第三幕


 第三幕



 その日の午後、文部科学省の新庁舎の三階の職場で働く僕はそわそわと落ち着きが無く、少しばかり焦ってもいた。一週間分の溜まった案件を急いで処理する僕の隣の席では、新人であるナガヌマもまた彼女が担当している分の案件を処理しているが、その手付きはたどたどしい。

「すいませんノボルさん、ちょっと教えていただけますか?」

「ん? 何?」

 ナガヌマに声を掛けられたので、僕は顔を上げる。

「この申請書の回議ルートが良く分からないのですが……」

「ああ、これだったら宛先をトタニさんにして、一応僕にもCcで送っておいてよ。内容に不備が無いか、後で確認しておくからさ」

「分かりました、ありがとうございます」

 疑問が解消したらしいナガヌマはそう言うと、ぺこりと軽く頭を下げた。下げられた頭は小さくて形が良く、小柄で童顔である彼女の可愛らしさを如実に物語っている。そしてそうこうしている内に時間は経過し、やがて僕らは終業時間を迎えた。

「お先に失礼します」

 退庁の打刻を終えた僕は自分の業務用PCの電源を落とすと、そう言いながら席を立とうとする。

「ああ、カワキタ! ちょっと待て! 未だ帰るな!」

 腰を上げたところで不意に呼び止められたので、何事だろうかと足を止めて振り返ってみれば、そこには直属の上司であるトタニ室長代理が立っていた。彼女が常に舐めている外国産のミントキャンディーの香りが、ぷんと漂って来る。

「何でしょうか?」

「お前が離席していた昼休み直後に出欠を確認したんで言い忘れていたが、今日はこれから皆で飲みに行くけれど、お前も一緒に来るだろ? ほら、ナガヌマがうちに配属されて来てから今日でちょうど二週間だし、彼女の歓迎会と懇親会を兼ねて、ぱあっと盛り上がろうと思ってさ」

 ミント臭い息を吐きながら、トタニ室長代理が僕を飲み会に誘った。ちなみに彼女が常にミントキャンディーを舐めているのは、愛飲しているタバコのやにの匂いを誤魔化すためである。

「いや、その、今日は僕、早く帰らなくちゃならないんで……」

「ええ? ノボルさん、来られないんですか?」

 僕が誘いを断ると、トタニ室長代理の隣に立っていたナガヌマが驚いた。そして彼女はひどく落胆したような表情をその可愛らしい顔に浮かべながら、気落ちした声でもって僕の不参加を嘆く。

「今日はノボルさんとゆっくりお話が出来ると思っていたのに……残念です」

「そうだぞカワキタ、あたしも残念だ。だいたい最近のお前は、やけに早く帰ってばかりいるよな? どうした? 家で待っててくれる女でも出来たか? ん?」

 残念がるナガヌマに便乗するようにして、トタニ室長代理が下卑た笑みと共に尋ねた。

「そんなんじゃないですけど……」

 僕が答えに窮していると、意外にも尋ねた本人が助け舟を出してくれる。

「女じゃないとしたら、あれか? 何かペットでも飼い始めたのか?」

「ペット……そう、ペットです! 実は最近、友達から猫を預かっていて……。だからその猫の世話のために、早く帰らなくちゃならないんですよ!」

 トタニ室長代理の助け舟に、僕は思わず飛び乗ってしまった。

「ふーん、猫か。……猫ねえ。……その猫の写真とか、有る?」

「え? あ、いえ、写真は……無いです。友達から預かっている猫だから勝手に写真とか撮ったら悪いし、それにその猫、カメラを向けると怖がるんで……」

「ふーん……」

 自分が話を振っておきながら、何やら怪訝そうな目付きでもって僕を睨め回すトタニ室長代理。彼女の誘いを断るためとは言え、咄嗟に嘘を吐いてしまった僕は居住まいが悪い。

「……そうか、分かった。残念だが、猫が待っているなら仕方が無い。カワキタ、お前は早く帰って、その猫の世話をしてやれ」

 溜息混じりにトタニ室長代理が僕の帰宅を認めてくれると、彼女の隣のナガヌマも諦めてくれる。

「ノボルさん、次の機会には絶対に参加してくださいね? 約束ですよ?」

「ああ、うん、そうするよ。……それじゃあ、お先に失礼します」

 そう言い残した僕は、逃げるようにして文部科学省の新庁舎の職場を後にした。不測の事態とは言え、トタニ室長代理とナガヌマを含めた罪も無い同僚達を騙してしまったのは心苦しく、気が咎めてならない。しかし下手な嘘を吐いてしまったからには、暫くの間は猫を飼っているふりを続けた方が良いだろう。それと万全を期すために、ネット上から適当な飼い猫の写真を何枚か拾っておいて、実在しないカメラを怖がるペットを捏造しておけば完璧だ。まあ勿論、まさかトタニ室長代理とナガヌマが僕の自宅にまで直接確認しに来る事は無いだろうが、そのくらいの予防線は張っておくべきだろう。


   ●


「ただいま、キィ! 今日は、いい物を買って来たよ!」

 大きな段ボール箱を抱え上げ、息も絶え絶えに全身汗だくになりながら帰宅した僕は、開口一番そう言ってキィに報告した。するとリビングのローテーブルの上に頭部だけの状態で鎮座している彼女は、器用にも「キュイッ?」と語尾を上げた疑問系のズーム音で僕に応える。ロイドであるキィが我が家に来てからかれこれ二週間が経過し、僕と彼女とのレンズのズーム音だけによるコミュニケーションも、気付けば随分と堂に入ったものになりつつあった。

「ああ、ちょっと待ってってば。まずはちょっと、休ませてよ」

 キィが奏でるズーム音に急かされながらも、とりあえず抱えていた段ボール箱をリビングの床に置いた僕はそう言ってネクタイを緩め、じっとりと汗で湿ったスーツとワイシャツを脱ぐ。帰宅する途中で、持ち帰りではなく配送にするべきだったと何度も後悔するほどの重量の段ボール箱。それは一辺が六十㎝ほどの立方体であり、それを秋葉原のジャンクパーツ屋からここまで運んで来るのに掛かった労力は、ひ弱な僕にとっては一年分の運動を一時間でこなすのに匹敵するほどにも感じられた。そしてそんな薄茶色の立方体をリビングの床に投げ出した後も、酷使された腕と指は疲労でもってガタガタと震えが止まらない。

「ふう」

 汗だくの僕は呼吸を整えながらバスルームに足を踏み入れると、脱いだ下着と靴下を洗濯機に放り込んでから、シャワーを浴びる。未だ温まり切っていない冷たい水が火照った身体をあっと言う間に冷却して、やけに心地良い。すると全身を伝う水は次第に熱い湯へと変わり、過剰に冷えた表皮を温め直すのと同時に汗を洗い流し、硬直していた筋肉を柔らかくほぐしてくれた。そして震える指先でシャワーヘッドを握りながら、ようやく人心地付いた僕は小さな偉業の達成に、ほんの少しだけ心の中で自分を褒め称える。

「ほら、キィ。見てよ、これ」

 段ボール箱の中にぎっちりと詰められていた、まるでマシュマロの様な緩衝材。そんな緩衝材の山の中から取り出した黒く奇妙な物体をキィの方に向けて、僕は少しだけ誇らしげな顔でそう言った。しかし僕の期待に反して、それを見つめるキィは「キュイッ?」と疑問系のズーム音を奏でるばかりであり、そんな彼女の反応に風呂上りの僕は深く嘆息する。とは言え、まあ、一目見ただけでこれが何なのか瞬時に理解出来る人もそうは居ないだろうから、仕方が無いと言えば仕方が無い。

「これはね、キィ、キミの新しい身体だよ」

 そう言った僕が抱え上げたそれは、樹脂と金属のパーツで組み上げられた中型犬ほどのサイズの、一見すると蜘蛛か蟹の様な不気味なシルエットの機械だった。そしてその機械の中央部には本体と思しき子供の頭ほどの胴体が有り、そこから六本の細い脚が左右等間隔で生えている。また先端に行くにしたがって次第に細くなっているそれらの脚は、根元から数えて各々四つの関節を持ち、複雑な挙動が可能である事を如実に物語っていた。

 買い求めたジャンクパーツ屋の店員の言葉を信じるならば、元々はどこかの企業だか大学の研究室だかが歩行戦車ウォーカータンクの姿勢制御ソフトを開発するために作った、縮小サイズの試作模型らしい。つまり戦時中に方々で開発されていた自律型の無人兵器の、精巧かつ実用的なミニチュアである。それが一体どう言った経緯を経たのかは誰にも分からないが、お役御免になった後に流れ流れて秋葉原のジャンクパーツ屋の片隅で埃を被っていたのを、ほんの二時間ばかり前に僕が偶然発見したのだ。ちなみに買い求めたのはキィと出会ったのとはまた別の、もうちょっとだけ距離的にも信頼度でも表通りに近い、生粋の日本人が経営するジャンクパーツ屋である。

「ごめんね、あんまり綺麗な身体じゃなくって」

 僕はそう言って、抱えていた試作模型をリビングの床に置いた。硬いフローリングの床に置かれると関節から力が抜けた六本の脚が放射状に広がり、ますます巨大な蜘蛛か蟹の様に見える。ジャンクパーツ屋の玄関先で店員と一緒にあらかたの埃と汚れを拭い去ったそれは、表面塗装も施されていない無骨な代物で、さすがに試作模型だけあって正式な企業名や型式番号などはどこにも記されていない。そして何故僕がこんなガラクタを買い求め、わざわざ汗だくになりながらここまで持ち帰って来たかと言うと、それはこの試作模型の中央制御装置がロイドと同じ規格を採用しているがために、ペットロイドの胴体として再利用する事が理論上は可能だと言われたからだ。

「それじゃあキィ、ちょっと電源を落とさせてもらうよ」

 乱暴な手段で電源を落とすのは少しばかり不安だったが、作業を終えるまでは彼女には動かないでいてもらう事にする。そのためにコアユニットの起動ボタンを長押しすると、やがて初めて出会ったあの晩からずっと灯っていた緑の光が消え、僕の顔を見つめていたキィの頭部が力を失ってカクンと項垂れた。

「少しの間お休み、キィ。電気羊の夢でも見ていてくれ」

 頭部の方の準備が整うと、次に、買って来たばかりの歩行戦車ウォーカータンクの試作模型の準備を進める。六本の脚に支えられた、中央制御装置が内蔵されていた筈の胴体部分のビスを外して開いてみると、そこは案の定空っぽであった。元々はソフトウェアの開発に使われていたと言うのだから、開発が終了すると同時に内部のコアユニットは外されて回収か、技術漏洩を防ぐために粛々と廃棄されたのだろう。どちらにしろ、それは僕にとっては必要の無い物なので、むしろ粗大ゴミに出す手間が省けたと言うものだ。

「ふーん……」

 コアユニットを失った胴体の中を、僕は覗き込むようにして確認する。すると六本の各脚部から伸びて来たケーブルは中央部で独自規格らしい変換アダプタを介して一本のケーブルに纏められ、その先端はキィのコアユニットにも採用されているUSBポートに繋がるコネクタになっていた。確かにこれならば、この試作模型をロイドの胴体として再利用する事が出来るかもしれない。

「さて、と」

 問題はロイドの頭部だけであるキィを、どうやってこの六本の脚が生えた胴体に乗せて固定するかである。そこでとりあえず、僕は彼女の頭部を持ち上げると、床に置かれた胴体の中央部にそれを乗せてみた。すると意外にも、キィの首の部分が上蓋を外された胴体の隙間に綺麗にすっぽりと嵌まってくれたので、少し驚く。キィの頭部を構成する頚部パーツの外径と胴体の方の内径とが、ほぼ一致してくれたのだ。

「やった!」

 この降って沸いたような幸運を、みすみす見逃す手は無い。善は急げとはこの事とばかりに、僕は寝室のクローゼットの奥から工具箱を取り出す。そして学生時代に愛用していたその工具箱の中に入っていたグルーガンを使って、キィの頭部と胴体との間に僅かに開いた隙間をホットボンドで埋めて接着すると、更に四つの小さ目のクランプでもって両者を堅く固定した。かなり強引で心許無く、不恰好極まりない無理矢理な固定方法だが、とりあえずはこれで何とかなるだろう。頚部の回転運動にクランプが干渉してしまい、若干ながら可動域が狭くなってしまっているようだが、そこは目を瞑ってもらうしかない。何しろ自由に動き回るための胴体と脚を遂に手に入れたのだから、キィもきっと喜んでくれる筈だ。いや、喜んでくれるに決まっている。

「あれ?」

 六本の脚から伸びたケーブルをキィのコアユニットのUSBポートに差し込み、起動ボタンを押そうとしたところで、僕はようやく気付いた。と言うか、どうして今の今まで、こんな重要な事を忘れていたのだろう。キィを起動させるための電源が、これまで使っていたのと同じ、壁のコンセントに直接差し込むタイプのデスクトップPC用のケーブルしか無い。ロイドが自由に動き回るためには、当然ながら本体に内蔵出来る充電式のバッテリーが必要であるにもかかわらず、この歩行戦車ウォーカータンクの試作模型の中にはそれが入っていなかったのだ。

 元々これが、どこかの企業だか大学の研究室だかで試作模型として取り扱われていた頃にも電源は外部からの有線で取得していたのか、それともバッテリーもまた別個のジャンクパーツとして売られてしまったのかは定かではない。とにかくこのままではせっかくの胴体と脚を手に入れても、キィは電源ケーブルの長さ分、つまりは壁のコンセントから半径二mの範囲以内でしか動き回る事が出来なくなってしまう。

「参ったなあ……」

 僕は急いで部屋中をひっくり返し、解決方法を模索したが、結局見つかったのは三mの延長コード一本だけだった。まあこれでも、キィの活動範囲が百五十%増しになったと思えば、充分な前進と言えなくもないだろう。

「まあ、これでいいか」

 まるで犬猫の尻尾の様に後頭部から伸びた電源ケーブルが不恰好なのは否めないが、とりあえずの準備は整った。高鳴る鼓動を胸に覚えながら、僕はコアユニットの起動ボタンを押す。すると生命に新たな息吹が吹き込まれるかのようにボタンが緑色に発光したかと思うと、暫し考え込むような間を置いてから、不意に「キュイッ?」とキィが鳴いた。そして端無くも与えられた自分の身体を値踏みするかのように眺めつつ、驚きと喜びを交えた「キュイッキュイッ」と言う肯定を意味するレンズのズーム音を響かせて、六本の脚をぎこちなく動かし始める。

「キィ、立てるかい?」

 そう言った僕が憂慮した通り、キィはまず立ち上がろうと試みて、その場で盛大にすっ転んだ。PF社のロゴマークと型式番号がプリントされた彼女の額が硬い床に打ち付けられ、ごつんと言う鈍い衝撃音が周囲に反響する。

「ああ、キィ、大丈夫?」

 憂慮の色を濃くする僕を他所に、ごろりと横倒しになって転がったキィは再び立ち上がろうと試みたかと思えば、またしてもすっ転んだ。そして「キューイ……」と少し悲しげに鳴いてから、三度みたびたどたどしく六本の脚を床に踏ん張らせて立ち上がろうと試み、懲りずに転んでは悔しげに脚をバタバタと暴れさせる。その姿はまるで、這い這いを卒業したばかりの人間の赤ん坊の様だ。

「大丈夫? 大丈夫?」

 僕はおろおろするばかりだが、それでもキィは諦めない。何度も何度も立ち上がろうと試みては転ぶのを繰り返しながら、僅かずつだがバランスの取り方を習得しようと、懸命に奮闘する。仮にこの試作模型の姿勢制御ソフトが手に入って、それをコアユニットにインストール出来たとしたら、彼女もまたいとも容易く立ち上がって歩き回れたに違いない。しかしそれが出来ない以上、キィはこうしてトライ&エラーを繰り返して経験を蓄積しながら、新しい身体に内在する能力の限界を学習するしか方法が無いのだ。

「頑張れキィ! もうちょっとだ、頑張れ!」

 思わず僕の口からも励ましの声が漏れ、じっとりと汗が滲んだ両の拳を、無意識の内にぎゅっと堅く握り締める。あまりにも堅く握り締め過ぎたがために掌に爪が食い込んで、少し痛い。そして遂に、キィは立ち上がってみせた。まるで生まれたての子馬の様に関節をプルプルと震わせながら、バランスも少し狂っていて頭部が斜めに傾いではいるものの、六本の脚でもってしっかりと床を踏みしめて屹立する。

「キィ……」

 感嘆の声を上げるどころか、逆に言葉を失ってしまった僕の方に顔を向けた彼女は、一際大きく「キュイッ」と誇らしげなズーム音を奏でた。まだまだ覚束無い足取りでもって、少しずつ僕の方に向き直るキィ。すると彼女は六本の脚の内の最前列の右脚を少し浮かせて、僅かにだが一歩前進する。そしてそのままゆっくりと重心を移動させ、もう一歩、今度は左脚を前進させた。しかしながら、更にもう一歩と言うところでバランスを崩し、着地に失敗したキィはまたしても床に転がってしまう。

 床に転がったままの体勢で少し悔しげに「キュイー……」と一鳴きしてから、それでも決して諦める事無く一本一本の脚を懸命に操作して、再び彼女は立ち上がった。すると先程までよりも、僅かにだがキィの姿勢が低いように見受けられる。どうやら人間で言えば膝にあたる間接を大きく曲げて頭部を低い位置で保ち、重心を低くした方がバランスが取れる事を学習したらしい。

 そして再び、歩行の訓練が始まった。リビングの中央に立つ僕の方に向かって、一歩また一歩と、覚束無くて危なっかしい足取りながらもキィは前進する。そんな彼女に向けて僕は、しゃがみ込んで両腕を拡げ、迎え入れる準備を整えた。すると少しずつ自信が付いて来たのか、キィは「キュイッキュイッ」と音程の高いズーム音で喜びを表現しながら、歩速も歩調も安定し始める。

「いいよ、キィ! こっちだ! そのままもうちょっと、頑張れ、もうちょっとだから! さあ!」

 やはり這い這いを卒業して歩く事を覚えたばかりの赤ん坊を愛しむ父親の様な心情と声色が、僕の口から全身から、自分でも気付かない内に溢れ出して止まらない。

「もうちょっと! ほら、僕の所まで来てごらん、キィ!」

 両腕を拡げた僕を目指し、六本脚のキィが歩き続ける。そして遂に、たどたどしく最後の一歩を踏み込みながら、彼女の頭部が僕の腕と胸に触れた。床との接地点を確認するために自分の足元を見つめていたキィの顔が上を向き、保護フィルターに覆われたつぶらな瞳が僕と視線を合わせる。それと同時に、まるで甘えるように「キュイー……」と一鳴きするキィ。そんな彼女をゆっくりと優しく、それでいて力強くしっかりと、僕は抱き締めた。

「よく頑張ったね、キィ」

 胸に抱いたキィの頭を、賞賛の言葉と共に優しく撫でる。するとそんな僕の愛撫に応えるかのように「キュイッキュイッ」と囁く彼女のレンズのズーム音が、何故だか耳に心地良い。そして僕とキィは互いの頬を密着させながら、時が止まったかのように、いつまでも抱き締め合っていた。またこうしていると、やはり我が子の成長を喜ぶ父親の心情にも似た暖かい気持ちが僕の胸を満たし、言葉では語り尽くせぬ愛おしさだけが心の奥底からこみ上げて来る。それはまるで、いっそ本当に時が止まってくれても構わないと思うほどの感動の瞬間であった。

 だがしかし、当然の事だが、本当に時間が止まるなんて非科学的な現象が起こる筈も無い。体感的には数時間にも感じるほどの充足感と高揚感を得たが、実際のところはせいぜい数分間程度の抱擁を交わし合っていた僕らはやがてその身を離別し、今はそれぞれが為すべき事を為している。つまり具体的に言うと、僕はすっかり遅くなってしまったレトルトカレーによる夕飯をリビングのソファに腰を下ろして咀嚼し、キィはコンセントから半径五mと言う限られた自分の占領地域内をパトロールでもするかのようにうろうろと歩き回って、歩行技術の鍛錬に勤しんでいた。

「キィ、歩くのは楽しいかい?」

 賃貸マンションのリビングにはキィの六本の脚の関節が奏でるガションガションと言う動作音が、小さく、だが耐える事無く響いている。脚のメインフレームは合金の削り出しと思われる金属製だが、床に設置する、人間だと爪先に相当する部分は硬質ゴムでもってコーティングされているので、足音はそれほど大きくない。

 それにしても、一歩距離と時間を置いて客観的に眺めてみた結果、改めて気付いた。つまり、見た目も動きも巨大な蜘蛛か蟹を連想させる六本の脚が生えた胴体にロイドの頭部だけが乗って動き回っているキィの姿はなかなかにグロテスクと言うか、シュールと言うか、不気味なものがある。もし仮に、何も知らない赤の他人が夜道で今の彼女に遭遇したら泡を吹いて卒倒しかねない、ちょっとしたホラーだ。

 そんな事を考えながら僕がレトルトカレーを咀嚼している間に、キィはあっちに行ったりこっちに来たりと忙しなく室内を歩き回って、歩行技術を学習しつつ知識と経験を蓄積する。そして最初の頃は壁や家具に頻繁に衝突しては転んでばかりいた彼女も、次第に障害物を器用に回避するようになって、衝突と転倒の回数を減らしつつあった。最新式の高価なロイドとは違い、頭部も胴体も脚部も含めたキィの外装には、人間の皮膚感覚の様な熱や圧力を感知するための知覚機能は搭載されていない。だから彼女は自分が障害物に触れているか否かを直接的な情報として感じ取る事が出来ず、おそらくは各関節にかかる負荷から逆算する事によって、その機能をコアユニット内で補っているのだろう。

 これは余談だが、先に述べた通り、キィの胴体と脚部は歩行戦車ウォーカータンクの試作模型を流用したものだ。実際の歩行戦車ウォーカータンクは脚部がどんなに複雑な動きをしようが傾斜地を登攀しようが、パイロットが乗る胴体部分は常に水平を維持し、また同時に垂直方向の揺れも最小限に抑える事が可能な高度なバランサーが内蔵されている。このバランサーが未完成だった初期の歩行戦車ウォーカータンクは乗り心地が最悪で、ちょっと荒地を走っただけでも、コクピットの中はパイロットの吐瀉物まみれになったらしい。

 そして今のキィが操っている胴体と脚部には、正規の姿勢制御ソフトがインストールされていないのだから当然だが、そんなバランサーの様な機能は無い筈だ。にもかかわらず、彼女に搭載されたAIはその姿勢制御ソフトに相当する自らの新しい身体の制御アルゴリズムを、自身の経験のみを頼りに構築しつつある。実際、最初の頃はバランスを崩して歩行中はぐらぐらしていた頭部が、今ではほぼ完璧な水平を保てるようになっていた。まあ勿論、垂直方向の揺れは未だ解消し切れていないが、それもまた時間が解決してくれるに違いない。

「キィ、ちょっとこっちにおいで」

 背後から突然声を掛けられたキィは「キュイッ?」と一鳴きしてから、僕の方に向き直ろうとする。しかし頭部と胴体とを互いに固定し合うのに使用したクランプが頚部パーツに干渉して首が回し切れずに、結局は全身を半回転させる事によって、ようやく僕と対峙した。

「さあ、こっちにおいで」

 リビングの中央に置かれたソファに腰掛けたまま微笑む僕を目指しながら、まだまだ危なっかしいがそれでも大分慣れた足取りでもって、キィは歩み寄る。どうやら彼女は僕の発する言葉を問題無く聞き取れているらしいし、日本語を理解出来てもいるようだ。そして僕の足元まで辿り着いたキィはソファの座面に登ろうと試みるが、上手く登る事が出来ない。つまり水平方向への移動に関してはこの半時間ばかりでそれなりに経験を積んだようだが、垂直方向への移動はこれがほぼ初体験となるので、勝手が分からないのである。

「頑張れ、キィ」

 僕に応援されながら、キィはソファの座面に二本の前脚を乗せて全身を持ち上げようと試みるも、重心が後ろに偏り過ぎていてころりと転倒してしまった。そんな彼女を助け起こそうとした僕は手を貸す寸前で、ぐっと堪えて彼女の様子を見守る。ここで甘やかしてしまっては一歩でも前に進もうと懸命に尽力するキィのためにならないし、この僕自身もまた保護者として成長出来ないと感じたからだ。そして六本の脚を巧みに駆使し、まるで起き上がりこぼしの様にぐるりと反転しながら起き上がった彼女は、再びソファへの登攀に挑む。すると先程と同じように前脚をソファの座面に乗せるが、今度は事前に重心を前方に傾けるキィ。彼女は残り四本の脚を大きく後ろに引いて踏ん張る事でもってバランスを取り、一番重い頭部を持ち上げる事に成功すると、やがてぎこちない動きながらも座面へと登り切った。

「凄いぞキィ、本当に凄いぞ」

 僕が手を叩きながら褒め称えると、キィは僕の顔を見据えて「キュイッキュイッ」と嬉しそうに、やや誇らしげに肯定を意味するズーム音を奏でる。そして僕の真似をして彼女もまた左右の前脚同士を叩いてみせたが、衝撃吸収性の高い硬質ゴムでコーティングされた爪先はぱちぱちとは鳴ってくれずに、僅かにトントンと音がした程度であった。

「ほら、キィ」

 僕が呼び掛けると、キィは即座にその意図を汲んで、僕の太腿を枕にしてころりと横になる。そして彼女のちょっと重くて硬い樹脂材で覆われた頭を優しく撫でてやれば、僕の手の感触も体温も感じ取る事が出来ない筈のキィは「キューイ……」と語尾を延ばして嬉しそうに、そして心地良さそうに鳴いてくれた。可愛いキィがこんなにも喜んでくれているのかと思うと、汗だくになってまで彼女の新しい身体を持ち運んだ僕の苦労も報われたと言うものである。

「そうだ」

 不意に思いついた僕は、ローテーブルの上に置かれていたタブレットPCを手に取ると、挿しっ放しになっているケーブルのプラグをキィのコアユニットのUSBポートの一つに挿し込んでみた。しかし「キュイッ?」と鳴く彼女のズーム音を聞きながらキィの内部を覗き込んでみるも、やはりその中身は空っぽであり、何かしらのドライブが認識されているだけに過ぎない。新しい身体を与えられた事によって何かしらの変化が起こるのではないかと言う淡い期待を抱いての行動だったが、見事に裏切られた恰好である。すると落胆する僕の太腿を枕にしていたキィが、ゆっくりと起き上がった。そして右前脚を持ち上げてタブレットPCの上に乗せ、小さく「キュイッキュイッ」と鳴きながら僕の瞳をジッと見つめると、そのつぶらな瞳でもって何かを訴え掛けて来る。

「何? どうしたの? これを貸して欲しいのかい?」

 タブレットPCを指し示しながらの僕の問い掛けに、キィは「キュイッキュイッ」と同意した。そしてタブレットPCを足元に置かれた彼女はその画面を暫し凝視した後に、テキストエディタの一つであるメモ帳を立ち上げると、たどたどしい足付きでもって幼い子供の様にゆっくりとキーボードを叩く。

『キーサ』

 それが彼女が打ち込んだ初めての文字列であり、僕ら二人の言語によるコミュニケーションの第一歩だった。

「キーサ? それは何?」

 僕が尋ねると、彼女は更にキーボードを叩き続ける。

『キーサ アタシノ ナマエ』

「名前? つまりキーサって言うのが、キミの本当の名前なの、キィ?」

『ムカシ ミンナ アタシヲ ソウ ヨンダ』

 それは僕が初めて触れる、彼女の記憶の断片であった。

「それ以外には? それ以外の君に関する事を、全て教えてくれるかい、キィ」

『ナニモ シラナイ ナニモ オボエテ イナイ キーサノ データハ スベテ デリート サレマシタ』

「デリート……つまり、消去されたって事か……」

 僕はそう言って、がっかりと項垂れる。何故ならせっかくタブレットPCを介しての会話が可能になったと言うのに、僕が期待していたような情報が得られなかったからだ。そしてどうやらキィが覚えているのは、本来はキーサと言う自分の名前だけらしい。彼女の素性をもっと詳らかに知りたい気もしたが、全てを知ってしまうのはそれはそれで怖い気もするので、今はこれ以上深く追及しない事にする。開けなくてもいいパンドラの箱は、開けないに越した事は無い。今までの僕はそうやって、常に安全な道を選びながら生きて来たではないか。

「改めてよろしくね、キーサ。僕の名前は、カワキタ・ノボル。キミの同居人だよ」

 キーサの頭を撫でながら自己紹介を終えた僕に、彼女は「キュイッキュイッ」と嬉しそうなズーム音を響かせて、更にキーボードを叩く。

『ノボル ノボル カワキタ ノボル アタシハ キーサ アナタハ ノボル』

 僕の眼を見つめるキーサの、一切の表情が無い筈の無機質な樹脂に覆われた清掃用ワーカロイドの顔。それが心無しか、微笑んでいるように見えた。この笑顔を曇らせる訳には行かないのだから、今は余計な事は考えないでおこう。

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