第八幕


 第八幕



 宅配業者によって自宅のリビングまで運び込まれた特大の段ボール箱を前にして、僕はごくりと喉を鳴らしながら唾を飲み込んだ。その段ボール箱は、人が一人、簡単に入れそうなほどの大きさである。まあ実際、人間大の代物が中に入っているのだから、当然と言えば当然なのだが。

「ついに……届いちゃったな」

 自分自身に言い聞かせるように呟いた僕の胸の鼓動は高まり、全身にじっとりと汗が滲む。今は桜の花もすっかり散ってしまった五月で、段ボール箱の中身は最新型のメイドロイドの素体だ。つまり、予定よりも一ヶ月ほど遅れてしまった、同居開始から一周年を祝うキーサへのプレゼントである。

 両親の生命保険金でこんな物を買ってしまった事に対して、罪悪感をまるで覚えなかったのかと問われれば、否定は出来ない。だがしかし、いつかは購入しようと計画していた物なのだから、その計画が少しばかり前倒しになってしまっただけなのだと己に暗示をかけるように説き伏せて、それ以上深刻には考えない事にした。それに、今更そんな事を考えてももう手遅れなのだから、今は眼の前の段ボール箱に意識を集中させよう。

「キーサ、これが何か分かるかい? キミの新しい身体だよ」

 そう言った僕の足元では六本脚のキーサがうろうろと歩き回り、二本の前脚でかりかりと段ボール箱を引っ掻きながら、語尾を上げた「キュイッ? キュイッ?」と言う疑問系のズーム音を奏でていた。どうやら彼女も、突然届いた大荷物に興味津々らしい。

「さて、と」

 僕は意を決し、段ボール箱の上段横手にある四つの止め具を外すと、蓋を開けた。そして姿を現したその中身に、思わず息を呑む。

 その段ボール箱の中身、つまりメイドロイドの素体は、過剰なほどの梱包材と薄手のビニールシートに包まれていた。しかもジャンクパーツ屋で今のキーサの胴体を買って来た時の段ボール箱に入っていたような、スチロール樹脂で出来たマシュマロみたいな出来合いの梱包材ではない。搬送時に一切の傷を付けないための、専用に作られた全身にフィットしている梱包材が、それの高級感を否が応にも訴えかけて来る。

 隙間無く箱に密着している梱包材を一つずつ取り除いていくと、やがて露になる、メイドロイドの素体。その肢体は人間の姿を模していながらも、決して生身の人間には似過ぎないような微妙な加減でもってデザインされていた。

 前世紀の終盤までは、ロイドを人間に似せようとして色々な試行錯誤が重ねられたらしいが、今日ではそれらが徒労に終わって久しい。何故かと言えば、人間そっくりのロイドを作ると言う課題そのものが、いわゆる『不気味の谷現象』を克服出来なかったからである。つまり人間は、自分達に似ている物に対しては好感を覚えるが、それがある一定値を越えると逆に違和感や恐怖感を覚えると言うのだ。そのため現在のロイドの外観は、あくまでもそれが工業製品である事を主張するように、あえて無骨さが残されている。

「よっと……」

 改めてメイドロイドの素体に向き直った僕は、その全身にかけられた保護用の薄手のビニールシートを剥がすと、背中と膝の裏に腕を差し入れて抱え上げた。いわゆるお姫様抱っこと言うやつだが、そのまま持ち上げようとした途端に、ずしりと容赦の無い重量が僕の腕と腰を襲う。発砲チタンを骨格とし、カーボン樹脂製の外装に覆われたこのメイドロイドの素体は、本物の人間とほぼ同等の重量を有していた。

「重い……」

 漫画や映画やアニメの中ではどう見ても華奢な主人公がヒロインを軽々と抱っこしているが、あれが所詮は作り話なのだと言う事を、改めて思い知らされる。そしてあまりの重さに腕をぶるぶると震わせながらも、何とかソファまで素体を運んで、その座面の上に横たえる事に成功した。たったこれぽっちの距離を移動させた程度で、もう腕が痛くて仕方が無い。本当に、僕は虚弱体質である。

「ほら、見てごらんキーサ。これがキミの新しい身体だよ」

 そう言った僕が秋葉原のディーラーで購入し、眼の前に横たえられたのは、PF社製の自律型メイドロイドnz0093i型だ。両親の死で得た保険金が化けた、コアユニットが入っていないため頭の中身が空っぽの、とても高価な等身大のお人形さんである。

 国内外を問わず、様々なメーカーのカタログと何日間もにらめっこし続けた結果、この最新型のハイエンド機に僕の白羽の矢は立った。性能面でも色々と悩んだが、最終的に決め手となったのは外見が好みだった点と、眼や口が独立稼動して顔の表情が変化すると言うちょっと変わった機能が搭載されていた点である。あまり実用的とは言えないが、好奇心旺盛なキーサにはうってつけの機能ではなかろうか。ちなみに多くのメイドロイドがそうであるように、このnz0093i型の外観も、どちらかと言えば女性を模している。

「気に入った?」

 僕は痛む腕をマッサージしながら、足元をうろうろするキーサに尋ねた。すると六本脚の彼女はソファによじ登り、それが自分の新しい身体である事を察してか、見慣れぬメイドロイドの素体を興味深げに観察している。そんな彼女の動きは心無しか嬉しそうで、クリスマスの朝にサンタクロースが置いて行ってくれた未だ中身の分からぬプレゼントの箱を前に、ワクワクとしている子供の様ですらあった。

「キーサ、こっちに来て後ろを向いていてくれるかい?」

 やがて腕の痛みと痺れも取れて来た頃に呼び掛けると、キーサはソファから飛び降り、素直に駆け寄って来て後頭部をこちらに向ける。そして僕が後頭部のメンテナンスハッチを開けて起動ボタンを長押しすると、淡い緑の光が消えると共に、彼女の身体が力無くコテンと床に転がった。

 まるで死んだ蜘蛛か蟹の様に六本の脚をだらりと延ばして脱力しているキーサを抱え上げて、ソファの傍らまで歩み寄る。そこに横たえられたメイドロイドの素体も、仰向けから一旦抱え上げてソファの背もたれ側を向かせて座らせ、頭を垂れさせて後頭部を背後に立つ僕の方に向けた。すると素体のうなじの部分には、内臓バッテリー充電用のマイクロ波受電ポートと、小さな鍵穴が一つだけ見て取れる。

 僕は素体が詰まっていた段ボール箱から保証書の同封された分厚いマニュアルと、小さな磁気キーを取り出した。このご時勢に紙製のマニュアルとは、なかなか珍しい。大半の電化製品のマニュアルが電子化されて久しいが、品質保障が厳格な高額商品ほど複製や改竄が難しい昔ながらの紙製のマニュアルが採用されている事を、改めて思い知る。そしてそのマニュアルの中身を確認すれば、内容の大半は購入者の権利がどうとか製造者の責任がどうとかの、法的な権利や責任の所在が事細かく説明されているばかりで要領を得ない。するとぱらぱらとページの半分方を読み飛ばしたところで、ようやくこのメイドロイドの起動方法に関する項目に辿り着いた。このあたりの不親切さは、紙製のマニュアルであれ電子化されたそれであれ、あまり大差は無いように思われる。

「ええと、これを押せばいいのね」

 マニュアルに記載された説明に従い、僕は磁気キーをメイドロイドのうなじに開いた鍵穴に差し込んでから、キートップのボタンを押した。すると「カシュッ」と鍵穴の奥で小さな音がした後に、少女の後頭部が二つに割れて、人間で言うところの頭蓋骨の中身が露になる。フルセットで購入した場合にはここに新品のコアユニットが納められているのだろうが、僕は素体のみを注文したので、そこにはぽっかりと空っぽの空間が口を開けているだけだった。

 僕は一旦メイドロイドから眼を離すと、ソファの脇に置かれたキーサの頭部からコアユニットを取り外した。そしてUSBポートに刺さっていたケーブルも全て抜き取り、剥き出しにされたコアユニットは、内臓バッテリーだけが刺さっている状態となる。去年の夏以来、久し振りにその全貌を現した謎多きキーサのコアユニット。初めて眼にした時と同じく冷たいメタリックブルーに輝くその金属球は未だに正体不明で、彼女が一体どこから来た何者なのか、黙して語らない。

「どうか、ちゃんと動いてくれよ……」

 一抹の不安を覚えながらも祈るようにそう呟いた僕は、メイドロイドの頭部にキーサのコアユニットを挿入し、止め具で固定した。そして各種のケーブルのソケットをUSBポートに差し込んでから、人間における喉の内側に内臓バッテリーも固定する。これで起動に必要な一通りの準備は整ったので、僕は再びごくりと喉を鳴らしながら唾を飲み込むと、コアユニットの起動ボタンをグッと押し込んだ。起動状態を示す淡い緑の光が再び灯るが、それ以外に特にこれと言った変化は見受けられない。そこで仕方が無く、開かれていた後頭部を閉じたメイドロイドをソファに仰向けに横たえ、期待と不安を胸に抱きながら静かに見守る。

 やがて起動処理が終了したのか、数分ばかりの間を置いた後に、今はキーサの新しい身体となった筈のメイドロイドが動き始めた。そして少しばかりぎこちない動作でもって上体を起こすと、ソファに座ったままゆっくりと首を巡らして僕の方に向き直る。

「キーサ……?」

 僕は静かに、語り掛けるように彼女の名を呼んだ。メイドロイドの唇が動き、応える。

「ノボル」

 若干ながらイントネーションがおかしかったが、確かに彼女は僕の名を呼んだ。それは予想していたよりも少しハスキーな美しい声であり、同時に口角をぎこちなく上げて、眼を細める。つまり教科書通りの作り慣れていない笑顔を浮かべながら、新たな身体を得て美しく生まれ変わった僕だけのキーサが微笑み掛けて来てくれたのだから、僕が言葉を失ってしまったとしても無理は無い。

 するとそんな僕の視線の先で、ソファに座り込んでいたキーサが、片足をそっと床に着けた。続けてもう片足もそれに倣うと、重心を前方に移動させて立ち上がろうと試みる。しかし途中で膝関節がかくんと折れ、床に崩れ落ちてしまった。

「あ」

 思わず頓狂な声を漏らしてしまった僕は彼女の元へと駆け寄り、その身を案じる。

「大丈夫、キーサ?」

 転倒を危惧する僕に、先程と同じようにぎこちない笑顔を向けると、キーサは再び床を踏みしめる膝に力を込めた。僕は彼女の手を取り、彼女はそんな僕の手を支えにして、どうにかこうにか立ち上がろうと奮闘する。そしてふらふらと左右によろめきながらも、少しずつだが確実にバランスの取り方を覚えたキーサは、遂に己の脚でもって自立してみせた。

「キーサ、おめでとう」

 ゆっくりと彼女の身体を支えていた腕の力を抜いた僕の口から漏れたのは、祝福の言葉だった。何に対する祝福なのかは自分でもよく分からなかったが、それは無意識に発せられた、僕の偽らざる本心だったと思う。

「ノボル、ありがとう」

 やはり僕と同様にゆっくりと腕の力を抜いたキーサからの返礼は、未だ少しイントネーションがおかしい不器用な日本語だったが、それもまた偽らざる彼女の本心だったに違いない。そして次の瞬間、彼女は右脚を一歩踏み出したかと思うと、勢いよく僕に抱きついて来た。キーサの新たな身体の確かな重みが、部屋着越しにも僕の胸に伝わって来る。

「うわっ!」

 突然身を投げ出して来たメイドロイドに抱き締められた僕は、体勢を崩して転びそうになりながらも、なんとか彼女の身体を支えて踏み止まった。

「キ、キーサ? ど、どうしたの、一体? 大丈夫? 転んだの?」

 驚く僕の耳元で、キーサが囁く。

「ノボル、キーサ話せる。この身体、話せる。ノボルと話せる。キーサ、ずっとノボルと話したかった。ノボル、ありがとう。本当にありがとう」

 たどたどしい、キーサの日本語。だがその言わんと欲するところは、痛いほど僕の心に染み込んで来て止まない。

「……僕も、ずっと話したかったよ、キーサ。僕の方こそ、ありがとう。キミがここに居てくれた事を本当に感謝している」

 キーサの新たな身体を、僕はギュッと抱き締め返した。少しばかりひんやりとしたカーボン樹脂の感触がとても心地良く、まるで生身の人間の少女の柔肌の様にすら感じる。そして互いに言葉を交わせるようになった事を喜び合う僕達の間には、ただただ静かで幸せな時間が過ぎて行くばかりだ。

 自宅のリビングの中央で、暫し僕らは抱き締め合う。


   ●


「キーサ、星が見たい」

 やがてバスルームから出て来たキーサが、唐突にそう言い出した。つい今しがたまで脱衣所の洗面台の前に立ち、鏡に向かってありとあらゆる表情を作る事で顔面の機能の動作確認を行っていた彼女の言葉の意図が汲み取れず、僕は反応に窮する。

 僕ら二人が熱い抱擁を交わし合ってから、何だかんだで、既に小一時間ばかりが経過していた。その間キーサはリビング内をうろうろと歩き回って歩行の練習をしたり、立ったりしゃがんだり寝転んでみたりと、新しい身体に慣れるための鍛錬に余念が無い。そしてその甲斐あってか、今では初めて立ち上がった時のようにふらつく事も無く、表情が変化させられる顔にも比較的自然な笑みが漏れている。

「ノボル、あのね、キーサ、星が見たいの」

「え? ああ、うん」

 自分の発言の趣旨が上手く伝わっていない事を察したのか、今度は右手で天を指差しながら、キーサは要求を繰り返した。そしてその結果、彼女が見たいと言う「星」が、文字通り夜空に浮かぶ星である事は鈍感な僕にも伝わる。

 気付けば窓の外はとっぷりと陽が暮れて、宵闇が空を覆っていた。宅配業者がメイドロイドの素体をリビングに運び入れた時は未だ夕方だったと言うのに、体感的には冬と大差無いほど陽が落ちるのが早い。

「星? 星が見たいの? それじゃあ、ベランダに出れば……」

「違う。キーサ、もっと高い所で、もっと広い所で星が見たいの」

 星が見たいだけならばとベランダに連れ出そうとした僕を制して、キーサはより一層、要求を具体的にした。理由は分からないが、より高い所で、そしてより広い所で星を見たいと彼女は求める。そこで僕は顎に手を当てて暫し考えあぐねてから、一計を案じる事にした。

「分かったよ、キーサ。こっちにおいで」

 僕はキーサの手を取り、玄関へと誘う。そしてドアをそっと開けて顔を出し、賃貸マンションの廊下の様子をうかがった。

「よしキーサ、ほら、こっちに来て。今の内に」

 他の住人が廊下に居ない事を確認してから僕は外階段へと足を向け、キーサはそんな僕の後をついて歩く。僕らが住む部屋は、国際通りに面した賃貸マンションの八階だ。この高さになると、もう住人は皆エレベーターしか使わないので、外階段で住人と鉢合わせする事も無いだろう。

 不慣れなキーサが階段の昇降に少しばかり手間取ったが、僕達は無事に、最上階へと辿り着いた。そしてその先にある重い鉄扉のノブを回すと、それはぎいと言う小さな音を立てながら、難無く開く。賃貸マンションの屋上に出るためのこの扉の鍵がずっと以前から壊れている事を、僕は覚えていたのだ。

 鉄扉の先に広がる空間に、僕とキーサは揃って歩み出す。陽が落ちれば部屋着一枚だけではまだまだ肌寒い、春の夜空を頭上に臨む賃貸マンションの屋上。キーサが求めているのはもっと高く、もっと広い空間なのかもしれないが、今の彼女を取り急ぎ連れ出せる僕の精一杯がこの狭い屋上だった。ちなみにどうしてここに来るまでこそこそと周囲の様子をうかがっていたかと言うと、本来ならばここは、住人であっても許可無く立ち入る事が禁じられた場所だからである。

「ここで良かったのかい、キーサ?」

 彼女の期待に応えられたのか否か、不安に駆られながら尋ねた僕の言葉に対して、キーサの返事は無い。いや、そもそも返事は必要無かった。青白く光り輝く月と、仄かに煌く星々。残念ながらここは空気の澄んだ田舎の山中などではないので、決して満天の星空とまでは行かなかったが、幸いにも雲一つ無く晴れ渡った夜空を仰ぎ見て彼女は笑みを浮かべる。そして月と星の光を少しでも多く浴びようとするかのように、キーサは天に向けて大きく腕を広げた。彼女のカーボン樹脂製の外装が青白い光を反射し、その姿はどこか神秘的で、とても美しい。

「キーサね、これが見たかったの」

 暫し月光を浴びていたキーサの言葉に、僕は問う。

「どうして? これまでだって何度も、夜の散歩に出掛けた事はあったのに」

「前の身体、星がよく見えなかったの。この身体は星も月も、みんなよく見えるの。キーサ、ずっとずっと、星が見たかった」

 キーサの返答は、実に単純明快であった。レンズの精度が低かったせいか、それとも焦点距離に限界があったのか、どうやら以前の清掃用ワーカロイドの視覚センサーでは星空が鮮明に見えていなかったらしい。だがしかし、今の彼女に搭載された超高解像度光感知ナノフィルターは、生身の人間でしかない僕以上に鮮明な世界をその眼で捉えている事だろう。

「ノボル、手、出して」

 不意にこちらへと向き直ったキーサが、両手を差し出しながらそう言った。そこで僕は無言で微笑みながら、差し出された彼女の手を握る。そして僕らは手を取り合い、微笑み合い、静かに見つめ合った。するとキーサは口を開き、眼を細めると、夜空に向かって歌い始める。

「♪」

 歌いながら、次第にキーサの声量は増して行った。彼女の愛らしい喉から溢れ出した美しい歌声が、夜の冷たい空気に溶けて行く。まるで歌える事自体を喜んでいるかのようなそれは、歌詞らしい歌詞も無く、音階も歌いながら流れで調整している、小さな子供が即興で作ったようなデタラメな歌だった。だがそれでも、その美しい澄み切った歌声は、賃貸マンションの屋上から星空へと至る全ての空間を満たして止まない。

 AIである筈のキーサが命を賛美するかのように、全ての生有る者を祝福するかのように、いつまでも歌い続ける。

 やがて気付けば、互いに示し合わせた訳でもないのに、自然と僕らは踊りだしていた。踊ると言っても、勿論僕に社交ダンスの経験は無く、当然ながらそれはキーサもまた同様である。つまり互いに手を取り合い、彼女の歌声に合わせて緩やかなステップと共にゆっくりとその場でくるくると回るだけの、ダンスと呼ぶにはあまりにも稚拙で単調なお遊戯でしかない。

 だがそれでも、僕とキーサは確かに踊った。それだけは、疑いようの無い事実である。歌って踊って微笑み合い、やがて身体を密着させて抱き合いながら、星降る夜空の下でお互いの存在を確かめ合ったのだ。

「♪」

 今や大音量となったキーサの歌声は、耳元で鳴り響きながらも微塵も不快ではなく、むしろ鼓膜に心地良く染み込んで行く。世界が彼女の歌声だけで満たされて行く快感に、僕はただただ身を委ねるばかりだ。そしてこのままいつまでも、キーサと踊り続けたいとすら思う。


   ●


 逃げるように取って返した自宅のリビングで、僕とキーサの二人は並んでソファに座っていた。胸に手を当てればどきどきと動悸が治まらず、未だ少しばかり呼吸が荒いようにも思われる。

 賃貸マンションの屋上で繰り広げられた僕らの拙いチークダンスもどきは、隣の敷地に建つ別のマンションの住民から「うるせえぞ!」と怒鳴られた事によって、あっけなく終止符を打たれてしまった。どうやら想定以上の大音量でもってキーサは歌っていたようで、それが騒音と判断されたらしい。そしてそんな怒声に飛び上がるほど驚いて我に返った僕は、立てた人差し指を自分の唇に当てて小声で「しーっ」と言いながら、キーサに歌うのを止めるようジェスチャーで伝えた。だがしかし、そのジェスチャーの意味が理解出来なかったらしいキーサは僕の真似をして、自分も「しーっ」とやり返す。

 正しく意図は伝わらなかったが、とりあえずキーサを黙らせる事に成功した僕は、強引に彼女の手を引いて駆け出した。そして足早に賃貸マンションの外階段を駆け下りると自室へと帰還し、ようやく人心地ついた僕らは今、リビングのソファの上で手を繋いだまま肩を並べている。

「怒られちゃったね」

 溜息混じりにそう言った僕の蚤の心臓も、ようやく落ち着いて来た。ちょっと怒鳴られた程度でこんなに驚いてしまった自分が、少しばかり情け無い。そして呼吸を整えながら汗を拭う僕の隣で、ソファに腰を下ろしたキーサは涼しい顔できょとんとしている。以前の六本脚の身体だった時から人間臭い仕草も見せていたし、遂に新しい身体を手に入れてより人間に近いシルエットになった彼女だが、怒られた事に対しての人間的なリアクションは薄い。

 正体不明のキーサのコアユニットにもまだまだ経験と学習が足りないのだろうかと、僕は彼女の顔をジッと見つめながら思案した。するとそんな僕の視線に気付いて、向こうも僕を見つめ返して来る。

 こうして改めて彼女の姿を見つめていると、美しさと可愛らしさを兼ね備えたキーサの新しい身体が愛おしくて堪らず、僕の口元には自然と朗らかな笑みが浮かんだ。そしてそんな僕を見つめる彼女もまた、やはり僕の表情を真似ているだけなのだろうが、口角を上げて僕に微笑み返す。すると僕らの笑みは相乗効果のように次第に深くなり続け、理由はよく分からないがなんだかとても楽しくなって来てしまい、遂に僕は声を上げながらくすくすと笑い出してしまった。

 僕が笑えばキーサも声を出して笑い、それに呼応して僕はもっともっと大声でもって笑う。気付けば笑いが止まらなくなった僕ら二人は、そうするのが当然のように顔を近付け頬を寄せ合い、やがて互いの額がこつんと触れ合った。カーボン樹脂製の外装に覆われたキーサのおでこは、生身の人間のそれに比べるとひんやりと冷たい。そして示し合わせたかのようにどちらからともなく笑い止むと、さほど広くもないリビングに静寂が訪れる中で、僕らは更に顔を近付け合う。

「キーサ……」

「ノボル……」

 お互いの鼻の頭が微かに触れ合いながらすれちがい、やがて僕の唇とキーサの唇がゆっくりと重なった。家族を除外すると僕の人生で初めての、異性とのファーストキスである。勿論、AIによって制御されたロイドに性別があるのかどうかを問う者もあろうが、そんな常識に捉われた世間の見解は今はどうでもいい。僕がキーサを一人の女性として認識しているのだから、僕にとっての彼女は異性に違いないのだ。

 最初はそんな事をするつもりは無かったのだが、気付けばいつの間にか唇を重ね合っていたと言う不思議な感覚に、僕は驚きを隠せない。きっとその場の雰囲気に流されて情事に至ると言うのは、こんな状況なのだろう。しかし人生初の経験に驚きながらも、僕の心は不思議なくらいに穏やかだった。

 そして僕は、ゆっくりと眼を閉じる。キーサもまた同時に眼を閉じて行くのが、狭く暗くなりつつある視界の中で微かに見て取れた。自分の置かれた状況とその対処方法をAIに学習させるために、彼女は僕の真似をしているだけなのかもしれないが、今はそれで構わない。たとえ猿真似であったとしても、キーサが僕と同じ感情を抱いているのかもしれないと思えば、それはきっと喜ぶべき事なのだろう。

 やがて重ね合った唇を離すと、僕はキーサからそっと距離を取った。心臓が早鐘を打ち始め、顔全体が熱くなって紅潮して行くのが、自分でも手に取るように分かる。キスしている最中はあんなにも穏やかだった心中が、今は羞恥と高揚でもって、千々に乱れて止まない。気付けば額からも首筋からも、そして彼女と繋いだままの手からも、じっとりと汗が滲んでいた。

「キーサ、その、僕はこんな事をするつもりじゃ……」

 真っ赤に紅潮した顔を伏せてしどろもどろになりながら、罪悪感に苛まれた僕は意味の無い弁明を試みる。だがしかし、そんな僕の唇を、キーサは人差し指でそっと塞いで微笑んだ。慈しみを込めた彼女の眼差しが、優しく僕を包み込む。

「ノボル、しーっ」

 純粋な想いがもたらした行為に言葉は必要無く、今はただただ互いに見つめ合い、微笑み合えばそれで良い。そんな単純明快な事実をAIであるキーサに教えられた事に、僕は一人の人間として少しばかり恥ずかしかった。そして同時に、心の底から歓喜の思いが湧き上がって来る。

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