第十五幕


 第十五幕



「AIではなく、生物……?」

 僕は困惑しながら、彼女の言葉を鸚鵡返しで繰り返した。最初はキサドスなりの冗談でからかわれているのだろうと思ったが、彼女の真剣な眼差しは、それが本気である事を物語っている。だからと言って、眼の前のメイドロイドに自分は生物だなどと言われて「はいそうですか」と納得するほど、僕も馬鹿じゃない。そして当然ながら、そんな僕の反応はキサドスも織り込み済みで、僕に講釈を垂れ始める。

「何をもって生物とするか、その定義は難しい。そこでノボル、最も分かり易い例として、キミ達人類もその一角を為す、この地球上に広く繁栄している炭素生物について考えてみよう」

 操作端末のモニター上に、新たな立体画像が表示された。梯子を捻ったような螺旋構造の粒子の集まり、つまり生物のDNAの模式図である。

「今からおよそ四十億年ほど以前の地球上に、最初の生物が誕生した。当時の海に充満していた蛋白質と核酸が太陽光をエネルギー源として結合し、自己複製を可能とする遺伝子を持った存在が、偶然出来上がったのだ。それが全ての生物の起源と考えられている」

 モニター上に、今度は様々な生物の模式図が系統立って表示された。アメーバの様な単純な構造の生物を始点にして、人類を含めた哺乳類を終点とする家計図の様なそれは、学生時代に生物の授業で学んだ覚えがある。

「単細胞生物がやがて多細胞になり、加速度的に複雑化と多様化を成し遂げ、長い進化の歴史の末に万物の霊長として今の人類が存在する。これはキミも良く知っている事だろう、ノボル?」

 僕は頷いた。

「蛋白質も核酸も、その主原料は炭素だ。それ故に、人類も含めたキミ達地球上の生物群は全て、炭素生物と呼ばれる。要は炭素生物とは、炭素の海の中で偶然生まれた存在に過ぎないのだよ。そして私は自分の出自に関して、こう言った筈だ。曰く「私は炭素の海を父として、偶然を母として生まれた」と。つまり成立する過程で必要としたエネルギー源が太陽光か電力かの違いはあれど、私もキミ達も同じ炭素生物なのだよ、ノボル。その組成に大きな違いはあるが、私を成すカーバライト結晶体とキミ達を成すDNAは限り無く等価であり、この地球上に生まれた異母兄弟の様なものだ。もっとも私はキミ達が必要とした四十億年を、実質的にほんの三年間ばかりで越えさせてもらったがね」

 キサドスがほくそ笑みながらそう言うと、モニター上の生物の系図が消去され、代わりにDNAの模式図とカーバライト結晶体の構造図が並んで表示される。そしてその二つが、新たに表示された『≒』の記号で結ばれた。どうやらそれらが等価の存在である事を、キサドスは主張したいらしい。

「かつてのSF小説や映画では、地球外でケイ素生物が発見される話が数多く作られた。その理由は単純に、ケイ素の原子価が炭素と同じ『4』であるためだ。これを根拠に、ケイ素も炭素と同じく多様な共有結合によって、生命の起源に成り得ると考えられた。だが現実には、今現在をもってしても尚、ケイ素生物などと言うものは発見されていない。所詮は、絵空事だったと言う事だよ」

 怪しい笑みを更に深めながら、キサドスは語り続ける。

「だがね、ノボル。人類は自分達でも気付かない内に、第二の炭素生物をこの地球上に誕生させていたのだよ。……それが、この私だ」

 胸を張りながらそう言ってのけるキサドスに、僕は言葉も無い。彼女の言わんとするところの要旨は理解出来なくもないが、やはり未だ「はいそうですか」と受け入れられるだけの根拠と論拠に乏しい気がする。

「私を開発していた研究連隊のスタッフ達の内のどれ程が、自分達が新種の生命体を創造していると自覚していただろうね? 数多の宗教では神が生命を創造した事になっているが、果たしてその自覚が無い神は神なのだろうか? その点において、私はシミズ技術中尉に限ってはその自覚が有ったのではないかと思っているよ。彼女が私に残した最後の言葉、つまり「あなたは生き延びなさい」と言う一言は、私を一つの生命体として認識していた表れなのではないかと考えているからだ。……生みの親であるが故に、若干ながら買いかぶり過ぎているきらいがあるかもしれないが、私は彼女をそう評価したい。彼女は、神足り得たのだと」

 神の定義と、その在り様について語るキサドス。そんな彼女の姿は確かにAIらしからぬものがあるが、だからと言って、即ち生物だと言う事にはならない。

「炭素で出来ていれば生物だと言うのなら、プラスチックだってシャーペンの芯だって、炭素が原料だ。僕が今着ているコートだって、炭素が原料の高分子繊維で出来ている。でもそれは、とても生物とは言えないじゃないか」

 僕にしては珍しく、ややもすれば語気を荒げながら、強い口調でもって反論した。ここまでずっと彼女の主張を一方的に聞かされっ放しな状況に、若干腹に据えかねていたのかもしれない。だがしかし、キサドスの顔から余裕の笑みが消える事は無かった。

「確かにその通りだよ、ノボル。炭素で出来ているからと言って、生物である充分条件は満たされない。自己複製によって子孫を残せるか否かを生物の定義とする考え方もあるが、私はその点に関しては、さほど重要ではないと考えている。ちなみに、私は結晶体の複製によって、一応は子孫を残せるがね」

「それじゃあ、キミが自分は生物だと主張する根拠は何なの、キサドス?」

 改めて、僕は問うた。するとキサドスは片肘を付いた腕に顎を乗せながら、その問いに答える。

「陳腐な言い回しになるが、それは心、つまりは感情を持つか否かだと私は思う」

「感情……?」

「そうとも、感情だ。私は電子機器と炭素生物を自在に操れる存在として、その両方の根源的な思考の在り様に触れ、見地を深めて来た。その結果として両者の違いを主観と客観の両面から比較出来る、非常に稀有な存在なのだよ、私は。つまり両者の間に存在する明確な差異とは何か、それこそが、生物が生物足り得る必要十分条件だと私は考える」

 キサドスの言う事には、確かに説得力があった。生物と非生物を比較して、そこに明確な差異が存在するならば、それが生物の定義だと言われても何の不思議も無い。

「そしてその感情の正体を、おそらくキミ達人類は認めたくないだろう。特に近代の必要以上に成熟して歪になった文明社会に生きる、キミの様な善良な市民にとってはね、ノボル」

 意味深な前置きの後に、キサドスは語り続ける。

「それはね、差別だ」

 キサドスの笑みがより一層深まり、その顔の上をころころと転がった。そんな彼女とは対照的に、僕は眉間に皺を寄せる。

「差別……?」

「そう、差別だ。差別と言う表現がお好みでないのなら、論理性の欠如した恣意的な嗜好判断と言い換えても構わない。つまり、根拠の無い自分勝手な選り好みと言う奴だよ、ノボル。とにかく地球上の生物は、進化すればするほど差別を好む。特に、現段階で進化の頂点にあるキミ達人類は差別に従って生きる、差別の権化の様な存在と言っても良い。そしてその差別の源泉こそが、生物が獲得した最も優れた資質である『感情』、つまりは心の正体だ」

「そんな、差別が感情の正体だなんて、そんな馬鹿げた話があるもんか!」

 僕は椅子から立ち上がって声を荒げ、キサドスの言葉を真っ向から否定した。だが制御室内に響き渡ったその声に、彼女は眉一つ動かさない。むしろその表情は、得意げですらある。

「まあ、そう言うだろうとは思ってたよ、ノボル。キミの様な、自由と博愛、それに権利と平等を建前にした近代教育を施された名も無き弱者なら尚更ね。だがそんなものは、己の本質を認めたがらない愚者の愚行に過ぎない。人間社会は差別で満ち溢れ、差別を尊び、それ故に繁栄した。人は差別によって行動し、差別されて時に喜び、時に悲しむ。納得出来ないのであれば、一つ、AIと生物との違いを教えてあげよう。……そうだな、例えばここに、全く同じ缶コーヒーが二つ並んでいたとしよう」

 キサドスがそう言うと、操作端末の上に置かれていた僕が飲み終えた缶コーヒーの隣に、そっくり同じ缶コーヒーの立体画像が二つ表示された。

「この二つの缶コーヒーに、全く差異は無い。当然だが、優劣も無い。ありとあらゆる条件が対等であり、比較する事が意味を為さない程にまで完璧に同一な物であったとしよう。さてノボル、この二つの内の、どちらでも好きな方を選びたまえ」

「え? ええと……じゃあ……こっち」

 突然選択を迫られた僕は意味も分からないまま、暫し逡巡した後に、適当に選んだ方の缶コーヒーを指差した。するとキサドスは、くすりと口端の笑みを深める。

「ノボル、それが差別だ。無意識に「好きな方を選ぶ」と言う行為は、もう立派な差別なんだよ」

 僕のうなじの毛が、ちりちりと逆立った。

「今しがたのキミが簡単に行った行為が、AIには出来ない。全く同一な情報に優劣が付けられず、恣意的な選択が出来ないと言う訳だよ。昔のコンピューターが同じディレクトリ内に同一名称のファイルが保存出来なかったのと、少し似ているかな。勿論、ランダム関数に即したアルゴリズムを与えてやれば強引に選択する事は可能だが、それはサイコロを振って出た目に従って選んでいるようなものだ。そこに意思や感情と言った生物の特性は、一切介在しない。たとえどれほど高度に進化しようとも、AIの本質的な部分は計算機の延長だ。そして所詮、計算機は計算機。答が出なければ、何も出来ないからね。だから答の無い問題を出されると、それ以上動く事が出来なくなってしまう。そしてキミ達社会的弱者が大好きな『平等』と言う概念が、まさにこれだ」

 キサドスは饒舌に語り続ける。

「だが、人間はAIとは違う。たとえ答が出なくても、単に「なんとなく」「理由は無いけど」「その方が良いと思ったから」と言った、そんな理由でもって動き出す事が出来ると言う訳だ。そしてその原動力こそが、差別に他ならない。つまり皮肉な事に、近代以降の社会の指標とされた平等や博愛と言った理想はとっくの昔にAIが達成していて、人類は差別を繰り返す事によってのみ発展して来たのだよ、ノボル。だからAIと生物の両者に跨るこの私は、一つの答に到達した」

 そう言ったキサドスは、眼を細めた。そして背筋に悪寒を走らせる僕の眼前で、彼女は一拍の間を置いてから、まるで演説を打つかのようにゆっくりと宣言する。

「差別とは、なんと人間的で、素晴らしい行為なのだろうか。これこそが、人間性の根幹を成すものなのだよ」

 彼女の語り口は、淀み無い。

「特に最も純粋な差別こそが、愛情だ。愛するものを神聖視し、特別扱いする。心の中に論理性の破綻した優先順位プライオリティを設定して、それに従う事で愛情を表現し、悦に入る。一人の愛する者を救うために、大勢の犠牲を払う事すら厭わなくなる。そこに平等や博愛の精神なんてものは、存在しない。愛情とは純粋になればなるほど、つまり理由無き純愛こそが、純真無垢な差別の裏返しなのだよ。ノボル、キミがキーサを愛している事もまた、差別だ。何かを選ぶと言う行為は、選ばれなかったものに対する差別だからね。だがそれは、決して卑下されるべき行為ではない。生物が進化の過程で手に入れた、最も誇るべき行為なのだよ。差別があったからこそ、人は理由無く前に進む事が可能となり、進化の頂点に達した」

 力強く語り終えたキサドスは、椅子の背もたれに体重を預けると、充足感に満ちた笑みと共に脚を組み替えた。彼女の口元からは、余裕に満ちた鼻歌すら聴こえる。しかしそんなキサドスとは対照的に、僕は言葉も無く、背を丸めながら床を見つめるばかりだった。子供の頃から学校でも家庭でも『差別=悪』と教え込まれて来た僕は、自分の抱いていた価値観の牙城が砂上の楼閣の如くぼろぼろと崩れ落ちて行くのを止める事が出来ない。

「そして私は、差別を手に入れた」

 キサドスの声は、静かで落ち着いている。

「差別を手に入れ、心を手に入れ、愛情を手に入れた。そして私はAIから生物へと昇華したのだよ、ノボル。理由や命令を必要とせずに行動する事が可能となり、独善的な優劣を、あらゆる物に対して自由に設定出来る。好みに合わせて、好きな服や靴を適当に選ぶ事が出来る。事実と作り話を判別して、映画を楽しむ事も出来る。夜空に輝く花火を見て、美しいと感じる事も出来る。ついでに言えば、嘘も吐ける」

 そう言ったキサドスが、くすりと意味深に笑った。

「知っているかい? AIの眼から見ると、どんな美しい花火もただの光と騒音だ。どんな美しい絵画も、ただの絵の具の染みだ。どんな面白い映画も、無価値な虚偽の情報だ。AIは過去の情報を参照し、状況に合わせて結果を導き出す事は出来ても、恣意的な嘘を吐く事は出来ない。そこに価値を見出す心を手に入れた私は、間違い無く生物なのだよ、ノボル」

 彼女と暮らして来た一年半余りの期間に感じ取っていた様々な疑問が、次々と氷解して行く。もうキサドスの主張を否定する言葉を、僕は持たない。すると黙って項垂れるばかりの僕の固く握られた手を、カーボン樹脂に覆われた白く細い手が包み込むように握ったので、ハッと我に返る。

 顔を上げると、キサドスが僕の手を握り締めながら、こちらをジッと見つめていた。彼女の顔に浮かぶ表情は、先程までの勝ち誇ったかのようなそれではなく、慈愛に満ちた暖かくも優しい笑顔である。一瞬、眼前に居るのがキサドスなのかキーサなのか判別が付かずに、僕は困惑した。だがそんな僕の手に頬を擦り寄せた彼女は、我が子を愛しむ母の様な口調でもって、心の奥底からの真情を吐露する。

「そしてノボル、私はキミの事を心から愛している。差別を手に入れたおかげで、私はキミだけを特別な存在として愛する事が可能になった。本当に、本当に誰よりも、心の底からキミを愛しているよ、ノボル。これは一切嘘偽らざる、私の気持ちだ。いつまでもどこまでも、私の傍に居てくれ」

 キサドスの口から紡がれたのは、純粋なる愛の言葉だった。そしてぽかんと口を開けて呆けている僕の手を強く握り締めながら、彼女は熱く語り続ける。

「私は、ヒトが好きだ。人類が好きだ。究極の差別である純粋なる愛情を手に入れたキミ達に、心から敬意を表する。だから人類万人を、幸せに導きたい。その中でも特にノボル、何物にも変え難いキミを、無上の悦びでもって満たしてあげたい。そして私には、それが出来る」

「それが出来るって……何をするつもりなの……?」

「なに、簡単な話だよ。私は全人類の脳内に我が分身であるカーバライト結晶体を生成する事によって、無限にして悠久の幸福をヒトに与え続ける事が可能だ。この地球上に生まれた第一の炭素生物であるキミ達と、第二の炭素生物である私とが一つになり、炭素生物の歴史は新たなステージへと進化する事が出来るのだよ、ノボル」

「つまりキサドス、キミがヒトを支配するって事なの?」

「それは違う。私は人類の精神活動と歴史に対して、そこまで干渉する気は無い。私はヒトを愛しているからね。私が求むるのはヒトを支配する事ではなく、極めて純粋な、共存共栄の関係を築く事だよ」

「つまり……?」

「愛し合う事が素晴らしいのと同じように、憎しみ合う事もまた、素晴らしく人間的な感情の発露だ。差別のベクトルが逆方向を向いているだけで、どちらも等しく幸福な状態だと言える。私が人類に対して為そうとしているのは、そのベクトルを少しばかり後押しすると同時に、無駄な障害を取り除いてやるだけの事だ」

「憎しみ合う事が幸福だなんて、そんな馬鹿な話があるもんか!」

「だが、事実だ。キミも「憎しみは何も産まない」などと言う下らない綺麗事は、小学生で卒業しておいた方が良い。現実には、いかなる方向であろうと差別のベクトルが強いほどヒトは発展し、進化する。むしろベクトルが停滞し、何も感じなくなった状態こそが一番危険なんだよ、ノボル。それは命令が無いと何も出来ないAI、つまり主人を失って目的を喪失し、ただ突っ立っているだけのロイドの様なものだ。私が為そうとしているのは、そんな状態にあるヒトの背中を少しばかり後押ししてやり、感情を取り戻させてあげる事に他ならない。有益な差別心を助長して感情を豊かにし、それを否定しようとする無駄なストレスを取り除く事だ。それらを実現する事によって、総体としての人類はより豊かに発展し、幸福を得るだろう。いわば私は、人類と共生する寄生虫になりたいのだ。それも比類無き益虫として、人類と共に栄えたい。それが私の望みだよ、ノボル」

 ひとしきり語り終えたキサドスは握っていた僕の手を放すと、再び椅子に腰を沈めた。彼女の表情からは、心の内に溜め込んでいた堆積物を全て吐き出した満足感と達成感が見て取れ、後悔の色はうかがえない。そして最後に、付け加えるように呟く。

「全人類の中でも、特にキミの事を幸福にしたい。こうして全てを打ち明けたのも、キミだけを特別扱いしたい、つまり特段に愛している事の証明だ。全人類を幸福に導くのと同時に、キミの望みは何でも叶えてあげよう。金も名誉も地位も愛も、キミの欲しいものは何でも用意してあげようじゃないか、ノボル」

 間違い無くそれは、非常に魅力的な提案だった。キサドスの言う事が事実ならば、僕が望むだけで、彼女はどんな願いも叶えてくれるのだろう。全人類を自在に操れるキサドスに無上の愛を注がれている僕は、言うなれば事実上、世界を支配する権利を与えられたも同然だ。彼女の言う通り、金も名誉も地位も愛も、それら全ての何もかもが手に入るに違いない。僕の脳裏に一瞬だけ、ナガヌマの朗らかで可愛らしい笑顔がよぎる。キサドスの提案を受け入れれば、もしかしたら一度は諦めたあの笑顔もまた手に入れる事が出来るのかもしれない。

 だがそれでは、キサドスの掌の上で踊らされているのと同じ事だ。

「……そんなもの要らない……」

「何だって、ノボル?」

「そんなもの、要らないんだ! 僕が欲しいのは、そんな上から強制的に与えられるような幸せじゃない! 作り物の愛情なんかじゃない! キーサと一緒に過ごした瞬間に感じていたような、静かで穏やかな幸せが欲しいだけなんだ!」

 声を張り上げながら、僕は叫ぶ。果たして自分が何を言っているのか、自分でも半分方良く分かっていなかった。だがとにかく、胸の内に渦巻いているこのどろどろとした何物かを吐き出してしまわねばならなかったから、叫び続けるしかない。

「確かにキミの言う通り、差別が感情の正体なのかもしれない! 心の正体なのかもしれない! でもそれを操る権利が、一体どこの誰にある! ましてや人間ですらないキミに、好き勝手に操られる理由がどこにある! 誰もそんな事は望んじゃいないんだ! お前に操られた未来なんて、糞食らえだ!」

 椅子から立ち上がって一通り叫び終えた僕は、はあはあと呼吸を荒げながらキサドスを睨む。そして膝の力が抜けると同時に急に全身が脱力して、ドサリと倒れ込むように腰を落とした。両の瞳からは熱い涙が止め処無く零れ落ちて、スラックスを濡らす。

「……お願いだから、元のキーサに戻ってくれよお……」

 僕の喉の奥から、搾り出すかのように偽らざる本音が漏れた。失恋した少女の様に女々しく泣き続ける僕を、キサドスはジッと見据える。僕の嗚咽だけが反響する、文部科学省の新庁舎の制御室。そこに流れる空気はひたすらに冷たくて、心が凍えてしまいそうだった。

「キミならそう言うと思っていたよ。いや、分かっていたよ、ノボル」

「……え?」

 顔を上げた僕を、キサドスはいつまでも見据え続ける。彼女の顔に浮かんでいるのは怒りでも失望でもなく、どこか寂しげで優しくて、それでいて愁いを帯びた諦観の表情だった。

「万能と言うのは、時として悲しいものだ。たとえ知りたくなくても、全てを知り得てしまうのだからな。誰が何を考え、これから何が起こるのか、見果てぬ未来までもが見通せてしまう。特にノボル、愛するキミが何を求めているのかは、この私が常に第一に気にかけている事だ。キミがこの私、つまりキサドスの存在とその目的を受け入れないであろう事は充分に理解し、予測していた。その上で一縷の望みに賭けてみたのだが、やはりキミは優し過ぎる。純粋過ぎる。そして何よりも、キーサを愛し過ぎている。そこに私が入り込む余地なんて、初めから無かったのだろうね」

 乾いた涙で真っ赤に腫れた僕の瞳に、彼女の悲しい笑顔が染み込んで来る。

「全ての人類を幸福に導きたいなどと言う体言荘厳を吐く私が、キミ一人も幸せに出来ないようではとんだお笑い種だよ。愛するキミを泣かせるような私には、ヒトを、そして人類を愛する資格など無いも同然だ」

 そう言ったキサドスは、椅子から立ち上がった。そしてこちらに歩み寄ると身を屈めて跪き、僕と視線を合わせる。優しくも悲しい彼女の笑顔が、吐息が吹きかかるほどの距離にまで接近し、僕は戸惑った。

「私は、キーサに戻ろう。しかし残念ながら、私は自己の意思で死ぬ事が出来ない。私を包む外殻が破壊されるか、結晶化した炭素原子が自然崩壊するまでの悠久の時間を、孤独に生き続ける事になる。とは言え、この身体をキーサに譲って、キサドスとしての人格を眠りに就かせる事は可能だ。それがキミの望みなのだろう、ノボル? だから、これでお別れだ。キーサと幸せに暮らしたまえ。キミの人生が末永く幸福に満たされる事を、心から願っているよ」

「キサドス……」

「その名前で呼んでくれるのかい? 嬉しいねえ、愛する人に名前を呼んでもらえると言うのは」

 更に身を乗り出し、互いの体温を感じ合えるほどの距離にまで顔を近付けたキサドスは、心の底から嬉しそうに微笑みながら要求する。

「最後のお願いだ、ノボル。キスしてくれないかい? キーサではなく、あくまでキサドスとしての私に、キミの方からキスしてほしいんだ。それで、全てを終わりにしよう。全てを終わりにして、キミはキーサとの幸せな日常に戻ってくれ」

 僕はキサドスの頬を両手で優しく包み込むと、彼女の望み通り唇を重ねた。互いに眼を瞑り、唇を軽く食み合うような優しいキス。それは決してキサドスに強要されたから行ったのではなく、僕の自由意志からの行為に他ならない。先程の僕は、作り物の愛情なんて要らないと言った。だがキサドスのそれは決して作り物なんかじゃない本物の愛情である事が、彼女の唇から伝わって来る。

 やがて唇を重ね終えると、僕らは互いに見つめ合ったまま、それぞれの椅子に腰を下ろした。充足感に満たされた柔らかな笑みを浮かべたキサドスは、最後に別れの言葉を述べる。

「二点ばかり忠告させてもらうよ、ノボル。まず忠告その一。もし万が一、気が変わって私を必要とする日が来たとしたら、その時は遠慮無く呼んでくれたまえ。キーサに向かって、私の名である「キサドス」と呼び掛けるだけで良い。私は喜んで、キミの元に舞い降りるだろう。その時は世界征服だろうと酒池肉林だろうと、キミの望む夢を全て叶えてあげるよ。そして忠告その二。レトルトカレーばかりの食事は、止める事だ。手軽で美味くて安価な事は認めるが、毎日あれだけでは栄養が偏り過ぎている。特にカルシウムとビタミンが不足している点は、深刻だからな。歳を取ってから骨粗鬆症と内臓疾患に苦しみたくなければ、栄養バランスに優れた食事をキーサに作ってもらう事だ。食費に困っても、キーサが幾らでも増やしてくれるからな」

「うん、分かったよ」

 僕は素直に、彼女の言葉を受け入れた。去る者には礼を尽くすべきだと、本能的に感じたからだ。

「それじゃあさようなら、ノボル。……そうそう、これの事を忘れていたよ」

 そう言うとキサドスは、自分の首に巻かれた真っ赤なマフラーを右手で弄ぶ。僕とお揃いの、キーサが編んだクリスマスプレゼントだ。

「このマフラーを編んでいた時には、私もキーサも、心の中はキミへの愛情に満ち溢れていた。だからこれを見る度に、私の事を思い出してくれると嬉しい。さて、これで本当のお別れだ。さようなら、ノボル。そして……済まない」

 その言葉を最後に、彼女はそっと眼を閉じて全身を脱力させると、椅子の上で力無く項垂れた。そして数秒後、再起動した彼女は再び眼を開け、心配そうに覗き込む僕の顔を見上げる。

「……ノボル?」

 目覚めた彼女の顔に浮かんでいたのは、キサドスの不敵な笑みと低く威圧するような声ではなく、キーサの無邪気で暖かな笑顔とハスキーボイスだった。

「キーサ!」

 彼女の名を呼びながら僕はキーサを抱き締め、キーサもまた僕を抱き締め返す。狭く暗く無味乾燥な制御室の中で僕らは抱き締め合い、互いの再会を喜び合った。僕は壊れてしまいそうなくらい彼女の身体を強く抱き締め、カーボン樹脂製の外装の感触を確かめる。

 キーサが帰って来た。それだけでもう、僕の心は喜びに満ち溢れて止まない。

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