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大竹久和

プロローグ


 プロローグ



 枕元に置いた携帯端末が電子的なアラーム音によって起床の時間を告げたので、僕は温かい布団の中で眼を覚ました。そしてベッドからのそりと這い出すと洗面所で顔を洗って寝癖だらけの髪型を整え、キッチンの冷蔵庫を開けて朝食代わりのゼリー飲料を一パックだけ取り出すと、それをずるずると啜って飲み下す。冷えたゼリー飲料が起き抜けの空っぽの胃を満たした事で、ようやく眠気が吹き飛んだような気がしなくもない。

「寒いな……」

 やがて眼鏡を掛け直して出勤の準備を整え、濃いグレーの安物のスーツと黒いウールのダッフルコートに身を包んだ僕は通勤鞄を手にして賃貸マンションの自分の部屋を出ると、ドアの鍵を施錠しながらボソリと呟いた。ここ東京の浅草も真冬の戸外ともなれば吐く息が真っ白に凍りつくように寒く、ジッとしていると冷気が足元からじわじわと這い登って来て、思わず背筋がぶるっと震える。

「ああ、寒い」

 改めてそう言い直した僕はエレベーターに乗って一階まで下り、住んでいる賃貸マンションを出ると、そのまま言問い通りを西進して浅草の街を横断した。そしておよそ一㎞ばかりも歩き続けた末に入谷駅に辿り着くと、そこから東京メトロ日比谷線に乗って勤務先の最寄駅を目指す。

「次は霞ヶ関、霞ヶ関です。足元にご注意ください」

 満員電車の車内に響き渡る、若い女性の声のアナウンス。そんなアナウンスを聞きながら通勤ラッシュの人混みに揉みに揉まれた末に、ようやく僕は霞ヶ関駅で降車した。そしてロイドの駅員の誘導に従って自動改札を通過すると、エスカレーターと階段を上って地上に出る。するとそこは、背が高くて遊び心のまるで無い簡素な設計の高層ビルが乱立する昭和の昔から続く官庁街の一角であり、僕は少しばかり歩いた後にそんな官庁街の外れに建つ庁舎の一つに足を踏み入れた。今からおよそ十年ばかり前に建てられた、文部科学省の新庁舎である。

「おはようございます」

 そんな新庁舎の出入り口に設置されたセキュリティゲートの前に立つ警備用ガードロイドが、セキュリティチェックを通過した僕に向かって朝の挨拶の言葉を投げ掛けた。勿論それは、文字通りの意味での機械的な挨拶に過ぎなかったので、僕は特に返事は返さずにロイドの前から歩み去る。そしてエレベーターで三階に移動すると掃除が行き届いた清潔な廊下を歩き、ようやく目的地に辿り着いた。そこは僕の職場であり、電子ロックされた扉には『超高速計算機管理室』と簡素な書体で書かれている。だがしかし、文部科学省で働いているからと言っても、僕自身は生粋の公務員ではない。ここで行われている業務の一端を担う下請け業者から出向して来た入社三年目の若手派遣社員、つまりは中抜きされまくった安月給で面倒な雑務ばかりを押し付けられている高卒の下っ端役人もどきと言うのが、今の僕の社会的地位だ。同じ省庁内で働くキャリア組の高級官僚などと比べると何とも侘しい微妙な立場だが、悲しいかな、それが無慈悲な現実と言うものである。

「おはようございます」

 さっき無視したガードロイドと全く同じ朝の挨拶の言葉と共に、僕はその超高速計算機管理室に入室した。室内には既に登庁していた同僚達が仕事を始めており、僕もまた彼らに倣って自分の席に着くと、業務を再開する。そしてそうこうしている内に時間が経過し、やがて昼休みが始まる正午を迎えたので、僕は昼食を摂るために席を外した。

「毎度ありがとうございます。またのお越しをお待ちしております」

 新庁舎のすぐ傍のコンビニで菓子パンとコーヒー牛乳を買った僕は、業務用のワーカロイドである店員にお定まりの礼を言われながら店を後にすると、来た道を取って返す。そしてそのまま新庁舎内の自分の職場の自分の席に戻り、私物の携帯端末でネットサーフィンに興じながら買って来た菓子パンをもそもそと食んでコーヒー牛乳を飲んでいれば、気付けば昼休みが終わっていた。ちなみにネットサーフィンで閲覧していたのはSNSの自分のアカウントのTL《タイムライン》上を流れるコメントと、最新のロイドに関する記事やレビューやカタログである。

「よお、カワキタ。元気?」

 やがて昼休みを終えて午後の業務を遂行していると、不意に名前を呼ばれると同時に肩を叩かれた。見ればすぐ背後にパンツスーツ姿の背の高い女性が立っており、僕の肩を揉みながらこちらに顔を近付けて来ると、馴れ馴れしく語り掛けて来る。

「どうだ、仕事の方は? 順調?」

「ええ、順調ですよ。とりあえず今日の分の仕事は、定時までに終わらせますから」

 その背の高い女性、つまりは僕の上司であるトタニ室長代理の問いにそう答えている間も、周囲にはぷんとミントの香りが漂っていた。彼女がいつも舐めている、香料が多量に含まれた外国産のミントキャンディーの香りである。

「そうか、それだったら定時で仕事を終えた後にでも、皆でどっかに飲みに行かないか? ん?」

「遠慮しておきます。今日は早く帰りたいんで」

「なんだ、相変わらず付き合いが悪いな、カワキタは。そんなんじゃ、彼女の一つも出来ないぞ?」

 溜息交じりに呆れ顔でそう言ったトタニ室長代理の誘いをいなした僕は、そのまま午後の業務を黙々と遂行し続けた。そして終業時間を迎えると同時に退庁の打刻を終え、同僚達に「お先に失礼します」とだけ言い残すと、ダッフルコートを羽織ってそそくさと新庁舎を後にする。後はこのまま日比谷線に乗って入谷駅まで移動し、さっさと浅草の自宅まで帰還する事も出来たが、今日は金曜日なので途中で立ち寄るべき場所があった。

「次は秋葉原、秋葉原です。足元にご注意ください」

「すいません、降ります、すいません」

 若い女性の声のアナウンスを聞きながら帰宅ラッシュの人混みを掻き分け、秋葉原駅で途中下車すると、自動改札を通過した僕はエスカレーターに乗って地上を目指す。そして地下鉄の構内から地上に出てみれば漆黒の夜空に満月が青白く輝き、凍るように冷たい真冬の外気が呼吸する度に肺に染み込んで来て、少しばかり胸が苦しい。

「さて、と」

 気を取り直して、僕は行き交う人々で混雑する秋葉原の街の街路を西の方角へと向かって歩き始めた。するとJRの高架橋の下を潜ってからもう暫く歩いた後に、俗に電気街と呼ばれる大通りに突き当たる。太平洋戦争後の闇市から発展したこの通りは平日の夜にもかかわらず買い物客や観光客で賑わっており、時代のニーズに合わせて幾多の変遷を経ながらも、この国の復興振りを示すバロメーターの一つとして今も尚発展し続けていた。そして僕はそんな電気街の一角に建つ、様々なハイテク機器や家電を展示・販売する大型店舗のショーウインドウの前で足を止める。ショーウインドウの中に展示されているのは、最新型のロイド達だ。

「ああ……」

 思わず感嘆の声を漏らしてしまった僕の視線の先で、展示された三体のロイド達がデモンストレーションを繰り返す。つまり向かって左側のロイドは重そうな荷物を上げ下げして肉体労働に従事出来る事を、真ん中のロイドはフライパンを振るって家事に従事出来る事を、右側のロイドは車椅子を押して介護に従事出来る事を実演していた。僕はそんなロイド達の姿に見惚れ、心を奪われて止まない。

 ロイドとは『ロボット及びアンドロイド』を意味する合成語で、高度に発展したAIが搭載された自律制御型人型機械の総称である。そして開発された当初はとてもじゃないが民間人には手が出ない高価な技術であったロイドだが、現在ではその敷居もグッと下がって、様々な用途に合わせた多くの民生品が市場を埋め尽くしていた。特に単純労働や介護の分野への進出は著しく、もはやロイド無しには社会が回らないと言っても過言ではないだろう。事実、今日の僕が擦れ違って来た駅の駅員やコンビニの店員の半分方は、与えられた労働に文句も言わずに従事するロイド達だった。

 とは言え、決して生活必需品ではないロイドはまだまだ贅沢品であり、安月給の高卒サラリーマンである僕には到底手が出せる代物ではない。だからこうして毎週金曜日の帰宅途中にこの街に立ち寄っては、僕はショーウインドウの中に並べられたピカピカのロイド達を物欲しげに眺める。そしていつか自分だけのロイドを手に入れる日を夢見ると同時に、その夢が叶う当ても無い現状を嘆くのであった。

「ロイド、欲しいなあ……」

 真冬の夜空の元で、まるでトランペットを欲しがる黒人少年の様にショーウインドウに張り付きながら、僕は垂涎の眼差しでもってロイド達を鑑賞し続ける。しかしそれらロイド達の足元のタグにはっきりと明記された、僕の年収を軽く上回る商品価格によって厳しい現実を思い知らされると、深い深い溜息を吐いた。勿論現代の秋葉原に、見ず知らずの黒人少年にトランペットを買い与えてくれる優しい紳士など存在しない。

「!」

 すると不意に、僕の肩を背後からとんとんと叩く者があったので、まさか件の紳士が現れたのではないかとちょっとだけ期待しながら振り返る。しかしそこに立っていたのはあまり身なりのよろしくない白髪頭の初老の男性で、彼は無精髭の生えた顎をぶるぶると震わせながら僕に一枚のビラを手渡した。

「人類に尊厳を! ロイドの無い世界を!」

 唾を飛ばしながら汚らしい声でそう叫んだ男性が手渡して来たビラには、攻撃的な言葉が並ぶ。曰く「ロイドは戦争の道具」であるとか「ロイドが社会を破壊する」であるとか、とにかくロイドとそれが普及した現代社会を痛烈に批判する文言が満載だ。つまりこの男性は、人間原理主義を謳うロイド排斥運動の活動家の一人だと思われる。

 確かにロイドには、かつての戦争で多くの人命を奪った無人兵器の技術が転用されており、その時代を知っている人間からすれば過去の凄惨な戦争を想起させる存在である事は疑いようの無い事実だ。それと人間に取って代わる労働力としてのロイドが広く普及した事によって、それらに職を奪われると言う苦い経験を強いられた者も決して少なくない。だからそう言ったロイドに良からぬ感情を抱く人達が寄り集まり、更にそこに様々な思惑を胸に抱いた胡散臭い政治団体や宗教団体などが手を貸す事によってロイド排斥運動が勃興したのも、至極当然の帰結であったと言える。

 しかし残念ながらと言うか当然ながらと言うか、現代の社会の潮流に反しているとも言えるロイド排斥運動は、かつての勃々たる頃に比べると今では随分と下火になってしまっていた。最近の彼らは都市部でプラカードや横断幕を掲げながら形ばかりのデモ行進を繰り返すか、こうして街でロイド排斥を訴えるビラを配る程度でしか自己の存在をアピールする事が出来なくなってしまっている。まあ、僕はロイド推進派なので、このままロイド排斥運動の火が消え去ってくれれば願ったり叶ったりなのだが。

「ロイド排斥運動に協力を!」

「あ、いえ、結構です」

 尚もスローガンを叫び続ける初老の男性にビラを突き返した僕は踵を返すと、逃げるようにして足早にその場を立ち去る。もう少しだけショーウインドウの中のロイド達を眺めていたかったが、あんな不審者同然の活動家に眼をつけられてしまってはたまらないので、致し方無い。

 この数十年でAIは飛躍的に発展し、それが搭載された自律型のロイドともなれば、もはや人間と寸分違わぬ思考と所作を再現出来るまでに至った。だがそれに対して天然知能、要は生身の人間の頭の中はと言えば殆ど何の進歩も無く、石器時代の昔から本能に負けっ放しの情け無い状態が続いている。

 一時は後天的な電脳化でもって人間の脳にも高速演算処理の機能を付加しようと言う研究が盛んに行われたらしいが、研究が進めば進むほど、むしろ生身の脳にこれ以上の処理能力を求める事が現実的ではないと言う事実が判明するばかりだった。そもそも生物の脳は情報の処理過程が個体によってばらばらで、工業製品であるロイドのAIの様に均一化されている訳ではない。そんな生身の脳に対して同一のアプローチで電脳化を計ろうとする事自体が、所詮は実現不可能な夢物語でしかなかったのだろう。

 つまり何が言いたいのかと言うと、ロイドを欲しがる僕もそうだしそれを忌避するあの初老の男性もまたそうだが、人間と言う奴はロイドに比べるとなんて欲深く感情任せな存在なのだろうかと言う事だ。

「はあ……」

 溜息混じりに電気街を後にした僕は来た道を引き返し、再び秋葉原駅の改札前へと辿り着く。そして自動改札を通過して帰宅ラッシュで混雑する東京メトロ日比谷線に乗り込むと、秋葉原駅から三駅離れた入谷駅で人混みに揉みくちゃにされながら降車した。後は地上に出てから言問い通りを東の方角へと向かって一㎞ばかりも歩き、やがて国際通りと交差する地点にまで至れば、僕が住んでいる賃貸マンションが視界に入る。

「あらカワキタさん、こんばんは」

「あ、こんばんは、オオクマさん」

 賃貸マンションのエントランス兼エレベーターホールでエレベーターの到着を待つオオクマと偶然出会ったので、僕らは挨拶を交わし合った。オオクマは僕の隣の部屋に住む老婆であり、脚が悪い身体障害者なので、常に車椅子に乗っている。そしてそんなオオクマが乗る車椅子を押しているのは、彼女が所有する介護用ワーカロイドだ。

「こんばんは、カワキタ様」

 オオクマの車椅子を押すワーカロイドが淀み無い日本語でもって挨拶の言葉を投げ掛けて来たので、僕も軽い会釈と共に、そのロイドに「こんばんは」と挨拶を返す。カーボン樹脂に覆われたロイドの顔からは表情をうかがい知る事は出来なかったが、そもそもAIには表情を生み出すべき感情そのものが無いのだから当然だ。

「毎日毎日、寒いわねえ。早く暖かくなってくれないと、日課の散歩が億劫で仕方が無いんだけどねえ」

「ええ、そうですね」

 他愛も無い世間話を交わし合いながら一緒にエレベーターに乗り込んだ僕とオオクマと、彼女が乗る車椅子を押すロイド。僕らはやがて賃貸マンションの八階でエレベーターを降りると、隣り合うそれぞれの部屋の前で別れる。

「それじゃあ、お休みなさい」

「お休みなさい」

 別れの挨拶と共に解錠したドアを開け、僕は半日ぶりの自宅へと帰還した。そして子供の頃からの習慣で、虚空に向かって「ただいま」と言ってみたが、当然ながら独り身の僕の帰宅を労ってくれる相手なんて居やしない。労いの言葉の代わりに返って来るのは暗く重い静寂と、もうすっかり慣れてしまった僅かな空しさばかりである。

「ふう」

 寝室でスーツとワイシャツから部屋着に着替えて冷たい水で顔を洗うと、リビングのソファに腰を下ろして人心地つく。高校卒業と同時に上京してからずっと住み続けている、1LKのささやかな僕の城。決して安普請ではないし、見た目だけはそれなりに大きい賃貸マンションなのだが、そこそこの築年数が経過しているので床や壁の所々に軋みや亀裂が走っていた。だがそれでも、自分のねぐらに帰って来ると、ホッと安堵せざるを得ない。

「さて、と」

 気を取り直して、僕は夕食の準備に取り掛かる。とは言え、電子レンジでチンした冷凍のご飯に熱湯で温めたレトルトカレーをかけただけの簡素な夕食だから、さっさと作ってさっさと食べてしまえば、虫が鳴るほど空いていた腹を満たすのにそれほどの手間は必要無かった。そして洗い物を溜め込むのは性に合わないので、手早く皿とスプーンもキッチンの流し台で洗い終えると、カレーの入っていたパウチ式の袋と外箱もゴミ箱に放り込む。レトルトカレーの外箱には「愛されて百四十年」の文字が躍り、その横には和服を着てニコリと微笑む知らない女性の写真が印刷されていた。なんでもそれは発売当事のパッケージを再現したものらしいが、そんな百四十年も昔の有名人を今更世に出されても、現代に生きる僕は只々反応に困るだけでしかない。

「ごちそうさま」

 簡素な夕食を食べ終えた僕はリビングのソファに座り直してから、寝るまでの時間を潰すためにタブレットPCでネットサーフィンに勤しむ。そしてSNSやロイド関連の記事やレビューを閲覧した後に、日課であるエロ動画を鑑賞しながらのオナニーを終えると、洗面所で歯を磨いてからバスルームでシャワーを浴びた。これでもう、明日に備えて就寝する準備は整った事になる。

「お休みなさい」

 やはり子供の頃からの習慣で、誰に言うでもなく虚空に向かってそう言うと、眼鏡と携帯端末を枕元に置いた僕は真っ暗な寝室のベッドの中で静かに眼を閉じた。こうして今日もまた、僕のつまらない一日は過ぎ去って行く。

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