21

 目を開けた圭の視界に、無機質な白い天井が映った。ここが病室だということを理解して、自分の身体が動くかどうかを確かめる。どこにも痛みがないことを確認して、唯一なにか引っかかったような感覚の左手を目視するために頭を持ち上げた。

「おはよ」

「……」

 呑気に笑う司の顔がそこにあった。特に気負いのない表情から、自分は大した怪我をしていないと読み取れる。すぐに視線を下方に向けて、圭は困惑に固まった。司が圭の左手を握っている。

「いつかと逆だなーって思ってさ」

「再現するな、放せ」

 体を起こして手を振り払うと、司は舌を出して楽しそうに肩を竦めた。

「さて、どこから教えようか」

「……奴はどうなった」

 記憶が曖昧だが、倉庫が燃えたことは覚えている。司と圭はこの通り無事だったようだが、野良のほうはまた逃げ延びたのだろうか。圭の問いに、司は少し歯切れの悪い返事をした。

「野良は……生死不明、らしい」

「らしい?」

「オレたちは窓から逃げたけど、奴は足場と一緒に落ちた。そのまま倉庫は全焼して、一夜明けた今日から検証を始めてるみたいなんだけど」

「見つからないの」

「今のところね。でもあの死体の数だし、身元確認に時間がかかってるだけかもしれない。オレは確かに、炎に呑まれる野良を見た」

 司が普段より真面目な顔になって言った。

「野良が、死ぬ……」

 あまりに現実味のない言葉を、圭は半ば上の空で呟いた。常に余裕を見せ笑っていたあの野良が、焼け死んだというのか。殺しても死ななそうなあの男が、ただの火事で。

「小夜のほうもまだ見つかってないみたいだ」

「近くにいたようではあったけど」

「機動隊が付近を捜索してたけどうまく逃げたらしいな」

「そう……」

「ああそうだ、オレたちの命令違反だけど、意外にも厳重注意で済まされたよ。でも今後はいつもみたいな出動も無くなるってさ」

 野良が死んだのなら特例として圭たちが動き続ける必要もなくなる。小夜はまだ捕まっていないようだが、それは機動隊が捜査を引き継ぐことになるだろう。

 圭はどんな注意を受けたかを語る司の声を聞きながら昨夜の記憶を整理した。天井が落ちてきた後のことははっきりと思い出せないが、野良が圭たちに教えた情報については覚えている。

「薬のことは、報告したの?」

「……いや」

 司が声のトーンを低くした。

「あの薬については言ってない。野良に誘い込まれて倉庫に行ったってことと、そこにたまたま三橋が潜伏してたってことで押し通した。爆発についてもよく分からないってね」

「それで誤魔化せたのか」

「さあね。詳しく追求はされなかったけど」

 下手に念を押すような真似をすればかえって怪しまれると思ったのだろうか。命令無視を注意で済ませたのも少し引っかかる。

「オレたちは倉庫の正体もコンテナの中身も知らない。ただ野良が意味なく暴れただけ。そういうことにしておこうぜ」

「それが懸命ではあるけど」

「……もし探るっていうなら、今はまだ従順に見せたほうがいい」

「……」

 異常犯罪者を生み出す施設の存在。世間に奴らが蔓延ることになんの意味があるのか。なんのために異常犯罪者が生み出されるのか。法での扱い、武器の出処、出現から数十年経っても解明されない、発狂の原因。それらはひとつの可能性を示していた。

 異常犯罪者は、〈ACT〉が生み出しているのではないか。

 異常犯罪者の目的が人々を脅かす事ではなく、機動隊の体のいい練習台なのだとしたら。人権のない奴らの扱いも、量産されている意味も、そのために整備されたかのようなこの街にも、説明がつくことになる。もしこれが事実だとするなら、〈ACT〉の在り方は酷く歪んでいる。一体今までどれだけの命を弄んできたのか想像もしたくない。

「博士にもオレは言うつもりないよ」

 本当に『そう』なのか、野良のミスリードなのかはまだ分からない。誰がどこまで関わっているのかも。〈ACT〉の上層部に属する博士についても同様だ。圭としては彼女が潔白であると信じたい。偽の報告書や琴葉の父親について博士が言っていたことが真実だと、そう思いたい。だが実際がどうなのかも含めて圭には確信に至る材料が足りなすぎた。

「僕も、報告はしない。しばらくはいつも通りに過ごそう」

 言いながら、圭は抱いた底知れない不安を飲み込んだ。圭にとって〈ACT〉は、過去がどうであれ唯一の居場所だ。それを疑ってしまったら、心を許す博士までもが怪しいと感じてしまったら、圭はどう向き合えばいい。それに、野良が死んだと分かれば、圭の存在意義などもうなくなるのではないか。自分の立つ足元が崩れていくような感覚が圭を襲った。

「……そんな迷子みたいな顔するなよ」

 司に腕をさすられて、圭は我に返った。少し困ったような笑顔を浮かべて司が覗き込んでいる。

「だーいじょぶだよ、博士は悪い人じゃない」

「けど」

「オレじゃおまえの居場所には不足か?」

「……そ、れは」

 圭は戸惑って言葉を詰まらせた。こういう時ほど司は圭の心中を正確に読み取ってくる。

「〈ACT〉全部が腐ってるとは限らないし、次にやることなんてすぐ見つかるさ」

 幼い子供に言い聞かせるように司が手を優しくさする。子供扱いするな、と普段なら言うところだが、今は少し有難かった。そのくらいには圭の動揺は大きい。

「それに、……あえて見ないふりをするって手もある」

「!」

「オレは正直正義だのなんだのにはそこまでこだわりないからね。もし圭が〈ACT〉に従い続けるっていうならオレはそれについてくよ」

「……僕がそうすると思うのか」

「どうかな。でも何を選んでも一人では行かせないってのは覚えておいて」

「司……」

「相棒だろ?」

 微笑まれれば、圭は頷くしかない。まだなにも分かってはいないのだ。想像で心を乱すのは良くない。圭が顔を上げると、司は満足したように圭の手の甲を数度叩いて手を離した。

「にしても……野良の言葉が引っかかるな」

「……君が重要だって口ぶりのこと?」

「ああ。特に何かの鍵になってるつもりはないんだけどね」

 司がいれば圭は強くなれる。圭にはそう言った野良の真意が分からなかった。二人で連携を取ることでようやく野良と渡り合ってきた節はある。そういう意味でなら司はもはやなくてはならない存在ではあるだろう。だが、その後野良はこうも言った。一人で強くなるんだ、と。その二つを並べるのは矛盾に聞こえる。

「報告書が偽りだとしたら」

「ん、荒木場と三橋の生存からしてその線が濃厚になってきたけど」

「どこまでが嘘で、本当なんだ」

 司が圭を見つめて押し黙り、続きを待った。

「野良はどうしようもない殺人鬼だと分かりきってるけど。あの事件になにか裏があるなら、そこに手がかりがあるのかもしれない」

『野良』が生まれたあの事件のとき、圭は確か九歳だった。まだ日ヶ守にも入学していなかったため、状況は報告書と研究員の噂でしか知らない。当時の生徒達の名前は抹消されていて、野良の経歴も辿ることが出来なかったと博士は圭に言った。現状、過去の野良についての情報はあの報告書しかないのだ。なにか意図が働いていることは明確だった。

「難しい話になりそうだな」

 司が複雑な表情で前髪をかきあげた。腕に擦り傷が目立つようになったな、などとぼんやり考える。

「ま、とりあえず野良の生死が分かるまで休むとするか。あれこれ考えるのはそれからだ」

「ああ……」

「じゃ、先生呼んでくるついでに飲み物でも買ってくるよ、待ってて」

 司はぽんぽんと圭の肩を叩いて病室から出ていった。手持ち無沙汰に端末を見ると、時刻は昼近く。野良の捜索を始めたのは朝からとのことだったから、結果が分かるのはまだ先になるだろう。

 圭はベッドの上で膝を寄せ、自分の肩を抱いた。重力が無くなってしまったような喪失感がある。野良を殺すことが目的だったはずなのに、心のどこかで奴の死を恐れている。

「僕の、居場所」

 野良との戦いから離れたとき、圭は他の場所で生きていけるのだろうか。そこに圭がいる意味はあるのだろうか。司の言葉でも振り払えない不安が、じっとこちらを見つめている。

 医師と司が来る前に、圭は無理やり震えを押し込めた。

 

 *

 

 窓から見える景色は変わり映えせず面白味に欠ける。宗太は参考書に視線を戻したが、今日はあまり集中出来ずにいた。

「こんなことでは編入に間に合わんというのに」

 一人ぼやきながら、一度ペンを置いて端末を起動する。流れてくる速報はほぼ一色で、こちらも変わり映えしない。

 野良が死亡した、その話題ばかり。

 様々なメディアを比較し、宗太は圭と司が奴にとどめを刺したのだという結論に至った。詳細は違うのかもしれないが、どういう経緯にせよあの二人が野良を追い詰めたことは確実であるだろう。次に顔を見せに来たときにでも聞いてみようか。

 宗太はニュースを閉じて、電話帳のアイコンをタップした。クラスメイトや家族の名前に混じって、そのどちらでもない唯一の名前が存在感を放つ。

 野良が死んだと聞いたとき、思い浮かんだのはあの憎らしい顔ではなく彼女の後ろ姿だった。野良の手を取り宗太に別れを告げた彼女は、奴が死んでどうしているのか。その後のニュースを追ってもそれらしい情報はない。

 事情聴取で宗太は彼女に関するすべてを話した。知り合った理由も、教えてくれた素性も、いつかの日に交換した、この連絡先も。だから当然、もう繋がりはしないだろう。そもそも犯罪者の連絡先など、残しておく理由はない。

 だが宗太はその名前を削除出来ずにいた。

「……」

 ほんの一瞬の気の迷いだった。未練がましく、期待してしまったのかもしれない。意味の無いことだと理解しながら、宗太は小夜に電話をかけた。

 機械音が静かな病室に虚しく鳴る。繋がることの無い長いコール。宗太は雨音を聴くように、しばらくその寂しさに耳を傾けた。

『─────』

 コール音が途切れた。通話が切られたのでも、留守電に切り替わったのでもない。

「……小夜さん?」

 電話越しの誰かは応えない。宗太は鼓動が早くなるのを感じながら、端末を強く握った。

「今、何をしているんだ」

 返答はない。ただ無音が宗太の声を聞いている。

 数十秒待って、小さくため息をついた。馬鹿げている。今更彼女が出るはずもない。きっと端末が生きていて、誰かが徒に通話ボタンを押したのだろう。諦めて宗太は通話終了のボタンへ指を伸ばした。

『……野良を、待ってるの』

 返ってきた声は、間違いなく小夜のものだった。

「っ! 今……」

 どこに、と聞こうとして口を噤んだ。そんなことは聞く意味が無い。様々な質問を思い浮かべて、結局どれも聞くのは止めた。

「……野良は、死んだと聞いたぞ」

『いいえ。野良は死なないわ』

 間を置かずに返された言葉には微かに力がこもっている。

『野良は帰ってくる。だから、わたしは待つだけ』

「そう、か……」

 何が彼女をそうさせるのだろう。どうしてあのような殺人鬼を選んだのだろう。宗太には、小夜の心が分からない。

「小夜さん……聞いてもいいだろうか」

『……なあに』

「俺は、小夜さんを怒らせてしまったのか? それとも、初めから俺のことなど嫌いだったのか?」

 宗太は人付き合いが得意というわけではない。司のように誰とでも当たり障りなく接するような器用さは持ち合わせていない。気付かぬうちに宗太のなにかが小夜を傷つけてしまったのなら、せめて謝りたかった。そうしなければ、頭ごなしに彼女を悪と断じることなどできない。

『……わたし、宗太くんが好きよ』

 優しい声で、小夜はまた宗太の心を掻き乱す。どうしようもなく胸が苦しくなる。彼女はとても残酷な人だ。

『宗太くんは、わたしの二番目のお友達。大切なひとよ』

「……っ、なら、どうして」

『ねえ宗太くん。わたしのこと、許そうとしないで』

 宗太は射抜かれたように硬直した。

『わたしのわがままなの。宗太くんに、機動隊になってほしくなかっただけ。宗太くんはなんにも悪くないの』

「小夜、さん」

『わたしは悪いひと。宗太くんの未来をめちゃくちゃにした悪いひと。だから、許さなくていいの。憎んでほしいの。憐れみなんて欲しくないわ』

 言い聞かせるように小夜が言った。優しく、冷たく、宗太を突き放す。

 宗太の心はまだ、彼女を信じようとしていた。なにかやむを得ない理由があるのではないかと、そう思いたかった。だが小夜ははっきりと宗太に言った。小夜は宗太の理解を望んでいない。宗太が彼女にしてあげられることは何も無い。

「……わかった。俺は、小夜さんを、許しはしない」

『……うん』

「だが、それでも君を愛していたい」

『──……』

 戸惑う気配がした。

「俺は小夜さんが好きだ。たとえ、犯罪者でも」

 犯罪は許されざるものだ。等しく罰せられ、償うべきである。もちろん彼女の罪も厳しく罰せられるべきだ。しかしそうして、彼女が罪を償ったならその時は。

「俺は小夜さんを待つ。いや、迎えにいく。だから待っていてくれ。俺は必ずその手を掴んで引き寄せてみせる」

 たとえ彼女が日陰を望むとしても。

『……宗太くんも、わがままね』

「ああ、諦めも悪くてな」

『……ふふ』

「!」

 微かな笑い声が確かに聞こえた。

『わたし、野良に全部あげるって決めてるの。宗太くんの分、残らないわ。それでも……』

 小夜の声が遠くなる。宗太は端末を耳に押し当てた。

『それでもよかったら、好きにして』

「小夜さ──」

 プツリ、と通話が切れた。

 呆然として、しばらく端末の画面を見つめる。薄暗くなった病室は静寂に満ちて、先ほどまでの事が夢のように思えた。宗太は通話履歴を見て、確かに小夜と会話したのだと実感した。

「……よし」

 頬を叩いて気力を取り戻す。宗太は大きく深呼吸して、再び参考書を開いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る