第二幕


 第二幕



 前世紀の末に戦争が終わってから、今年でもう十八年の歳月が経過した事になる。ちょうど僕が生まれた年に始まって、三歳の時にようやく終わった戦争は、結果だけを端的に言ってしまえば敗戦だった。

 些細な民族間の衝突をきっかけとしてユーラシア大陸で勃発した『中華動乱』は、当初は只の地域紛争に過ぎなかったので、当事は誰もが、そのまま尻すぼみに終焉を迎えると予想していた筈である。しかし拡大する一方の戦火がやがて中東から北アフリカ一帯へと飛び火すると、イスラエルとアラブ諸国による泥沼の報復合戦が繰り広げられたところから、世界は引き返す事の出来ない戦乱の渦へと巻き込まれて行ってしまった。つまり僕が生まれ育ったこの日本国も含む世界中が戦地へと様変わりし、戦争などと言う物騒な事象は対岸の火事に過ぎないとばかりに傍観を決め込む余裕など、この地球上に生きる誰にも与えられなかったのである。

 中東での大規模戦闘の後に結ばれた『北京条約』を核保有国が律儀に守った結果、世界規模での全面核戦争へと突入する最悪のシナリオこそ回避されはしたものの、それは同時に果ての無い一大消耗戦の始まりを暗示するものでもあった。つまり先進国も後進国も分け隔て無く巻き込んだ熾烈な殲滅戦が展開され、正規軍も民兵もごちゃ混ぜになり、戦闘員と非戦闘員の区別が付かない状況下で大量投入された無人兵器が無差別に人間を狩り殺す地獄の様な惨状が繰り広げられたのである。そして最終的にはその無人兵器の投入が追いつかないまでに戦線が拡大し、前世紀までで終わったかと思われていた歩兵同士の突撃戦で雌雄を決する時代錯誤も甚だしい過程を経て、遂にこの国の戦争は敗戦をもって終焉を迎えた。

 勿論、世界規模で見ればその後も小さな内戦や紛争が継続されている地域は残っていたが、その頃から世界を覆い尽くしていた戦火は次第に下火になり、今現在では一応ながらも平和が世界にもたらされている。とは言えそれは本物の平和とは程遠いかりそめの平和でしかなく、戦争へと至った要因は何一つ根本的な解決が為されないまま、もうこれ以上は戦闘を継続する余力を敵味方の双方が失ったために訪れた、物理的に交戦していないだけの状態に過ぎない。

 事実この国の最期もまた曖昧模糊としたもので、戦勝国も敗戦国も疲弊が凄まじかったが故に、終戦協定は双方共に戦争を終わらせたいがために便宜上結ばれた急造品の様な代物だった。つまり、有名無実の形だけの講和である。そして僕らの国を打ち負かした戦勝国は、当事まだ他国との戦線を残していて、兵員をそちらに回す必要があった。そのため、僅かな占領軍が首都の一部を統制下に置いた以外は取り立てた占領政策が敷かれる事も無く、実質この国は戦争に負けたと言う事実を突きつけられただけで放置されたのである。

 どうせ払えるだけの余力も無い事を見透かされてか、戦後の賠償も僅かな額で手を打たれ、その他諸々の責任問題や外交問題もまた軒並み後回しか棚上げにされた。つまり全てが終わってみれば、結局は有耶無耶のまま戦前の国家体制と国際関係が再確認されただけの、本当に無意味で無意義な戦争だったと言える。

 秋葉原のジャンクパーツ屋で買い求めたロイドの頭部が詰まった紙袋を抱えて日比谷線に乗る僕がそんな事をふと思い出したのは、この駅の構内が、戦時下でのシェルターと物資運搬を兼ねた施設として補強及び改修された事を思い出したからなのかもしれない。勿論今は、そんな東京メトロも只の公共交通機関の一つに過ぎず、戦争の面影はどこにも残されていなかった。つわものどもが夢の跡とは、まさにこの事である。

「次は入谷、入谷です。足元にご注意ください」

 そうこうしている内に入谷駅に到着したので、僕は帰宅ラッシュで混雑する車内から駅のプラットホームへと降り立つと、結構な大荷物であるジャンクパーツ屋の紙袋を抱え直した。そして自動改札を通過して地上に出ると通い慣れた言問い通りを東進し、やがて国際通りと交差する付近に建つ、僕が住む賃貸マンションに足を踏み入れる。

「あらカワキタさん、こんばんは」

「あ、こんばんは」

 賃貸マンションのエントランス兼エレベーターホールで隣の部屋に住む老婆のオオクマと偶然出会ったので、僕らは挨拶を交わし合った。言うまでも無い事だが脚が悪いオオクマは、今夜もまた彼女が所有する介護用ワーカロイドが押す車椅子に乗っている。

「こんばんは、カワキタ様」

「こんばんは」

 そんな車椅子を押すワーカロイドとも挨拶を交わすと、やがて到着したエレベーターに僕ら二人と一体は乗り込んだ。そして目的の階に到着してエレベーターを下りた僕に、オオクマは声を掛ける。

「そうだ、カワキタさん。もし良かったら、うちに寄って行ってお茶でもいかがかしら? ちょうど貰い物のクッキーがあるから、お茶と一緒にそれもいただきましょう」

「ええと……すいません、ちょっと急いで片付けたい用事があるんで、今日のところは遠慮させてください」

 僕は苦笑いと共に、申し訳無さそうに頭を下げながらオオクマの誘いを断った。

「あら、そうなの? だったら、お茶はまたの機会にしましょうか。たまには若い人とお喋りしたかったんだけれど、残念ねえ。それじゃあ、お休みなさい」

「お休みなさい」

 そう言った僕は賃貸マンションの廊下でオオクマと別れ、自分の部屋へと帰還する。

「ただいま」

 玄関に足を踏み入れると同時に虚空に向かって帰宅を告げるも、僕は独身なので、当然ながら誰からの返答も無い。しかしそんな事を気にしている間も無く、店名も何もプリントされていないジャンクパーツ屋の粗悪な紙袋と通勤鞄をリビングのローテーブルの上に放り出すと、安物のスーツから簡素な部屋着に着替えて人心地ついた。そこそこ重い荷物を抱えて帰ったので全身からは軽く汗が噴き出しており、やや湿ったスーツとワイシャツをソファの背に拡げて乾かす。

「さて、と」

 ローテーブルの上に放り出された紙袋の中身を一刻も早く検分したくもあったが、取り敢えずはぐうぐうと虫が鳴くほど空いている腹を満たす事が先決だ。そう思った僕は電子レンジでチンした冷凍のご飯に熱湯で温めたレトルトカレーをかけただけの簡素な夕食をこしらえると、それをリビングのソファに腰を下ろしてもそもそと食み始める。そして食事のついでにタブレットPCを起動してネットサーフィンに勤しめば、閲覧していたニュースサイト上で自動再生されている動画が眼に留まった。その動画は政府の広報で、ネット上でも有名な芸能人達が不自然な笑顔と共に「人口増加促進法にご協力を!」と連呼する、ある種のプロパガンダ動画である。

「人口増加促進法か……」

 平成の頃から深刻であった少子高齢化に加え、戦争による若年層の急激な減少が致命傷となり、この国の人口問題はとうとう自然増加による出生率では回復が見込めないレベルにまで達した。それを短期間で打開するための国策として施行されたのが、一人の女性が一生に三人以上の子供を産む事を半ば義務化し、出生率が4.00を超えて安定するまで続けられる限時法の一種の、人口増加促進法である。

 当然ながらそんな異常な法令は、施行以前から現在に至るまでも、女性の人権無視との非難は国内外から絶える事が無い。だがしかし、そうでもして若い世代を強制的に増やさなければ、この国の国家体制と国民生活に未来は無い事もまた事実であった。そこで子供を多く産むほど国から『子育て支援金』の名目で手厚い助成金が給付され、妊婦及び子育て中の夫婦には充分な産休と育休が保障される事を条件に、この法令は時の議会で可決されたのである。勿論中には後進国から大量の難民を受け入れて人口問題を解決しようと主張する政治家達も居るには居たが、そんなどこの誰とも知れない異民族にこの国を乗っ取られるくらいなら多少の犠牲を払ってでも民族の誇りと文化を守ろうとする純血主義が、結局は大勢を占めた。

 まあ何にせよ、この僕には関係の無い世界の話なので、タブレットPCの画面上で再生されているプロパガンダ動画をスキップしてネットサーフィンを続ける。人口を増やすと言う国策は、それが可能である恵まれた人間達に一任させておけば良い。

「ごちそうさま」

 やがてレトルトカレーによる夕食を食べ終えた僕はそう言うと、キッチンの流し台で皿とスプーンを洗い、カレーの入っていたパウチ式の袋と外箱をゴミ箱に放り込んだ。そして砂糖と牛乳たっぷりのインスタントコーヒーを注いだマグカップを持ってリビングへと戻ってから、いざ件のジャンクパーツ屋の紙袋と向き合う。

「ふうん?」

 紙袋の中からおごそかに取り出されたのは、どこぞの店のチラシや包装紙などの屑紙で適当に包まれた、人間の頭大の塊であった。そしてキャベツの葉を外側から剥くようにその乱雑な梱包を解いてやると、やや薄汚れた白いロイドの頭部のみがその姿を現したので、僕は改めてその姿を眺むる。

 それは小学生の女の子の頭くらいの大きさの、随分と古い型式のロイドの頭部であった。またどうやら単眼型モノアイタイプと呼ばれる眼が一つだけしか無い種類のロイドらしく、顔の中央に嵌め込まれた光学式の丸く大きな眼が特徴的だが、それ以外には特にこれと言って鼻や口に該当する器官は存在しない。そして全体的にのっぺりとしたシンプルな顔立ちで、人間における耳に相当する箇所には小さな穴がいくつも開いた円盤型のパーツが確認出来るが、たぶんこれが聴覚センサーなのだろう。

 ざっと見たところ、頭部は大まかに前頭部、頭頂部、後頭部、左右の聴覚センサー、それに胴体に繋がるべき頚部の六つのパーツから成立しており、後頭部には開閉式のメンテナンスハッチが口を開け、額にはPF社のロゴマークと共に『sz0079i』の文字がプリントされていた。PF社と言えば、昭和の昔から現在までもこの国の製造業の第一線を担い続ける世界屈指の大企業であり、ロイドの生産の分野では国内シェアの実に四割を占めている。

「sz0079iっと……」

 そこでタブレットPCを使って検索してみると、この頭部の正体はあっさりと判明した。つまりsz0079iと言う型番のロイドは、もう二十年近くも前に製造された清掃用のワーカロイドであり、本来ならばこの頭部の下にそこそこゴツい胴体が装着された状態で、オフィス等での清掃業務に従事していた筈である。そしてそんなロイドがどう言った経緯を経たのかは不明だが、いつの間にやら秋葉原の裏通りのジャンクパーツ屋に流れ着いて、二束三文で投げ売られていたと言う事らしい。またついでに、仮に首から下を別途購入したらどれ程の金額になるのか調べてみようと思ったが、公式サイトによるととっくの昔に製造も販売も終了されていたので、それ以上調べるのは徒労と判断した。

「人間だったら、僕と同じくらいの年齢か……。性別は、きっと女の子だな」

 そう呟いた僕の言葉通り、改めてじっくりと観察してみれば、このロイドはなかなかに愛嬌のある可愛らしい顔立ちをしている。人間と生活を共にする民生のロイドの場合、程度の差こそあれ、その容姿や声などは人間の女性を模している場合が多い。その最大の理由はユーザーに無用な威圧感を与えないためであり、このロイドもまたそんな事情でもって、女性的な外観を有しているのではなかろうか。つまり過度に無骨な外観よりは、柔和で丸みを帯びたシルエットの方が、接するに際して心的ストレスが少なくて済む事と言う事である。

「それで、中身はどうなってるんだ?」

 僕は独り言ちながら留め具を抜いて、ロイドの外装の内の、後頭部を覆うパーツを取り外してみた。取り外した後頭部のパーツは、ウェットティッシュで軽く拭いて汚れを除去しておく。すると開口された頭部の中央に整然と納められた、直径十㎝余りの黒光りする金属球が姿を現した。つまりその金属球とは人間で言うところの脳に相当する、ロイドの思考と行動を制御するためのコアユニットである。そして僕は損耗の程度や状態を確認するために、そのコアユニットをロイドの頭部から取り出すと、両手で挟み込むようにして抱え上げてみた。幸いにも、暗いメタリックブルーに輝くそれは頭部の外装に比べるとそれほど汚れや傷は無く、思っていたほどの古さは感じられない。

「ん? やけに重いぞ」

 抱え上げたコアユニットが予想以上に重かったので、僕は少しばかり訝しむ。表面はチタンか何かの相当硬い金属で出来ているようだが、もしかしたら中心部まで全て金属が詰まっているのではないかと思わせるほどのずしりとした重さだ。そして不思議な事に、隙間無く組まれた六つのパーツから構成されているそのコアユニットの表面にはネジやボルトの類が一切見当たらず、一体どうやって組まれたのか、どうやれば分解出来るのかもさっぱり分からない。

「見た事も無いコアユニットだな……」

 矯めつ眇めつ観察してみると、その不思議な金属球の表面には、何やら文字らしきものがプリントされている。ちなみに「文字」ではなく「文字らしきもの」と表現したのは、それが削り落とされていて、殆ど読み取る事が出来なかったからだ。前述したように金属球の表面には傷や汚れなどは殆ど無かったのだが、その部分だけは例外で、どうやらコンクリートの壁か何かに擦り付けてプリントされていた文字列を強引に読み取れなくしたらしい。つまり、明らかに意図的な行為である。だがしかし、それでも文字列の最初の二文字だけは解読出来た。アルファベットで、小さく『Ke』とだけプリントされている。

 翻って、その文字列がプリントされた面の反対側の面もまた謎に満ちていた。そこに並んでいたのは、蜂の巣の様にずらりと並ぶUSBポートと電源ポート、それに透明な樹脂製の開閉式カバーに保護された起動ボタン。勿論この二種類のポートとボタンは、もう百年近くも前からハイテク業界全般で規格が統一されているので、その用途は一見しただけで理解出来る。しかし電源ポートと起動ボタンは別として、問題はUSBポートの数があまりにも多過ぎる点だ。本当にロイドのコアユニットであれば、頭部と胴体の制御用に二つ、それにメンテナンス用に一つの、最低三つのUSBポートが用意されていれば充分な筈である。勿論、高性能で複雑な機能を有するロイドに限れば複数のUSBポートを要求される事も有り得るが、それにしてもこのポートの数はロイドの制御用としてはあまりにも多過ぎる。

 この段になってようやく、これはもしかするとあのジャンクパーツ屋の店主に、ロイドのコアユニットとは全く関係の無いガラクタを掴まされたのではないかと言う不安が頭をよぎった。だがもはや、どうしようもない。どう考えてもあの偏屈そうな老人が返品を受け付けるような人種には見えなかったし、そもそも気弱な僕自身にそんな事をする気概があったら、今なんかよりももっと図太く生きて行けただろう。

「はあ」

 金をドブに捨てたかもしれないと言う喪失感に、僕は軽く溜息を吐いた。しかしそれでも、なんとか気を取り直すと、ロイドの頭部の分解と洗浄を再開する。そしてビスを次々と抜きながら、とりあえず樹脂製の外装と、視覚を司る眼のレンズや聴覚センサーなどの電子部品とを分離してみた。すると意外にも、眼にあたる部分に嵌め込まれていた円形で透明の板そのものはレンズではなく只の保護フィルターで、その奥に今ではあまり使われなくなったモーターで回転させる事でピントを合わせるタイプの旧式のレンズが見て取れたので、少し驚く。最近は電荷を加えて伸縮させる事で人間の眼の水晶体の様にピントを調節する有機高分子素材を利用したレンズが主流だから、これはちょっと珍しい。

 分解した結果、どうやらセンサー類は視覚と聴覚のみらしく、嗅覚や味覚、ましてや外装表面に特殊なコーティング剤を塗布する事によって外部からの熱や圧力を感知するなどと言った複雑な知覚機能は発見されなかった。まあ、元々は清掃用のワーカロイドなので、そんなコストが掛かるような高尚な機能は必要とされなかったのだろう。そして取り外した電子部品は軽くブラシで埃を取り除き、外装はバスルームの洗面台でざっと水洗いしてからよく拭いて乾かすと、思っていたよりも本来の白さを取り戻して綺麗になった。今にして思えば、あのジャンクパーツ屋の店主がくゆらせていたタバコのやに汚れも、レンズの保護フィルターや外装に付着していたのかもしれない。

「ふう」

 洗い終えた外装を抱えたままバスルームからリビングに戻り、すっかり冷めてしまったマグカップのコーヒーを半分ほどまで胃に納めて人心地ついた僕は、いよいよ全てのパーツを組み立て直そうと試みる。しかしちらりとローテーブルの端に置かれた卓上時計に眼を遣れば、ロイドの検分を開始してから随分と時間が経過していて、普段ならばもう寝る時間であった。そこで今夜はもうこれで終いにして寝てしまおうかとも考えたが、こんな中途半端な状態でもやもやしたまま明日を迎えるのも気持ちが悪いし、どうせ明日は休日なので、このまま作業を続ける事にする。

 やがて後頭部以外の外装を組み立て終え、コアユニットとそれに接続した各種センサーなどの電子部品もまた元の場所に固定し直し、とりあえずはテスト起動をしてみようと言う段になってからはたと気付いた。よりにもよって、肝心要の電源が無いのである。

「電源なら確か……ああ、あったあった」

 リビングの収納ボックスに詰め込まれていたガラクタの山の中から、二年前まで使っていたデスクトップPC用の電源ケーブルを引っ張り出して来てコネクタの形状を確認すると、運が良い事にロイドのコアユニットの電源ポートと規格が一致した。そこでとりあえずはこれを差し込んで、コンセントから直接、起動に必要な電源を得る事にする。

「これで起動っと……」

 残り半分のコーヒーも飲み干してから、僕はいざ、コアユニットの起動ボタンを押し込んだ。しかしボタンが起動状態を示す淡い緑色に点灯した以外には、特にこれと言った反応は無い。そこで僕は、何故今の今までそうしなかったのか理解に苦しむが、このロイドのコアユニットの電子情報としての中身を調べてみようと思い立つ。そして先程ロイドの型番を検索するのに利用したタブレットPCとコアユニットとを、互いのUSBケーブルで繋いでみた。これで、コアユニットの正体が判明する筈である。

 だがしかし、結果だけを端的に言ってしまえば、コアユニットの中には何も無かった。いや、正確に言えば何かしらのドライブの様な物を認識してはいるので、完全に何も無い訳ではないらしい。とは言えそのドライブの中身は空っぽで、一切のドライバもOSも、ファームウェアすらも積んでいない事だけが確認出来る。それにセキュリティが厳重なのか、こちらからのアクセスは頑なに拒否されてしまっていて、何かしらのコマンドを実行しようにもまるで埒が明かない。

「糞! やられた!」

 悪態を吐いた僕はソファの背に大きく体を預けて嘆息し、天を仰いだ。胸の内に湧き上がって来るのはささやかな怒りと後悔の念と、乾いた笑いのみである。つまり僕は、よりにもよってそこそこの金額を払って、何の役にも立たないポンコツロイドの古びた頭部を買って来ただけだったのだ。骨折り損のくたびれ儲けと言うか、馬鹿のする事休むに似たりと言うか、とにかく金と時間を無駄にしただけの文字通りの徒労である。

「もうこんなガラクタの事は忘れて、寝よう」

 落胆しながらそう独り言ちた僕がソファから腰を上げようとしたその時、不意に「キュイッ」と小さな音がした。見るとロイドの頭部の、人間で言うところの眼にあたるレンズが保護フィルターの奥でズームを繰り返し、ピントを調節するためのモーター音を奏でている。そこでコアユニットと接続されたままになっているタブレットPCの画面を覗いてみるが、予想に反して、そこには何の変化も見られなかった。相変わらずこの金属球、つまりコアユニットの中身は空っぽで、一切のデータも記録されていないし動作音も聞かれない。だがしかし、レンズがズームを繰り返すモーター音は尚も続いている。

「キミは、壊れているんじゃないのか?」

 そう問い掛けながら、試しに僕の手をレンズの正面にかざして前後させてみると、そのロイドの頭部は「キュイーッキュイーッ」とピントを合わせるためにモーターを駆動させた。

「キミからは僕が見えているの? 僕の声は聞こえているの? もし聞こえているんだったら、レンズを二回ズームさせてみてくれる?」

 僕が要請すれば、レンズは「キュイッキュイッ」と二回素早くズームされた。つまりどうやらこのロイドには僕の声が聞こえているらしいので、僕は提案する

「それじゃあこれからは、僕の質問にイエスだったら二回、ノーだったら一回だけレンズをズームさせてくれ。いいかい?」

 するとロイドは、やはり「キュイッキュイッ」とレンズを二回ズームさせて、僕の提案を承諾した。

「もう一度聞くけど、キミは壊れているの?」

 改めてそう問い掛ければ、レンズは一回だけズームされたので、少なくともこのロイドは自分自身が壊れているとは判断していないらしい。

「そもそも、キミはロイドなの?」

 今度は二回のズーム。それはつまり、このコアユニットはロイドのコアユニットだと言う事を意味している。

「そうか、キミはロイドなのか……」

 気を取り直して、僕は眼の前のロイドを観察した。リビングのローテーブルの上に頭部だけとなって据え置かれたそれは、まるで江戸時代の罪人のさらし首を連想させて少し不気味ではあるが、その顔立ち自体はやはり愛嬌があってなかなかに可愛らしい。そして少しばかり思案した後に、僕はこの謎多きコアユニットとそれに搭載されたAIを、もう少しだけ観察する事にする。つまり、眼前のロイドと生活を共にする事を決意したのだ。

「そうと決まったら、まずは何か、名前を付けてやらなくちゃな」

 僕は彼女、つまり女性を模した外観を有するこのロイドの頭部に、今現在判明している唯一の情報であるアルファベット二文字を取って名付ける。

「よし、決めた。今日から、キミの名前は『キィ』だ」

 コアユニットの表面にプリントされている『Ke《キィ》』こそが、彼女の新しい名前であった。

「これからよろしくね、キィ」

 僕がそう言うと、キィと呼ばれたロイドはレンズを二回ズームさせて、肯定の意思を告げる。

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