第十一幕


 第十一幕



 やがて暑苦しいばかりだった盛夏と残暑が過ぎ去り、紅葉の時期もまた過ぎ去って吹く風に冬の気配が忍び寄り始めた頃、僕は文部科学省の新庁舎の自分の職場で業務に励んでいた。そして業務用PCで来期計上する予算の申請書をドラフト保存したところで、隣の席のナガヌマがこちらへと近付いて来て口を開く。

「ノボルさん、ノボルさん」

 堂々と声を掛けて来るのではなく、小声で耳打ちするように僕の名を呼んだ事から、どうやら業務とは直接関係の無いプライベートな用件らしい。

「ん? 何?」

「今度の週末、お暇ですか?」

 やはり、プライベートな用件だった。

「暇ですかって……どうして?」

「実は、観たい映画の上映期間がそろそろ終了してしまうんです。ですから、よろしければその映画を一緒に観に行っていただけないかと思いまして……駄目ですか?」

「ごめん、今度の週末はもう、予定で埋まってるんだ。だから悪いけれど、僕じゃなくて誰か他の人を誘ってよ」

 僕がそう言って誘いを断ると、ナガヌマは不満を露にする。

「そんな、あたしはノボルさんと一緒が良かったんですけど……残念です。もしよろしければ、その予定と言うのを教えていただけませんか?」

「うん、別に隠す事じゃないから構わないけど、キーサのメンテナンスのために銀座のPF社のカスタマーセンターに行かなくちゃならないんだ」

 正直に事情を説明した僕の言葉に、ナガヌマは渋々ながら納得した様子だった。

「そうですか、キーサちゃんのメンテナンスですか、それなら仕方ありませんね。今週は、諦める事にします」

 ナガヌマはそう言うが、簡単には引き下がらない。

「でしたらノボルさん、今度また別の日に、あたしと一緒に遊びに行く事を約束してくださいませんか? そうですね、来月のクリスマスにでも、ノボルさんが住んでいる浅草を案内してください」

「ええ?」

 突然のナガヌマの提案に、僕は驚く。

「もしかして、クリスマスの予定ももう埋まってらっしゃるんですか?」

「いや、別にまだ埋まってはいないけどさ……」

 僕がうろたえていると、いつの間にか背後から接近して来ていたトタニ室長代理が僕とナガヌマの肩を叩いた。

「よう、カワキタ、ナガヌマ、さっきからこそこそと何話してんの?」

「あ、すいませんトタニさん、仕事中に死後は禁物ですよね」

 かしこまる僕に、トタニ室長代理はミントキャンディーの香りをぷんと漂わせながら僕らの行為を容認する。

「ああ、別に構わないって。同じ職場の同僚同士の私語を禁じるなんて時代錯誤な事は言わないから、自由にコミュニケーションを活性化させてくれよ。……それで、何の話をしてたんだ? ん?」

「ノボルさんと、クリスマスに一緒に遊びに行く約束を取り付けようとしてたんです」

 改めて尋ねたトタニ室長代理に、ナガヌマがはきはきと答えた。

「へえ、クリスマスにねえ。お前らも、いつの間にかそこまで進展してたんだなあ」

「進展って……別に僕とナガヌマさんはそんな関係じゃないですよ」

 そう言った僕の肩を、トタニ室長代理は馴れ馴れしく抱く。

「いいからいいから、カワキタもそんなに謙遜するなよ。それで二人は、クリスマスにはどこに遊びに行くんだ? ディズニーランドか? スカイツリーか? それとも、六本木か表参道にでもにイルミネーションを見に行くのか?」

「いえ、ノボルさんに、浅草を案内してもらう予定なんです」

 まるで決定事項の様な口ぶりでもって、ナガヌマが言った。

「浅草とは、渋いな。なんでまた、そんな渋いデートスポットを選んだんだ?」

「ノボルさんはですね、浅草に住んでいるんですよ。ですから、是非とも地元を案内してもらおうと思いまして」

「なるほどねえ、それで浅草か」

 トタニ室長代理は得心するが、僕は未だナガヌマの提案に納得した訳ではない。

「ちょっと待ってくださいよ、僕はクリスマスに浅草を案内するなんて、一言も言ってないんですけど……」

 僕がそう言うと、ナガヌマは唇を尖らせる。

「あら? ノボルさんは、あたしと一緒に遊びに行くのにはご不満ですか?」

「いや、別に不満って訳じゃないけど……」

「だったらいいじゃないか、カワキタ。ナガヌマと一緒に、クリスマスは浅草でデートと洒落込んでやれよ? な?」

 気乗りしない僕の背中をばんばんと叩きながら、トタニ室長代理が囃し立てた。

「それじゃあ、決まりな! カワキタとナガヌマは、クリスマスにデートする事! これは上司であるあたしからの命令だ!」

「参ったなあ……トタニさん、それ一歩間違えたらセクハラかパワハラですよ?」

 溜息混じりにそう言った僕など意に介さず、トタニ室長代理はけらけらと笑っている。そしてナガヌマもまた、トタニ室長代理の理不尽な命令に満足そうだ。

「分かりましたよ、それじゃあクリスマスは予定を空けておきます」

 渋々ながらそう言って命令を承諾すると、僕は再度、深い溜息を吐く。


   ●


 その週末、僕はナガヌマに宣言した通り、銀座に在るPF社のカスタマーセンターの三階の待合室に居た。見るからに豪奢な造りのカスタマーセンターは二十三階建ての高層ビルで、真っ白な壁に囲まれたその内部は、まるで病院さながらの清潔さである。そしてこの待合室でキーサと別れ、彼女がメンテナンスを行う男性スタッフによって上の階に移動させられてから、既に一時間ばかりが経過していた。室内には僕以外にもロイドの修理やメンテナンスに訪れたオーナーが散見され、それぞれが携帯端末を弄ったり昔ながらの紙の本を読んだりしながら時間を潰している。またそれらのオーナーは、やはり高所得者と思しき身なりの良い若者や、介護用のワーカロイドを必要とする老人や障害者が多くを占めていた。

 以前にも述懐したが、ロイドは購入後も絶えず金食い虫であり続ける。つまり定期的な有料のメンテナンス、特にキーサの様な最新鋭のハイエンド機は、外装に施された双方向性触覚センサーの再コーティングが必要不可欠なのだ。

「キーサ、未だかな……」

 待合室に設置された座り心地の良い来賓用のソファに腰を下ろし、無料で提供された本格的なドリップコーヒーを飲みつつ独り言ちると、僕は貧乏ゆすりを繰り返す。スタッフからメンテナンスは一時間ほどで終わると聞かされていたので、そろそろキーサが戻って来てもいい頃だ。彼女と離れ離れになっている事に対してこれほどまでの焦燥感を抱くとは、自分の器の小ささに我ながら辟易する。

 そして暫し携帯端末とにらめっこしながら時間を潰していると、やがて手近なエレベーターの扉が開き、彼女を先導したのと同じ男性スタッフに連れられたキーサが姿を現した。

「ノボル、お待たせ!」

 キーサはそう言いながらこちらに向かって駆け寄って来ると、ソファから腰を上げた僕に抱き付く。どうやら離れ離れになっていた事に気を揉んでいたのは、僕だけではないようだ。

「お帰りキーサ、メンテナンスはどうだった?」

 僕が問うと、再会の喜びを全身で表現するキーサに代わって、彼女を先導していたこのカスタマーセンターの男性スタッフが説明してくれる。

「各種メンテナンスの結果、お客様のnz0093i型の全ての機能に問題が無い事が確認されました。機体外装表面のコート剤も塗り直し終え、こちらも正常に機能するように調整済みです。……ですが、お客様のnz0093i型には当社製の正規品ではないコアユニットが搭載されておりますので、こちらに関しましては我々の保証の対象外になります事を、予めご了承ください」

 男性スタッフは、手にしたタブレットPCを操作しながらそう言った。

「ああ、はい。それは分かっています」

 キーサと抱き合ったままの僕がそう言うと、男性スタッフはタブレットPCの画面をこちらに向ける。

「でしたら、こちらの作業確認書と、メンテナンス料の支払い同意書にサインをお願いいたします。……ありがとうございました。それでは今後も引き続き、当社の製品をお引き立てくださいますよう、何卒よろしくお願い申し上げます」

 僕がタブレットPCの画面上にサインすると、男性スタッフは恭しくも深々と頭を下げた。さすがPF社は世界でも有数の大企業だけあって、末端の社員にまで教育が行き届いている。

「本日は、誠にありがとうございました。またのお越しを、社員一同お待ち申し上げております」

 やはりそう言って深々と頭を下げる男性スタッフに見送られながら、僕とキーサの二人はPF社のカスタマーセンターを後にした。ここから南東の方角、つまり通りを右に曲がれば銀座の街の中心である四丁目交差点だが、今から僕らが向かうべき目的地はそちらではない。四丁目交差点とは逆の方角にそびえ立つ、周辺一帯でも一際眼を引く高層ビルの最上階にテナントとして入居している、以前にもキーサと訪れた事があるシネコンとも呼ばれる複合映画館である。

「ノボル、時間、大丈夫?」

「大丈夫大丈夫。今日はもうチケットも買っておいてあるから、心配しなくても余裕で間に合うって」

 僕は携帯端末で時間を確認しながら、心配性なキーサを嗜めた。さすがにお茶を飲んでいるほどの暇は無いが、上映開始までには未だ充分な余裕がある。今はまだ銀座の街を愛しいキーサと手を繋いで歩く喜びを、しみじみと噛み締めていたい。

 やがて目的地である高層ビルの最上階へとエレベーターで上昇した僕らは、映画館の入り口前に設置された自動発券機に携帯端末のデータを読み込ませて、二人分のチケットを受け取った。前回とは違って今回は早めにチケットを予約しておいたので、二人並びのなかなか良い席の筈である。そしてチケットの一枚をキーサに手渡すと、僕は自分の分のチケットをもぎりの女性スタッフに見せて、これから映画を楽しもうとする観客で賑わう館内ロビーへと足を踏み入れた。しかし僕に続いてキーサがチケットを見せながらもぎりの女性スタッフに近付けば、彼女はキーサの主人である僕に声を掛ける。

「お客様、ロイドのお連れ様に関しましてはチケットは必要ありませんので、こちらで払い戻しをいたします」

 女性スタッフのそれは、まさに予想通りの反応だった。なので僕も、用意しておいた返答で応じる。

「いや、彼女も一緒に映画を観るんで」

 女性スタッフは、数回眼をぱちくりさせてから、素の声で「はい?」と聞き返した。客商売としてはクレームを入れられてもおかしくない不躾な口調だったが、僕の方も「まあそうなるよね」と感じていたので、特に不満は無い。そしてその上で、もう一度改めて言い直す。

「僕の連れのロイドも一緒に映画を観るんで、チケットを買いました。ロビーで待たせたりはしませんので、必要ですよね、チケット?」

「あ、はあ……。はい、それでしたら……はい」

 やや要領を得ない返答ながらも、女性スタッフは僕の言い分を概ね了承した。おそらく彼女は、こんな風変わりな客を相手にするのは初めての経験なのだろう。するとそんな女性スタッフに向けて、キーサは自分が手にしたチケットをどうだと言わんばかりに見せ付けながら、館内ロビーに足を踏み入れた。その顔に勝ち誇ったような笑顔を浮かべ、堂々と胸を張り、まるで自分が荷物ではなく立派な一人のお客様である事を主張するかのような態度である。

 館内ロビーはちょうど前回の上映が終了したところで、劇場から出て来る客とこれから入場するために清掃作業の終了を待つ客とがごちゃごちゃと入り混じり、結構な混雑ぶりであった。だがしかし、今回観に来たのは上映開始から既に一ヶ月近くが経過している期限ぎりぎりの作品なので、前回の様に隣の座席に荷物も置けないほど満席になる事もないだろう。それに座席は全席指定席なので、列を作って入場を待つ必要も無ければ、混雑し過ぎて立ち観による鑑賞を余儀無くされる事もない。

 それにしても、映画館の中で売っているジュースやポップコーンの類は、どうしてこんなにも高いのだろうか。僕の様な倹約生活に励む低所得者にとっては、こう言った嗜好品に掛かる些細な出費の積み重ねが地味に懐に痛い。そんな事を考えながら特に目的も無く館内ロビーの様子をうかがっていると、不意に一組の男女が僕の眼に止まる。いや、正確に言えば一人の男性と、一体の女性型ロイドだ。

 男性の方は結構なご老体で、加齢による後天的なものか先天的な障害なのかは分からないが足腰が悪いらしく、杖を突きながらひょこひょこと危なっかしい足取りでもって歩いている。それ以外に特にこれと言って特徴の無い、ぱっと見たところ温厚そうな小柄な老人だ。そしてそんな老人の脇を支えるように随伴する女性型ロイドは介護用ワーカロイドであり、キーサと頭部の意匠が似ている事から推察するに、おそらくは同じPF社製のロイドなのだろう。

 愛玩用のペットロイドを別にすれば、僕の様に明確な目的も意図も無く、一緒に暮らすパートナーとして人型のロイドを所有しているのはあくまでも少数派だ。少し考えれば当然の事だが、大多数のロイド所有者は、何かしらの仕事をさせるために彼ら彼女らを購入する。疲れを知らず、どんな汚れ仕事でも嫌な顔一つせずにこなしてくれる各種のロイドは、あらゆる分野でもって活躍しながら人手不足を補ってくれるからだ。だからこそ、この杖を突いた老人の様に、自身の介助を目的として介護用ワーカロイドを連れているのが本来の人とロイドの在り方と言える。

「清掃作業が終了いたしました。次回上映のチケットをお持ちのお客様は、只今よりご入場になれます」

 僕も歳を取って身体が不自由になったらキーサに介助してもらう事になるのだろうかなどと考えていると、館内アナウンスが入場を促した。そこで僕は館内ロビーのモニターに映る次回上映作の予告編を眺めていたキーサの手を取ると、劇場内へと足を踏み入れ、チケットに印字された僕らの座席を探す。

「Sの15と16は……ああ、ここか」

 僕は自分の座席を探し出して着席し、その隣にキーサも腰を下ろした。この劇場は、スクリーンに向かってちょうど中央に、階段状の通路が通っている。数日前に余裕を持って座席を予約した僕らは、その通路のすぐ隣に並んで二席、スクリーンを真正面から観れる一番良い席を確保する事が出来た。早起きは三文の徳とも言うように、何事も先んじて行動すれば、必ず報われるのである。ちなみに確保した二席の内で、より中央に近い通路側の席をキーサに譲ってあげた。今日の映画を一番心待ちにしていたのは彼女なのだから、その想いもまた報われるべきだろうと言う僕なりの粋な計らいである。

「ああ、すいませんね。ちょっと前を通してもらえますか?」

 スクリーンに映し出される映画の配給会社の予告CMを眺めていた僕らは、不意に横手から声を掛けられた。そこでそちらの方角に眼を向けると、先程ロビーで見掛けた杖を突いた老人と介護用ワーカロイドが通路に立っているのが眼に留まる。

「あ、どうぞ。ほら、キーサも立って、通してあげて」

 僕とキーサの二人は一旦座席から立ち上がると、杖を突いた老人と彼を脇から支える介護用ワーカロイドとを通してあげた。彼らは立ち上がった僕らの身体と前の座席との狭い隙間を、ぎりぎり掠りながらゆっくりと歩き続ける。そして僕らに向けて軽く会釈しながら無事に通路を渡り終えた老人は、僕の一つ隣の座席に、介護用ワーカロイドに身体を支えてもらいながら腰を下ろした。すると老人はキーサをちらりと一瞥し、尚も僕に声を掛けて来る。

「あなたもロイドを連れておられるんですね。見たところ未だお若いようですが、どこかお身体が悪いんで?」

「いえ、僕はそう言うんじゃないんです。一緒に外出しているだけで、身体が悪い訳じゃないんで……」

「ああ、そうなんですか。いや、しかし、ロイドと言うのは本当に便利なものですね。人と違って文句も言わずに身の回りの世話は何でもしてくれるし、こうして介助もしてくれる。三年前に家内に先立たれてから購入したんですが、もうずっと世話になりっぱなしですよ」

 老人の話は尚も続き、彼に悪気は無いのだろうが、少しばかり困った。せっかくキーサと二人きりでのデートだと言うのに、見ず知らずの老人の世間話に付き合わされるのは、あまり歓迎出来る状況ではない。しかし今座っている座席は指定席なので逃げる訳にもいかず、僕は「はあ、そうですね」などと適当な相槌を打ちながら、話を聞き流す。するとそうこうしている内に、やがて身支度を終えたらしい老人は、自分の介護用ワーカロイドに次の行動を命じる。

「それじゃあ、映画が終わるまではロビーで待っていて、終わったらまた迎えに来てくれるかい? 他のお客さんの邪魔にならないように、劇場内が空いてからでいいからね」

「かしこまりました、旦那様。お待ちしております。ごゆっくりと、映画をお楽しみください」

 命ぜられた介護用ワーカロイドは丁寧に淡々と返答すると、再び僕とキーサの前を通過し、やがて階段状の通路を上って館内ロビーへと姿を消した。

「そろそろ上映時間ですけれど、あなたのロイドも、そろそろロビーで待たせてはいかがですか?」

 僕の隣の座席に腰を下ろした老人の問い掛けに、僕は答える。

「いや、うちのキーサ……彼女も一緒に観るんですよ、映画。そのために、わざわざ彼女の分のチケットも買ったんですから」

「キーサも、映画観るの!」

 嬉々とした表情と口調でもって、キーサがそう言った。そして自慢げに自分の座席指定チケットを見せ付ける彼女を、老人は不思議そうな眼で見つめる。それはちょうど、僕と同じ賃貸マンションの隣の部屋に住むオオクマが、キーサを「ちょっと変わった子」と評した時と同じ眼だ。

「ロイドに映画を……観せるんで?」

「はい、ええ、観せると言うか、自分から観たがるんですよ。うちのキーサ……つまり、うちのロイドは」

「観たがる? ロイドが?」

 老人の問い掛けは、尚も続く。

「いやしかし、観せたところで、どうにもならないでしょう。ロイドはあくまでも只の機械に過ぎないし、作り話ってものが理解出来ないんですからね。むしろ事実ではない情報を必要以上に入力するのは、AIの混乱につながると聞いてますが?」

「え? いや、そんな事は……ありません……よ?」

 どうにも、僕と老人の話が噛み合わない。

「キーサ、映画好きだよ? 家でもたくさん観てるよ? 特に、アクション満載のSF映画が大好き!」

 無邪気に応えるキーサに、老人はますます怪訝な眼を向けていた。

「映画が大好き? たくさん観る? はあ……最近のロイドは随分と高性能になったもんですねえ。好き嫌いを主張するとか、作り話を理解するとか、まるで人間そっくりになってしまって。たった三年前に買ったうちのロイドなんか、全然そんな事は出来やしないのに。当時はそれでも最新型だったんですけど、いやあ、技術の進歩ってのはすごいもんですねえ。ここまで来るともう、機械じゃなくて、立派な生き物ですな」

 老人が感嘆の声を漏らしながら、納得するようにうんうんと頷く。彼の口ぶりは、まるでキーサがロイドではないとでも言いたげだ。そして僕の背中に、何とも言えない不安と混乱が入り混じった冷たい汗がじんわりと滲んだところで上映開始のブザーが劇場内に響き渡り、照明が落ち始める。

「ノボル、映画始まるよ」

「ああ、うん」

 キーサが僕に微笑み掛けるのと同時に、座席の肘掛の上に乗せていた僕の手に自分の手を重ねた。そして僕達は、互いの手をそっと握り合う。照明が落ちて次第に暗くなり行く劇場内で、スクリーンを見つめるキーサの横顔もまた、ゆっくりとその闇に飲まれて行った。大好きな映画が始まるのをわくわくしながら楽しみに待つロイドと言う、そんな在り得ない存在が、僕の隣に座っている。

 暫し逡巡した僕は改めて視線を正面に向けて、スクリーンに集中する事にした。これ以上、この件に関して深く考えるのは止そう。今はただ、こうしてキーサと繋がっていられる幸せを噛み締める事だけを考えていれば良い。そう自分に言い聞かせた僕は、キーサの手をほんの少しだけ強く握った。

 スクリーンには、本編上映開始前の予告編が映し出されている。


   ●


 やがて数時間後、僕らは劇場を後にした。

「映画、面白かったね」

 映画館の館内ロビーに設置されたソファに腰を下ろし、子供の様に無邪気な笑顔でもって語り掛けて来るキーサに、僕は「そうだね」と言って軽く微笑み返しながら首を縦に振る。しかし正直な事を言わせてもらえば、尻と腰が随分と痛かった。それと眼と首も、かなり疲労している。何せキーサのたっての希望に根負けし、結局僕らは映画を二本、ハシゴで観る羽目になってしまったからだ。

 間に休憩を挟んだとは言え、さすがに合計四時間以上にも渡ってじっと座り通しと言うのは、あまり身体によろしくない。特に僕は痩せていてクッションとなる尻の肉が薄いので、尾骶骨に掛かる負担もまた人一倍と言える。疲れ知らずのキーサは長時間同じ姿勢でも全く平気な様子だが、今の僕はどこか、もうちょっとのんびり出来る所でゆったりと休みたかった。

 それに加えて、寒さを感じないキーサは何とも無いようだが、僕の方はと言えばニットのセーターの上から黒いダッフルコートを羽織っただけだと少しばかり肌寒い。もうとっくに陽が落ちている時間帯なのも原因の一つだが、結構な空腹である事実が体温を下げている事も否めないので、何か温かい物を胃に納めたい欲求に駆られる。

「ちょっと休みたいし、それにお腹も空いたし、すぐには帰らないで下でご飯でも食べて行こうか、キーサ?」

 僕はソファに腰を下ろしたままそう言って、キーサに提案した。

「ご飯? ノボル、外食するの?」

「うん、久し振りのデートだし、たまにはいいかなって」

「ノボル、疲れちゃった? お腹空いた? キーサのせい?」

「いやいや、キーサのせいなんかじゃないって。映画のハシゴがちょっときつかったのは確かだけれど、キーサは楽しかったんでしょ? だったら僕の事なんて、気にしないでいいからさ」

 責任を感じているのか、少しばかりしょんぼりと気落ちした様子を見せるキーサの頭を、僕は優しく撫でる。彼女が喜んでくれたのならば、それはそれで僕も嬉しいのは偽らざる本心だ。しかし同時に、僕が随分と疲れてしまっているのもまた厳然たる事実なので、僕らは映画館を後にして休める場所を探す。

 映画館が在るビルの一つ下の階には、レストラン街が広がっていた。つまり映画館と同じように、多くのレストランや喫茶店などが独立したテナントとして入居しているのである。そしてその内の一つの、それほど値段のお高くないステーキハウスに足を踏み入れた僕とキーサは、窓際のテーブル席へと案内された。映画館の座席に比べたらずっとゆったり出来る椅子に座れた僕は、出された冷水を一口飲んで、ようやく人心地付く。

 自分の懐具合と相談しながらメニューを眺め、僕は少しばかり考えあぐねた。既に今日一日で必要とした経費として、二人で二回分、合計四枚の映画のチケット代は決して馬鹿にならない。それに比較的安めの店とは言え、そこは外食である。しかもステーキハウスともなれば、それなりの額面がメニューの一覧に並んでいた。

「まあ、仕方無いか」

 僕はそう独り言ちて、覚悟を決めた。今日はキーサとの二人きりでのデート、つまり特別な晴れの日なのだから、少しぐらいは贅沢をしても許されるだろう。それにもうずっと夕食はレトルトカレーばかりの日々なので、たまには動物性蛋白質をがっつり食べないと却って身体に悪い気もするし、倹約生活の果てに体調を崩してしまって医療費がかさんでは元も子もない。

「映画、どうだった?」

 やがて若いウェイトレスに対して注文を終えた僕は、向かいの席に腰を下ろしたキーサに尋ねた。すると僕の問い掛けに対して待ってましたとばかりに興奮した彼女は、笑顔を浮かべて身を乗り出すと、堰を切ったように話し始める。

「面白かった! やっぱり大きいスクリーンで、大きな音で、こうバーンって、ドーンって、大迫力なのは超楽しい!」

「そうだね、やっぱり大画面はいいよね。うちのタブレットPCの小さな画面じゃ、迫力無いからなあ」

「でもちょっと、後に観た方は脚本がいまいちだったかな。最後のオチがあれは、ちょっと分かり難かったし。やっぱり、最初に観た方が面白かったな」

 映画の脚本に駄目出しをすると同時に、その出来の良し悪しをいつまでも熱く語り続けるキーサ。抽象的な表現でもって自分の胸の内を吐露する彼女の口調は、確かにAIによるそれとは思えない。そして僕は、劇場内で隣の席に座った老人の言葉を思い出して、これまで努めて考えないようにしていた思いに囚われて背筋にゾッと悪寒を走らせた。決して空調のせいでもなければ僕の服装や体調のせいでもない、正真正銘の悪寒である。

「お待たせいたしました、こちら、リブロースステーキセットになります。コーヒーとデザートは食後にお持ちいたしますので、食事がお済みになりましたらお声をお掛けください」

 そう言いながら、若いウェイトレスが熱い鉄板の上に乗せられた料理をテーブルの上に並べた。

 久し振りに食べる肉の塊、つまりじゅうじゅうと脂の焼ける音を奏でるステーキを、僕はナイフで一口大に切り落としながら口へと運ぶ。醤油ベースの和風ソースと塩コショウが溶けた脂質と混ざり合い、得も言われぬ旨味が口腔内に花を咲かせ、肉を噛み締める度に自然と僕の顔もほころばざるを得ない。するとそんな僕の顔を、キーサは正面から興味深げにジッと凝視していた。

「ノボル、美味しい?」

「うん、美味しいよ。久し振りだよね、ステーキなんてさ」

 いくら最新鋭のハイエンド機種であっても、さすがに一介のロイドに過ぎないキーサは、人間の様に有機物を酵素分解してエネルギーに変換する機能は有していない。だからこそ彼女は、僕が食事を摂る様子を、いつも知的好奇心を剥き出しにした熱い視線でもって観察する。

「ねえノボル、ノボルが言う『美味しい』って、どんな気持ち?」

「どんな気持ちか……。言葉では、上手く説明出来ないなあ……」

「じゃあさ、じゃあさ、美味しいのと美味しくないの、何が違うの?」

 感覚的な快楽をどうすれば言葉で上手く説明する事が出来るのだろうかと、僕は少しばかり困ってしまった。だがそれでも知りたがるキーサの物言わぬ瞳に、僕は出来うる限りの言葉を持って表現する。

「こう言う表現が正しいのかどうか良く分からないけれど、嬉しい……に近い感覚かな。舌が喜んで、脳が喜んで、心が満たされる感じ。嬉しくて、もっともっと食べたくなる感覚かな」

「嬉しい? 美味しいは、嬉しいの? 嬉しいなら、キーサも少しは分かる!」

 僕の拙い語彙だけで上手く伝えられる自信は無かったが、それでも多少は、キーサにも美味しいと言う感覚を伝える事が出来たようだ。そこで少しばかり安堵した僕は、ステーキを口に運ぶ手の動きと、顎を上下させてむしゃむしゃと肉を咀嚼する事に一心不乱に注力する。そして暫しの間、滋養と栄養に満ち溢れた動物性蛋白質の摂取に心奪われていたが、ふとキーサの反応が途絶えた事に気が付いて顔を上げると、彼女はあらぬ方向を凝視していた。

 窓際に設置されたステーキハウスのテーブル席に僕と向かい合って腰掛けるキーサは、物憂げな表情でもって、テーブルの横手の窓の向こうをジッと眺めている。彼女の真剣で、それでいてどこか物憂げな眼差しが気になった僕もまた、その視線の先を追って窓の外を眺めた。するとそこには、巨大な光のドーナツが暗闇の中に浮かび上がっているのが眼に留まる。つまりそれは高層ビルから見下ろす、かつて皇居と呼ばれ、十八年前までは国防軍の中枢部が置かれていた東京の中心部を取り囲む、直径二㎞ばかりの『柵』だった。その『柵』が今、侵入者を阻むために設置されたアークライトの光によって闇夜に浮かび上がる光のドーナツとなっているのである。

 こんな時間でも占領軍の警備用ガードロイドや軍用車輌が監視を続けているのか、車のヘッドライトらしき光が幾つか、ぐるぐると『柵』の周囲を巡回しているのが遠目からでも見て取れた。その時間の止まった光の輪の中心部を、キーサはただ黙ってジッと見つめている。

「キーサ……?」

 僕は恐る恐る、キーサの名を呼んだ。すると彼女は窓の外に視線を固定したまま、ゆっくりと口を開く。

「ねえ、ノボル。ノボルは、嬉しいのが好き? 幸せなのが、好き?」

「え? ああ、うん。勿論、嬉しいのも幸せなのも好きだよ? 誰だって、嫌いな訳がないじゃないか」

「たとえそれが、強制されたものでも?」

 僕は咀嚼していた肉をごくりと飲み下すのと同時に、何と返答していいのか分からずに言葉に詰まり、キーサとの間に距離を感じた。それも物理的にではない、精神的な距離をである。果たしてAIに制御されたロイドとの間に精神的な距離を感じるなどと言う事が、有り得るのだろうか。

「ねえ、ノボル」

 キーサの問い掛けは、尚も続く。

「嬉しいって、何だろうね? 幸せって、何だろうね?」

 何故かその問い掛けに、僕は背筋に再びゾッと悪寒を走らせた。窓から見下ろす『柵』の輝きをジッと凝視し続けるキーサを前にして、僕はもう、口の中の肉の味もよく分からない。しかしそれでも、僕はステーキを咀嚼し続ける。

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