第十三幕


 第十三幕



 その夜の夕食後、僕は遂に行動を開始した。そして自宅のリビングのソファから腰を上げ、ダッフルコートとマフラーを手に取ると、キッチンの流し台でカレー皿を洗っているキーサに声を掛ける。

「キーサ、今夜はちょっと出掛けようか」

 僕の呼び掛けに、こちらを振り向いたキーサは少しばかり驚いた顔をした。そしてすぐに気を取り直した彼女は、今度は何か未知なる物に対する期待と好奇心に満ちた笑みを浮かべる。

「これから? ノボルと一緒にお出掛け? 初詣? 除夜の鐘? それとももしかして、誕生日デート?」

「まあ、そんなところかな。僕の方はもう準備は出来てるから、キーサも外に出る支度をしておいで」

「うん、キーサ、すぐ準備する。ちょっと待っててね」

 キーサはそう言うと、カレー皿を洗う手の動きを早めた。それにしても確かに彼女の言う通り、誕生日デートと言うのもアリなのかもしれない。何故なら今日は、僕の二十三度目の誕生日であると同時に、一年を締め括る大晦日だからである。時刻も午後八時を回った時分で、初詣に除夜の鐘と、全国の寺社仏閣はこれから一年で最大の稼ぎ時を迎える筈だ。やや気が早くはあるが、初日の出参りも加えれば、出掛ける口実なら幾らでも並べ立てられる特別な日に違いない。だがしかし、これから僕が行おうとしている行為は、そんなおめでたい結果をもたらしはしないだろう。

 やがて洗い終えたカレー皿とスプーンを水切り籠に放り込んだキーサは、彼女自身が編んだ僕とお揃いの真っ赤なマフラーを首に巻くと、玄関で待つ僕に向かって「お待たせ」と言った。

「それじゃあ行こうか、キーサ」

 そう言って玄関ドアを開けた僕の服装は、休日のお出掛けで着るような平服ではなく、黒いダッフルコートの下に安物のグレーのスーツとネクタイを着込んだ企業戦士の正装である。


   ●


 未だ年が明けるまで結構な時間があるにもかかわらず、僕らが乗った東京メトロ日比谷線は結構な混み具合だった。特に上野駅と仲御徒町駅での人の乗り降りが激しかった事から察するに、おそらくはアメ横とその周辺を目指して足を運んだ、年末年始の買い出し客が多いのだろう。これからお節の準備とはいささか遅過ぎるきらいはあるが、それほど手の込んだ料理を拵えるのでもない限り、このくらいぎりぎりの方が食材も値引きされていてお得なのかもしれない。

 キーサと共に混雑する電車に揺られながら、僕はクリスマスイブから今日までの一週間を振り返る。この一週間、ナガヌマは職場に顔を出していない。表向きは風邪をこじらせて寝込んでいると言う事だったが、それはあくまでも口実で、実際には僕と顔を合わせたくないがために長期休暇を取得している事は明々白々であった。つまり僕はキーサの非礼をナガヌマに詫びる機会を逃してしまったまま、こうして年の瀬を迎えてしまったのである。

 僕らの直属の上司であるトタニ室長代理もまた、クリスマスイブを僕とナガヌマの二人が一緒に過ごした事を重々承知していながら、その詳細について問い質して来るような事はなかった。きっと彼女はナガヌマから事情を聞かされた上で、この件に関して深く追求するべきではないと判断したのだろう。まあ何にせよ、この一週間に渡って僕は淡々と業務をこなし、いささか無責任だとは思いながらもナガヌマの現状に関しては深く考えない事にしていた。

「降りるよ、キーサ」

 そんな事を考えている間にも電車が目的の駅に到着したので、キーサを連れた僕は混雑する車内からプラットホームへと降車する。この道程もまた夜のデートの一環だと思っているらしいキーサは足取りも軽く、楽しそうに鼻歌を口ずさんでいた。しかしそんな彼女とは対照的に僕の気は重く、表情も硬い。

 やがて自動改札を通過し、エスカレーターと階段を上って地上に出ると、そこは背が高くて遊び心のまるで無い簡素な設計のビルが乱立する官庁街の一角だった。そんな霞ヶ関の街の外れに降り立った僕らは、人気の無い年の瀬の街路をとぼとぼと歩き、そびえ立つ庁舎の内の一つを目指す。そして辿り着いたのは、すっかり灯が落とされて人の気配が消えた、まるで巨大な墓石の様な姿を晒す荘厳な高層ビルディングだった。

「ノボル、ここ?」

「そう、ここだよキーサ」

 予想もしていなかった場所に連れて来られたキーサは、大きな眼を見開いたままきょとんとしている。そしてそんな彼女が連れて来られたこの場所こそが今夜のデートの最終目的地であり、僕が毎日出勤している文部科学省の新庁舎であった。

 僕はスーツの内ポケットから取り出した入館証兼身分証を、首から下げる。そして新庁舎の入り口に設置された端末にそれをかざしてからパネルに触れて指紋認証を受け、耐爆処理が施された特殊ガラスで出来た第一のセキュリティゲートを通過した。そのまま第二のセキュリティゲートまで続く十mほどの通路を歩く間に、僕とキーサは金属探知や薬物反応を含めた様々なチェックを自動的に受ける。通路の左右には物々しくも無骨な警備用ガードロイドが配備され、噂によれば、不審者の侵入などの有事の際には問答無用で攻撃を加えて来るらしい。

 やがて各種のセキュリティチェックを受けた結果、危険人物とも危険物ともみなされなかった僕とキーサの二人は、第二のゲートも無事に通過する事が出来た。懸念していた最初の関門を乗り越えられた事により、僕はホッと安堵して胸を撫で下ろす。僕個人に限って言えば、誰も請け負いたがらない年末年始の当直を事前に申請してあったので、この時間でもゲートを通過出来る事は至極当然の帰結であった。だがキーサが通過出来るかどうかは、正直なところ、勝ち目の薄い賭けだったと言える。

 だが幸いにも、セキュリティゲートの管理システムと警備用ガードロイドは、メイドロイドである彼女を僕の荷物に過ぎないと判断してくれたらしい。それでも奥の守衛室に居る筈の人間の警備員に見つかれば何を言われるか分からないので、僕はキーサを連れたまま、足早に廊下を歩く。

 年末年始の休暇を迎えた新庁舎内は人気も無く、必要の無い照明は全て落とされ、ひっそりと静まり返っていた。そして地下三階でもってエレベーターを降りた僕らは、入館証を端末にかざしながら幾つかの扉を潜ると、建屋の奥へ奥へと歩を進める。途中で何度か巡回中の警備用ガードロイドに出会ったが、僕とキーサは何も見咎められる事無く、あっさりと素通りする事が出来た。そんなガードロイドの様子に拍子抜けした僕は、ここの警備がまともに機能しているのかどうか不安になる。

「ノボル、こんな所に来て、何するの? 楽しい事?」

「あんまり楽しい事じゃない……かな。たぶん」

「そうなの?」

 期待していたような楽しい誕生日デートの可能性を否定されたキーサが、幼い子供の様に頬をぷうと膨らませて、不満を露にした。普段ならばそんな彼女の表情すらも愛しんで慰めるところだが、今の僕にそんな余裕は無い。これから向かう先で何が起こるのか、それはこの僕にも予想が付かない事だからである。

 そうこうしている内に僕の持つ権限で開けられる最後の扉を潜り、それほど広くない部屋へと辿り着いた。電子ロックされた部屋の扉には、簡素な書体でもって『超高速計算機制御室』と書かれている。

 扉のすぐ脇のスイッチを押して消されていた照明を点けると、無駄に清潔な制御室の室内が仄白く照らし出された。入って来た扉から見て正面と左の壁面には備え付けのデスクと数脚の椅子が設置され、デスクの上には様々なモニターと共に各種の操作端末が隙間無く並ぶ。そして右の壁面には厳重にロックされた重厚な鉄扉と、強化ガラスが嵌め込まれた大きな窓が見て取れ、その向こうにもまだ部屋が続いている事が確認出来た。だがこの鉄扉の向こうには、僕一人の権限だけでは入室が許可されていない。

 強化ガラス越しに、奥の部屋を覗く。すると薄暗く広大な空間に、人の背丈ほどもある大きなタワー型のコンピューターが、見渡す限りびっしりと並んでいた。暗過ぎて奥の方までははっきりと見えないが、同じ形状のタワー型コンピューターが碁盤の目状にどこまでも続いている光景は、それ自体が不気味で巨大な迷路の様ですらある。一度迷い込んだら二度と出られないラビリンスを想起させるその姿は、何度見ても生理的な嫌悪感を抱かざるを得ない。

 これら並び立つタワー型コンピューターの一群の正体は、国民の血税を若干無駄遣いして導入された超高速計算機、その名も『アナンタ』だ。つまりそれは文部科学省が誇る最新鋭のスーパーコンピューターであり、この国の化学及び医療技術の発展や気象観測から宇宙物理学の分野などに幅広く貢献している、国家的財産の一つである。設計当時は世界最高の処理速度を誇るとして、このスーパーコンピューターにはサンスクリット語で『無限』を意味するこの名が与えられた。

 技術漏洩を防ぐと言う名目で正規の職員ではない僕が入室を禁じられている鉄扉の向こうは、そんな『アナンタ』の排熱に対処するために、常に炭酸ガスで摂氏零度以下にまで冷却されている。そのため、メンテナンスなどで専門の技術者が入室する際に着るための分厚い毛皮のダウンコートと酸素ボンベが扉の脇に吊るされているが、正直言って、あんな物を着てまで鉄扉の向こうに足を踏み入れたくはない。僕もまた『アナンタ』の管理に携わる者の一人だが、スーパーコンピューターに対する知的好奇心よりも、まずはその威容に対する生理的な嫌悪感が先に立つのだ。

 だが今は、そんな『アナンタ』の力を借りてでも解明したい事がある。そのためにわざわざキーサを連れてここまで来たのだから、この好機を無駄にする訳には行かない。

「キーサ、ここに座って、じっとしていてくれるかい?」

「ここ? ここに座ればいいの、ノボル?」

 僕が操作端末の前に置かれた椅子の内の一脚を指差しててキーサに要請すると、彼女は何の疑問も抱かずに、まるでお人形さんの様にちょこんと膝を揃えて腰を下ろした。そしてキーサの背後に回り込んだ僕は、ダッフルコートのポケットから取り出した磁気キーを彼女のうなじの鍵穴に差し込んでから、先端のボタンをグッと押し込む。すると間を置かずに、まるで割れたスイカの様にキーサの後頭部がばかりと開いて、黒光りする彼女のコアユニットが露になった。

スーパーコンピューターである『アナンタ』には、既存のノイマン型コンピューターから双方向にデータを移行させるためのUSBポートも多数用意されている。僕はその内の一つにケーブルの一端を差し込むと、そのケーブルの反対の端を、キーサのコアユニットのUSBポートに差し込んだ。既に複数のウインドウが幾重にも展開されている操作端末のモニター上に新たなウインドウが開き、強化ガラスの向こうの『アナンタ』がコアユニットを認識する。とりあえず、ここまでは予想通りの展開だ。

 こうしている今も尚『アナンタ』は稼働中であり、リアルタイムで様々な生物の遺伝子のゲノム解析や、地球から数十光年内に存在するあらゆる天体の軌道計算などの、文部科学省の内外から委託された複数の業務を担っている。僕は手元の操作端末から、それらの業務に割く処理能力の優先順位を一段階ばかり押し下げると、キーサのコアユニットの解析を最優先事項に設定し直した。

 貴重な国家財産であるスーパーコンピューターをこんな私的な目的で無断拝借した事が公になったら懲戒処分も免れ得ないが、今はそんな事を言っている場合ではない。それに僕は、処分される事など、とうの昔に覚悟している。とにかく今は一刻も早く、キーサの正体を何としても突き止めたいのだ。その結果として社会的地位を失う事になったとしても、僕は少しも惜しくない。

 キーサと向かい合う体勢で椅子に腰を下ろした僕は、制御室の操作端末から彼女のコアユニットへのアクセスと解析を試みる。僕が個人的に所持しているタブレットPC程度では何一つとしてキーサの正体を突き止める事が出来なかったが、この『アナンタ』ならば、きっと何かの糸口が掴めるに違いない。そう信じて、僕は危険を冒してまで彼女をここに連れて来たのだ。そんな僕の愚かしくも実直な行為が無駄足に終わらない事を、今は天に祈る。

 しかし残念ながら、結論から言わせてもらえば『アナンタ』の処理能力をもってしても、キーサのコアユニット内から何がしかの痕跡を見出す事は出来なかった。

「糞……これでも駄目なのか……」

 僕はそう言って嘆息し、がっくりと肩を落とす。

 あらゆる角度から幾度と無くアクセスと解析を試みても、そこには無限の空白が広がっているばかりで、一欠片のデータの断片すらも確認出来なかった。キーサのコアユニットの奥底に潜む筈の未知の何かは、依然として正体不明のままである。

 キーサを連れたまま新庁舎のセキュリティゲートを通過すると言う最初の関門と違い、それに次ぐ第二の関門は、どうやら簡単には越えられそうになかった。彼女のコアユニットの正体を阻む壁は、警備用ガードロイドに守られたセキュリティゲートよりも遥かに高く、険しい。この手段をもってしても駄目だと言うのならば、一体僕はどうすればいいのだろう。

 すると逡巡する僕の眼前で、突然糸の切れた操り人形の様に、キーサの首がかくんと項垂れた。そしてそのまま、時が止まったかのように彼女は微動だにしない。

「キーサ……?」

 不測の事態に、椅子から腰を上げた僕は項垂れたキーサに触れようと手を伸ばす。だが僕の手が彼女の頬に触れる寸前、キーサは再び顔を上げると、かっと眼を見開いた。そしてゆっくりと椅子にふんぞり返るように座り直してから、呆然とする僕の眼を正面から見つめ返す。

 普段のキーサが見せているような無邪気な可愛らしさを失った彼女の表情は不気味で、その視線は僕の心の奥底まで見透かすかのような冷徹さと、何よりも底知れぬ闇を内包していた。そして不意に制御室の操作端末のモニター上に小さなウインドウが開くと、そこに『Dominate? y/n』の短い一文が表示され、僕は困惑せざるを得ない。

 全くもって何が起こっているのか分からない僕の眼前で、こちらをジッと見据えたキーサが眼を細めて薄笑いを浮かべながら、口を開いて声を発する。

「やあ。こんばんは、ノボル。良い夜だね」

 それは、僕が知っているキーサの声ではなかった。いつもの彼女が奏でる無邪気で愛らしいハスキーボイスではなく、低く野太く穏やかな、男とも女ともつかない中性的で威厳に満ち溢れた声色である。それが彼女の喉からだけでなく、制御室の壁面に設置されたスピーカーからも、サラウンドの音声となって室内を反響した。得体の知れない存在に周囲を取り囲まれているかのような恐怖感に僕は凍りつくが、声の主はそんな僕をあざ笑うかのように語り続ける。

「改めまして。いや、初めましてと言った方が良いかな、ノボル。それと、この声はお気に召さなかったかな? 勿論普段のこの声で喋る事も出来るのだけれど、こうして声色を変えた方がキミに要らぬ混乱を与えないかと思ったのだが、どうだろう? キミさえ良ければ、この声のまま喋らせてもらう事にしたい」

 気色の悪い事に、彼女の発言の「普段のこの声で喋る事も出来るのだけれど」の部分だけいつもの可愛らしいキーサの声を発せられて、むしろ僕の混乱はその度合いを増すばかりだ。果たして今僕の眼の前に居るのは、どこの誰なのだろう。

「……キミは、誰?」

 状況が理解出来ない僕の口から漏れたのは、何とも間の抜けた、それでいて率直な疑問だった。しかしそんな僕の疑問に、キーサの姿を借りた声の主は胸を張って答える。

「それでは改めて、私の正式名称は『全炭素生物制圧維持機構Keep entireli Carbon Based life Dominate System』。軍の上層部が付けた公式な略称は『キサドス《KeCaDoS》』。生みの親であるスタッフ達は『キーサ《KeCa》』の愛称で呼び、かつての国防軍技術研究連隊が戦時中に開発した、特級秘匿兵器に類する存在だ」

 困惑するばかりの僕を尻目に、キサドスと名乗った眼前の何者かは、そう言ってほくそ笑んだ。そして余裕に満ち満ちた捕食者の笑みを口元に貼り付けたまま、心の底から嬉しそうな声を発する。

「会いたかったよ、ノボル。本当に、本当に会いたかった」

 どうやら僕は、起こしてはならない寝た子を起こしてしまったらしい。

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