第四幕


 第四幕



 キーサが新たな身体を手に入れたその日から、僕は本格的に貯蓄を始めた。勿論それは、いつの日か彼女に、今の歩行戦車ウォーカータンクの試作模型の再利用品なんか比較にならないほどのハイスペックな肉体を買い与えるためである。

 とは言え、元から金食い虫な趣味や浪費癖は無かったので日常生活にそれほどの変化は無く、高校卒業と同時に就職してからこっちの三年ちょっとで多少の蓄えはあった。しかしそんな安月給の搾りかすの様なはした金の積み重ね程度では、高価な新品のロイドを購入するにはまるで足りない。それが眼を背ける事が出来ない辛辣な事実であったが、だからと言って夢を諦めるのは早計に過ぎると言うものなので、何とかして打開策を講じる。そして生きて行くために必要な衣食住に掛かる出費を見直した結果、真っ先に削られたのは食の分野であった。と言うか、それ以外に手の打ちようが無かったのである。かくして僕の夕餉は完全に特売のレトルトカレー一色となり、昼食と朝食もゼリー飲料と菓子パン一つだけで済ませ、ちょっと奮発していた週に一度の外食の習慣は完全に断ち切られた。

 尤も、その程度の倹約が功を奏するほど世の中は甘くない。所詮どんなに頑張ってみたところで支出に対する収入の絶対額が小さ過ぎるし、それら諸々の懸案事項の本を正せば、全ての原因はこの国の経済状態に集約される。

 終戦協定が結ばれたあの日から十八年が経過したと言うのに、この国の下層階級たる庶民は、いつまで経っても不景気から抜け出せないでいた。人口の激減と世代間の確執、また戦禍に見舞われた都市とそうでない都市との経済活動のバランスが看過出来ないレベルにまで狂ってしまったのが、未だに解消出来ていないのである。そしてその狂ったバランスによって生まれた需要と供給の落差に、新規旧来を問わない資本家が介入した事が、只でさえ狂っていたバランスを更に歪なものに変えた事は記憶に新しい。つまりそれまでは人間の労働者が地道に行っていた仕事の多くがロイドに奪われ、この国の工業も農業も、前世紀以前とは比較にならないほど大規模経営化したのだ。

 まあしかし、労働力の移譲そのものは、遅かれ早かれ時代の流れとして必然的に起こり得た事だとは思う。技術の進歩を止める事は出来ないのだから、至極当然の帰結だ。問題なのはその巨大労働力が生み出す利益を享受出来るのが、それらロイドを所有する、先に述べた資本家だけだった点だ。

 東証株価指数や日経平均株価と言った経済の指標だけに眼を向ければ、今の日本は空前の好景気で、政治家達や経済学者達は昭和のバブル期の再来だと言う。しかし僕らの様な力無き庶民は、それらバブルに沸く資本家の急激な勃興と繁栄を指を咥えながら羨望の眼差しでもって見つめる事しか出来なかったし、指を咥えていたところで腹が膨れる訳でも天からお金が降って来る訳でもないので、結局は何かしらの職に就いて日銭を稼ぐしかない。そして気付けば貧富の差は拡大し、世間はロイドの生み出す労働力で際限無く肥え太る富裕層と、その富裕層に雇われながら細々と生活する貧困層とに大別された。勿論僕は、残念ながら後者に分類される。

 与党も野党も含めた数多の政治家連中も、この問題を解消する事を選挙の度に政権公約として掲げて票集めに奔走しているが、今のところその公約が眼に見えるほどの効果を発揮した事は一度として無かった。むしろ富裕層のロビー活動によって全ての政党がずぶずぶに食い尽くされ、事態をより悪化させているように思えてならない。

 貧困から抜け出すには余程の出世競争に勝ち抜くか、それとも首を括るのを覚悟で危険なマネーゲームに勝利するか、もしくは芸術なりスポーツなりの特殊技能を要する分野で頭角を現すしか手段は無いだろう。しかし残念ながら、それらの手段のどれもが僕とは無縁であり、今後も無縁であり続ける事は想像に難くない。

 地方都市の郊外で生まれ育ち、戦争とその後の混乱で家と職を失って小さな公団住宅に移り住んだ両親と僕の生活は、金銭面ではお世辞にも豊かなものではなかった。それでも時には外食に連れて行ってくれたり、それなりに玩具や絵本を買い与えてくれたりと、子供の僕に出来るだけ貧しさを感じさせないように両親が配慮してくれていた事が、大人になった今では身に沁みるほど理解出来る。

 しかし残念ながら、僕は両親が胸を張って自慢出来るほどの出来の良い子供ではなかった。決して世間様から後ろ指を差されるような事はしなかったが、取り立てて褒められるような事も出来ないままに、中の下程度の成績で地元の公立高校を卒業したのが僕の最終学歴である。そして東京の小さな派遣会社に登録して上京したものの、やっている仕事は公共機関の下請けに過ぎず、中抜きされまくった末に僕の懐に転がり込んで来る給与はまさしく雀の涙ほどでしかない。また当分は、正規雇用へのキャリアアップや賃金アップも見込めないだろうから、人生計画はお先真っ暗と言うものだ。だから今はとにかく、長期的なビジョンには眼を瞑りながら、地道にコツコツと貯蓄する事に邁進しよう。

 賃貸マンションのリビングのソファに腰を下ろした僕は、そんな事をぼんやりと考えつつ、購入を夢見る最新型のロイドのカタログをタブレットPCでもって閲覧していた。すると隣に座るキーサはまるで主人に寄り添う愛犬の如く、巨大な蜘蛛か蟹の様なその身を僕の身体に摺り寄せながら「キューイ……」と甘えた鳴き声を漏らす。

「よしよし、キーサは甘えん坊だなあ」

 そう言いながら優しく頭を撫でてやると、キーサは「キュイッキュイッ」と嬉しそうに、レンズのズーム音でもって鳴いた。その姿が堪らなく愛おしかったので、僕はギュッと強く彼女を抱き締める。

「キーサ……」

 一時的な急造品とは言え、歩行可能な新たな身体を与えられたその日から、キーサの活動範囲は飛躍的に拡大した。まあ勿論、未だ電源が内蔵バッテリーではなく外部からの有線のみなので、壁のコンセントから半径五m圏内のリビングの中しか歩き回る事が出来ない点は気の毒としか言いようがない。しかしそれでも、彼女は毎朝出勤する僕が「行って来ます」と言うと自分の活動範囲ぎりぎりまで見送りに来てくれるし、帰宅して「ただいま」と言えば出迎えに来てくれる。それは何とも微笑ましいと言うか、可愛らしくも愛おしい姿であった。

 ちなみに僕が不在の間も退屈しないように、キーサには自由に使えるタブレットPCを貸し与えてある。時折その履歴を確認してみると、日中はほぼ毎日ネットニュースの視聴に勤しんでいるか、もしくは無料で楽しめる、著作権の切れた古い映画の視聴サイトを巡回しているらしかった。またこのタブレットPCには最高レベルのフィルタリングが掛けられているので、成人向けコンテンツへのアクセスも、有料のソフトウェアのダウンロードやクレジットを利用した通信販売なども出来ない。彼女に搭載されたAIを信頼しているとは言え、ある日突然頼んだ覚えの無い荷物が大量に届けられたり、クレジットの明細書が身に覚えの無い額面で埋め尽くされたりする事態は回避しておくべきだろう。

「ありがとうキーサ、いつも傍に居てくれて」

 そう呟いた僕の言葉通り、夕食後にはキーサを膝枕で寝かせながらリビングのソファでゆったりとくつろぐのが、僕らの新たな日課となった。僕は仕事や人間関係の愚痴を彼女に聞いてもらい、キーサはタブレットPCを介して、その日新たに得た知識を嬉しそうに報告したりする。そんな非生産的で無為な日々が、今の僕には心地良くて堪らない。


   ●


 ついこの前まで分厚いダッフルコートでもって寒風から身を守っていたかと思えば、やがてスーツの上着を羽織る事すらも億劫になり、気付けば季節は夏を迎えていた。

「暑い……」

 多少なりとも空調が効いた霞ヶ関駅の構内から一歩を踏み出し、強烈な陽射しが照りつける地上へとその身を晒した僕は、全身にじっとりと汗を滲ませながら文部科学省の新庁舎を目指す。そしてガードロイドに守られたセキュリティゲートを通過してからエレベーターで三階へと移動すると、自分の職場の自分の席に腰を下ろしたのを合図に、今日もまた単調で退屈なお役所勤めの幕が開けた。後はこのまま終業時間を迎えるまで、帰宅してからのキーサと過ごす至福の一時を夢想しながら、自分に課せられた業務を淡々とこなすのみである。

「おい、カワキタ」

 やがて昼休みも近い頃になって、不意に背後から声を掛けられたので振り返れば、直属の上司であるトタニ室長代理がミントキャンディーを舐めながら立っていた。

「はい、何ですか?」

 僕が問うと、彼女は問い返す。

「お前さ、今日は午後から業務外出を申請しているよな?」

「ええ、はい。昼食を食べ終えたら審査のために品川の東京海洋大学まで出向く予定ですけど、何か申請書に不備でもありましたか?」

「いや、別に不備は無くってだな……。おいナガヌマ、ちょっとお前もこっちに来い」

 舐めて小さくなったミントキャンディーをぼりぼりと噛み砕きながら、トタニ室長代理は僕の隣の席に座るナガヌマを呼んだ。そして仕事の手を止めたナガヌマと僕とを交互に見遣りつつ、改めて口を開く。

「さてカワキタ、急な話だが、今日の外出にはこのナガヌマも一緒に連れて行って審査に同席させてやってくれ。構わないよな?」

「別に構いませんけど……どうしてですか? 今日の審査は簡単な顔合わせと資料の確認だけですから、僕一人だけでも充分に事足りますけど?」

「ああ、うん、そうなんだろうけど……。まあ、細かい事はいいじゃないか! つまりあれだ、後輩に仕事を教えてやるのも先輩の務めなんだから、少しでも経験を積ませてやってくれ! とにかくお前ら二人、今日は一緒に外出しろ! な?」

「はあ……」

 トタニ室長代理の意図が汲めない僕は、どうにも腑に落ちない。

「ついでにこれをやるから、審査が終わったら二人で一緒にここに行け」

「これは?」

「しながわ水族館の無料招待券だ。今の季節は暑いから、水族館は涼しくって気持ちいいぞ? ああ、それと、これもやる。水族館までの往復のタクシー代と、晩飯代だ。あたしの驕りだから、帰り掛けに二人で何でも好きなもんを食え」

 そう言ったトタニ室長代理は、革張りの高級そうな財布から取り出した水族館の無料招待券二枚と一万円札数枚とを、僕のワイシャツの胸ポケットに強引に捻じ込んだ。そして得意げに笑う彼女とは対照的に、僕は困惑する

「ええ? でも……いいんですか?」

「いいっていいって、気にすんな。公費じゃないから、釣りは取っとけ。それから二人とも、業務外出後は直帰したって事で代理申請しておいてやるから、午後の仕事は休んでそのまま帰宅して構わん。まあなんだ、とやかく言わずに水族館を楽しんで来い」

「はあ……」

 やはり腑に落ちない僕は、隣に立つナガヌマをちらりと見遣った。するとナガヌマは僕と視線を合わせながら、嬉しそうににこりと微笑む。

「水族館、楽しみですね、ノボルさん!」

 どうやらナガヌマは、トタニ室長代理の命令に異論は無いらしい。


   ●


 霞ヶ関駅で東京メトロ丸の内線に乗って東京駅へと至り、外回りのJR山手線に乗り換えてから五駅目で降車すれば、そこは複数の路線が複雑に乗り入れる品川駅であった。そして港南口のタクシー乗り場で拾ったタクシーで十分ばかりも東の埋立地の方角に走ると、やがて小さな橋を渡った後に、本日の最初の目的地である東京海洋大学品川キャンパスに辿り着く。

「今日はわざわざお越しくださいまして、ありがとうございました。それでは当日も、よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします。本日はありがとうございました」

 そんな東京海洋大学品川キャンパスの、何故だか理由は分からないが大きな椰子の木が植えられた正門前で、見送りの大学職員と僕らは別れの言葉を交わし合っていた。大学職員は僕やナガヌマなんかよりも随分と歳上の壮年の男性だったので、互いに上下関係の無い対等な立場であっても、ついつい恐縮して深く頭を下げてしまう。

「結構早く終わりましたね。いつもこのくらい早く終わるんですか?」

「まあ、今日は殆ど顔合わせだけだったからね。何かトラブルが無ければ、こんなもんだよ」

 炎天下の正門前を走る街道沿いで二人並んでタクシーを待ちながら、僕はナガヌマの問いに答えた。そして彼女の言葉通り、文部科学省の超高速計算機、つまりスーパーコンピューターを使わせてほしいと申請して来た大学の研究室の審査は恙無く終了したので、トタニ室長代理によれば今日はもう直帰しても構わない筈である。ちなみにこの研究室の研究テーマは外洋を回遊するシロナガスクジラの生態調査らしいが、具体的にどう言ったデータの処理にスーパーコンピューターを利用したいのかは、残念ながら無学な僕にはよく分からない。

「次はいよいよ水族館ですね、ノボルさん!」

「ああ、うん」

 僕はあまり気乗りしない口調でもって、素っ気無い相槌を打った。しかしナガヌマはにこにこと嬉しそうに微笑み、僕とは違って今にも小躍りしそうなほど浮き足立っている。

「しながわ水族館までお願いします」

 やがて大学職員が手配してくれた無人タクシーにナガヌマと共に乗り込むと、僕は自動運転システムを制御するAIに行き先を告げた。するとAIが「しながわ水族館ですね、かしこまりました。シートベルトをお締めください。当社は安全運転を心掛けます」と応答した後に、タクシーは静かに発車する。そして旧海岸通りから都道316号線にかけてを南下すると、やがてイルカを模したモニュメントが設置された、本日の二番目の目的地であるしながわ水族館の入り口前に辿り着いた。

「ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」

 現金での支払いを済ませ、無人タクシーに搭載されたAIが発した機械的な音声を背中で聞きながら降車した僕は、財布の中身を改めて確認する。するとそこには、トタニ室長代理から貰った水族館の無料招待券が二枚と、数枚の一万円札が見て取れた。もし仮に今日の業務外出が僕一人だけで執り行われ、やはりトタニ室長代理から無料招待券と万札を受け取っていたとしたら、水族館に行ったと嘯いてこれらをネコババしていた事だろう。だがしかし、僕が貯蓄に励んでいる事など知る由も無いナガヌマが一緒では、そうも行かない。彼女は純粋に、水族館巡りとその後の食事を楽しむ気でいるのだ。むしろ下手な事をすればトタニ室長代理に密告され、最悪の場合には僕の立場が危うくなる事も充分に考えられるので、今日のところは大人しくナガヌマをエスコートする事にしよう。

「ここがしながわ水族館ですか。あたし、初めて来ました」

「僕も、ここに来るのは初めてだ」

 そう言いながら水族館の入り口の脇に立つスタッフに無料招待券を手渡して、僕ら二人は入館した。しながわ水族館はその名の通り、東京都品川区の区民公園内に併設された水族館である。そして残念ながら、施設としての規模はあまり大きくなく、同じ都内の葛西臨海水族園や沖縄県の美ら海水族館などと比べると見劣りする感は否めない。

「結構、混んでますね」

「そうだね。子供ばっかりだ」

 平日の昼間と言う事もあって空いているかと思いきや、水族館の館内はそれなりに混雑していた。しかも客の大半が、想像していたようなデートに興じる男女のカップルなどではなく、どうやら遠足か何かの学校行事として訪れたらしい幼稚園児や小学生の集団である。つまりそこかしこを僕の腰ほどの高さの小さな幼児達が奇声を発しながら走り回っているので、決して耐えられないほどではないが、少しばかり騒々しい。

「ノボルさん、イルカショーですって! 観て行きましょう!」

 水族館の入り口から程近い、何やら東京湾の干潟などに生息する魚を紹介するエリアを見るともなしに通過すると、ちょうどイルカの曲芸ショーが開演する時間であった。そこで僕とナガヌマの二人もまたイルカが回遊するプールを取り囲む客席の一角に並んで腰を下ろし、ショーを見物する。ちなみにショーの会場は立ち見が出るほどの盛況ぶりで、飽きもせずに奇声を発しながら駆け回る幼児達が通路にまではみ出し、足の踏み場も無い。

「凄いですね、ノボルさん!」

 波飛沫を立てながらジャンプするイルカの姿に、僕の隣に座るナガヌマはご満悦であった。そして閉演と同時に今度は隣のアザラシ館へと移動し、ゴマフアザラシの曲芸ショーもまた見物する。

「うん、凄いね」

 ナガヌマに同意する僕の言葉通り、ちょっとだけ癪に障るが、率直な意見として水族館巡りは存外に楽しかった。頭上までガラスで覆われたトンネル水槽では天井すれすれを泳ぐアオウミガメやマダラトビエイを間近で見れたし、淡水魚エリアのピラルクや深海エリアのタカアシガニを仔細に観察出来たのも眼福である。勿論水槽の中を夢見る天使の様にゆらゆらと漂うミズクラゲや、まるで自分達の方が人間を見物しているのだと言わんばかりにこちらをジッと見つめて来るマゼランペンギンの群れが愛くるしかった事は、言うまでもない。

 そして最後に、シャークホールと呼ばれるエリアに設置された水槽の中を泳ぐシロワニと言う大きな鮫を見物してから、僕らは水族館を後にした。すると空調が効いていた館内とは比べものにならないほど戸外は蒸し暑く、区民公園内に植えられた木々にとまった蝉がみんみんと鳴いて、太陽は西の空へと傾きかけている。涼しげに泳ぐ魚ばかりに気を取られてうっかり失念していたが、今は未だ夏なのだ。

「これから、どうします?」

「とりあえず、駅まで移動しようか」

 そう言った僕らが水族館の前を走る国道15号線沿いに移動すると、ちょうど駅までの無料送迎バスが発車するところだったので、それに飛び乗る。そして十分ばかりもバスに揺られた後に大井町駅の西口へと辿り着いたので、やはり同じバスに乗り合わせた多くの幼児達と共にぞろぞろと降車した。無料送迎バスの発着場所として選ばれたのが水族館の最寄り駅である大森駅ではなく、かと言って近隣で一番栄えている品川駅でもないのは、少しばかり謎である。

「トタニさん、帰り掛けに何でも好きな物を食べて来いって言っていましたよね? 未だちょっと早いですけれど、もうご飯にしますか?」

 バスを降りて駅の構内まで移動してから、ナガヌマが僕に尋ねた。

「うん、そうしようか。バスのおかげで帰りのタクシー代も浮いたし、夏バテ防止も兼ねて、何か精がつく物でも食べよう」

 正直な事を言わせてもらえばタクシー代をケチったついでに晩飯代もケチって、浮いたお金をネコババ同然に自分の懐に収めてしまいたかったが、やはりナガヌマが一緒ではそうも行かない。ここは観念して彼女をエスコートし、たまには他人の金で美味い飯を食う事にしよう。

「ここでいいかな」

 少しばかり駅前を彷徨った末に、やがて僕らは一軒のステーキハウスに入店した。どうせ何かを食べなければならないのなら出来るだけ栄養価の高い物を可能な限り大量に、つまり腹一杯になるまで肉を食おうと言う魂胆である。

「水族館、楽しかったですねえ」

 幌馬車の車輪やバッファローの頭蓋骨などが壁沿いに飾り付けられた、西部開拓時代のアメリカ合衆国を意識したらしいステーキハウスの一角のテーブル席に腰を下ろしたナガヌマが、注文したチーズハンバーグを頬張りながら言った。

「そうだね、悔しいけれど、楽しかったね」

 彼女の向かいに腰を下ろした僕もまたそう言うと、自分が注文したハーフポンドのサーロインステーキをむしゃむしゃと頬張る。

「悔しい? 何が悔しいんですか?」

「いや、その、何だかトタニさんの掌の上でまんまと踊らされているような気がしてさ」

「ああ、なるほど、そうですね。確かにそう考えると、ちょっと悔しい気がしなくもないですね」

 僕はナガヌマに対して、少しだけ嘘を吐いた。つまり彼女に説明した理由だけでなく、水族館に気軽に遊びに行けるほど裕福ではなかった自分の幼年期を思い出して少しだけ気が滅入っていたのだが、そんなみっともない事を口にして恥をかくのも馬鹿馬鹿しいので黙っている。

「そう言えば、こうしてノボルさんと面と向かって仕事以外のお話をするのは、これが初めてなんじゃないですか?」

「そうだっけ?」

「そうですよ。ノボルさん、仕事が終わるといつもさっさと帰っちゃうんですもの。それに、昼休み以外はいつも黙々と机に向かってばかりですし。仕事熱心なのは良い事ですけれど、たまには同じ部署の皆さんと一緒にお食事でもされては如何ですか?」

「うん、その、ごめん」

 よく分からないが、何故か僕が謝る破目になってしまった。これでは久し振りに食べる高級な肉も美味しいんだか美味しくないんだかはっきりしなくなって、どうにも味がしない。しかしそんな僕には構わず、ナガヌマは尋ね続ける。

「考えてみれば、あたし、ノボルさんが何歳かも知らないんですよね。確か前にトタニさんが、ノボルさんはあたしの二年先輩だって言っていましたから、二十四歳か二十五歳くらいですか?」

「いや、僕は大学に行っていないから、未だ二十一歳だよ。それで今年の暮れに、二十二歳になるんだ」

「え、ノボルさん、二十一歳なんですか? だったら、あたしと同い歳ですね! 奇遇です! ……あ、でもあたしは先月の誕生日で二十一歳になったばかりだから、学年で言ったらノボルさんの方が一つ上ですね!」

 何が嬉しいのか、ナガヌマは可愛らしく微笑みながら言った。

「それとノボルさん、ロイドがお好きなんですか?」

「ええ? どうしてそれを知ってるの?」

「覗き見は失礼かと思ったんですけれど、以前昼休みに、ノボルさんがロイドのオンラインカタログを熱心に読んでいるのを見掛けちゃったんです。だから、ロイドに興味があるのかなって」

「ああ、うん。実は今、ロイドを買おうと思って色々と調べててさ」

 別に隠す事でもないので正直にそう言うと、益々嬉しそうにナガヌマは微笑む。

「そうなんですか、あたしもロイドが大好きなんです! やっぱり奇遇ですね! ……ところでノボルさんは、子供はお好きですか?」

 ナガヌマが、急に話題の趣旨を変えた。

「子供? まあ、好きでも嫌いでもないけど……どうして?」

「特に他意は無いんですけれど、ちょっとお聞きしたいなって思って。ほら、今日の水族館でもそうでしたが、最近の行楽地とか観光地はどこに行っても子供で一杯じゃないですか。それで、もしもノボルさんが子供が嫌いだったら、水族館でも迷惑だと感じていたのかと心配だったんです」

「いや、まあちょっと騒がしいなとは思ったけれど、別に子供相手にムキになって怒ったりはしないよ。仮に怒ったとしたら、それこそ子供っぽいじゃないか。とにかく僕は、そんな大人気無い真似はしたくないね」

「そうですか、それを聞いてホッとしました」

 どうやら僕の返答に、ナガヌマは安堵したらしい。しかし何故安堵したのかは定かではなく、それ以前に子供が好きかどうかなんて変な事を聞く奴だなと、サーロインステーキの新たな一口を咀嚼しながら僕は思う。

「お肉、美味しかったですね」

「そうだね」

 その後も僕らは他愛も無い世間話を交わし合いながら食事を続け、やがてテーブルの上に並べられた全ての皿を空にした。追加で注文したメキシコ風のスープとサラダも美味しかったが、少しばかり食べ過ぎてしまったらしく、腹が苦しい。そしてトタニ室長代理から貰った万札で会計を済ませると、店員に見送られながらステーキハウスを後にする。

「暑いなあ」

 戸外に出てみれば既に陽は沈み、見上げる空は宵闇に包まれていたが、周囲を取り巻くコンクリートやアスファルトが日中に溜め込んだ熱を放射してじりじりと蒸し暑かった。

「ええ、暑いですね。こんなに暑いのにネクタイを締めなくちゃいけない男の人は、本当に大変そう」

「うん、本当に大変だ。何でこんな物を締めなきゃならないんだろう」

 僕はナガヌマに同意しながら、首根っこを締め付けるネクタイを少し緩める。

「出来る事ならネクタイだけじゃなくって、スーツも着たくないよ。僕は背が低いし痩せていて童顔だから、スーツが似合わないって昔から言われるんだ。まあ、別に太りたいとは思わないけれど、せめてもう少し背が高かったらなあ」

「ノボルさんは、背が高くなりたいんですか?」

「うん、そりゃあまあ、男だったら誰だって背が高くなりたいさ」

 さも当然と言った口調でもって僕は言ったが、ナガヌマの意見は違うらしい。

「あたしは、背が高い男の人とか筋肉質の男の人って、なんだか苦手なんです。あたし自身が背が低いせいかもしれませんけれど、何て言うか、身体が大きい人ってちょっと威圧的で怖いじゃないですか。だから、ノボルさんくらいの体格の人の方が好感が持てますよ、あたしは」

「ふうん」

 身体が小さい事を褒められたのは、たぶんこれが生まれて初めての経験だ。世の女性は皆、背が高くて筋肉質な男が好きなんだとばかり思っていたから、ナガヌマの発言には少し驚く。

「それじゃあ明日も仕事だし、今日はもうこれで帰ろうか」

「そうですね、未だちょっと名残惜しいですけれど、そろそろ帰りましょう」

 僕ら二人はそう言うと、ステーキハウスの前から大井町駅へと移動した。そして自動改札を通過すると内回りのJR山手線に乗り込み、通勤ラッシュで混雑する車内で身体を密着させ合いながら人いきれに耐えると、やがて秋葉原駅で別れる。

「僕はここで日比谷線に乗り換えるから、また明日」

「はい、また明日」

 そう言って小さく頭を下げると、ナガヌマはJRの駅の構内の雑踏にその姿を消した。彼女は総武線に乗り換えて、自宅の在る御茶ノ水駅を目指すと言う。そして僕は東京メトロ日比谷線に乗り換えると、やはり通勤ラッシュの人混みに揉まれながら入谷駅で降車した。後はこのまま通い慣れた道を蒸し暑さに耐えながら一㎞ばかりも歩き続ければ、やがて浅草の自宅に辿り着く。

「ただいま」

 賃貸マンションの自分の部屋のドアを開けた僕は、帰宅を告げた。すると電源ケーブルが届くリビングの出入り口ぎりぎりまで歩み寄って来たキーサが、嬉しそうに「キュイッキュイッ」とレンズのズーム音を奏でながら出迎えてくれる。

「ただいま、キーサ。良い子にしてたかい?」

 僕がそう問えば、やはり「キュイッキュイッ」とキーサは肯定した。そして寝室でスーツとワイシャツから夏物の部屋着に着替え、リビングのソファに深く腰を下ろした僕に、六本脚の彼女はメモ帳が起動されたタブレットPCを器用に差し出す。

「オカエリナサイ ノボル キョウモ オツカレサマ」

 差し出されたタブレットPCの画面上には、そんなキーサの労いの言葉が表示されていた。

「ありがとう、キーサ。今日は何だか、不思議な一日だったよ」

 彼女を撫でながらそう言えば、膝の上のキーサが語尾を上げた「キュイッ?」と言うズーム音で疑問を呈した。

「トタニさんがね、急に水族館に行けとか言い出したんだ。それで仕方が無く、ナガヌマさんと一緒に水族館に行って、帰りにステーキを食べて来たんだよ。ああ、ナガヌマさんの事は紹介した事があったっけ? 今年の春に配属されて来たばかりの職場の後輩の女の子なんだけど、この子がやたらと変な事を聞くんだ」

 ソファに腰掛けた僕は今日一日の出来事を、特にナガヌマの言動を回想する。

「僕が何歳なのかだとか、子供は好きなのかだとか、僕の個人情報プライバシーを聞き出そうとばかりするんだよ。おかしいよね、こんなのまるで、付き合いだしたばかりの恋人同士の会話みたいじゃないか。僕とナガヌマさんが恋人同士の関係になる事なんて有り得ないのに、本当に笑っちゃうよ。ねえ、そう思わないかい、キーサ?」

 そう言って笑う僕の膝の上で、キーサが「キューイ……」と悲しげに鳴いた。しかしそんな彼女には構わずに、僕は自嘲気味に笑い続ける。

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