第十二幕
第十二幕
木枯らし一号も例年通りに関東地方を吹き抜け、すっかり冬景色を終えた街を彩るイルミネーションが輝くクリスマスイブは、偶然にも週末の日曜日であった。そして僕はニットのセーターの上から真っ黒なダッフルコートを羽織りながら、つくばエクスプレス浅草駅の改札前に立っている。
「そろそろかな……」
僕はポケットから取り出した携帯端末で、現在の時刻を確認した。そろそろナガヌマが乗った電車が到着し、この待ち合わせの場所へと姿を現す時刻である。先月職場で約束した通り、と言うか半ば強制的に約束させられたのだが、今日の僕はこれから彼女を連れて浅草の街を案内しなければならないのだ。つまり、僕自身にとっては甚だ不本意だが、トタニ室長代理言うところのクリスマスデートである。
「ノボルさん、お待たせいたしました!」
やがて自動改札を通過したナガヌマがそう言いながら姿を現し、息せき切ってこちらへと駆け寄って来た。今日の彼女も、襟と裾が高価そうなファーで飾られた、真っ白で可愛らしいコートを羽織っている。
「やあ、ナガヌマさん」
「今日は来てくださって、ありがとうございます! ノボルさんがあまり乗り気でなかったから、てっきりすっぽかされるかもしれないなと思ってました!」
開口一番、僕はそんな事を言われながら頭を下げられてしまった。
「そんな、いくら僕だって女の子との約束をすっぽかしたりなんかしないよ」
「分かってますよ、冗談です」
ナガヌマはそう言って、くすくすと上品に笑う。とは言え、正直な事を言わせてもらえば、僕も今日はナガヌマとではなくキーサと一緒にデートと洒落込みたかったのが偽らざる本音だ。だがしかし、クリスマスにはナガヌマと二人きりで遊びに行けと直属の上司であるトタニ室長代理から厳命されてしまったので、不本意ながらも今回ばかりは致し方無い。
「それじゃあ、まずはどこに行きましょうか?」
「演芸場の開演までは未だ時間があるから、どこかでお昼にしよう。ナガヌマさんも、未だお昼は食べてないよね?」
「はい、それでしたら、あたしが是非行ってみたいお店があるんですが……そこでもよろしいでしょうか?」
「いいよ、どこ?」
僕が尋ねると、ナガヌマは「ここです」と言いながら彼女の携帯端末の画面をこちらへと向ける。するとそこにはグルメ評価サイトが表示され、浅草でも有名な老舗の天麩羅屋の写真と地図が、サイトの利用者のレビューと共に掲載されていた。
「ああ、そこか」
「ノボルさん、このお店には行った事がありますか?」
「いや、店の前を通り掛かった事は何度もあるけど……そう言えば、中に入った事は一度も無いなあ」
「でしたら、ちょうど良かったですね。この機会に、一度行ってみましょうよ」
「まあ、そうだね。ちょうどいいと言えば、ちょうどいいか」
そう言った僕らはつくばエクスプレスの浅草駅から地上に出ると、浅草六区通りを経由してから伝法院通りへと足を踏み入れ、その通り沿いに店を構える件の天麩羅屋の前に至る。創業二百年を超える老舗の有名店だけあって、店先には入店を待つ結構な行列が出来ていたが、僕らは文句も言わずにその行列の最後尾に並んだ。
「結構、混んでるね」
「そうですね、予約してから来れば良かったかもしれませんね」
「予約、出来るの?」
「ええ、確かネットから予約出来る筈です」
クリスマスイブの寒空の下、僕らはそんな他愛も無い言葉を交わし合いながら行列に並び続ける。そして三十分ばかりも待った末にようやく入店すると、さっそく名物である天丼と海老天丼を注文し、食べ始めた。
「美味しいですね」
「うん、なかなか美味しいね。でも、想像していたよりもちょっと味が濃いめかな。それとも東京の天丼は、みんなこんな味なのかな?」
「さあ、どうでしょう。でも、あたしはこのくらい濃い味も好きですよ」
厚い衣にじっとりと染み込んだ甘辛いタレが少しくどかったが、これはこれで江戸前の天丼らしい濃厚な味で、なかなか美味い。
「ごちそうさま」
やがて天丼を食べ終えた僕らは会計を終えてから店を出て、再び来た道を引き返すように伝法院通りと浅草六区通りを歩く。そして本日の目的地の一つである、浅草演芸ホールに辿り着いた。園芸ホールの前では法被を着た若手のコメディアンの卵らしき青年達が威勢の良い掛け声と共にビラを配り、客を呼び込んでいる。
「本当に、ここでいいの?」
「ええ、浅草を訪れたからには、こう言った伝統的な場所に一度は入ってみたかったんです」
そう言ったナガヌマの要望に従い、受付で二人分のチケットを購入した僕ら二人は、浅草演芸ホールに足を踏み入れた。ホール内は全席自由席なので、適当に空いていて、それでいて舞台がそこそこ観覧し易い席に並んで腰を下ろす。当然と言えば当然かもしれないが、特にクリスマスイブの公演ともなれば周りの客は僕らの様な若者ではなく皺くちゃの老人ばかりで、老人会か何かと思われる団体客も多い。
「あ、そろそろ始まりますよ、ノボルさん」
開幕を告げるお囃子を耳にしたナガヌマが、嬉しそうに言った。本日の演目は落語にコント、それに漫談にマジックショーと盛り沢山である。そして客席と舞台とを仕切る緞帳がゆっくりと上がり、まずは前座の若手落語家による落語の前口上が始まった。僕らとたいして年齢も代わらない本当に若い新人落語家であり、演目は『転失気』である。
前座の落語は荒削りな出来ながらも面白く、僕らを充分に笑わせてくれたし、その後に続くコントも漫談も腹がよじれるほど笑わせてもらった。そしてマジックショーも、さすがに本格的なステージでのイリュージョンショーに比べたら規模が小さいものだったが、その出来の良さには思わず感心して息を呑む。
そうこうしている内に、やがて気付けば最後の出演者として、真打ちのベテラン落語家が満を持して登壇した。彼の本日の演目は、古典落語の『粗忽長屋』である。おっちょこちょいで早とちりしがちな江戸の町人の八五郎が、行き倒れの死体を友人の熊五郎と見間違え、未だ生きている熊五郎にその死体を引き取りに行かせると言うちょっとシュールな滑稽話の一つだ。人の生き死にに関わる演目がクリスマスイブに相応しいかどうかは少し疑問だが、ここ浅草を舞台とした落語が上演されたのは、偶然ながらも臨場感があって都合が良い。
「面白かったですねえ」
全ての演目が終了し、緞帳が下りると、座席から腰を上げたナガヌマが真っ白いコートを羽織りながら言った。
「そうだね。初めて落語を生で見たけど、思ってたよりも面白かったね」
僕もそう言って、黒いダッフルコートを羽織る。そしてナガヌマと連れ立ち、老人達に混じってぞろぞろと浅草演芸ホールを後にするが、その間も僕はこの場にキーサが居てくれたらもっと楽しかっただろうなとそんな事ばかりを考えていた。今頃賃貸マンションの一室で僕の帰宅を心待ちにしている彼女の心中は、察するに余りある。
「どうしたんですか、ノボルさん?」
キーサの事を考えながら遠い眼をしていた僕に、ナガヌマが尋ねた。
「ああ、いや、別になんでもないよ。それよりもナガヌマさん、これからどうする?」
「そうですね、やっぱり浅草に来たからには、浅草寺にお参りに行きましょう。何と言っても、浅草の中心ですからね」
僕らはそう言って、浅草演芸ホールから浅草寺の参道へと向かう。そして土産物屋が立ち並ぶ仲見世通りを通過し、俗に仁王門とも呼ばれる宝蔵門を潜ると、浅草寺の境内へと足を踏み入れた。一年で最も浅草寺が混雑する初詣までは未だ一週間ばかりの猶予があるが、それでも休日の境内は地元の氏子達や観光客達でもって賑わい、結構な混雑ぶりである。
「あたし、浅草寺にお参りに来るのは初めてです」
「僕もちゃんとお参りするのは、初詣の時くらいだな」
そう独り言ちた僕とナガヌマは、まずは手水舎で手と口を清めた。それから常香炉と呼ばれる巨大な香炉で焚かれる線香の煙を全身に浴びて邪気を祓うと、本堂へと続く参拝の列に並ぶ。そして二十分ばかりも待たされた後に自分達の番が回って来れば、賽銭箱に賽銭を投げ込み、手を合わせながら頭を垂れて諸願成就を願った。
「せっかくですし、記念にお守りを買って行きませんか?」
参拝を終えたナガヌマがそう言って、本堂内に在るお守り売り場に足を向ける。
「色々ありますねえ……ノボルさんはどれにします?」
お守り売り場には、確かにたくさんの種類のお守りが売られていた。あまりに種類が多過ぎて、思わず目移りしてしまう。
「金運のお守りって、ありますか?」
僕が尋ねると、お守り売り場で働く若い僧侶が「それでしたら、これなどいかがでしょう」と言って、各人の干支にちなんだ『金鱗守』と言うお守りを勧めてくれた。そこで僕は自分の干支である申年のそれを買い求め、一般の商店における代金に相当する初穂料を支払う。
「あたしは、これにします」
ナガヌマがそう言いながら選んで買い求めたのは『良縁守』、つまり縁結びのお守りであった。そして各自のお守りをポケットに仕舞った僕ら二人は浅草寺の本堂を後にし、参拝客で混雑する仁王門を再び潜って、境内の外に出る。
「少し歩いたら、喉が渇きましたね。どこかで座って、何か温かい物でも飲んで行きませんか?」
そう言ったナガヌマに先導され、僕らは浅草ROXビルの中のカフェに足を踏み入れた。木目調を基本とした調度品に囲まれた落ち着いた雰囲気のカフェの中ではコーヒーや紅茶と言った飲み物だけでなく、各種のパンやパフェやパスタなども売られている。そこで僕はコーヒーとチーズクロワッサン、ナガヌマはシナモンティーとチョコレートパフェを注文してから窓辺のカウンター席に腰を下ろした。
「ねえ、ナガヌマさん」
コーヒーを飲みながら、僕は改めて尋ねる。
「今日はなんでまた、僕なんかと一緒に遊びに行こうなんて言い出したの?」
「そうですねえ……ノボルさんは、どうしてだと思いますか?」
こちらが尋ねたのに、逆に聞き返されてしまった。質問に対して質問で返されると、相手が可愛らしい女の子であっても少しだけイラッとしてしまうのは、僕もまだまだ大人になりきれていないせいかもしれない。
「どうもそれが、よく分からないんだよなあ。僕なんかと一緒に居ても、何も楽しくないでしょ?」
「そうでもありませんよ。あたしはこうしてノボルさんと一緒に居るだけで、充分に楽しいですから」
スプーンで掬い取ったチョコレートパフェを口に運びながらそう言って、ナガヌマは可愛らしく微笑む。
「以前も言いましたが、あたし、自分と歳や背恰好が近いノボルさんには親近感を抱いているんです。いいえ、もっとはっきり言ってしまえば、ノボルさんみたいに優しくて控え目な人が好みのタイプなんですよ」
「つまりそれって……」
「はい、ノボルさん。これからはあたしと正式に、お付き合いしていただけませんか?」
常々恐れていた事だが、遂にはっきりと告白されてしまった。
「そんな事言われても……参ったなあ……」
僕はコーヒーを飲む手を止め、頭を抱える。額と背中に、冬だと言うのにじっとりと冷や汗が浮いた。
「あら? もしかしてノボルさん、あたしの事がお嫌いですか?」
「いや、別に嫌いじゃないよ? 嫌いじゃないけどさ……」
「だったら、よろしいじゃないですか。これからは一人の恋人として、あたしと接していただけませんか?」
「だけど、僕なんかと付き合っても何も得しないよ? 僕は見ての通りチビでひ弱で眼が悪くて、まるで頼りにならない男らしさの欠片も無いような奴なんだからさ。それに仕事だって出来ないし、出世の見込みも無いんだ」
自己卑下の言葉が、僕の口から次々と溢れ出て来る。
「あら、そんな事はありませんよ? トタニさんだって、ノボルさんは仕事熱心で頼りになるって、陰でこっそり褒めてらっしゃったんですからね。それに以前も言いましたが、あたしは背が高い男の人とか筋肉質の男の人って、どうしても威圧的に感じてしまって苦手なんです。だからあたしにとってはノボルさんが小柄である事は、チャームポイントでしかありませんから。そう思って、もっと自分に自信を持ってくださいませんか、ノボルさん」
「トタニさんが僕を褒めていた? 嘘でしょ?」
「いいえ、本当ですよ。ノボルさんは、職場の皆様からは信頼されているんですから」
「そうは言われても……やっぱり僕は、どうしても自分に自信を持てないよ。人から好意を抱かれる事に慣れていなくて、こんな時にどう対応したらいいのかまるで分からないんだ」
そう言った僕は痒くもない頬を執拗にぼりぼりと掻きむしり、自分の心を落ち着かせようとするばかりだ。自己評価が低い僕にとっては、他人から好かれたり褒められたりする事はむしろストレスでしかない。すると隣に座るナガヌマは「困った人ですね」と言いながら、さほど困った様子も無く涼しい顔でシナモンティーを優雅に飲んでいる。そして気付けば互いにこれと言った会話も無いまま時は過ぎ、ビルの谷間から見上げる空はやがて宵闇に包まれ、とっぷりと陽が暮れてしまっていた。
「ねえ、ノボルさん」
「ん?」
カフェのカウンター席に座ったまま、ナガヌマが尋ねる。
「ノボルさんのお住まいって、このお近くなんですよね?」
「え? ああ、うん、ここから歩いて十分くらいの所だけれど……」
「でしたらどこかでケーキとお酒でも買ってから、ノボルさんのお住まいで簡単なクリスマスパーティーでも開きませんか? 今からだとコンビニくらいでしかケーキは買えないでしょうけれど、それでも構いませんよね?」
「ええ?」
ナガヌマの提案に、僕は頓狂な声を上げて驚いた。カフェに居た何人かの客が、そんな僕を物珍しげにちらりと一瞥する。
「そんな、駄目だよ。いくら僕がチビでひ弱だからって、キミみたいな若い女の子を一人だけで家に上げる訳には行かないよ」
「あら、どうしてですか? これから末永く交際するにあたっての計画や目標を、二人で一緒に話し合おうじゃありませんか」
「だから、僕はナガヌマさんと交際する気は無いんだってば……」
「そんな事言わないでくださいよ、ノボルさん。だったらノボルさんのお住まいで、あたしと交際していただけるようになるまでとことん話し合っていただきます。その上で納得していただけましたら、あたしとお付き合いしてくださいませんか?。……さあ、行きましょう。ノボルさんのお住まいは、どちらの方角ですか?」
そう言いながら、ナガヌマは意気揚々と立ち上がった。そして僕の手を取り、一刻も早くカフェから退出して自宅に案内するように急かす。
「参ったな……」
こんな時にその場の雰囲気に流され易く、初志貫徹出来ずに優柔不断なのも僕の悪い癖だ。そして結局ナガヌマの提案を断り切れないまま押し切られ、途中で立ち寄ったコンビニで安いクリスマスケーキを二人分とスパークリングワインの小瓶を購入すると、言問い通りと国際通りが交差する地点から程近い賃貸マンションへと至る。
「ただいま」
やがてエレベーターで八階へと上昇した僕は、ケーキとスパークリングワインが入ったコンビニ袋を手にしたまま自宅の玄関ドアを開けた。
「お邪魔します」
僕に続いて、ナガヌマもまた狭い賃貸マンションの玄関に足を踏み入れる。
「ノボル、お帰りなさい。あれ? ナガヌマも一緒?」
そう言って、我が家のロイドであるキーサが玄関まで僕らを出迎えてくれた。
「キーサちゃん、こんばんは。夏に花火大会で出会って以来だから、久し振りですね」
「うん、ナガヌマ、久し振り。ナガヌマも元気だった?」
ナガヌマとキーサも、約五ヶ月ぶりの再会を喜び合う。
「狭くて汚い部屋でごめんね。コート掛けみたいな洒落た物は無いから、脱いだコートはどこかその辺にでも畳んで置いといてよ」
「はい、お構いなく。あたしの住んでいる部屋とだいたい同じくらいの広さで、想像していたよりも綺麗な部屋ですね」
きょろきょろと首を巡らせて僕の部屋の様子を興味深げにうかがいながら、ナガヌマは羽織っていた真っ白いコートを脱ぐとそれを畳み、リビングの中央のローテーブルの上にハンドバッグと共に並べた。そして僕もまたダッフルコートを脱ぐと、礼儀正しいナガヌマとは違って、汗を乾かすために無造作にソファの背に拡げる。僕は女性を招き入れる予定などまるで無い男やもめの独身男性だが、幸いにも外装だけはメイドロイドであるキーサが同居してくれているおかげで、自宅である賃貸マンションの室内はそこそこ整理整頓が行き届いていた。
「ノボル、ナガヌマ、暖房入れたよ。何か飲む?」
「ありがとう、キーサ。途中のコンビニでシャンパンを買って来たから、何か適当なグラスを二つ用意してくれるかな? それと、ケーキのお皿も二枚お願いするよ」
「うん、分かった」
そう言ったキーサは食器棚を開け、僕の要望通りグラスとケーキ皿を一組ずつ用意すると、それをリビングのローテーブルの上に並べる。そして心なしか、グラスにスパークリングワインを注いでくれる彼女の機嫌は良さそうだ。
「ノボルさん、何か、音楽でもかけませんか?」
「ああ、そうだね」
ソファに腰を下ろしたナガヌマに促され、彼女の隣に座る僕はタブレットPCを手に取ると、ネットラジオのクリスマスソング特集番組にチャンネルを合わせる。昭和の時代から連綿と続くクリスマスを題材としたヒットソングが、さほど広くもない僕の自宅のリビングの空気を優しく満たした。
「それじゃあ、乾杯しましょうか」
「うん、乾杯。メリークリスマス」
「メリークリスマス」
そう言った僕とナガヌマの二人はソファに並んで腰を下ろすと、かちんとグラスを打ち鳴らし合い、その中身を一口だけ飲み下す。コンビニで売っていた安酒なのでさほど上質なスパークリングワインではないが、貧乏舌である僕にはワインの味の違いの良し悪しなどよく分からない。
「ノボル、ナガヌマ、ケーキ美味しい?」
僕ら二人の邪魔にならないようにソファの脇に立っていたキーサが、遠慮がちに尋ねた。
「ああ、うん、まあまあかな。コンビニで売れ残っていたケーキだから、前にオオクマさんのところで食べたケーキほどは美味しくないよ、残念だけどさ」
「あら、そうでもありませんよ? これはこれで、美味しくありませんか?」
コンビニの安物のケーキに対する僕の率直な感想をフォローしながら、上品に微笑むナガヌマ。彼女は甘ったるいばかりでまるでコクの無い業務用のホイップクリームを、厭な顔一つせずに頬張る。高所得層の出身であるナガヌマならばもっと高級で美味しいケーキを幾らでも食べた事がある筈なのに、それを鼻にかけないのは、逆にその育ちの良さをより強調していた。
「今日のデート、楽しかったですねえ」
ケーキを食べながらそう言ったナガヌマが、僕と眼を合わせて朗らかに微笑む。やはり彼女は今日一日の僕との外出を、恋人同士が執り行うようなデートの一種として認識しているらしい。
「まあ、楽しくなくはなかったかな」
それをデートとして認めたくない僕は、ややもすれば言葉を濁した。
「ずっと行ってみたかったお店の天丼も食べられましたし、落語も生で観られましたから、楽しかったに決まっているじゃないですか。あたしきっと、ノボルさんが浅草にお住まいで案内していただけなかったら、生きている内に落語を演芸場まで観に来る事は一度も無かったんじゃないかと思います。だからそう考えると、なんだか不思議ですよね。あたしとノボルさんには、何か特別な縁があったんだなって思いませんか?」
「そう……かな?」
僕は宿命論者ではないので、キーサとの出会いを除けば縁があったとか無かったとかのオカルトじみた用語は信じていないので、正直言って困る。
「ええ、そうですよ。それに浅草寺ではこれも買いましたし、きっとあたしとノボルさんとは良縁で結ばれているに違いありません」
ナガヌマはそう言って、浅草寺のお守り売り場で買った『良縁守』をポケットから取り出した。そしてそれをリビングのローテーブルの上に置いてから、その手を僕の太腿の上にそっと乗せて身を寄せる。
「ねえ、ノボルさん」
「何?」
「改めておうかがいしますが、これからはあたしと正式に、恋人同士としてお付き合いしていただけませんか?」
「それは……出来ないよ」
ボディタッチを交えたナガヌマの誘惑を、手にしていた僕もまた改めて拒絶した。
「どうしてお付き合いしてくださらないんですか? 何かあたしに不満があるのでしたら、この場で洗いざらい仰ってください。その上で、ノボルさんの理想の女になるべく努力してご覧にいれますから」
そう言いながら更に身を寄せて来るナガヌマに困惑するばかりの僕は、ソファの脇に立つキーサを一瞥し、助けを求めるような視線を彼女に向ける。だがキーサはそんな僕の視線を無視するかのように微動だにせず、ただ静かに事の成り行きをジッと見守っていた。
「そうじゃない……そうじゃないんだよナガヌマさん……」
否定を意味する言葉を何度も繰り返すばかりの僕の頬と顎に、不意にナガヌマが手を伸ばす。そして有無を言わす事無く顔を寄せると、自らの唇を強引に僕の唇に重ねた。生身の人間が相手の、僕のファーストキスである。
「どうですか、ノボルさん? あたし、ここまで本気なんですよ?」
重ねていた唇を離したナガヌマはそう言うと、驚いて困惑するばかりの僕をソファに押し倒した。僕の手からスパークリングワインが注がれたグラスが転がり落ち、床に敷かれたラグマットに小さな染みを作る。そして僕に馬乗りになったナガヌマは、おもむろに着ていたカーディガンのボタンを一つずつ外し始めた。
「思っていたよりも強引な女だと知って、驚きましたか?」
胸元を露にしたナガヌマはそう言って微笑むが、その表情には普段の朗らかさには無い妖艶さが含まれている。
「ノボルさん、あたしを抱いてください」
ナガヌマは、はっきりとそう言った。だがしかし、そんな彼女を僕は尚も拒絶する。
「駄目だよ、それは出来ないんだ……」
「どうしてですか? この期に及んでも、未だあたしに何か不満がおありですか?」
「そうじゃなくて、問題があるのは僕の方なんだ!」
僕は大声で叫ぶと、より一層身体を密着させて来るナガヌマの両肩を掴み、彼女を強引に突き放して距離を取った。
「僕は、結婚出来ない身体なんだ! いや、結婚しちゃいけない身体なんだ!」
「……それって、どう言う事ですか?」
困惑するナガヌマに、僕は説明する。
「僕はね、先天性の非閉塞性無精子症って言う病気なんだよ。つまり生まれつきの遺伝子異常で、精巣の中で正常な精子が殆ど作られていないんだってさ。だから普通の性交渉ではまず子供は作れないし、仮に作れたとしても奇形児が生まれる可能性が高いから、結婚や子作りはしない方がいいって医者からも警告されているんだ」
そう述懐する僕の両の瞳からは、ぼろぼろと熱い涙が零れ落ちていた。
「どうだいナガヌマさん、これでようやく理解してくれただろう? 僕はどう頑張ったって、キミを幸せにする事は出来ないんだ。だから当然、キミに幾ら告白されても交際する訳にも行かないんだよ」
「子供が作れないだなんて、あたしはそんな事、少しも気にしません!」
「僕が気にするんだよ!」
涙ながらに、僕は訴え続ける。
「キミがいくら気にしないといったところで、僕が子供を作れない障害持ちの身体である事実は変わらないんだ。もしそんな状態で僕らが結婚なんかしたら、僕だけでなくキミまでもが障害者扱いされて、世間から後ろ指を指されるに決まっている。僕のせいでキミがそんな眼に遭う罪悪感に苛まれたら、その惨めさに僕はきっと耐えられない。だからもうこれ以上、僕を苦しませないでくれよ……」
そう言った僕は、押し倒されたソファの上で身を丸め、まるでレイプされた少女の様にめそめそと泣き崩れていた。
「……ノボルさんの事情は、理解しました」
そう言ったナガヌマは、未だ諦めない。
「しかしそれでも、つまり事情を全て理解した上でも尚あたしがお付き合いしてほしいと願ったとしても、ノボルさんはあたしを拒絶するんですか?」
僕は無言で泣きながら、首を縦に振った。
「どうしてですか、ノボルさん? あたしは子供が作れない事なんて、少しも気にしないと言っているんですよ?」
「ナガヌマさんだって、人口増加促進法は知っているだろう? 全ての若い女性は、一生の内に三人以上の子供を産まなくちゃならない義務を負っているんだ。その義務を果たす事が出来ない夫婦になんて僕はなりたくないし、キミをそんな眼に遭わせたくもない。それを分かってくれよ!」
「子供を三人以上産むのは、努力義務です! たとえ産まなかったからと言って、罰される訳じゃありません!」
「それでも、僕の負い目は消えないんだ!」
恥を忍んで僕がそう言うと、ナガヌマの態度が豹変する。
「……最っ低」
溜息混じりにそう言ったナガヌマは馬乗りになっていた僕の上から床に降り立つと、脱ぎ掛けていたカーディガンのボタンを締め直した。そして改めて、僕を口汚く罵る。
「ノボルさんって、本当に最低の意気地無しだったんですね。女であるあたしの方からこれだけ言い寄っているのにそんなつまらない事を気にするだなんて、あまりの腰抜けぶりに心の底から見損ないました。今の自分の姿がどれだけ惨めで情け無いか、少しは気付きなさい!」
幾ら罵られても、僕は何も言い返せない。ただ涙を流しながら、自分の愚かさを噛み締めるばかりだ。すると不意に、今の今までソファの脇に立ったまま事の成り行きを見守っていたキーサが意を決したかのように行動を起こす。そして無言のままつかつかとナガヌマに歩み寄った彼女は、何事かと眼を見張るナガヌマが着ているカーディガンの襟首を力任せに掴み上げ、首を締め上げた。メイドロイドであるキーサは老人や障害者の介助などもまたその用途として想定されているため、平均的な体格の人間ならば、片腕だけでも持ち上げる事が可能である。それだけの腕力を秘めたキーサに首を締め上げられてしまっては、小柄なナガヌマなどは碌に抵抗する事すら出来ずに悶え苦しむばかりだ。
「……苦し……」
少しでも呼吸をしようと足掻きながら、苦悶の声を上げるナガヌマ。そんなナガヌマに、キーサは詰め寄る。
「ノボルを泣かすな! ノボルを侮辱するな! たとえナガヌマでも、ノボルをそれ以上傷付ける事は、このあたしが許さない!」
かつて聞いた事が無いほどの切迫した声色でもってそう言うキーサの言葉に、僕もナガヌマも驚愕のあまり二の句が告げない。それは普段の無邪気で天真爛漫なキーサからは想像もつかない程の、怒気に満ち溢れた声であった。
「苦しい……助けて……」
そして顔を真っ赤に紅潮させながら苦しむナガヌマの声に、僕はハッと我に返る。
「キーサ、やめろ! その手を放すんだ!」
僕は大声で命令するが、キーサはそれを敢えて無視し、聞き入れようとはしない。
「キーサ! 手を放せってば!」
ソファから立ち上がった僕はそう言って叫びながらキーサの腕を振り解こうとするも、発砲チタンの骨格に支えられた彼女の腕の力は僕のそれなんかよりも遥かに強く、ビクともしなかった。
「お願いだからもうやめてくれ! キーサ!」
僕が涙ながらに懇願すると、こちらを無視し続けていたキーサがようやく僕を一瞥し、ナガヌマの首を掴み上げていたその手を放す。そしてナガヌマの身体が自由になるまさにその瞬間、キーサは彼女の右の平手を、ナガヌマの左の頬に勢いよく叩き込んでいた。暖房が効いた狭いリビングに、ごきりと言う鈍い打撃音が反響する。
平手打ちと言うよりは掌底打ちに近い一撃を下顎にクリーンヒットさせられたナガヌマは、一瞬意識が飛んだように脱力すると、膝からがくりとその場に崩れ落ちた。そして床に尻餅を突くと、赤く腫れた自身の下顎を手で押さえながら、キーサの顔を見上げたままぽかんと呆けている。だがしかし、どうやら痛みよりも驚愕の方が勝っているらしい彼女の顔には困惑の色が浮かぶばかりで、怒りの様相はまるで見られない。
そして驚愕と困惑に呆けているのは殴られたナガヌマだけでなく、彼女が殴られる様を目の当たりにしたこの僕もまた同様だった。戦闘用のロイド、つまり戦場を闊歩する無人兵器の類ならともかく、家事や介護を目的とした民生用のロイドが故意に人を傷付けるような事は有り得ない筈なのだから、僕らの驚きぶりは当然と言える。勿論アイザック・アシモフのロボット三原則などと言う古典的な倫理観はとっくの昔にナンセンスな戯言となって久しいが、それでも必要の無い暴力が
人間に命令された訳でもないメイドロイドに殴られると言う、倫理的にも論理的にも有り得ない事態に襲われたナガヌマは、状況が理解出来ずに呆けたままその場にへたり込んでいた。そして僕は彼女よりも早く我に返ると、玄関を指差しながら要請する。
「ナガヌマさん、悪いけれど、今日のところはもう帰ってくれないかな。この埋め合わせは、また後日にでも必ず何とかするからさ」
そう言われたナガヌマもまたハッと我に返ると、無言のままリビングのローテーブルの上に置かれていた彼女の白いコートとハンドバッグを掴み取り、そのまま足早に玄関を駆け抜けてから僕の自宅を立ち去って行ってしまった。ナガヌマが玄関へと続く廊下を駆け抜ける際に、僕は顔を伏せながら眼を合わさないようにしていたため、彼女がどのような表情でもってこの狭い賃貸マンションの一室を立ち去ったのかは定かではない。
「……」
僕はリビングの中央で、言葉も無く立ち尽くす。足元には中身が零れ落ちて空になったスパークリングワインのグラスが転がり、空気を読まないローテーブルの上のタブレットPCは、いつまでも陽気なクリスマスソングを空々しく奏で続けていた。すると不意に、そんなクリスマスソングの一つが演奏を終えたかと思えば、ネットラジオ局のスポンサーである政府の広報が流れ始める。つまりそれは国策である人口増加促進法を周知させるためのプロパガンダ動画であり、相変わらずネット上の有名人達が寄り集まって、不自然な笑顔と共に「人口増加促進法にご協力を!」と連呼していた。
「ふざけんな!」
こちらの神経を逆撫でするかのような動画を自動再生するタブレットPCを掴み上げた僕は怒声を上げ、それを頭上に振りかぶって床に叩きつけようとしたが、ぎりぎりのところで思いとどまって手を止める。そして後から後から涙が溢れ出て来る目頭を左手で押さえながらがっくりと肩の力を落とすと、右手に持ったタブレットPCを力無くソファの上に放り投げた。こんな時になっても高価なタブレットPCが勿体無くて感情を爆発させる事すら出来ない自分の甲斐性の無さに、我ながら反吐が出る思いである。
「ノボル、大丈夫?」
泣きながら立ち尽くしたままの僕に、キーサが尋ねた。
「キーサ……キミはどうしてあんな事をしたんだ?」
「ナガヌマが、ノボルを泣かせたから。ノボルを侮辱したから。そんなナガヌマは許せない。だから、殴った」
眉一つ動かさずに淡々とそう言ったキーサを、僕は問い詰める。
「でもキーサ、キミはロイドだ! そのロイドが、なんで主人の命令も無く人を傷付ける事が出来るんだよ! そんな事はあってはならない筈じゃないか!」
僕は声を荒げるが、キーサの淡々とした態度は変わらない。
「主人の命令? キーサは自分の意思で動いているから、そんなものは必要無いよ? それは何か、おかしな事なの?」
「自分の……意思?」
そう呟いた僕の背筋に、何とも言い知れないぞわぞわとした違和感が這い登って来た。人の手によって作られたAIであるキーサの意思とは、一体何を意味しているのだろう。そしてこの時になって初めて僕は、彼女と出会ってからのこの一年半余りの出来事を反芻し、改めて気付いた。僕はこれまでキーサに、一切何も、命令を下した事が無い。勿論日々の生活の中で些細なお願いをしたり、粗相を叱ったりした事は数多くあったが、彼女の行動を根源的に方向付けた上での絶対的な主従関係を強制した事など皆無だったのである。
両手で顔を覆いながらそれらの思いを払拭しようとする僕の背筋と額に、じわりと冷たい汗が滲んだ。これ以上この件に関して踏み込んではならないと、僕の中の本能が警鐘を鳴らす。
「分かった、キーサ。もういい。……でももう、あんな事は二度としないでくれ。ロイドが人を殴るなんて事は、あっちゃいけない事なんだ。だから、お願いだ……」
有機高分子素材で覆われたキーサの瞳を見据えながらそう言って懇願するのが、今の僕に出来る精一杯の悪足掻きだった。そして「少しの間、そっとしておいてくれないか」とキーサに告げた僕は、リビングに彼女を残したまま一人でバスルームに向かうと、脱衣所で全裸になってから熱いシャワーを全身に浴びる。面倒臭かったし時間も無かったのでバスタブに湯を溜めたりはせず、泣いて腫れぼったくなった顔を重点的に、石鹸で何度も繰り返し洗った。
シャワーを浴び終えてバスタオルで身体を拭くと、日中にキーサが洗っておいてくれたふかふかの部屋着と下着に着替え、再びリビングに足を踏み入れる。床に転がっていた筈のグラスとスパークリングワインの瓶、それに濡れていたラグマットは片付けられていたが、ローテーブルの上の食べ掛けのケーキはそのままであった。そして僕と顔を合わせないために寝室にでも引き篭もっているのか、未だにタブレットPCが奏でるクリスマスソングに包まれたリビングに、キーサの姿は無い。
僕はタブレットPCの電源を落とすとソファに腰を下ろし、静寂に包まれた室内で、食べ掛けの二人分のクリスマスケーキをもそもそと食む。ローテーブルの上には、ナガヌマが置き忘れていった『良縁守』のお守りがぽつりと取り残されていた。そのお守りを僕は手に取り、ゴミ箱に投げ捨てようかどうしようか暫し悩んだ末に、いずれナガヌマに返そうと思って再びローテーブルの上に置き直す。
やがて僕は食べ終えたケーキの皿をキッチンの流し台で洗って食器棚に片付け、冷蔵庫の中にあったスパークリングワインの瓶の中身をラッパ飲みで一息に呷ると、小さなげっぷを漏らした。そして再び無人のリビングに取って返し、ソファに腰を下ろして時間を潰す。
すると不意に、リビングから廊下へと続くドアがきいと小さな音を立てて開いた。見るとそこには、やや大振りな紙袋を胸に抱えたキーサがこちらの様子をうかがいつつ、もじもじと居住まいが悪そうに立っている。
「……ノボル、未だ怒ってる?」
小声でおずおずと、キーサが僕に尋ねた。
「大丈夫だよ、キーサ。もう怒ってないよ」
ここでキーサを責めても詮無い事なので、僕は溜息混じりにそう言って彼女を赦す。
「隣、座っていい?」
そう尋ねるキーサに「いいよ、おいで」と返答してやれば、ソファに座る僕の隣に彼女もまた腰を下ろした。そしてこちらに身を寄せて来たキーサの細く華奢な肩を、僕は優しく抱き寄せる。
「ナガヌマを殴って、ごめんなさい」
「いいんだ、もう済んだ事だから。二度とあんな事をしなければ、それでいい」
さすがに反省しているらしいキーサにそう言った僕の胸中は、ややもすれば複雑であった。これ以上彼女を責めるつもりは無いとは言え、一言くらい叱責した方が良いのかもしれない。
「それでね、キーサね、ノボルにクリスマスプレゼントがあるの」
「クリスマスプレゼント?」
問い返す僕の眼前で、キーサは胸に抱えていた紙袋の中から血の様に真っ赤な塊を二つばかり取り出し、微笑む。果たしてその真っ赤な塊とは、賃貸マンションの隣の部屋に住むオオクマから以前貰った毛糸で編まれた、手編みのマフラーであった。どうやらこのマフラーが、罪滅ぼしの意味も兼ねた彼女から僕へのクリスマスプレゼントらしい。
「これを、僕にくれるの?」
「うん、キーサとお揃い! 頑張って編んだの!」
嬉しそうにそう言いながらキーサは僕の首にマフラーを巻き、もう一つのマフラーを自分の首に巻くと、さっきまでの反省し切った態度など嘘の様に至極満足そうであった。そして僕らの首に巻かれたマフラーは、こんな短期間で編み上げたとは思えない、まるで既製品の様な縄編みの立派なマフラーである。
「ありがとう、キーサ。大事にするよ」
「うん、ノボル。メリークリスマス」
「メリークリスマス」
僕らはクリスマスを祝い合い、軽く唇を重ね合った。キーサがナガヌマを殴った件に関して未だ気分は晴れていなかったが、予期せぬクリスマスプレゼントが懐に飛び込んで来た事は純粋に嬉しいし、歓迎すべき事である。
「それとね、それとね、これもキーサからのクリスマスプレゼント!」
キーサはそう言いながら、ソファの上に投げ出されていたタブレットPCを手に取った。そして何がしかの操作を行った後に、その画面を僕の方に向けて微笑む。
「増やしておいたから、使ってね!」
やはり嬉しそうにそう言ったキーサから手渡されたタブレットPCの画面を見つめる僕は、怪訝な表情と共に眉根を寄せた。何故ならそこに映し出されていたのは、僕のオフィシャルアカウントを経由した、銀行の預金口座情報のページだったからである。
どうしてキーサがこのページを閲覧出来ていたのか、その理由が分からずに僕は狼狽した。
基本的に日本国の全ての国民は、ネット上で利用出来るオフィシャルアカウントを戸籍の登録と同時に当局から交付されている。このアカウントからアクセスする事により、僕ら国民は様々な公共サービスの恩恵を受ける事や、各種の公的な手続きの処理を行う事が可能だ。そして銀行口座にアクセスする場合も、最高レベルのセキュリティに守られたこのシステムを経由する事が最も一般的で、広く普遍的な手段である。当然ながら御多分に漏れず、僕も給与の振り込み確認から賃貸マンションの家賃の支払い、更にはクレジットカードを使った通信販売の決済に至るまで、全てこのオフィシャルアカウントを利用していた。つまりそれは、現代社会における自分が自分である事を証明するための、重要な社会インフラの一つである。
そんな重要なアカウントだからこそ、ログインするにはパスワードと共に各種の生体認証が必要な筈なのに、果たしてキーサはどうやって僕のアカウントにログインしたのだろうか。その方法も謎だが、僕の銀行口座をタブレットPCの画面上に表示させた彼女が何を言いたいのか、それもまた謎である。
「!」
その変化に気付くまで、たっぷり五分間ほど掛かった。そして気付いた瞬間、首筋から背中全体に氷水でも流し込まれたかのような悪寒と鳥肌とが全身を襲い、軽い眩暈によって視界が霞む。
僕は貧乏性なので、自分の銀行口座に大体どれ程の残高が残されているのかは常に把握していた。この春に事故死した両親の生命保険金と賠償金、それに慰謝料が入金されて、結構な額が残されている僕の銀行口座。そんな銀行口座の残高の末尾に、見慣れない0が一つ追加されていたのである。つまり、残高の桁が一つ増えているのだ。
「一、十、百、千、万、十万、百万、千万、一億……」
何度も声に出して数え直してみたが、間違い無い。預金残高が、何の前触れも無く、突然十倍に膨れ上がっている。
無駄な贅沢さえしなければ一生働かなくても悠々自適に暮らしていけるだけの金額が、僕の銀行口座には振り込まれていた。いや、違う。正確に言えば、そうではない。どこかから振り込まれた訳ではなく、入金の記録も一切残されていないのに、降って湧いたように金額だけが一桁増えているのだ。つまりこの口座が開設されたその瞬間からこれだけの金額が当たり前のものとして存在していたかのように、過去の記録に至るまで、その全てがごっそりと改竄されていたのである。まるで僕の記憶の方が間違っているのではないかと錯覚するほど完璧に、一切の不審な点も無く、その悪趣味極まりない行為は行われていた。
「キーサ、これって……」
彼女を問い詰めようとした僕は困惑し、言葉に詰まる。そんな僕の眼前のキーサは、まるで褒めてくれと言わんばかりの満面の笑顔でもって、無邪気に微笑んでいた。きっともう僕は、このまま黙って事の成り行きを見守っている訳には行かないのだろう。
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