第一幕


第一幕



 霞ヶ関駅の構内から地上に出てみると、頬を撫でる風が少しだけ暖かかった。通勤ラッシュの人混みで上気した肌から立ち上る湿気で眼鏡が若干曇っている事に気付いた僕は、もうそろそろコートが必要なくなる季節が到来するななどと、安物のスーツの上に羽織った黒いダッフルコートをちらりと一瞥しながら思う。今はもう四月、つまり春なのだ。

「おはようございます」

 いつも通りの挨拶と共に代わり映えのしない自分の職場に足を運んだ僕は、やはり普段と変わらない自分の仕事を黙々とこなす。窓の外では春の風が吹いているが、社会人である僕らにはそんな事で浮かれている暇は無いのだ。すると始業から一時間ばかりも経過した頃に、不意にトタニ室長代理がぱんぱんと手を叩きながらその場に居合わせた全員に呼び掛ける。

「よし、全員こっちに注目!」

 そう言われたので他の同僚達と共に集まってみれば、僕らを集合させたトタニ室長代理の隣に一人の少女が立っていた。いや、少女と形容するのはいささか失礼なので、一人の女性が立っていたと言い換えるべきなのかもしれない。しかしその女性は小柄で細身で童顔で、長い黒髪を二つ結いにした可愛らしい顔立ちを特徴としていた事から、僕が思わず少女と形容してしまったのも致し方無い事だろう。

「今日から皆と一緒に仕事をしてもらう事になった、ナガヌマだ。大学を卒業したての右も左も分からない新人だから、基本的な事からしっかりと仕事を教えてやってくれ」

 トタニ室長代理がそう言って、ナガヌマと呼ばれた女性を紹介した。

「初めまして、ナガヌマです。何も知らない素人ですので、皆様には色々とご迷惑をお掛けしてしまうかもしれませんが、どうかよろしくお願いします」

 育ちの良さそうな丁寧な言葉遣いで挨拶したナガヌマが深々と頭を下げると、その小柄な身体が益々小さく見える。特に長身のトタニ室長代理と並ぶと、性別が同じな事もあって、その小柄さが際立っていた。ちなみにこの僕自身もまた平均的な日本の成人男子の体格と比較すると小柄で細身だが、ナガヌマはそんな僕よりも更に一回り以上小さい。

「よし、それじゃあ各自、仕事に戻ってくれ」

 やはりぱんぱんと手を叩きながら解散を促されたので、僕を含めた同僚達は仕事を再開する。するとそんな僕の方へと、ナガヌマを連れたトタニ室長代理が歩み寄って来た。

「カワキタ、ちょっといいか?」

「はい、何ですか?」

「今紹介したように、新人のナガヌマだ。それでカワキタ、彼女は今日からお前の補佐として、一緒に仕事をしてもらう事にする。ちょうどお前と同じ会社から派遣されて来たのも、何かの縁だろう。だから親身になって、一から仕事を教えてやってくれ」

「はあ……」

 突然の事に、僕は少しばかりうろたえる。しかし直属の上司からの命令なので、無下に断る訳にも行かない。

「分かりました。ええと、とりあえず僕の仕事を手伝ってもらえばいいんですか?」

「ああ、それで頼む。ナガヌマもカワキタの言う事をよく聞いて、早く仕事を覚えてくれ。それじゃあ、後は二人でよく話し合ってくれよ」

 トタニ室長代理はそう言い残すと、フロアの奥の自分のデスクへとさっさと戻って行ってしまった。彼女が立ち去った後には困惑する僕と、未だ何も知らされていないであろうナガヌマだけが残される。

「よろしくお願いします、カワキタさん」

 ナガヌマが僕に向かって、やはり育ちが良さそうに礼儀正しく頭を下げた。

「うん、こちらこそよろしく、ナガヌマさん」

 僕が軽く会釈すると、ナガヌマは妙な事を尋ねる。

「あの、カワキタさんの下の名前を教えていただけますか? それで、これからは下の名前でお呼びしてもよろしいですか?」

「え? ああ、僕の下の名前はノボルだけど……どうして?」

「カワキタ・ノボルさん……。ええと、実はあたし、もう既にカワキタさんと言う知り合いが二人も居るんです。ですからその二人と混同しないように、下の名前で呼ばせてください。……ご迷惑ですか?」

「いや、別にいいけど……」

「でしたら、改めてよろしくお願いします、ノボルさん」

 はきはきとした声でそう言ったナガヌマは、にこりと微笑んだ。それはまるで、天使の様に可愛らしい極上の笑顔であり、僕の様な物理的にも精神的にも矮小な存在からすると余りにも眩し過ぎる。

「それでナガヌマさんは、僕らがどんな仕事をしているか、どの程度把握しているの?」

 気を取り直して、僕は尋ねた。

「ええと、計算機を扱う仕事であるとは聞かされています」

「うん、そう。正確に言うと超高速計算機、つまり俗に言うところのスーパーコンピューターの維持管理を任されているのが、僕らが所属するこの超高速計算機管理室なんだ。それで僕は、そのスーパーコンピューターを使わせてほしいと申請して来た個人や団体を審査した上で、その運用スケジュールを組み立てる仕事をしている。たとえばこれは、来週からスーパーコンピューターを使う予定の大学の研究室の申請書類だよ」

 そう言った僕が自分の業務用PCの画面に件の申請書類を表示すると、ナガヌマは食い入るようにそれを見つめながらうんうんと頷いている。

「それじゃあ、次にその審査の仕方を順を追って教えるから、良く見ておいて」

「はい、ノボルさん」

 僕はその後、午前中一杯をかけて、新人であるナガヌマに僕らの部署の仕事の概要を説明した。勿論口で説明されただけでは要領を得ない点も多いだろうが、それでもナガヌマは懸命に理解しようと僕の言葉に耳を傾ける。そして気付けば時計の針が頂点を指して正午を迎えていたので、一旦仕事の手を止めてナガヌマを解放し、僕もまた昼食を摂る事にした。

「毎度ありがとうございます。またのお越しをお待ちしております」

 やはり店員のワーカロイドにお定まりの礼を言われながら、僕はコンビニで菓子パンとコーヒー牛乳を買ってから来た道を取って返す。すると新庁舎に戻って来たところで、セキュリティゲートのすぐ脇に設置された、ガラス張りの閉鎖型喫煙所の中でタバコを吸っているトタニ室長代理と眼が合ってしまった。やにで汚れたガラスの向こうから、その場に留まるように身振り手振りで訴えかけて来るトタニ室長代理。彼女の要請に従ってその場に留まっていると、茶色くて細長い高級そうなタバコを吸い終えたトタニ室長代理が急いで喫煙所から出て来て、僕に歩み寄る。

「よお、カワキタ」

 タバコのやに臭い息を吐きながら、濃紺色のパンツスーツ姿のトタニ室長代理が馴れ馴れしく僕の肩を抱いた。彼女は今時珍しい、有害物質を多量に含んだ昔ながらのタバコを愛飲する喫煙者である。

「何か、僕に用ですか?」

 嫌味にならない程度に棘のある口調でもって、僕は尋ねた。

「なんだ、機嫌が悪そうだな。お前、カルシウムが足りてないんじゃないのか? ん?」

 トタニ室長代理は人をからかうようにそう言いながら、けらけらと笑う。

「急ぎの用が無いのなら、後にしてもらえますか? 僕、早くお昼を食べたいんで」

「まあまあ、そう言うなよ、つれない奴だなあ。……それでカワキタ、ナガヌマの様子はどうだ? お前の眼から見てどう思うよ、彼女?」

「ナガヌマさんですか? ……そうですね、僕の話を真面目に聞いてくれていますし、良い人なんじゃないですか?」

「そうか、そりゃ良かった。だったらこれからも引き続き、ナガヌマと仲良くしてやってくれよ。な?」

 何か含みがありそうな、意味深な口調でもってそう言ったトタニ室長代理。彼女の意図が読めない僕は、ぽかんとした間抜けな表情のまま「はあ……」と生返事を返すばかりだ。

「それじゃあ、あたしはもう一本タバコを吸って来るから、お前は先に戻っててくれ」

「あ、はい」

 喫煙所に足を向けたトタニ室長代理から解放された僕は、セキュリティゲートを通過してエレベーターに乗り込むと、新庁舎の三階を目指す。そして自分の職場の自分の席に着いて菓子パンとコーヒー牛乳による昼食を食み始めてみれば、すぐ隣の席ではナガヌマが弁当を食べていた。弁当はどうやら手製らしく、やけに小さくて可愛らしい弁当箱の中に色とりどりの主菜や副菜が並ぶ。

 その時、ふと僕とナガヌマの眼が合った。するとナガヌマは嫌な顔一つせずに、弁当箱と同じように可愛らしい朗らかな笑顔でもって、にこりと微笑み掛けて来てくれる。その笑顔があまりにも可愛らし過ぎて、僕は無作法にも、うっかり微笑み返すのを忘れてしまった。

「ノボルさんは、お昼はいつもパンなんですか?」

「え? ああ、うん。まあ、たいていはパンかな」

「そうなんですか、美味しそうですね。あたしも明日は、お弁当じゃなくてパンにしようかな」

 尚も朗らかに微笑みながらそう言ったナガヌマは、まるでお人形さんの様に綺麗で、本当に可愛らしい。しかも背筋をぴんと伸ばして姿勢を正し、教科書通りの綺麗な箸の持ち方で行儀良く弁当箱の中身を口に運ぶその姿は、年相応以上に優雅で可憐である。そして僕は、よせばいいのに、こんなに可憐な女性ならばすぐにでも結婚相手が見つかるのだろうななどと余計な事を考えてしまった。何でもかんでもすぐに結婚と結び付けて考えてしまうのは、決して人には誇れない、僕の悪い癖である。とは言え、僕の予想も決して的外れではないのではなかろうか。きっとこのナガヌマと言う女性も結婚までの腰掛けのつもりで就職したのだろうし、上司もまた同じ省内のキャリア組に結婚相手を斡旋する目的でもって彼女を採用したのだろうと、意地悪く邪推してしまう。

「どうかしましたか、ノボルさん?」

「いや、別に。何でもないよ」

 特に会話も弾まないまま僕らはそれぞれの昼食を食べ終え、気付けば昼休みを終えていた。そして午後もまたナガヌマに仕事の要旨や手順を教えている内に、やがて終業時間を迎える。

「それじゃあ続きはまた来週教えるから、今日はもう終わりにしようか」

「はい、お疲れ様でした」

 はきはきとそう答えたナガヌマと共に退庁の打刻を終えた僕はスーツの上からダッフルコートを羽織り、同僚達に「お先に失礼します」とだけ言い残すと、そそくさと新庁舎を後にした。そして霞ヶ関駅で東京メトロ日比谷線に乗ると秋葉原駅で途中下車し、毎週金曜日の習慣として電気街を目指す。

「ああ、やっぱりロイド、欲しいなあ……」

 やがて辿り着いた大型店舗の店先で、やはりトランペットを欲しがる黒人少年の様に垂涎の眼差しでもってショーウインドウの中のロイド達を眺めながら、僕は呟いた。しかし幾ら眺めていてもロイドは値下がりしないし、トランペットを買い与えてくれる優しい紳士も現れない。そしてそんな僕を嘲笑うかのように、ショーウインドウの中に展示されたロイド達は、それぞれがこなせる労働のデモンストレーションを延々と繰り返す。

「はあ……」

 落胆した僕は深く嘆息しながら、ショーウインドウに背を向けた。そして秋葉原駅まで戻る途中で何の気無しに、電気街の大通りから一本奥の脇道へと足を踏み入れる。すると途端に、がらりと雰囲気が変わった。大通り沿いに立ち並んでいた煌びやかな大型店舗とは違って、こちらには個人経営や家族経営のひっそりとした小規模な店舗が軒を連ねている。

「中古のロイドか……それなら僕にも……」

 それらの小規模な店舗の店先には使い古された中古のロイドや、個人で一からロイドを組み立てたりカスタマイズしたりしようと言う顧客向けの様々なパーツ類が所狭しと並んでいた。そして僕の呟き通り、そんな中古のロイドやロイドの一部だけならば、安月給の派遣社員でも手が届くかもしれない。そう考えた僕はふらふらと、軒を連ねる店舗の店先を物色しながら、秋葉原の街の裏通りを奥へ奥へと彷徨い続ける。

 やがて気付けば、街の中心部からは随分と離れた場所まで来てしまった。この辺りは人通りもまばらで、大型店舗はおろか正規の商品を取り扱う店舗そのものが姿を消し、暗い夜道の所々にポツリポツリとジャンクパーツ屋が散見される程度の賑わいぶりになる。また通りの幅が狭くなったのと街灯が少なくなったためか、心無しか空気がどんよりと重くなったような気がしなくもない。治安も決してよろしくないこの界隈に、僕の様な小柄で痩せっぽちのひ弱な眼鏡男子が足を踏み入れるのは、肉食獣のうろつくサバンナに小鹿が一匹で迷い込むようなものだ。特段の用事がある訳でもないので、僕は早々に立ち去る事にする。

 するとその時、出来るだけ明るい道を選ぼうと手近な大通りの方角に足を向けた僕の眼が、ある店舗の店先の一点に釘付けになった。その店舗とは、薄汚れた雨避けの幌にさえ碌に店名も書かれていない、戦前から店構えも変えていないであろう見るからに怪しい小さなジャンクパーツ屋である。そしてその店先に並べられた錆だらけの金属ラックには半透明の樹脂製のケースが幾つも収められ、それらには様々な電化製品のジャンクパーツが所狭しと押し込められており、そんなケースの一つにロイドの頭部だけが乱雑に放り込まれていた。

「!」

 白い樹脂製と思しき外装に覆われた、僕の頭よりもやや小ぶりくらいの頭部だけとなったそのロイドと、眼が合う。いや勿論、起動していないロイドと眼が合う訳が無いのだが、それでも物言わぬ眼差しに、何故か僕は魅入られたかのように身動きすら出来ない。

「これ、何のパーツですか?」

 僕はそのロイドの頭部を指差しながら、店舗の入り口横で簡素な丸椅子に腰掛けたままタバコをくゆらせている、店主と思しき痩せた老人に尋ねた。すると老人は、不機嫌さを隠そうともしない皺くちゃの表情を崩す事無く答える。

「ロイドノ頭。ソレ以外ワカラナイ。中身オカシクテ、マトモニ動カナイジャンク品ヨ。パーツトリ用ニ安クシトクヨ。買ウカ?」

 そう言った老人は、歩道にペッとタバコのやに交じりの唾を吐いた。明らかにネイティブな発音ではない老人のカタコトの日本語に、僕の警戒心は高まる。それに店主にすらまともに動かないと言われるような代物ならば、きっとこのロイドの頭部を買ったところで、貴重な金をドブに捨てるのが関の山に違いない。そこで僕は薄笑いを浮かべながら「じゃあいいです」と言って老人に手を振ると、妙に後ろ髪を惹かれながらも店の角を曲がり、大通りを目指して歩き始めた。そして路上強盗に襲われる事も無く表通りまで辿り着いた僕は、未だ晩飯を納めていない空きっ腹を抱えたまま、秋葉原駅へと向けて来た道を引き返す。

 だがしかし、帰宅ラッシュの時間を迎えて混雑する駅の下りエスカレーターに乗った僕の頭の中は、さっきジャンク屋で見かけた頭部だけのロイド事で一杯だった。あんな物は、只のジャンク品に過ぎない。どうせ、どこの誰が触ったかも知れない薄汚れた外装の中に、壊れたガラクタが詰まっているだけの粗大ゴミに決まっている。そんな言葉を自分自身を説得するかのように心の中で何度も繰り返す事で、僕は早々に、記憶の中からあのガラクタを抹消しようと努める。

 ところがそんな願いとは裏腹に、忘れてしまおうと思えば思うほど、あのロイドの何かを訴え掛けて来るかのような眼差しが忘れられない。運命なんて言う薄っぺらいオカルト用語は信じちゃいないが、そうとしか思えない何かが僕の胸の内にふつふつと湧き上がり、喉元までこみ上げて来るのが手に取るように感じられた。

「あれがきっと、僕だけのロイドなんだ」

 そう思った瞬間、駅の構内を歩いていた僕の足が止まる。プラットホームへと向かう人の流れの中で突然立ち止まった僕は、後ろから来た駅の利用客に突き飛ばされ、ガラの悪そうな若い男にチッと舌打ちされてしまった。しかしそんな舌打ちを気にしている間も無く、何度も「ごめんなさい、すいません」と謝りながら流れに逆らうように人混みを掻き分けると、地上へと向かうエスカレーターを一気に駆け上がる。

 やがて地上に出ると最初は小走りに、次第に速度を上げて、最後は殆ど全力疾走に近い速度でもって秋葉原の街の裏通りを駆け抜けた。そしてジャンクパーツ屋の前まで辿り着いてからようやく足を止めた僕の呼吸はぜえぜえと荒く、心臓もバクバクと早鐘を打つ。こんなに全力で走ったのは、一体何年ぶりの事だろうか。いや、もしかしたら、生まれて初めての経験かもしれない。

 額から大粒の汗を垂らしながら過去を振り返っている僕の姿を、相も変わらず店の入り口横でタバコをくゆらせている国籍不明の店主はさほど表情も変えずに、だが少しだけ物珍しそうに眺めている。しかしそんな好奇の眼差しを気にする事無く、僕は覚悟を決めるために何度も深呼吸を繰り返した。そして店主の眼を見据え、金属ラックに詰まれた樹脂製のケースの中のロイドの頭部を指差しながら、半ば叫ぶような勢いでもって言い放つ。

「やっぱりこれ、ください!」

 店主の不機嫌そうな面構えが、まるで「してやったり」とでも言いたげな湿った笑顔へと変貌した。

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