第七幕


 第七幕



 やがて桜の花が芽吹き始めた三月のとある日、見慣れた賃貸マンションの自宅のドアを開け、僕は独り帰宅した。実に五日ぶりの、深夜の帰宅である。

 照明を灯す気力も無いままに、暗い玄関に鞄と喪服の入ったスーツバッグを投げ出した僕は、力無い足取りでもってリビングに向かった。廊下とリビングとを隔てるドアを開けると、足元には出迎えてくれたキーサの姿が眼に留まる。五日間も行方をくらませていた主人を歓迎してか、嬉しそうに「キュイッキュイッ」とズーム音を奏でてくれる彼女を無視して、僕はダッフルコートを着たままソファに倒れ込んだ。しんと静まり返ったリビングは窓から差し込む月明かりで仄かに青白く照らされていて、実際の室温以上に寒々しく感じる。

 昼から何も食べていないせいで体温が低下しているのか、寒くて全身に力が入らず、手足がわなわなと震えて何もする気力が湧いて来ない。いや、そうではなく、僕は悲しくて仕方が無いんだ。己の無力感とどうしようもない虚無感に押し潰されて、呼吸をする事すら苦痛に感じているのが実情である。

 すると行き倒れた死体同然になっている僕の眼前に、ソファによじ登ったキーサが再び姿を現した。主人の異常を察して、心配するように「キュイッ? キュイッ?」と尋ねて来る彼女は、五日前と全く変わっていない。僕の身にこれだけの事態が降りかかったと言うのに、キーサは相変わらず可愛く、無邪気なままである。そう、五日前の未だ何も知らされていない頃の僕もまた、職場で無邪気にキーサとの同居開始記念日のパーティーを夢想してほくそ笑んでいた。だがしかし、実家の両親が死んだのである。

 その報せが警察から届いたのは、ちょうど昼休みの時間だった。職場の自分の席で携帯端末を弄って時間を潰していると、突然見慣れぬ番号から着信があり、不審に思いながら応対すれば相手は地元の警察だったので驚く。そして僕の両親が交通事故で死亡したので遺体の確認をしてもらいたいと言われても、最初は一体何の事だか、さっぱり理解出来なかった。

 しかし直属の上司であるトタニ室長代理に事情を説明し、仕事を早退させてもらって霞ヶ関駅に向かう途中で、段々と脳が状況を理解し始める。途端に呼吸が荒くなり、動悸と汗が止まらない。すると再び携帯端末に着信があったので応対すれば、今度の相手は実家の傍に住んでいる叔父からだった。叔父との会話の内容は警察から受けた説明とほぼ同一で、すぐに実家に帰って来いと言う。これで僅かに残されていた希望、つまり先程の着信が警察を騙ったイタズラ電話である可能性は、脆くも打ち砕かれた。神様は、本当に残酷である。

 眼の前が真っ暗になるのを実感しながら浅草の自宅に取って返し、最低限の荷物を詰め込んだショルダーバッグを抱えて飛び出ると、そのまま真っ直ぐ特急電車が発着する東京駅に向かった。この時キーサがどうしていたのかは、全く記憶に無い。おそらく彼女は平日の昼間に突然帰宅した僕の足元をうろついていたのだろうが、あの時の僕にはそんな事を気に留めるだけの余裕などまるで無く、とにかく気が動転していたのである。

 そして数時間後、久し振りに地元に帰った僕は、指定されていた病院に駆けつけた。そこには既に叔父夫婦を中心とした親類縁者数名と警察関係者が待機しており、僕に詳しい状況を説明する。

 両親の死因は、実家から程近い国道でのもらい事故だった。建設現場に向かっていた大型トレーラーが交差点で強引な右折をしようとしてバランスを崩し、横転した際に荷台に積まれていた橋げた用のコンクリートブロックが転げ落ちて、信号待ちをしていた両親の乗る軽自動車を押し潰したらしい。

 総重量二十t近い建材の塊に潰された両親の遺体は酷い有様で、病院の霊安室で遺体の確認に立ち会った僕は、吐瀉物を床に撒き散らかすと言う醜態を晒した。検死官も頑張って復元してくれたのだとは思うが、全身がつぎはぎの縫い目だらけになった家族の遺体と対面するのは、想像していた以上にショックが大きい。冷静でいろと言う方が、無茶な話だろう。

 その日から翌日にかけては警察で色々な手続きをしたり、葬儀屋と話し合ったりした筈なのだが、あまりよく覚えていない。そして事故から四日目には早々に通夜が行われ、喪服を持っていなかった僕は急遽地元のデパートで吊るしの礼服を買い、慌てて葬儀に臨んだ。その後、告別式を終えた今日の昼には両親の遺体は火葬場で荼毘に付されたので、骨上げを終えた僕は浅草の自宅に舞い戻って来て今に至る。参列者は親類縁者と父の職場の関係者が数名、それに近所の人だけの、とても簡素な葬儀だった。僕同様、両親はあまり社交的なタイプではなかったのである。

 事故の加害者であるトレーラーの運転手と建設会社の責任者が謝罪に来たのは覚えているが、その内容は、霞がかかったように記憶が曖昧だ。叔父が激怒しながら怒鳴り散らしていた事はなんとなく覚えているが、僕は未だ自分自身がどうするべきなのか心の整理がつかず、思考が停止したまま葬儀場の片隅で突っ立っていたように思う。葬儀の喪主も、茫然自失とするばかりの僕に代わって叔父が務めてくれた。面倒な生命保険の手続きや事故の裁判などもまた、叔父夫婦が僕に代行して行なってくれると言う。

 慶弔休暇で仕事を休んだこの五日間は、なんだか雲の上を歩いているようにふわふわと地に足が着かないまま、駆け足のように過ぎ去って行った。そして今、暗く冷たい自宅のソファの上で、僕は死んだように寝転がっている。眼前には心配そうに僕の顔を覗き込むキーサの姿があり、彼女も何かを察したのか、ゆっくりと僕の胸元に寄り添うと頭を摺り寄せて来た。そこで僕はそっと、その丸く硬い頭を抱き締めながら語り掛ける。

「あのねキーサ、田舎の父さんと母さんがね、死んだんだよ」

 それは、自分でも驚くほど素っ気無い言葉だった。口の中がからからだったので、はっきりと発音出来ていなかったと思う。だがそう言った途端、僕の両眼からはぽろぽろと涙が零れ出した。はっきりと言葉にした事で急に実感が湧いて来たのだとは思うが、両親の死が重い現実となって胸に突き刺さる。そして堪えようとしても涙が止まらず、嗚咽が喉の奥から溢れ出し、みるみる内に顔面が涙と鼻水と涎でぐしゃぐしゃになって行くのが分かった。

「キーサあぁ……父さんと母さんが……死んじゃったんだよおぉ……」

 まるで幼い子供の様にしゃくり上げながら泣き続ける僕の胸の中で、キーサはじっと押し黙っている。果たしてAIに過ぎない彼女が人間の死を理解出来ているのかどうかは定かではないが、今はそんな事はどうでもいい。僕はただ傍に居て、泣かせてくれる相手が欲しかっただけなのだ。

 僕はキーサを抱いたまま、いつまでも泣き続ける。


   ●


 両親の死から暫くの間、僕はまるで抜け殻の様になって日々を過ごした。ネットニュースで少しだけ取り上げられた事もあってか、職場の同僚達にも死亡事故の件は知れ渡っており、気を使った彼らが僕をそっとしておいてくれた事には感謝している。いや、もしかしたら知らない内に、僕自身が声を掛け辛い雰囲気を醸し出していたのかもしれない。その証拠に、普段はあんなに馴れ馴れしかったトタニ室長代理もすっかり距離を置いて僕に接するようになったし、ナガヌマもまた遠慮がちに口を噤むばかりであった。

 どちらにせよ僕は淡々と日々の業務をこなし、帰宅してから夕餉を食べ終えるとすぐに寝床に就くような味気無いを日々を過ごして、可能な限り何も考えないように努める。とてもじゃないが楽しめる気分ではなかったのであらゆる娯楽から遠ざかり、気付けば顎にはうっすらと無精髭が延びていた。体重も落ちて手足が痩せ細り、少し頬がこけたような気もする。

 日課になっていた夕食後のキーサとのタブレットPCを介したお喋りも、すっかり御無沙汰になってしまっていた。僕が自宅にいる間はずっと、彼女は何か言いたげに、僕の足元をうろうろと歩き回っていたようにも思う。だがしかし、独りにしておいてほしかった僕はキーサを寝室に入れる事も拒み、その存在を無視し続けた。いっそ自分がキーサと入れ替わってしまえば、こんな悲しさや空しさに心を支配されずに済むのではないかと思うと、何の感情も持たないAIである彼女が羨ましくすらある。

 とにかく今の僕は、少しでも人間的な感情を取り戻したらまた涙が止まらなくなるのではないかと言う恐怖に囚われていたのだ。だからキーサ、キミを家族として認識してしまう事が、今の僕には荷が重過ぎる事を理解してほしい。


   ●


 やがて一ヶ月ばかりも経過した春先の週末の午後、自宅のリビングのソファに腰を下ろした僕は、家賃を振り込むためにタブレットPCから自分の銀行口座にアクセスして軽く驚いた。事前に叔父から聞かされていたので分かってはいた事なのだが、いざ実際にその額面を前にして、ようやく実感が沸いて来る。つまり僕の口座には多額の生命保険金が振り込まれていたため、預金残高が先月までから二桁も増えていたのだ。驚くなと言う方が、無理な話である。

 葬儀の際になって初めて、僕は両親が生命保険に加入していた事を知らされた。決して潤沢とは言えない収入の中から、月々僅かずつながらこつこつと積み立て続けて来たらしい。その保険金が受取人に指名されていた僕の口座に全額振り込まれた事を先週知らされ、そしてたった今、それを確認したのである。

 叔父の説明によると、両親の死亡事故に関する刑事及び民事訴訟がこれから本格的に始まり、その結果次第では更に多額の賠償金と和解金が振り込まれると言う事らしい。それらを全て合算すれば、さすがに預金残高が三桁増える事は無いだろうが、それでも結構な額になるだろう事は想像に難くなかった。

 突然振って湧いた多額のあぶく銭に、一瞬ではあるが、高揚感を覚えた事は否定出来ない。だが同時に、そう感じてしまった事に対する罪悪感と、金に代えられる筈の無い両親の命が具体的な金額に化けた事がやるせなくて、上手く説明の出来ない怒りと悲しさが心の奥底から湧き上がる。

「父さん、母さん、ありがとう……」

 だがそれでも、両親が命と引き換えに、僕に残してくれた大事な金なのだ。将来を見据えて、何か有意義な事に使おうと思う。

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