20

  あ、野良猫だ。

 ──ああ、本当だ。

  俺さ、来世は野良猫になりたいんだよね。

 ──へえ、どうして?

  だってこいつらは自由だろ? 俺らと違って。

 ──自由、ね。確かに。

  自由気ままな野良猫になって、好きなとこへいくんだ。■■は? 来世は何がいい?

 ──うーん。特に思い浮かばないけど……、■■と同じがいいな。

  そりゃいいや。二人で野良猫になって、一緒にどこへでも行こう。きっと楽しいよ。

 ──はは、そうだね。一緒に旅をしよう、■■。

  うん、約束だよ■■。

 

 どんなときも、二人一緒だからね。

 

 *

 

 走る。止まって、攻撃をいなして、また走る。壁を蹴って、フェンスを越えて、坂を飛び降りる。路地裏を駆け抜けて、建設中のビルまでたどり着いたところで野良はようやく足を止めた。

「パルクールがしたいわけじゃねえんだけど」

 司が息切れしながら文句を言うと、野良は可笑しそうに笑った。

「いいじゃない、体力作りになって」

 回り込んで追いついた圭が背後に回り、司と挟み撃ちにする。野良も同じだけ走っているはずだが、疲弊している様子はない。

「ねぇ圭くん、また怒ってみせてよ」

 二人分の打撃を捌きながら野良が話しかける。

「治るような傷じゃ足りないよ。もっともっと深くまで刻みこんでほしいんだ」

「気色悪いことを、言うな」

「あはは。圭くんはさ、諦めちゃってるんだよね」

 野良のナイフが首を掠めて、司が飛び退く。それに合わせて圭も引き下がると、野良は手元でナイフを弄びながら二人を待った。今日の野良はあまり自分から仕掛けてこない。戦闘よりも会話を望んでいるように感じた。

「……何をだ」

 息をつきながら圭が質問で返す。

「圭くんさ、もう自分がこれ以上強くなれないって思ってるでしょ」

「……」

「精度を増すことは出来る、でも根本的な底上げはもう望めない……だから司くんに甘えてる。違う?」

 圭が押し黙った。以前、圭の『実験』については教えてもらった。今はそれを圭に施す者もおらず、非人道的だと博士も手を引いたらしいので身体の強化はしていないと聞いた。そのことを言っているのだろうか。

「そんなことないよ。君はもっと強くなれる。オレを脅かすくらい強くなれるさ。司くんがいればね」

「何が言いたい」

 普段が静かという訳でもないが、今日の野良はずいぶん饒舌だ。

「ふふ。ねぇ、内緒の話をしよう」

 野良は唇に人差し指を当てて微笑んだ。

 司は先程から周りが静かなことに今更思い当たった。いつもより縦横無尽に走り回っていたのは機動隊を遠ざけるためだったか。

「明日の夜、君たちが巡回に出るその時間。オレは港区の第二倉庫を襲撃するよ」

「港区……?」

 その倉庫群は夜間になれば人気のない区画だ。保管されているのは工業用の部品などで、まあ壊されれば損害は出るだろうが、野良がわざわざ出向くような場所ではない。

「なんでそんなことをわざわざ」

「オレは君たちを信じてる。だから、二人だけ招待するのさ」

 野良はもう戦意が無いと言わんばかりにナイフを鞘へ戻した。

「……そっちが信じてくれても、こっちが信用するとは限らないぜ」

「それでもいいよ。でもきっと来てくれると思うな」

「どうしてそう思う」

「オレがわざわざこんなことを教える意味、君たちなら察してくれるだろうからさ」

 野良は首を傾げて言った。

 確かに、野良の行動には引っかかっている。なぜ急に次の標的を予告したのか。一見意味のない場所へ誘うのはどんな理由なのか。ただ戦いたいならいつもの様に市街地へ現れるはずだ。奴にとって司たちとの交戦は観客に見せるべきショーなのだから。内緒、と言うからには、機動隊には知られたくないということ。この招待に『なにかある』と思うのは必然だった。

「〈ACT〉に知られればたぶん君たちは来られなくなる。だから、来るならこっそり来るんだよ」

「何の目的があってこんな真似をする?」

「うーん、知ってほしいから。特に司くんにはね」

「……オレに? 圭でなく?」

 野良が執着を見せる圭へのアプローチというなら分かるが、なぜ司なのだろうか。今まで司は野良にとってオマケ程度の存在だと思っていたのだが、なにか心境の変化でもあったのか。

「興味が持てるように、少しだけ情報をあげよう。来ればきっと、あの子猫ちゃんのお父さんについてわかると思うよ」

「!」

 野良はこちらの反応に頷いて、意味ありげに口角を上げた。

「じゃあ、そういうわけだから。待ってるよ」

 悠長に手を振って野良が歩き出す。普段なら追撃を仕掛けるところだが、これだけ会話を続けてしまった後では圭も司も動く気になれなかった。そのまま呆然と背中を見送ってしまってから、司は圭と顔を見合わせてため息をついた。

 

 

「……どうする?」

「奴の言いなりにはなりたくない、けど」

「行かなきゃなにも分からないよな」

 装備の金具を留めながら二人、ひそひそと話す。

 夜間の巡回は年明けから追加された任務で、まだ片手で足りるほどしか出動はしていない。勝手が分からなかった、などと理由をつければ、多少コースから外れても怒られるだけで済むだろうか。野良を見つけたと誤魔化して向かうのも手だ。

 盗み聞きを警戒しながら最小限の会話で済ませ、後者の案でいこうということになった。GPSがあるので位置はごまかせないが、野良との交戦時に通信機器が上手く機能しないことは日常茶飯事だ。それを利用して指示が届かなかったということにしよう。

 午後八時、司と圭は通常通り出動した。

 巡回に出てすぐ、と野良は言っていたから、もう倉庫に侵入しているだろう。考えても奴の意図は掴めなかったが、妙な小細工で司たちを貶めるとも考えにくい。あのように勿体ぶるのだ、誘いに乗る価値はある。

「……司」

「ああ」

 巡回のコースで港区に一番近いポイントまで来ると、司は本部へ通信を行った。

「こちら『ヒガモリ』。野良を発見、追跡します」

 言うが早いか、港区方面へ走り出す。野良と遭遇したのに動きが鈍いのでは怪しまれる。少しでも嘘だと気づかせないようにしなくては。

『こちら司令部。その方向は許可されていない区画だ、戻りなさい』

 野良の忠告した通り、司令部は司たちを行かせたくないらしい。無視して圭と共に無言で走り続ける。

『ヒガモリ部隊、止まりなさい。命令が聞こえないのか、戻れと言っている!』

 倉庫群へ近づくほど、無線越しの声に焦りが滲む。一体なにがあるのだろうか。さすがに耳元で怒鳴られるとうるさいので、敵の妨害という建前で司は通信を切った。

 異変に気づき連れ戻されるまでそう長くはないだろう。その前に野良の真意を確かめなくては。たしか奴が言っていたのは第二倉庫だ。圭に先導され、司は静まりかえった埠頭を走った。煌々と輝く照明が黒い水面を照らしている。第二倉庫の文字が見えたところで、圭が不意に足を止めた。

「これは……」

 夜間の警備だろうか。第二倉庫の入口に至るまで、点々と死体が転がっていた。眉間を撃ち抜かれた者や喉を切り裂かれた者がほとんどだ。おそらく野良の仕業と見た。しかし倉庫の警備にしては、妙に数が多い。

「中へ入ろう」

「生存者は……いないよな、たぶん」

 皆ほぼ即死のようだ。躓かないように進み半開きになった扉を開けて、司は思わず息を呑んだ。

 外より余程多い数の死体が廊下を埋めていた。奥に見える小部屋までの壁は血飛沫が飛んで、猟奇的な光景を生み出している。踏み込んだ床に溜まった血が司のブーツを濡らした。

「ずいぶん派手なことで」

 しばらく食欲が失せそうだ。血の臭いに顔を顰めていると、圭が死体のひとつを確認してから辺りを見回した。

「荷の積み下ろしもないのに、どうしてこんなに人がいる?」

「ああ、どこも稼働してる気配はなかったし」

 埠頭は物静かで微かに波の音がするだけだ。

「そのへんも野良が知ってるんだろうな」

「……奥へ進もう」

 蛍光灯に照らされた肉塊を跨いで倉庫の奥へ歩を進める。程なくして司は違和感に気づいた。圭も同じ疑問を抱いただろう。

 倉庫という割に、ここにはそのための空間が見当たらない。外から見たときには大きなシャッターがあったはずだが、それに見合う大部屋にはまだたどり着かない。屋内は廊下と小部屋ばかりで、倉庫というよりはなにかの施設に思えた。まるで死体が道しるべになっているかのように連なる中、圭と司は進んだ。

 これみよがしに開けられた両開きの扉まで到達し、司は圭と頷き合って扉の向こうに飛び込んだ。

「あ、いらっしゃい」

 野良が明るく声をかけた。狭い場所で戦ったからか、服に返り血が目立った。

 この部屋が一番倉庫と呼ぶに相応しい空間だ。先程歩いてきた分を感じさせないくらいには広いスペースがある。コンテナが整然と積まれ、二階分は高さのある天井が声を反響させた。

 木箱に座った野良は、足元に転がる男の頭を蹴ってこちらに向けさせた。まだ生きているらしい、呻く彼の顔を見て司は目を見開いた。

「こいつ、たしか三橋……」

「ご名答。せっかくだから生かしといたよ」

 荒木場と共に手配されていた三橋が、縛り上げられ傷だらけになって横たわっていた。こいつも自爆したはずだが、見る限り五体満足だ。やはりあの報告書には偽りがあったのか。

「まあこれはオマケみたいなものだからいったん置いとくよ。それより見てもらいたいものがあってね」

 野良はわざと三橋を踏んで木箱から腰を上げると、バールを手に持って木箱の上部を引き剥がした。それをぞんざいに床へ倒すと、中から緩衝材といくつもの小瓶が転がり出た。足元まで転がってきた小瓶を拾い上げて、圭がラベルを読み上げた。

「……『Hollow』?」

 野良が笑みを深めた。

「このコンテナ全部に同じものが入ってる。なんだと思う?」

「見たところ薬品かなにかか」

「その通り。投与すればたちまち壊れて『虚ろ』になってしまう、人間を狂わせるこわーいクスリさ」

「それって……」

「あれ? なんだかそんな奴ら、馴染みがあるような気がするね?」

 大袈裟に考える仕草をしながら野良が言う。言われなくても察しがつくことだ。この透明な液体が、琴葉の父親に投与されたもの。即ち異常犯罪者を生み出す薬だと。

「奴らはこの工場で作られる。外から人材を仕入れて、薬を仕込んで、街にポイ! ってね」

「……なぜそんなことを」

「さあ、どうしてだろうね? 一体誰が、なんのためにやってるのかな?」

 野良は意味深に微笑んで説明を放棄する。司は思考を巡らせた。異常犯罪者を生産するメリットはなにか。それで誰が得をするのか。考えて、ひとつ、嫌な仮説に行き当たった。

「まさか」

「気づいたかい? 気づいてしまった? でもそれは心にしまっておいて。ネタばらしなんてのはもっと勿体ぶるものさ」

 司の答えを肯定するかのように野良が言う。それを聞いた圭が動揺を滲ませて呟いた。

「……馬鹿な」

 野良はくつくつと笑った。

「駄目だね圭くん。盲信は世界を狭めるよ」

「まだ断言するには」

「さて。オレのことを信じてもらうために、実験をしよう」

 圭の言葉を遮って、野良は再び三橋を踏みにじった。三橋の狐のような目が悔しげに歪められる。野良にずいぶん打ちのめされたらしく、反抗するだけの体力はないようだ。

 野良がどこからか注射器を取り出し、小瓶の液体を吸い上げていく。それを見上げていた三橋が怯えた表情になって、野良から逃れようともがいた。

「ま、待ってくれ。頼む、死にたくない」

「おやおや、注射は苦手?」

「許してくれ、仕事だったんだ! それで仕方なく……」

「許す? アハハ! 面白いこと言うね」

 野良は身じろぐ三橋の横に屈んで、頭を押さえつけた。首元に注射器をあてがって、愉快そうに口角を上げる。

「最大量注入してあげるよ」

「いやだ、おれはまだ、うっうわぁぁっ!」

 司も圭も眺めることしか出来なかった。注射器の中身がみるみるなくなっていき、壊れたラジオのような声を上げて三橋が泡を吹く。身体が痙攣したかと思うと、三橋は白目を剥いてぐったりと脱力した。

「ああ、なにか聞き出したかったかもしれないけど無駄だよ。結局はこいつらも捨て駒だからろくな情報は持ってない」

 三橋を縛っていたロープを切って野良が離れる。次第に笑い声が聞こえ、正気を失った三橋がへらへらと肩を揺らしながら立ち上がった。その動きはさまよい人を襲う異常犯罪者と同じ。血走った目がぎょろりと三人を見回して、圭へと狙いを定め走り出した。

 身構えた圭だったが、間合いに入る前に三橋はこめかみから血を吹き出して崩れ落ちた。笑みに歪んだ顔のまま、死体の仲間入りをする。

「ね、本当でしょ」

「……っ」

 銃を指先で回す野良を圭が見つめた。

「なんでこんな真似を」

 司は半歩踏み出して野良と向き合った。野良がこの倉庫について知っている理由はともかく、それを司たちに教える意図が分からない。先ほど浮かんだ仮説が真実だとするなら尚更だ。野良はまさかこちらと手を組もうとしているのではあるまいか。

「君たちに知ってほしかっただけさ。いや、ここに来てもらっただけでオレの作戦は成功なんだけどね」

「なんだと」

「ねぇ圭くん、君はもっと追い詰められるべきだ。そうすれば君は今より強くなれる」

「……なぜお前がそれを望む。僕がお前の言うようにお前を脅かす存在になったとして、なんのメリットがある」

「やだなぁ、何度も言ってるじゃない」

 野良は肩を竦めて首を振った。

「足りないからさ。オレは最高の殺し合いがしたいんだ。すぐ隣で死が待つような限界の戦い。それを君とできたら、どんなに楽しいか」

「……狂ってる」

「そうだよ? オレがまともなわけがないじゃない。それは君たちがよーくわかってるだろ」

 かつては司たちと同じ、日ヶ守の生徒だったはずの男だ。あの事件が野良を狂わせたのか、それとも元からこんな思想だったのか。

「質問いいかな」

「はい司くん、なんですか」

 圭を強くさせたい理由は分かった。だが、行動にいまいち繋がらない箇所がある。

「なんで『オレ』に知ってほしかった?」

 特に司くんに、と野良は言った。圭を追い詰めたいというなら、わざわざ司を強調する必要はなかったはずだ。ただ二人を誘い込み、さっきのように情報を掴ませれば事足りる。

「今回ばかりは、圭くんの方が『脇役』だったってところかな。司くんがここに来て、疑念を抱いただろうという痕跡が欲しかった」

「昨日も言ってたな、オレがいれば圭は強くなれるって。おまえは何を知ってる。何を企んで……」

 野良が話の途中で掌を突き出したので、司は不本意ながら言葉を切った。注意して見れば野良は片耳にイヤホンを付けている。小夜と通信でも交わしているのか、と考えた瞬間、背後で轟音が響き渡った。

「っ!?  なんだ」

 轟音が何度も連続して、建物全体が揺れる。たまらず床に膝をついたところで、野良の背後が爆発した。コンテナが転がり壁と天井の一部を破壊して、部屋に火の手が上がった。

「……わあ、手加減なしか」

 耳を押さえてしゃがんだ野良が呆れたような声を出した。

「何をした」

「オレじゃないよ。あちらさんの証拠隠滅だろ」

 先ほどから一転、感情の消えた言い草に圭と顔を見合わせる。この爆発は野良ではなく、この倉庫の所有者によって起こされたものということか。

「小夜ちゃん? 先に帰ってていいよ、お疲れ様」

 炎が広がる中悠長に話す野良を横目に、司は圭の元へ駆け寄った。このままでは火に呑まれてしまう。扉の向こうを見ると、すでに廊下は火と煙が充満していた。

「どうする」

「きっと通ってきた場所は崩れてる。別の道を探さないと」

「コンテナがあるなら他に出入口があるはずだ。そこから」

「ココのことかい?」

 司の言葉を拾って、野良が親指で壁を指す。崩れたコンテナに塞がれたシャッターが折れ曲がっていた。あの歪み具合ではこじ開けるにも時間がかかるだろう。

「くそ、お約束の展開だな」

「言ってる場合か」

 圭が燃える室内を見渡して、壁の上部に目をつけた。二階にあたる高さに、小さめだが採光用の窓がある。爆発の衝撃で割れ、フレームもひしゃげているがなんとか抜けられるだろう。高さはあるが骨折で済むなら丸焼けになるよりマシだ。細く組まれた足場の登り口を探して、司は小さく舌打ちした。

「ここを通りたくば……ってやつ?」

「熱い展開じゃない?」

 野良が炎に照らされて笑みを浮かべた。

 対峙する間にも火は部屋全体に広がり、室温を上げていく。野良と戦っている暇などないというのに、どうやら道を譲る気はないらしい。

「これはこれで追い詰められたステージかな。付き合ってよ圭くん」

「お前に構ってる時間はない」

「また振られちゃった」

 口では残念がるが、動きは止まらない。

 炎に赤く照らされて刃が煌めいた。火を気にしての戦闘は普段の何倍もやりにくい。司はどうにか動きを封じようと飛びかかったが、今の野良はこちらと違って調子が良いらしい。攻撃がいつも以上に通らない。

「まだだよ圭くん、もっと焦って。そんで怒ったりしてくれたら、最高に楽しいと思うんだ」

「黙れ……っ!」

「司くんに合わせるんじゃ駄目だよ、君は一人で強くなるんだ」

 建物の軋む音が響く。

「どうすればこの前みたいに怒ってくれる? 学校を襲撃しようか、それとも司くんを殺してみようか」

「ふざ、けるな!」

 圭への執拗な攻撃を無理やり司が引き受ける。テンションの高い野良は本当に厄介だ。邪悪に笑む姿は炎と相まって悪魔じみて見える。

 数分攻防を繰り返すうちに、広い室内が炎に包まれた。息がしづらい。圭も司も荒い呼吸を繰り返しながら、しかし野良の猛攻から逃げることも出来ず必死に抵抗した。

 不意に、なにかが折れるような雷にも似た音が頭上から聞こえて、三人はほぼ同時に天井を見上げた。

「ぐっ」

 一瞬の油断で、司は腹に野良の蹴りを受け吹き飛んだ。コンテナに叩きつけられた衝撃に噎せながらなんとか目を開けて、司は思わず叫んだ。

「圭!」

 天井が落ちてくる。見上げる圭とそこに飛びかかる野良の姿が一瞬、静止画のように司の目に焼きついた。

 瓦礫と火の粉を撒き散らして、天井が二人を覆い隠した。

 

 

 全身が痛みを訴えている。視界も定まらず、くぐもった音が形にならないまま反響する。

 ふ、と閉塞感が薄れて、冷たいなにかが優しく圭の頬を叩いた。焦点の合わない視界が、薄暗い空間と誰かの姿を微かに映した。

「う……」

 うまく声も出せない。

「ん、生きてるね。頭は打ってるみたいだけど」

 聞き覚えのある声だ。なにが起こったのか前後の記憶があやふやで、体が鉛のように重い。感じる温度が熱く、息が苦しい。

「寝てていいよ、頑張ったね圭くん」

 誰かが囁く。ゆっくり抱えられた感触を最後に、圭は再び目を閉じた。

 

 

「圭、返事しろ!」

 鉄くずを差し込んで横たわった天井を持ち上げる。コンクリートの床に突き刺さった鉄骨が目に入って、最悪の事態を想像してしまう。大きな破片を持ち上げたところで、少しの空洞が出来ているのが見えた。

 大丈夫、生きているはずだと言い聞かせながら司は重なる金属片を掴んだ。周りはもう火の海で、熱せられた金属がグローブを焦がす。

「圭、圭!」

「はいはーい」

 明らかに圭ではない声が返事をして、司は瓦礫を押さえる手を離しそうになった。力任せに空洞への道を作ると、すらりと伸びた腕が隙間から覗いた。

「あち、あちち」

 肌が爛れるのも構わず、腕で瓦礫を押し上げて野良が顔を出した。仮面はどこかへ飛んだのか、端正な顔立ちが熱に汗を滲ませている。傍らにはヘルメットを外した、意識のない圭が抱えられていた。

「っ、圭」

「頭打ってるからゆっくりね」

「……おまえ、なんで」

「えー? だってこんな終わり面白くないし」

 火傷といくつもの傷でボロボロになった野良が空洞から抜け出す。引き渡された圭は額を切って少量の血が流れているものの、他に目立った怪我はない。あの状況で、圭を瓦礫から庇ったのか。

「うーん痛い。さ、ふさがんないうちに逃げるよ」

 野良はフラフラとこちらに近寄ると、圭を背負って立ち上がった。その横顔や雰囲気に先ほどまでの狂気は微塵もない。

「ほら、先導して」

「あ、ああ」

 困惑のあまり素直に従ってしまう。だが燃え盛る炎の中で敵だのなんだのと言っている余裕はない。司は火の迷路を歩いて足場へ野良を導いた。

「……なんでオレまで助けた」

「助けたっけ?」

 野良が知らん顔をする。だがあの瞬間、司を気にしなければ野良は天井の下敷きにならずに済んだはずだ。野良に蹴り飛ばされなければ今頃司は瓦礫に押しつぶされていただろう。

 窓までたどり着くと、暗い外に回転するランプが見えた。幸運にも、窓の下にコンテナがいくつか置いてある。これなら圭を抱えてもコンテナを足場にして降りられる。

「はい」

 野良は圭を司に背負わせると、血で汚れた顔で微笑んだ。このまま外へ逃げれば彼は間違いなくお縄になる。だが、他に逃げ道はない。

「どうするつもりだ」

「なるようになるさ」

 なにかが軋んで砕ける音がする。消防車が到着しているのに消化活動を行う様子がないのは、ここを燃やし尽くしてしまうつもりなのだろうか。足場が傾いたのを感じて、司は窓枠に跨った。

「……司くん、圭くんと仲良くしてね」

「は……?」

「圭くんの特別になって。そしたら」

 足場が壁から剥がれ落ちる。野良はそれに抗わず、共に炎の中に身を投げ出した。

「おい……!」

「きっと、面白いからさ」

 燃える景色に野良が消える。司は伸ばしかけた手を握って、代わりに圭をしっかりと支えた。

 倉庫の屋根が音を立てて崩れていく。司は駆け寄る機動隊に大人しく従いながら、夜を照らす炎を眺めていた。

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