その殺傷半径の外にはお爺さんの姿があった。姿が見えるのなら捉えられない道理はない。思考よりも早く足が動く。世界の音を置き去りにする。俺の体の限界をぶち壊す速度の突きを見舞いながら更に踏み込む。突きは避けられたものの突き抜けた上体を一度流して踏み込みで引き戻す。

「…、?加速、か?」

 何かお爺さんが言ったようだが理解する前に思考をシャットアウト。無駄な話に付き合う暇はない。そしてそのまま腰を溜め、軸足をねじるようにして

「…!」

 必然的に相手の視線はそこに引き付けられ、隙が生まれる。俺の動きは正直すぎる、ならばその正直さはかなぐり捨てればいい。一切合切投げ飛ばせばいい。

「あ”あ”あ”あ”あ”あ”…ッ!!」

 体中の骨格が軋みを上げる速度で相手に肉薄する。すれ違いざまに相手の腹、狙うは肝臓レバー。相手の腹の奥に突き抜けるような勢いで渾身の一撃を叩き込む。衝撃波を生じさせながら打ち込まれた拳は腹にめり込んで――そこで

 腕に伝わる感覚はおよそ人体を殴った時の感覚とは異なる。一番この感触を適切に描写するのであれば…鉄、だろうか。硬質さの次元が違う。筋肉を鍛えている人は確かに硬い。だがこの硬さはそういう話じゃない。西洋の騎士を鎧の上からぶん殴ったような印象。要するに。

「いっ、ってぇぇ……馬鹿じゃねえのかこの硬さ…何喰ってんだよマジで…」

 激痛が腕を駆け巡る。痛すぎて今腕がどういった状況になっているのかわからない伝わらない。脳内に火花が散っているかのように、痛覚以外のことが考えられない。せき止めようとしてもとめどなく溢れる絶望的なまでの痛みの奔流にのた打ち回るしかできない。そのことに悔しいということすら考えられない。

「…クソが…」

 凄まじい痛覚によるものだろうか。意識が遠のいていく。ボクシングでアッパーをもらった選手が崩れ落ちるように気絶するのは見たことがあるが、痛みとは限界点を過ぎるとこうも簡単に意識を刈り取るものなのか。

 目が開かなくなる。顔をしかめるだけの体力すらもはや残っていない。

 薄れゆく意識の中、冷たい足元の床の感覚だけが妙に頬に残っている。

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天才、異世界にて。 いある @iaku0000

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