第十六幕
第十六幕
「ただいま、キーサ」
「おかえりなさい、ノボル。もうすぐご飯出来るから、ちょっと待っててね」
浅草の賃貸マンションに帰宅した僕を玄関まで出迎えてくれたキーサは、そう言ってからキッチンへと姿を消した。僕は寝室でスーツを脱いで部屋着に着替えると、一旦バスルームに向かい、洗面台で顔を洗って今日一日の疲れを拭い去る。冷たい水が、少しばかり汗ばんだ肌に心地良い。
リビングへと足を踏み入れ、ソファに腰を深く沈めて人心地ついた僕は、キッチンを見遣る。そこから漂って来るのは出来立ての手料理の芳醇な香りと、キーサが奏でるささやかな歌声のみ。つまりそれは何の過不足も無い充足した生活そのものであり、この上無く幸せな瞬間だった。
贅沢三昧とまではいかないが特に不自由もない経済状態に、家に帰れば愛するキーサが笑顔で出迎えてくれて、夜は二人で眠りに就くまで愛を語り合う。そんな日々を過ごす僕らに、喜びを人工的に制御する必要なんて微塵も無い。人は些細な幸福の積み重ねによって、喜びを自ら生み出せるのだ。
キサドスが金属球の奥深くへと眠りに就いたあの元日の夜から、もうすぐ一ヶ月が経過しようとしている。年末年始の休暇を終えてからの最初の数日間は職場でびくびくしながら過ごしたが、結局僕にはキーサを新庁舎に連れ込んだ件も『アナンタ』を私的な目的で使用した件に関しても、一切のお咎めは無かった。いささか拍子抜けしたとは言え、事を荒立てずに済んだのは幸いである。
ちなみに後から自分で調べてみたところ、あの日の記録は入退室の管理から監視カメラの映像に至るまで全てが徹頭徹尾改竄されており、僕は独りで登庁して静かに当直室で当番を終えた事になっていた。この見事な改竄を眠りに就く前のキサドスが行ったのか、それともキサドスの力を受け継ぐキーサが勝手にやったのか、その真相は僕には分からないし、今更キーサに確認する気も無い。いっその事、あの夜の制御室で繰り広げられた遣り取りは全て僕が見た妄想と幻覚で、記録に残されている自分の方が真実なのだとしても、何の問題も無いとすら思う。
また残念な事に、年明け早々ナガヌマは他の庁舎に異動してしまったため、クリスマスの夜以来、彼女と再会する事は無かった。僕らの直属の上司であるトタニ室長代理も、やはり僕とナガヌマとの悶着とその顛末を知ってか、最近は馴れ馴れしく声を掛けて来る事も無い。まあ、あまり根掘り葉掘り事情を聞かれても面倒なので、これは不幸中の幸いと言える。
そして最後に一つだけ気掛かりなのは、キサドスの別れ際の言葉、つまり「済まない」と言う一言。あれが一体、何に対する贖罪か懺悔の言葉だったのかは、今もって謎のままだ。だがしかし、今の僕が享受している喜びに比べたら、それはきっと些細な事なのだろう。
「ノボル、何を笑っているの?」
湯気の立つ皿を手にしたキーサが、その顔に満面の笑みを浮かべながらキッチンから出て来ると、リビングのソファに腰を下ろす僕に尋ねた。どうやら自分でも気付かない内に、彼女だけでなく僕もまた微笑んでいたらしい。
「いや、何でもないよ、キーサ。それよりも、今日の晩御飯は何かな?」
僕らは微笑み合い、幸せを噛み締め合い、喜び合う。互いの存在そのものが、何よりも嬉しいから。
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