第六幕


 第六幕



 内蔵バッテリーを与えられた事によって活動範囲をほぼ無限に拡大させたキーサは、事あるごとに外出をせがんだ。勿論、僕が不在の日中に自由に戸外を出歩かせる事ばかりは許可出来なかったが、帰宅してからの平日の夜半以降と週末はキーサと一緒に色々な所に出掛けて喜怒哀楽を共にする。

 手始めに近所の浅草寺の境内や隅田川沿いの遊歩道の散歩から慣らし、次第に人通りの多い繁華街にまで進出した僕らの経験値は蓄積され、気付けば地下鉄に乗って遠出する事も不可能ではなくなっていた。最初の頃は街を歩く時のルールやマナーが分からずに、道行く通行人にぶつかってばかりだったり赤信号を渡ろうとしたりと、不安要素だらけだったキーサ。しかし彼女も次第に学習し、今では交通の邪魔にならないように歩道の端を行儀良く歩く事も覚え、電車の中では僕の足元で大人しくしていてくれる。

 そして立春とは名ばかりの、今にも雪が降り出しそうなほどの寒さで歯の根も合わない厳冬の頃、僕とキーサは東京メトロ日比谷線に乗って銀座の街へと赴いた。今日はこれから、週末を利用して映画鑑賞と洒落込むつもりである。

「チケットを拝見いたします」

 事前にネットで購入しておいた一人分のチケットを自動発券機で発券し、それをもぎりのスタッフに見せた僕は、キーサを従えながら映画館に足を踏み入れた。初めての映画館に興奮を隠せないのか、彼女は周囲のあらゆる物に興味を示しながら館内をうろうろしている。ちなみにロイドは人間ではなく荷物扱いとなるので、座席を占有しない限りは、別個にチケットを購入する必要は無い。とは言え、上映時間中ずっとキーサを膝の上に乗せているのはかなりの重労働になるかもしれないが、これも倹約生活の一環として僕は覚悟を決めた。

 僕らが住む浅草の街もそうだが、銀座の大通りの様な高級繁華街を歩けば、僕以外にもロイドを連れた通行人を結構見掛ける。その大半は介護や介助を行うワーカロイドかメイドロイド、もしくは愛玩用のペットロイドであり、官庁街やビジネス街とは違って荷物を運搬する業務用のワーカロイドなどはあまり多くない。

 しかしそんな環境下でも、映画館の自分の座席にまでキーサを連れ込む僕は、周囲から少しばかり浮いていた。何故ならロイド連れで映画館や劇場を訪れた際には、荷物扱いとなるロイドにわざわざ映画を観せる必要は無いので、上映時間中は自己防衛モードにしてロビーで待たせておくのが普通だからである。きっと他の客からは、僕はよほどロイドを盗まれたくないか誰にも触らせたくない、過保護で小心者のオーナーだと思われているに違いない。

「まったく、映画を観たいだなんて言い出したのは、僕じゃなくてキーサなんだからね」

 そう独り言ちた僕の言葉通り、銀座で映画を観ようと言い出したのは僕ではなくキーサだ。普段から彼女はタブレットPCで映画鑑賞に勤しんでいるが、無料で配信されている著作権切れの古典だけでなく、たまには映画館の大きなスクリーンで公開されたばかりの新作を鑑賞したいと懇願されたのである。

「まあ、いいけどさ」

 キーサを膝の上に乗せた僕は、不貞腐れながら呟いた。予定外の出費は痛いが、これで彼女が喜んでくれるなら背に腹は代えられない。今はじっと我慢して、素直に映画を楽しむ事に集中しよう。


   ●


「映画は楽しかったかい、キーサ?」

 僕の問い掛けに、キーサは喜びを表現しているのか、軽快な足取りでもって僕の足元をうろうろしながら「キュイッキュイッ」と肯定のズーム音を奏でた。

「それは良かった」

 そう言った僕は、映画館がテナントとして入居している高層ビルの向かいに設置されたコンクリート製のベンチに腰を下ろしながら、上映時間一杯までキーサの重量を支え続けた事でがたがたになってしまった両脚を揉む手を休めない。つまりキーサが映画を楽しんでくれた事は素直に嬉しかったものの、僕の方はと言えば、脚の痛みでもって後半は殆どスクリーンに集中出来なかったのである。せめて左右どちらかの隣の座席が空席であればそこにキーサを座らせる事も出来たのだが、残念ながら館内はほぼ満席だったので、その可能性は否定されてしまった。もしも二人で映画を観に来る機会が再び訪れたならば、その時はもっと空いている時間帯か、せめて上映期間終了間近のあまり客が入っていなさそうなタイトルを選ぶ事にしよう。

「未だ帰るには早いし、ちょっと散歩でもしようか、キーサ」

 ようやく脚の痛みも引いて来たので、僕はベンチから腰を上げながら提案した。するとキーサは「キュイッキュイッ」と同意し、先導するように銀座の街を歩き始める。

 現在の時刻は午後の三時を回ったばかりで、帰宅するにも夕食を摂るにも未だ早い。そこで僕は、散歩と言っても特に行きたい場所がある訳ではなかったので、キーサの好きなように歩かせてみる事にした。

 キーサは初めて見る街並みが珍しいのか、嬉しそうに周囲を見渡しながらとことこと歩き続け、僕はその背後に付き従う。一般的なロイドとそのオーナーと比較すると、僕らの主従関係は完全に逆転してしまっていたが、これはこれで悪くない。想像するに、もし仮に僕が生身の女性と交際するような事があったとしたら、やはりこうして連れ回される立場だったのだろう。

「キーサ?」

 やがて散策を開始してから半時ほども経った頃、不意にキーサが立ち止まった。勿論僕も、彼女と一緒に立ち止まる。てっきり人通りの多い銀座四丁目交差点に向かうと思っていたキーサは逆に国道304号線を北西の方角に進み、日比谷駅の直上に達した。するとそこで、僕らの眼前に異様な建造物がそびえ立つ。

「ああ、これが『柵』か……」

 僕らが辿り着いたそこにそびえ立っていたのは、世間一般には『柵』と呼ばれる建造物だった。そしてその呼び名通り、有刺鉄線が巻かれた高さ十mばかりの格子状の鉄柵が左右に延々と続きながら、かつて皇居と呼ばれていた直径二㎞ばかりの敷地をぐるりと取り囲んで侵入者を拒絶する。つまり、ここから先には関係者以外は決して立ち入るなと言う事だ。

 華やかな銀座の中心部とは対照的な『柵』の内側に、僕は眼を向ける。勿論、有刺鉄線に触れないように細心の注意を払いながらだ。するとそこには巨大なクレーター状の穴と、それ以外には何も無い、まるで死んだような虚無の空間が広がるばかりである。

「ここに国防軍がねえ……」

 およそ十八年半前に終戦を迎えたあの日まで、ここには日本国国防軍の中枢が置かれていた。今はもうその面影も無いが、かつては軍の参謀本部とその関係機関の施設が立ち並び、まるで要塞の様な威容を誇っていたらしい。

 先の見えない消耗戦と化した戦争も末期に至り、全国各地の沿岸部が敵軍の空爆と上陸作戦によって続々と侵攻されつつあったあの夏の日に、それは起きた。つまり東京湾沖に敷かれた最終防衛線が突破され、首都陥落も時間の問題と判断した中央政府と国防軍の上層部は、降伏を宣言すると同時にここに在った全ての施設を自壊させたのである。そこで軍務に就いていた軍人もろともに地上の施設は跡形も無く爆破し、更に地下施設に至っては、放射固着性コンクリートを流し込んで掘り起こす事すら困難にさせると言う徹底ぶりであった。

 放射固着性コンクリートは、主成分である水酸化カルシウムの結晶体の中にプルトニウム238を封じ込めた人工石材で、コンクリートの本来の用途である建材としては利用されない。そして非常に堅牢で自然劣化し難く、人為的に破壊されない限りは内包したプルトニウムはもとより、そこから出る放射線に対しても高い遮蔽性を示す石材でもある。つまり本来ならば、前世紀に稼動していた原子力発電所から発生した放射性廃棄物を安全に埋蔵処理するために開発された、言わば封印材とでも呼ぶべき石材だ。

 だがその安全性は裏を返せば、人為的に破壊された際には高濃度の放射性廃棄物を破片と共に飛散させると言う、非常に危うい石材である事も暗示している。そしてその危険な石材によってかつての国防軍の地下施設が隅々まで埋め尽くされてしまったがために、この地に上陸して首都を制圧した敵国の占領軍は、ここを『柵』で囲って民間人の立ち入りを堅く禁じた。

 敗戦を悟った国防軍が、何故ここまで徹底して施設を破壊したのかは、今もって定かではない。だがこれだけ大量の放射固着性コンクリートを事前に準備していたと言う事は、最初から有事の際にはこれを使って全てを隠蔽する魂胆だったのだろうし、そこまでして隠し通したかった国防軍の秘密の正体は諸説ある。極秘の人体実験をしていた説から戦局を一転させる超兵器を開発していた説や、更には宇宙人の関与説まで、千差万別で根拠の無い様々な流言飛語が世間を飛び交っては消えて行った。

 勿論、単に自暴自棄になった国防軍の上層部が占領軍に対するせめてもの嫌がらせとして、無意味なハラキリを敢行したと言う説も根強い。だがその説を信じるには、あまりにも手の込んだ準備がなされ過ぎている。

 果たしてどの説が正解なのか、その真相を解明するために、侵攻して来た直後の占領軍は地下施設の大規模な発掘作業に臨んだ。だがしかし、放射性廃棄物を外部に流出させずに作業員の身の安全を確保するには莫大なコストと時間が要求され、作業は遅々として進まない。それにこの国防軍の中枢は、公開されていた情報を見る限り、そもそも地下施設自体が存在しない筈だったのである。

 関係者以外には存在そのものが隠蔽されていた、謎の地下施設。占領軍もそんな地下施設の奥に何が隠されているのか興味津々だったようだが、一体地下何階まで、どの程度の規模で広がっているのかすらも定かではない果て無き空間を相手にするのは容易くなく、その全てを掘り起こす事があまりにも無謀な挑戦なのは誰の眼にも明らかだった。しかも一歩間違えれば大量のプルトニウムを、敗戦国とは言え、一国の首都の中央で撒き散らかしかねない状況下ともなれば尚更である。

 結局、五年掛かりで地上部分の建造物の撤去と地下一階の途中まで発掘し終えたところで、特に何の成果も得られないまま作業は中断された。それは極めて賢明な判断だと、僕は思う。確実に価値有るお宝が眠っている古代の遺跡ならともかく、その保証がどこにも無い只の廃墟ならば、わざわざリスクを冒してまで掘り起こす必要は無い。

 放射固着性コンクリートの内部に封じ込められたプルトニウム238の半減期は約八十八年なので、次に作業が再開されるのは、早くとも百五十年から二百年後以降だろうと予測されている。その頃にはもう、十八年前に終結した戦争の当事者など一人も生き残ってはいないだろうから、僕も含めた現代を生きる人々には関係無い事だ。

「そうだよ、僕には関係無い事さ」

 僕は『柵』の内側を眺めながら、ぼそりと呟いた。長々と講釈を垂れさせてもらったが、ここまでの知識は全て中学と高校での現代史の授業と、定期的にマスメディアが吹聴する『柵』に関する報道番組とで自然と覚えてしまった伝聞に過ぎない。僕は専門家ではないから内容に多少の齟齬があるかもしれないが、そんなものは僕の人生に何の実害も与えないし、気にする必要も無い事である。

 しかし僕が上京してからもうすぐ三年が経過しようと言うのに、考えてみれば直接肉眼で『柵』を確認するのは、これが初めての経験だった。実家に居た頃から写真や動画では散々見て来た『柵』とその内部だったが、現物は想像以上に物悲しい雰囲気に包まれていて、そんな荒涼とした世界をジッと見つめていると、なんだかこちらの気分まで塞ぎ込んで来る。

 それにしても、放射固着性コンクリート。ほうしゃこちゃくせいこんくりーと。口に出さずに心の中で繰り返すだけでも、舌を噛みそうな名称だ。きっと命名した奴は、それを発音する人間の都合など考えていなかったに違いない。とにかく一刻も早くこんな所とはおさらばして、そんな物騒な物とは縁の無い生活に戻る事としよう。

「さあ、そろそろ帰ろうか、キーサ」

 視線を落とし、足元に居る筈のキーサに声を掛けた僕は、その時になってようやく気付いた。彼女はいつの間にか僕以上に『柵』に近付き、有刺鉄線も気にせずに身を乗り出しながら、行く手を阻む『柵』の内側をジッと凝視している。

「キーサ?」

 僕は改めて、キーサの名を呼んだ。しかし彼女からの返事は無く、何か思う所があるのか、キーサは『柵』の内側を凝視し続ける。

「どうしたの、キーサ? ここから先は立ち入り禁止だってば。そんなに柵に近付いたら、怒られるよ」

 食い入るように『柵』の向こうを見つめるキーサにそう声を掛けたのとほぼ同時に、こちらへと接近して来る二つの大きな影を、僕は視界の隅に捉えた。その影は威圧的なシルエットの武装した二体のロイド、つまり『柵』に接近する者を監視し、場合によっては排除する警備用ガードロイドである。

「柵から離れ、速やかに立ち去ってください。ここで立ち止まる事は、条例により禁止されています」

 僕の眼の前にまで接近して来たガードロイドが、その威圧的な外観に相応しい、低くドスの効いた声でもって警告した。さすがに民間人である僕に向けていきなり銃口を突きつけるような事は無かったものの、ここで彼らに抵抗しても何の益も無い事は、火を見るよりも明らかである。

「すいません、今すぐ立ち去りますから」

 僕はガードロイドにぺこぺこと何度も頭を下げながら、未だ『柵』の前から動こうとしないキーサに歩み寄ると、彼女を両手で抱え上げた。そして踵を返し、そそくさと小走りでもってその場を後にする。二体のガードロイドは暫しその場に留まってこちらを監視していたが、やがて僕らが『柵』から遠ざかると、各自の持ち場へと戻って行った。

「怖かったあ……」

 冷や汗混じりにそう呟いた僕は、キーサと共に元来た道を引き返す。胸に抱え上げた彼女は大人しかったが、自由にさせるとまたあの『柵』に駆け寄って行くのではないかと心配で、地面に下ろす事が躊躇われた。

「キーサ、どうしてあんなに柵に近付いたの? 何か見えたの?」

 僕が問い掛けても、キーサは沈黙を貫く。

「キーサ? 僕の声が聞こえてる?」

 再度の問い掛けに、彼女は、「キュイ……キュイ……」と蚊の鳴くような微かなズーム音でもって応えた。どうやら、僕の声が聞こえていない訳ではないらしい。

「キミはあの柵の中について、何かを知っているのかい、キーサ?」

 僕がそう言ってキーサと『柵』との関係について問い質せば、彼女は「キュイイィィ……」と、これまでに聞いた事もないような悲しげな鳴き声を漏らしながら項垂れる。

「もう、帰ろう」

 一抹の不安を覚えながらも、キーサを胸に抱え上げた僕は銀座の街を目指して歩き続けた。気付けば空はすっかり茜色に染まり、東の方角からゆっくりと、冬の夜の気配が忍び寄りつつある。


   ●


 キーサを連れて銀座を訪れてから半月ばかりが経過したとある金曜日、僕はナガヌマと共に、東京大学本郷キャンパスの正門前に立っていた。暦の上では早春の候とは言えまだまだ寒さは厳しく、こうしてじっとしていると、分厚いウールのダッフルコート越しにも外気の冷たさが身に沁みる。

「寒いですねえ」

 僕の隣に立つナガヌマが、凍るように白い息を吐きながら言った。彼女は僕とは対照的に、襟と裾が高価そうなファーで飾られた、真っ白で可愛らしいコートを羽織っている。

「予定より時間が掛かっちゃったね」

 僕はそう言いながら、携帯端末で現在の時刻を確認した。未だ夜と言うには早いが、それでも職場で通常業務に勤しんでいれば、そろそろ定時を迎える頃である。

「そうですね、もう陽が暮れちゃってますもんね。それで、どうします? タクシーを拾います?」

「いや、駅はすぐそこだから歩こう。こんな所でタクシーが来るまで待ってたら凍えそうだし、タクシー代が勿体無い」

 少しばかり恰好悪い事を言ってしまった僕とナガヌマの二人は、東京大学本郷キャンパスの正門前を走る本郷通りを南下し始めた。そしてこの大学の象徴の一つである赤門を越えた辺りで、ナガヌマが口を開く。

「トタニさん、今日も直帰しても構わないって仰ってましたよね」

 そう言った彼女の言葉通り、昨年の夏にしながわ水族館に半ば強制的に行かされた時と同様、またしても僕は業務外出にナガヌマを同行させる事をトタニ室長代理に命じられたのだ。そして今、大学での審査を終えた僕ら二人は職場に戻る事無く直帰するために、こうして駅を目指して歩いているのである。ちなみに何故トタニ室長代理が僕とナガヌマをやたらと二人きりにさせようとするのか、その真意は今もって分からない。

「ノボルさん、この後はどうなさいますか? すぐに帰っちゃいますか?」

 駅までの道すがら、ナガヌマが僕に尋ねた。

「え? ああ、うん。このまま御徒町で日比谷線に乗り換えて帰るつもりだけど、それがどうかしたの?」

「それでしたら、御徒町で一旦駅の外に出て、アメ横かどこかで一緒に何か食べて行きませんか?」

「ええ……どうしようかな……」

 妙案が浮かんだとばかりに得意げなナガヌマと違って、僕の歯切れは悪い。

「何か、ご都合がお悪いんですか?」

「別に都合が悪い訳じゃないけど……参ったなあ……」

 やはり僕は、言葉を濁す。今回は前回とは違ってトタニ室長代理から晩飯代を貰っていないので、さっきの勿体無いと言ってしまったタクシー代と同様に、予定外の出費は可能な限り避けたいのが実情だ。とは言え、そんなみっともない懐事情を後輩であるナガヌマに白状するのも癪だし、恥の上塗りである。

「分かったよ、御徒町で降りて何か食べよう」

「でしたら、ちょうど御徒町駅の近くに、前々から気になっていたお店があるんです。こんな機会ですし、そこにご一緒してはもらえませんか?」

「うん、それでいいよ」

 その気になる店とやらが庶民には手の届かない高級店ではない事を祈りながら、僕はナガヌマの提案を承諾した。そして本郷通りと春日通りが交差する本郷三丁目駅で都営大江戸線に乗ると、すぐ隣の上野御徒町で降車する。ここまで来れば、上野駅と御徒町駅とを繋ぐJRの高架沿いに栄えたアメ横と呼ばれる商店街、つまりアメヤ横丁はすぐ眼の前だ。

「ここ?」

 そんなアメ横の一角で足を止め、ナガヌマに案内された店を前にした僕がそう問えば、彼女は嬉しそうに眼を輝かせながらこくこくと首を上下させて肯定する。

「そう、ここです。前々からずっと気になっていて、一度でいいから入ってみたいと思っていたお店なんです。店構えも、素敵でしょう?」

 ナガヌマがそう評した店は高級店などではなく、どちらかと言えば粗野で薄汚い、老舗の大衆的なラーメン屋だった。それも俗に『二郎系』と呼ばれる、独身の男性労働者が好んで食べるような大味なラーメンを提供する店である。

「素敵ねえ……」

 驚くと言うか訝しむと言うか、とにかく肩透かしを食らう格好になってしまった僕と共に、ナガヌマはそのラーメン屋に入店した。店内には豚の骨を茹でる際に生じる独特の匂いとニンニク臭が充満し、食欲が湧くような失せるような、何とも微妙な塩梅である。

「どうして、この店に来たかったの?」

 そこそこ混み合った店内でちょうど二人分だけ空いていたカウンター席に並んで腰を下ろし、看板商品である豚骨ラーメンをトッピングは全て普通盛りで注文してから、僕はナガヌマに尋ねた。

「こう言った雰囲気のお店って、女の子だけだと入り辛いじゃないですか。だからずっと、ここではどんなラーメンが食べられるんだろうと想像するばっかりで、お店の前で二の足を踏んでたんです。でも今日は男の人、つまりノボルさんが一緒ですし、だったらこんな絶好の機会を逃す手はないかなと思って来てみたんですよ。……もしかして、ご迷惑でしたか?」

「いや、別に迷惑って訳じゃないけど、ちょっと意外だったんで驚いただけだよ。ナガヌマさんみたいな人はもっとこう、お洒落な物とか甘い物とかを食べたがるのかと思ってたからさ」

「お洒落な物も甘い物も、勿論大好きですよ。ただ今日は、ラーメンの気分だっただけです」

 そう言って微笑むナガヌマと僕の前に注文したラーメンが配膳されたので、僕らはさっそくそれを食べ始める。炒めたもやしと分厚いチャーシュー、それに刻みニンニクとギトギトの背脂がトッピングされた、上品さのかけらも無いようながさつなラーメンだ。

「これです、これが食べたかったんです」

 ナガヌマはそう言いながらずるずると音を立てて麺を啜り、彼女の口には大き過ぎるほどのサイズに切り分けられたチャーシューに齧りつく。どうやらあえて行儀悪く振る舞う事によって、ナガヌマはナガヌマなりに、この店のラーメンを食べられた事への感謝と感動を表現しているらしい。そこで僕も負けじと麺とスープを啜れば、スープの熱さで体温が急上昇して全身にどっと汗が噴き出し、あっと言う間に汗だくになった。そして僕ら二人ははあはあふうふうと喘ぎながら、ラーメンを胃に納める作業に没頭する。

「ふう、ごちそうさま」

 やがて僕は、眼の前のラーメンを食べ終えた。気付けばごくごくと喉を鳴らしながら最後の一滴までスープを飲み尽くしてしまっていたので、そんなに腹が減っていた訳でもないのにがっついてしまったと思うと、少しばかり気恥ずかしい。そして僕に遅れる事数分後、スープを半分ほど残してしまったが、ナガヌマもまた「ごちそうさまでした」と小声で呟いて箸を置く。

「ラーメン、美味しかったですねえ」

「うん、そうだね。ちょっと脂っこかったけど、まあ結構、美味しかったかな」

 会計を終えた僕らは食後の余韻に浸りつつ、ラーメン屋を後にした。店の外に出てみれば澄み切った冬の夜空に月と星が輝き、日中に比べると気温もぐっと下がって、凍えるような寒さがより一層身に沁みる。

「それじゃあ、そろそろ帰ろうか」

「いいえ、未だ帰りませんし、帰しませんよ、ノボルさん」

「え?」

「今夜はもう少しだけ、あたしに付き合っていただきます」

 何だか急に、ナガヌマが妙な事を言い出した。

「この先の上野駅の近くに、あたしの知り合いが学生時代に働いていたパブが在るんです。その友達は卒業と同時に辞めてもう働いていませんけれど、とても雰囲気の良いパブなので、そこでビールか何か飲んでいきませんか?」

「パブでビールねえ……」

 魅力的な提案だが、僕の懐事情がそれを許さない。

「悪いけれど、遠慮させてもらえないかな。実は今、あまりお金が無いんだ。ラーメンだけならともかく、お酒を飲んだりなんかしたら財布がすっからかんで、明日から生活出来ないよ」

「お金の事でしたら、心配しないでください。あたしの方から無理言って誘っているんですから、あたしが全額奢ります」

「ええ? いやいや、いくらなんでも奢ってもらう訳には行かないよ」

「いいえ、あたしが奢ります。もしも気が引けるのでしたら、二ヵ月半遅れのノボルさんの誕生日のお祝いだと思ってください。それでしたら、奢られてもおかしくはありませんよね?」

 なかなか無茶な理屈をこねだしたナガヌマに、僕は困惑する。

「でも……」

「いいじゃないですか、あたしに奢らせてください。さあ行きましょう、ノボルさん」

「参ったなあ……」

 恥を忍んで文無しである事を白状したと言うのに、よりにもよって後輩の女性に奢ってもらうと言う、却って恥ずかしい結果になってしまった。しかしそんな僕には構わず、多くの人々が行き交うアメ横沿いの商店街を上野駅方面へと歩き始めたナガヌマは、早く来いとばかりに手招きする。

「こちらですよ」

 そう言ったナガヌマに案内されたのは、上野駅のすぐ眼の前を走る中央通り沿いに店を構える、一軒のアイリッシュパブだった。

「どうです、なかなか良いお店でしょう?」

 少しばかり得意げにそう言ったナガヌマは、さほど混雑していない店内を縦断すると、飴色に輝くマホガニー製のテーブル席に腰を下ろす。そして僕もまた彼女の向かいの席に腰を下ろすが、何だか場の空気に馴染めなくてそわそわと落ち着かない。

「いい店なんだろうけど……こんなパブになんて殆ど来た事が無いから、何て言って評価したらいいのか言葉が見つからないや」

 僕は包み隠さず、自分の率直な感想を漏らした。これまでの人生で足を踏み入れた事がある酒が飲める店は、どれもこれも貧乏学生が安酒を飲むような場末の居酒屋ばかりだったので、急にこんなパブになど連れて来られても勝手が分からないのである。

「とりあえず、何を頼めばいいのかな? あんまり高いお酒じゃない方がいいよね?」

「このお店のお勧めはギネスですから、あたしと一緒にそれを頼みませんか? それと、あたしの奢りなんですから値段は気にしないでください」

 促されるまま、僕らは二人分のギネスビールと簡単な料理を三品ばかり注文した。ちなみにメニューを確認すると、やはり僕が行くような居酒屋に比べてどの料理もビールも高価だったが、眼の玉が飛び出ると言うほどではない。

「乾杯」

 グラスを打ち鳴らし合い、僕らはテーブルまで運ばれて来たギネスビールを飲む。俗に黒ビールとも呼ばれるスタウトビールを飲むのはほぼ初めての経験だが、確かにナガヌマの言う通り、これはこれで甘苦くて美味い。

「ギネス、美味しいですねえ」

 生ハムをつまみにギネスビールを飲みながら、ナガヌマが嬉しそうに言った。どうやら見かけによらず、酒豪とは言わないまでも、彼女は結構いける口だと思われる。

「うん、美味しいね。こっちのチーズも美味しいけど、ちょっと臭いからあんまり量は食べられないな。……ところでナガヌマさん、どうして今日は僕を誘ったの? それも、わざわざこんな店にまで連れて来てさ」

「だって、ノボルさん、こうでもしないと仕事中は何も話してくれないじゃないですか。あたしはもっと、ノボルさんとお喋りしたいんです」

「お喋りって言われてもなあ……何を話したらいいんだろう」

「そうですねえ……ああ、そう言えば、以前買いたいと仰っていたロイドは購入されたんですか?」

 ギネスビールの注がれたグラスを半分方まで空にしたナガヌマが、問い返すように僕に尋ねた。

「ロイド? ああ、うん、買ったと言うか買ってないと言うか……まあ、買ったのかな」

「どんなロイドですか? 写真とかありますか?」

「写真は……そう言えば一枚も撮ってないなあ。僕、SNSでも殆ど自分から発言しないから、写真を撮る習慣が無くって」

「そうですか、写真は無いんですか。でしたら、これを見てください」

 ナガヌマはそう言うと鞄の中から携帯端末を取り出し、フォトアルバムか何かのアプリケーションを起動させてから、その画面をこちらへと向ける。

「これ、あたしのロイドなんです。可愛くないですか?」

 そう言った彼女の携帯端末の画面には、一体のロイドが写っていた。僕も何度かカタログで見た事がある、転がって移動するタイプの小型のペットロイドである。

「へえ、ナガヌマさんもロイドと同居してるんだ」

「そうなんです、名前はコテツくんって言って、とっても可愛いんですよ。あたし、高校までは実家暮らしで大学進学を機に上京して来たんですけれど、その時に一人暮らしでも寂しくないようにって両親が買ってくれたのがこのコテツくんなんです。……でもまあ、両親からしてみれば、娘の行動を監視するお目付け役って意味で買い与えた側面もあるみたいなんですけどね」

 少し酔いが回って来たのか、ナガヌマがそう言いながらくすくすと上品に笑った。

「お目付け役のペットロイドか……そう言えば、キーサは何ロイドなんだろう?」

「キーサ? それがノボルさんのうちのロイドの名前なんですか?」

「ああ、うん。中古で買った、ちょっと特殊なコアユニットが搭載されたロイドだったから、どんな種類のロイドだかよく分からないんだ。ナガヌマさん、その辺は詳しい?」

「いえ、あたしもそんなに詳しくは……うちにはペットロイドとメイドロイドしか居ませんでしたから」

「メイドロイド? ナガヌマさんは、メイドロイドとも同居しているの?」

 僕が尋ねれば、ナガヌマは首を横に振る。

「いえ、メイドロイドは実家に居たんです。今のマンションで一緒に住んでいる訳じゃありません」

「そっか……メイドロイドって、やっぱり便利?」

「そうですね、母の家事を手伝ってくれたり、父にお茶を淹れてくれたりと、何かと世話を焼いてくれるんで両親は重宝しているみたいですよ。まあ、仕事熱心と言うかビジネスライクな性格なんで、ちょっと話し相手としては物足りない気もしますけどね」

「ふうん、でも、メイドロイドもいいよな……」

 僕はナガヌマに負けじと、ギネスビールをぐびぐびと飲みながら呟いた。将来的にキーサに新たな身体を買ってやるとしたらメイドロイドの素体も選択肢の一つだし、そんな彼女と同居している自分の姿を想像すると、わくわくして来る。そしてその後もナガヌマと僕とは会話を続け、アイリッシュパブの一角でそれなりに親睦を深め合ったが、途中からは酔っ払ってしまってよく覚えていない。まあ何にせよ、キーサと僕とが一緒に暮らし始めてからもうすぐ一年が経過しようとしている事だけは、揺るぎない事実だ。何か一周年を記念したプレゼントを贈るのもいいし、二人でささやかなパーティーを開催するのも妙案だろう。そんな事を考えながら、僕はギネスビールを口に運ぶ手を止めない。

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