第九幕


 第九幕



 キーサに新たな身体を与えてから数週間が経過し、吹く風にも夏の匂いが混じり始めた頃、僕は文部科学省の自分の職場で黙々と働いていた。今日は金曜日、つまり明日から二日間の週末は自宅でゆっくり休めると思うと、キーボードを叩く手にも力が入って自然と気が逸る。

「ノボルさん、ちょっとよろしいですか?」

 隣の席のナガヌマが、僕に声を掛けた。

「ん? 何?」

「昨日お話した来期の予算の申請書を、たった今、トタニさんに宛てて送付しました。それでCc《カーボンコピー》にノボルさんも加えておいたので、内容に齟齬が無いかどうか、出来ましたら確認お願いします」

「うん、分かった。確認しておくよ」

 僕はナガヌマに報告された通り、彼女がトタニ室長代理に宛てた申請書を自分の業務用PCで確認していると、件のトタニ室長代理本人が背後から忍び寄って来て僕の肩を叩く。

「よお、カワキタ。どうだ、仕事の方は? 順調?」

 そう言ったトタニ室長代理の周囲には、相変わらずぷんとミントキャンディーの香りが漂っていた。

「ええ、順調ですよ。とりあえず今日の分の仕事は、定時までに終わらせますから」

「そうか、それなら安心だ。それにカワキタ、見たところお前、最近になってだいぶ顔色が良くなって来たな。親御さんは残念だったが、お前もちょっと前まではまるで死人みたいな顔色だったし、あたし達も心配してたんだぞ?」

「はあ……それはどうも、ご心配をお掛けしてすみません」

「なあに、謝る必要は無いって。お前が元気になってくれて、あたし達も安心してるんだからな」

 トタニ室長代理はそう言って、嬉しそうに笑う。確かに両親と死別したばかりの春先の頃に比べたら、今の僕は心身ともに随分と快復し、血色も良くなっているに違いない。

「そうですよ、ノボルさんが元気になってくれなくちゃ、あたしも心配で心配で仕事が手につかなかったんですから」

 可愛らしく微笑みながらそう言ったのは、隣の席のナガヌマだった。するとトタニ室長代理が「いや、それは関係無いだろ」と言って、からかうようにくすくすと笑う。

「それじゃあ、カワキタが元気になったのを祝して、今日は仕事を終えた後にでも皆でどっかに飲みに行くか? ん?」

「いや、それはちょっと……遠慮させてください」

 少しばかり芝居がかった仕草と口調でもって、僕はトタニ室長代理の誘いを断った。

「そうか……。まあ、親御さんの件で暫くは喪に服すべきなのかもしれないからな。お前が元気になって来たからと言って、調子に乗って無理にでもはしゃごうとするのは、あたしもちょっと性急に過ぎたのかもしれん。すまん、カワキタ。今のあたしの言葉は無かったものとして、忘れてくれ」

「そんな、別にいいですよ。気にしてませんから」

 かしこまりながら頭を下げるトタニ室長代理にそう言うと、僕は自分の業務用PCに向き直り、業務を再開する。そして気付けば終業時間を迎え、退庁の打刻を終えた僕は「お先に失礼します」とだけ言い残し、そそくさと職場を後にした。文部科学省の新庁舎から霞ヶ関駅へと向かう僕の足取りは軽く、少しだけ浮き足立っている。


   ●


 通い慣れた言問い通りを東の方角へと歩き続け、やがて僕は浅草の自宅に帰還した。

「ただいま」

 インターホンを鳴らしてドアを開けると、待っていましたとばかりにキーサが出迎えてくれる。

「ノボル、お帰りなさい」

 賃貸マンションの狭い玄関で、僕とキーサの二人は抱き合った。

「すぐに、ご飯にする? それとも、先にお風呂に入る?」

「そうだね、ご飯にしようかな。それじゃあ着替えて来るから、リビングで待っててよ」

「うん、分かった。キーサ、待ってる」

 そう言ってキーサはリビングと一続きになったキッチンへと向かい、僕は寝室でスーツから部屋着に着替える。今の彼女の身体はカーボン樹脂製の外装の表面に塗布された特殊なコーティング剤が常に帯電しており、それが電荷の変異をモニターする事によって、外部からの熱や圧力をまるで人間の皮膚感覚の様に感知する事が可能だ。つまり、いわゆる双方向性触覚センサーと言う奴である。

 この最新鋭かつ高精度な知覚機能により、今のキーサの挙動は、以前とは比べ物にならないほど繊細で人間臭いものとなった。力の加減を覚えたおかげで柔らかい物でも握り潰さずに掴めるようになったし、壁や柱にぶつかる事も無く、滑らかに室内を移動出来る。触覚センサーの類が一切搭載されていない清掃用ワーカロイドの頭部や、傾きを感知するだけの歩行戦車ウォーカータンクの試作模型を流用した胴体に縛られていた頃の彼女の面影は、まるで無い。

 今も記念としてリビングのキャビネットの上に飾られている、古いキーサの身体。それをよく見ると、頭部も胴体も外装の至る所がぼろぼろになって塗装が剥げ、この一年足らずですっかり劣化してしまっていた。特に戸外への外出を繰り返した事によって、脚部の先端部分が随分と削れてしまっており、遅かれ早かれ新しい身体への換装は必要だったのだろう。

「ノボル、ご飯出来たよ。早く食べて」

「ああ、うん。ちょっと待って」

 暫し感慨に耽っていた僕は、キーサの呼ぶ声に返事をした。そしてキャビネットの上に飾られた六本脚のロイドもどきから、今の彼女が待つリビングのソファとローテーブルへと視線を移す。

 器用な手先と皮膚感覚を手に入れたキーサは、メイドロイドの本領発揮とばかりに、今では家事全般をてきぱきとこなしてくれていた。僕の居ない昼間の内に掃除と洗濯を済ませ、帰宅すればこうして晩御飯も用意してくれるし、人間に使役される事に対して文句一つ言わない。それに今の彼女は光学分析を応用した味覚センサーによって、誰が食べても感嘆の声を漏らすほどの美味しい料理を作ってみせる事も出来るだろう。

 だがしかし、その味覚センサーの出番は、今夜も無かった。何せローテーブルの上に並べられた晩飯は、今夜も定番のレトルトカレーだったからである。

「いただきます」

 高価なメイドロイドの素体を、それも新品を即金一括払いで買えた今の僕には、以前ほどの倹約生活に励むだけの理由は無くなった。とは言え、ロイドは高性能になればなるほど、購入後も金食い虫として所有者の財布を蝕み続ける。つまりキーサの新たな身体は約半年毎に外装のコーティング剤を塗布し直さなければならないがために、その維持費をこれ以上両親の生命保険金から捻出させたくない僕の夕餉は、今日も安価なレトルトカレーであり続けるのだ。

 そしてそんなレトルトカレーの調理中に彼女の双方向性触覚センサーが感知した事と言えば、せいぜい湯煎されたカレーが熱過ぎて、僕が舌を火傷しないかどうか心配した事ぐらいだろう。しかしこのままではあまりにも宝の持ち腐れなので、もう少し経済的に余裕が出来たならば、その炊事能力にも腕をふるってもらう事も考えなければならない。

「ノボル、美味しい?」

「え? ああ、うん、美味しいよ」

 こちらをジッと見つめるキーサの問いに、僕はレトルトカレーを咀嚼しながら答えた。誰がどう作っても同じ味にしかならないレトルトカレーを、敢えて美味しいと評価するのも何だか間抜けな気がしたが、それ以外に答えようが無い。ロイドである彼女は有機物を摂取して栄養を得る必要が無いので、自宅での食事の際には、いつもこうして食卓に向かう僕を興味深げに見つめている。センサーによって数値的に味を分析する事は出来ても、満腹や空腹と言った身体的な感覚を持たないキーサにとっては、きっと人間の摂食行動もまた興味の対象なのだと思われた。

「美味しいんだ、良かった」

 たとえそれがレトルトカレーであったとしても、自分が作った料理を美味しいと言われた事が嬉しかったのか、キーサはその愛らしい眼を細めながら満面の笑みを浮かべる。そしてそんな彼女の表情もまた、この数週間ばかりで随分と豊かになった。初めの頃は取って付けたようにぎこちなかったテンプレートの笑顔も、今では生身の人間と比較しても過不足無いまでに自然な仕草となって、僕の眼を楽しませてくれる。

 勿論、彼女が見せるのは笑顔ばかりではない。いくらロイドだからと言っても、常ににこにこと笑ってばかりではないのだ。つまり何か失敗をすれば悔しそうに眉根を寄せるし、僕が粗相をすれば不満を滲ませた表情を浮かべ、キーサはその胸の内を露にする。特に僕が居ない時に勝手に外出してはならないと言い聞かせた際には大いに不満を漏らし、最終的には説き伏せたものの、まるで幼い子供の様に唇を尖らせて憤慨していた。

「ねえ、キーサ」

「何、ノボル?」

 ごくんとレトルトカレーを嚥下し、僕は尋ねる。

「今日ね、トタニさんに言われたんだ。最近の僕は、だいぶ顔色が良くなったって。キーサもそう思う?」

「うん、キーサもそう思う。ノボル、前よりもずっとずっと顔色が良くなったよ。それに、少しだけ太ったんじゃないかな? ノボルは元からちょっと痩せ気味だから、もっともっと一杯食べて、太らなくっちゃ」

「太るのは困るなあ」

 体重が増加した件を指摘された僕はそう言って、自嘲気味に笑った。するとキーサは、大真面目な表情と口調でもって言う。

「でも、人間は幸せになると太るんでしょ? だったら今のノボルは幸せなんだから、もっともっと太らなくっちゃ。……それとも、ノボルは幸せじゃないの?」

「幸せになると太るって……幸せ太りの事? まあ、確かに最近の僕はちょっと太ったけど、それは未だ寒かった頃に落ちた体重が元に戻っただけだしなあ。自分が幸せかどうかなんて、よく分からないよ」

「そっか……ノボルは幸せじゃないのか……」

 僕の隣に腰を下ろしたキーサは意味深にそう言って、何故だか少しだけ遠い眼をした。勿論、ロイドである彼女にそんな機能が搭載されているかどうかは不明なので、単に僕の気のせいなのかもしれない。

「ごちそうさま」

 やがてレトルトカレーを食べ終えると、汚れた皿とスプーンをキーサが片付け、キッチンの流し台でもって率先して洗ってくれる。彼女の新しい身体は家事全般から老人介護までの多岐に渡る用途が想定されているので、内部から常に加圧する事により、二十気圧までなら水中でも行動が可能な防水性を備えていた。つまり、少しくらい水に濡れても何の問題も無い。

「ノボル、コーヒー飲む?」

「うん、飲もうかな」

 キッチンに立つキーサが尋ねたので、僕は彼女の好意に甘える事にした。

「砂糖と牛乳は、いつも通りの量でいい?」

「うん」

 食後に砂糖と牛乳たっぷりのコーヒーをマグカップ一杯分だけ飲むのが、僕の永年の習慣である。それを熟知しているキーサは、今夜もまたこうしてコーヒーを淹れてくれるのだ。まあ、淹れてくれるとは言っても安いインスタントコーヒーをお湯で溶いただけなのだが、その点には僕もあまりこだわってはいない。

 すると不意に、キッチンのキーサが「あ」と小さな声を上げた。見れば彼女はコーヒーが注がれたマグカップを片手に、もう一方の手で牛乳のパックを振りながらこちらを見ている。

「どうしたの?」

「ノボル、牛乳が無くなった」

 どうやら、買い置きの牛乳を使い果たしてしまったらしい。

「そうか……それじゃあ、ちょうどいいし今から買いに行こうか」

「今から? お出掛けするの?」

 外出好きのキーサが、眼を輝かせた。

「まあ、お出掛けと言えばお出掛けかな。ちょっとそこのスーパーまで行って、牛乳を買って来るだけだけれどね」

 僕はそう言うと寝室に足を向け、部屋着から外出着へと着替える。するとキーサはその間も、まるで小躍りしそうなほど喜びながら、僕が着替え終わるのは今か今かと玄関で待ち侘びていた。どうやら僕の不在時の勝手な外出を禁じられている彼女は、降って湧いたようなこの機会を逃すまいと必死らしい。

「お待たせ。それじゃあ行こうか」

 そう言った僕はキーサを連れて、賃貸マンションを後にした。未だ初夏と言うには少し早いが、やはり戸外の空気には夏の匂いが混じりつつある。そして二人並んで五分ばかりも夜道を歩いた後に、やがて僕らは国際通り沿いに建つスーパーマーケットに足を踏み入れた。平日の閉店間際の店内は地元民や観光客でもってそこそこに混雑しており、この時間帯にしては活気に溢れている。

「牛乳以外にも、何か買って帰ろうか」

 買い物籠に牛乳のパックを三本ばかり放り込んだ僕とキーサは、店内をうろうろと歩き回り、商品棚を物色し始めた。すると色とりどりのパッケージやポップで飾られたジュース類を楽しそうに眺めていたキーサが、思い出したように提案する。

「そうだ、ノボル、カレーがもう残り少なかったよ。カレー、買わない?」

「ああ、そう言えばそうだっけ。それは絶対に買っておかなくちゃな」

 キーサに言われて思い出したが、確かに買い置きのレトルトカレーの残りが少なくなっていた。そこで彼女と共にエスカレーターに乗り、スーパーマーケットの二階に到着すると、さっそくレトルト食品売り場に足を向ける。すると運良く、僕がいつも買っているブランドのカレーが特売中であった。

「ノボル、特売だって。カレー、安いよ」

「ああ、そうだね。買いに来てちょうど良かった」

 そう言って喜ぶ僕の顔を、キーサはジッと覗き込む。

「ノボル、嬉しい?」

「え? ああ、うん、嬉しいけど……それがどうかした?」

「幸せ?」

「いや、幸せかって言われると……そこまで大袈裟な話じゃないかな。まあ勿論、カレーは安いに越した事はないけどさ」

「そっか」

 会話は、そこで途切れた。そしてキーサは小首を傾げ、暫し考えあぐねる。彼女が何を聞きたかったのか、また何を知りたかったのか、その真意が僕には今一つ汲み取れない。

「カレー、どれ買う?」

 四種類の特売のレトルトカレーを前にして、改めてキーサが尋ねた。どれも同じブランドの味違いのカレーなので、値段は同じである。

「キーサが選んでよ。安ければ僕はどれでもいいからさ」

「それじゃあ、これとこれにしようよ」

 そう言って、キーサは買い物籠に次々とレトルトカレーを放り込んだ。そして色々な味をまとめ買いし、僕らはレジで会計を済ませると、両手に買い物袋を抱えながらスーパーマーケットを後にする。最初は牛乳だけを買いに来たつもりが、最終的には結構な大荷物になってしまった。個々の商品は安くとも、合計すると結構な出費になる。

「これで暫くはカレーに困らないね、ノボル」

「うん、そうだね」

 とりとめもない会話を繰り返しながら僕とキーサの二人は来た道を引き返し、やがて賃貸マンションへと辿り着いてエントランスに足を踏み入れると、そこには車椅子に乗った老婆の姿があった。つまり隣の部屋に住む、脚が不自由な身体障害者のオオクマである。

「あらカワキタさん、こんばんは」

「こんばんは、オオクマさん」

 エレベーターの到着を待ちながら、僕らは挨拶を交わした。するとオオクマの乗る車椅子を押している介護用ワーカロイドのココも、僕に「こんばんは、カワキタ様」と言って軽く会釈する。

「オオクマ、ココ、こんばんは」

 僕を真似るように、キーサもまた挨拶の言葉を口にした。初対面ではないとは言え、年長者であるオオクマをいきなり呼び捨てにするとは、少し行儀が悪い。

「あら、こんばんは。……カワキタさん、このロイドはどなた? この子もあなたのロイド?」

「えっと、こいつはオオクマさんも以前お会いした事がある、僕のロイドのキーサです」

 僕がそう言うと、オオクマは驚く。

「この子、キーサちゃんなの? あらあらあら、見違えちゃったわねえ」

「ええ、コアユニットだけ残して、他を全部買い換えたんです。だから外見は全然別物ですけど、中身は以前と同じキーサですよ」

「そうなのそうなの、本当に見違えちゃったわねえ」

 オオクマが感嘆の言葉を漏らしていると、ちょうどそこにエレベーターが到着した。そこで僕ら四人、つまり人間二人とロイド二体はそのエレベーターに乗り込み、やがて賃貸マンションの八階でぞろぞろと連れ立って降りる。

「カワキタさん、もし良かったら、うちに寄って行ってお茶でもいかがかしら? せっかくキーサちゃんがこんなに綺麗になったんだから、それをお祝いさせてちょうだい」

 賃貸マンションの廊下で、オオクマが僕とキーサをお茶に誘った。

「そんな、悪いですよ」

 僕は遠慮するが、キーサは乗り気である。

「ノボル、キーサはオオクマのうちに寄りたい。駄目?」

「駄目って訳じゃないけど……いきなりお邪魔しちゃ迷惑じゃないのかなあ」

「いえいえ、少しも迷惑なんかじゃありませんって。キーサちゃんもああ言ってるんですし、カワキタさんも寄って行きなさいよ。ね?」

「参ったなあ……」

 キーサとオオクマの二人に強引に押し切られる恰好で、僕らはオオクマの部屋に寄って行く事になってしまった。そして以前一度だけ足を踏み入れた事がある隣の部屋に再び入室すると、僕の部屋とは壁を挟んで線対称の構造になっているリビングの敷居をまたぎ、彼女らと共にテーブルに着く。

「前にカワキタさんとキーサちゃんがうちに来たのは、確か今年のお正月だったかしら? だとしたら、あれももう半年も前の事なのねえ。あの頃は凍えるように寒かったのに、もうすぐクーラーが必要なくらい暑い季節になっちゃったんだから、歳を取ると時間が経つのが本当に早くって嫌になっちゃう」

 少しばかり自嘲気味に笑いながらそう言ったオオクマは、介護用ワーカロイドであるココに「あたしとカワキタさんの二人分、お茶とケーキを用意してちょうだい」と命じた。すると従順なココは文句一つ言わずにお茶を淹れ、冷蔵庫から取り出したケーキを二つ、皿に乗せてテーブルの上に並べる。

「それじゃあ、生まれ変わったキーサちゃんをお祝いしましょうね。おめでとう、キーサちゃん」

「ありがとう! キーサ、嬉しい!」

 オオクマに祝福されたキーサが、満面の笑顔と共に嬉しそうに感謝の言葉を述べた。そこで僕もまた「おめでとう、キーサ」と言って、ココが淹れてくれたお茶を飲んでケーキを食む。

「ノボル、ケーキ美味しい?」

 興味深げに、キーサが尋ねた。

「うん、美味しいよ。そう言えば、ケーキを食べるなんて随分と久し振りの事なんじゃないかな」

 僕がそう言うと、オオクマが訝しむ。

「あら、ケーキは苦手だったかしら?」

「いえ、そうじゃなくて、男の一人暮らしだと甘い物なんて滅多に食べませんから、久し振りだっただけです。ケーキ自体は好きですよ」

「ああ良かった。だったら安心ね。てっきり、甘い物は苦手な人が無理して食べてるのかと思っちゃった」

 そう言って、オオクマは安堵した。すると不意に、キーサがスーパーマーケットの買い物袋をテーブルの上に乗せながら言う。

「ノボルはね、辛い物が好きなの。今日も、こんなにカレーを買ったんだから」

 キーサがテーブルの上に乗せた買い物袋の中には、さっき買ったばかりのレトルトカレーがぎっしりと詰まっていた。

「あらまあ、こんなにカレーばっかり。駄目よ、カワキタさん。若い人はもっとちゃんとした、栄養のある物を食べなくっちゃ」

「すいません、その、安いものでついつい……」

 年長者であるオオクマに諭された僕は、思わず肩をすぼめて恐縮してしまう。そして余計な事をしてくれたキーサを軽く睨むが、彼女は僕の視線に気付く事も無く、悪びれた様子もまるで無い。そしてそんなキーサの興味が、次はテーブルの上に置かれた籐で編まれた籠に移った。

「オオクマ、編み物、未だやってるの?」

 正月に訪れた時と同様、その籠の中には編み棒と毛糸玉、そして編み掛けのニットのマフラーだかセーターだかが無造作に詰め込まれている。

「ええ、勿論。編み物は生涯の趣味にするつもりだもの。……そう言えば以前うちに寄って行った時に、キーサちゃんは編み物に興味を示していたんじゃなかったかしら? もしかして、未だ編み物をやってみたい?」

「うん! キーサ、編み物がしたい!」

 オオクマの問いに、キーサが嬉々として答えた。どうやら彼女は未だ、編み物に対する興味を失ってはいないらしい。

「そうなの、それだったらこれをプレゼントするから、おうちに帰ってから練習してみるといいんじゃないかしら」

 そう言ったオオクマは、テーブルの脇のマガジンラックから一組の編み棒と一冊の古めかしい本を取り出した。今時珍しい紙の本の表紙には、レトロな書体でもって『手編みの手引き』と書かれている。

「これはねえ、あたしが編み物を始めたばかりの頃に買った本なの。一応は入門書なんだけれど、一通りのニット製品の編み方が載っているから、初心者だけでなく上級者にも参考になるとっても便利な本なんだから」

「ありがとう!」

 キーサは編み棒と教本を受け取ると、歓喜の声を上げた。するとそんな彼女を慈しむような眼で見ていたオオクマが、今度は大きな紙袋を手に取る。

「それじゃあ、これもプレゼント。好きな色を選んでね」

 紙袋の中には、色とりどりの毛糸玉がいくつも放り込まれていた。どうやらこの中から、キーサが気に入った色を選べと言う事らしい。

「えっとね、えっとね、これ! これにする!」

 果たしてキーサが選んだのは、やや濃い目の赤色の毛糸玉だった。少し例えは悪いが、まるで血の様な色である。

「あら、いい色を選んだわねえ。どうしてキーサちゃんは、その色を選んだの?」

「この色、きっとノボルに似合うから! 絶対絶対、ノボルに似合うから! それにキーサ、この色が好き!」

 キーサはそう言って、勝ち誇ったように胸を張った。するとそんな彼女の姿を、オオクマはまじまじと見つめる。

「ねえカワキタさん、やっぱりキーサちゃんは、ちょっと変わった子ねえ」

「そうなんですか?」

「ええ、そうよ。ロイドが命令されてもいないのに自分の好みを主張するなんて、とっても珍しい事なんですから。カワキタさんも、そこら辺はもっと自覚的にならなくちゃ」

 諭すようにそう言ったオオクマと僕は、やがてお茶とケーキの残りを全て平らげた。そしてとりとめの無い雑談を交わし合った後に、僕とキーサの二人はオオクマの部屋を後にする。

「それじゃあオオクマさん、お休みなさい。お茶とケーキ、ごちそうさまでした」

「お休み、オオクマ、ココ」

 別れの挨拶の言葉を口にした僕らが賃貸マンションの廊下に出ると、ココが押す車椅子に乗ったままのオオクマが「お休みなさい。また寄って行ってね」と言いながら玄関まで見送りに出てくれた。そして同じ賃貸マンションのすぐ隣の部屋である自宅に帰還すると、僕とキーサは買って来た牛乳やレトルトカレーをキッチンの冷蔵庫と戸棚に仕舞ってから人心地つく。

「ああ、もうこんな時間だ。思ってたより長居しちゃったな」

 ポケットから取り出した携帯端末で現在の時刻を確認してみれば、既に夜の十時を回っていた。そこで僕は、リビングのソファに腰を下ろし、ローテーブルの上に貰った編み棒と毛糸玉と教本を並べて満足げなキーサに言う。

「キーサ、僕はお風呂に入って来るから」

「お風呂? じゃあキーサ、すぐにお風呂を洗うね」

「いや、今日は洗わなくていいよ。今からお湯を張ってたら遅くなるし、シャワーで済ませるからさ」

 立ち上がろうとしたキーサにそう言った僕は、寝間着を兼ねた部屋着、それに替えの下着を手にしたままバスルームに向かった。そして脱衣所で外出着を脱いで全裸になると、給湯器の電源を入れてから浴室でシャワーを浴びる。熱いシャワーが全身の汗と汚れを疲労と共に洗い流し、思わず歓喜の声が漏れるほど心地良い。

「お待たせ、キーサ。何してるの?」

 シャワーを浴び終えた僕は部屋着に着替えるとリビングに向かい、ソファに座るキーサの隣に腰を下ろした。するとキーサは赤い毛糸玉を手にしながら、嬉しそうに宣言する。

「キーサね、編み物するの! たくさんたくさん、編み物するの! まずは、何を編もうかな。マフラーとセーター、どっちがいいと思う?」

「そうだね、キーサの好きな方を編めばいいんじゃないかな。きっとキーサにはどちらも似合うよ」

「うん、きっとキーサに似合う! それに、ノボルのためにも編むの! そのためにわざわざ、ノボルに似合う色を選んだんだから!」

 そう言うキーサの肩を、僕はそっと抱き寄せた。僕のために編み物に挑戦しようと言ってくれる彼女の献身的な姿勢が、女性に優しくされた経験が殆ど無い僕には愛おしくて堪らない。そして六本脚の古い身体だった頃からの習慣で、キーサは僕の膝を枕にしてころりと横になり、僕はそんな彼女の頭を優しく撫でる。

 キーサと戯れながら、僕はローテーブルの上に置かれていたタブレットPCを手に取った。そして時間を潰すための手慰みとしてニュースサイトを閲覧していると、国策である人口増加促進法を周知させるためのプロパガンダ動画が自動再生される。ネット上でも有名な芸能人達が不自然な笑顔と共に「人口増加促進法にご協力を!」と連呼する、例の見るからに胡散臭い動画だ。つまりそれはニュースサイトのスポンサーである政府の広報なのだが、そんな動画は僕には何の関係も無い事なので、さっさとスキップさせて相手にしない。

「そろそろ、寝ようか」

 やがて日付が変わる頃にタブレットPCの電源を落とした僕がそう言うと、キーサは膝枕の状態から頭を上げて半身を起こした。

「ノボル、もう寝るの?」

「うん。今日も仕事で疲れたし、もう眠いんだ。それじゃあ歯を磨いて来るから、キーサは先に寝室で待っててね」

「うん、キーサ、待ってる」

 寝室へと向かうキーサの背中を横眼に、僕は再びバスルームに赴くと、洗面台で歯を磨く。そしてトイレで就寝前の小便も済ませて寝室に足を踏み入れれば、キーサがベッドの脇に腰を下ろして僕の到着を待ち侘びていた。狭い寝室に置かれた小さなシングルベッドでは二人で同衾出来ないので、少しばかり可哀想だが、ロイドである彼女には床に座ったまま夜を明かしてもらう事にしている。勿論ベッドの脇ではなく、リビングのソファで眠りに就いてもらっても構わないのだが、そこは少しでもキーサに傍に居てほしいと願う僕の我侭だ。

「ノボル、今、幸せ?」

 ベッドに横になった僕にキーサが問い掛けて来たので、僕は少しだけどきりとする。

「うん、幸せだよ」

「そう、良かった。ノボルが幸せなら、キーサも幸せ」

 そう言ったキーサと僕は、唇を重ね合った。AIに制御された機械に過ぎないロイドと唇を重ねるだなんて随分と倒錯した趣味だと笑われるかもしれないが、キーサが新たな身体を手に入れたその日にファーストキスを終えた今の僕にとっては、彼女とのキスに対するハードルは低い。

「お休み、キーサ」

「お休みなさい、ノボル」

 僕はベッドのヘッドボード上に置かれたリモコンを操作して、照明を落とす。暗闇に包まれた寝室のベッドの上で、瞬時に待機状態スリープモードに移行したキーサの安らかな寝顔を暫く見つめてから、僕は眼を閉じた。きっと今夜の僕とキーサは、夢の中でも幸せな時間を過ごす事だろう。

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