18
「今日も逃げるなぁ」
「商店街に向かうルートだ」
「また人口密度の多い」
「ああ、いつも通り、ね」
「人気者はつらいね」
騒然とする路地を駆け抜ける。嘲笑うかのように逃げる『猫』を追って、左へ、右へ。屯する集団の頭上を飛び越えると、背後から囃す声が上がった。
一目散に逃げていた野良が唐突に立ち止まる。程なく追いついた司たちも足を止めて、三人は対峙した。並ぶ店の奧から、好奇の目がいくつも覗く。本日の戦いもあちらの予定通り、というわけだ。
「知ってる? 巷じゃオレたちの逢瀬、『マスカレード』なんて呼ばれてるらしいよ」
野良が愉快そうに言った。恐怖より興味が勝った若者が身を乗り出し、端末で撮影を始める。
「お前と踊る気はない」
「相変わらず突き放すね。照れ隠しかな」
「……」
圭が会話を放棄し、野良へナイフを向ける。辺りがどよめき、見物人が増えていく。司は辟易しながら、同じようにナイフを抜いた。
「それじゃ今日もやろうか。メリークリスマス!」
「一日早いよ」
そして『見世物』が始まった。
先月から頻繁に行われている追いかけっこ。野良は機動隊の相手もそこそこに、ひたすら市街地を逃げ回るようになった。そして一定の時間でそのエリアに留まり、司たちを待つ。何事かと覗き見る民衆、登場する司と圭。彼らの目の前で行われる三人の攻防。はじめは異質だった光景は、一月経たずにショーと化した。
容赦なく急所を狙う野良の手には銃がない。司たちも、市民のいる中で発砲は許可されていない。格闘技での戦いは、観客たちに、巻き込まれないという安心感を与えた。
「そこだ、殺せ!」
誰かが野次を飛ばした。
「あぶない! 負けないで」
誰かが声援を送った。
異常だ。司は刃を受け止めながら気持ち悪さに眉を寄せた。致し方ないことなのかもしれない。この瞬間は、彼らには他人事。これが殺し合いなのだという意識すら薄いのだろう。
野良が多くを殺した殺人鬼であることは誰もが知っているはずだ。奴が急に標的を変え襲いかかる可能性があることも、分かっているはずだ。だが、もう彼らは逃げない。足を止め、鑑賞し、コンテンツとして野良を見る。おそらくは野良の思惑通りに。
電飾に飾られたクリスマスツリーが商店街を見下ろしている。クリスマスソングに重なって殺せ、殺せと歓声が大きくなる。
どこかの時計が十五時の鐘を鳴らしたのに反応して、野良は司と圭から距離を取った。
「おっと、こんな時間だ。今日はちょっと用事があってね、惜しいけどこれでおしまい」
「なに……?」
「気になるならついてきてもいいよ、出来るならね」
野良はナイフを回転させると、踵を返して走り出した。圭と頷き合って追いかける。野良は狭い路地に駆け込むと、ゴミ箱を蹴り飛ばして司たちを妨害した。いつもなら煙幕を張って逃げるのが奴の逃げ方なのだが、今回はどういうわけかギリギリ司たちが見失わない程度に路地裏へ誘い込んでいるようだ。
「何がしたいんだ」
「さあね。回り込むか」
「君は表から行け」
「わかった」
圭と逆の道に進路を変え、握手を求める通行人を躱して走る。
司はなぜか胸がざわついていた。
*
待ち合わせの十分前には到着したつもりだったが、小夜は既に広場で佇んでいた。
「待たせてしまっただろうか」
「いいえ、わたしが早かっただけ」
小夜が首を振った。タータンチェックのマフラーがよく似合っている。
「お店を見て回りたくて。構わないかしら」
「もちろん。小夜さんの好きなところへ行こう」
「ありがとう。じゃあ行きましょうか、宗太くん」
コートの裾が触れ合うか否かの距離で、飾られた街を歩き始める。宗太は胸の高鳴りを感じながらなびく黒髪を眺めた。
イブの日に会いたい、そう言われてからずっと気が気でなかったのだが、今の宗太は比較的落ち着いていた。目の前の小夜があまりにいつも通りの穏やかさだったので冷静になったのもある。先走って色々考えてしまったことは反省しなくては。
赤と緑を基調とした装飾の中、宗太と小夜は様々な店に立ち寄った。本屋でおすすめの小説を教え合い、イベントのピアノ演奏に耳を傾け、話題のスイーツを買って食べ歩く。小夜の表情はずいぶん柔らかくて、楽しめているのだな、と宗太は微笑んだ。
気がつけば一時間が過ぎていた。商店街にさしかかり、賑やかさが増す。サンタクロースが子供に風船を渡すのを眺めながら、小夜がぽつりと呟いた。
「楽しいな……」
「それは、良かった。俺も楽しいぞ」
宗太が笑いかけると、小夜はなにか思いつめたように遠くを見て、独り言のように話し出した。
「わたし、今までこんな風に誰かと街を歩いたことなかったの。一緒にお買い物をして、なにか食べたりして。ぜんぶ今日が初めて」
「そうだったのか……」
おしとやかだとは常々思っていたが、もしや格式高い家のご令嬢だったりするのだろうか。その横顔が物悲しそうに見えて、宗太は慌てて鞄をまさぐった。
「小夜さん、よかったら受け取ってほしいものがあるんだ」
「わたしに?」
「ああ、これを」
宗太の差し出した小さな紙袋を小夜が丁寧に受け取った。少し驚いたように、飾られたリボンを見つめる。
「開けてみてくれ」
散々迷った末に選んだものだ。喜んでくれるといいのだが。
「これ、ハンカチ……」
白いレースのハンカチを持ち上げて、小夜が呟いた。
「初めて会ったとき、汚してしまっただろう。似たようなものを、と思ったんだが」
「わたしのために選んでくれたのね。とても、嬉しいわ」
「そ、そうか……良かった」
ハンカチを胸に抱く小夜に心が締めつけられる。彼女は笑顔を見せないが、纏う雰囲気から心情がなんとなく感じ取れた。だからその喜びが本物だと分かる。宗太は幸せな気持ちに満たされて、往来も気にせず頬を緩ませた。
「……もっと、早くに宗太くんと会いたかった」
不意に、どこか寂しそうに小夜が言った。長い睫毛が震えて、ゆっくりと目を閉じる。
「そうしたら、もっとお話をして、悩みだって相談できて、一緒に出かけたりして……」
「……?」
宗太は小夜の言葉に違和感を覚えて彼女を見つめた。まるで、もう猶予がないような口ぶりだ。
賑わう雑踏の中、遠くで時計の鐘の音が聞こえる。小夜はその音に誘われるように宗太に背を向けた。俯いた背中がひどく儚く見えた。
「……そうしたら、ずっとお友達のままでいられたかもしれないのに」
「それは、」
どういう意味だ、と続けようとして、宗太は口を噤んだ。端末が警報を鳴り響かせたからだ。人々がざわめき、商店街が分断されていく。こんなときに乱入など、ついていない。
「どこか店内に退避しよう」
「……」
「小夜さん?」
黙って立ち尽くす小夜に呼びかけるが、彼女は動こうとしない。それどころかおもむろに端末を取り出して、画面を操作しはじめた。
「な、なにをしているんだ」
早く逃げなければ危険だ。多少強引にでも手を引くか、と考えたのと同時に、突如周囲の明かりが一斉に消えた。小さく悲鳴が上がる。昼間なので視界に影響はないが、壁を彩るイルミネーションや音楽が完全に沈黙し不穏な空気を演出する。一帯が停電となったようだ。
続けざまに近くの脇道から人影が飛び出した。猫を模した仮面をつけた顔が周囲を見回し、こちらを捉えた。
「あ、いたいた」
「な……っ」
戸惑う宗太たちの眼前に、『野良』が現れた。
今世を賑わす凶悪犯。あまりの神出鬼没さに端末の速報も追いつかないほどの厄介な存在。
「っ、小夜さん、俺の後ろに!」
機動隊が束になっても敵わないような輩に丸腰の宗太が何かできようはずもないが、盾にはなれる。守ろうと小夜に伸ばした手は、しかし彼女が一歩踏み出したために空を切った。
「小夜さん!?」
「……ごめんなさい、宗太くん」
小夜が静かに振り向いた。その表情は初めて会ったときのように憂いを帯びて、しかしどこか安らかなものに満ちていた。宗太は思わず思考を放棄してただ小夜を見つめた。
「わたし、悪いひとなの」
時がゆっくりと流れるような、いっそ止まってしまったような感覚がした。小夜の言葉が反響する。『野良』の隣に立った彼女の、濡羽色の髪が目に焼き付いた。
我に返ったときには遅かった。右の太腿に激痛が走る。『野良』が発砲したのだ、と理解する頃にはとうに膝をついている。周囲にいた通行人が悲鳴を上げて逃げ惑った。
間髪入れず頭に衝撃を受けて宗太は倒れ込んだ。視界が揺れる。考えなくてはいけないのに、上手く思考が働かない。脳が事実を拒絶している。
嘘だ。まさか、そんな。
ぐらついた意識の中、足を持ち上げられた感覚がした。『野良』がしゃがみこんで、宗太の右足首を掴んでいる。笑みを浮かべる口元に、見せつけるように振られたナイフに、鼓動が跳ね上がった。
「な、にを」
「時間もないしサクッとやっちゃうよ」
「……! や、やめろ!」
その意味を正しく理解してしまう。もがいても逃げられない。小夜が黙って見下ろしている。
「グッバイ未来♪」
「やめろぉっ!」
足の腱が切れる音が、やけに大きく聞こえた。
宗太は激痛と絶望に叫んだ。撃たれ切り裂かれた右脚が燃えるように熱い。アスファルトが血に濡れていく。宗太にとってあまりに致命的な傷だ。明確な悪意を持った、無慈悲な一撃。
『野良』はそれを無感動に眺めて、今度は左足を掴んだ。嫌だ。もうやめてくれ。思わず漏れそうになる懇願を必死で押し留める。たとえどんな状況だろうと、こんな犯罪者に縋り付くことだけはあってはならない。
「野良」
小夜の呼びかけに、『野良』は動きを止めた。
「片足でいいの?」
「うん。彼には、十分だと思うわ」
伏して荒い息を吐く宗太を人形のように見下ろしながら、小夜は宗太の脇にしゃがんだ。
「夢、駄目にしちゃったね」
「っ……どう、して」
まだ信じられない。信じたくない。小夜が犯罪に加担しているなどとは、思いたくない。
小夜は先程贈ったハンカチを、そっと宗太の蹴られた頬に当てた。そのまま手放されたハンカチが、誰にも受け取られず虚しく落ちる。ゆっくりと瞼を下ろして、次に現れた静謐の瞳が宗太を捉えた。
「わたしが邪魔したかった、だけよ」
なにも気負いのない、酷く優しい声音だった。
宗太はアスファルトを引っ掻いて拳を握った。もし、もしも『無理やり従わされている』などと言ってくれたなら、宗太はこの感情を全て『野良』にぶつけることが出来たのに。どんな手を使っても救い出してみせたのに。
「さよなら宗太くん」
「小夜、さ──」
伸ばした手はまた届かない。『野良』の手を取って彼女は遠のいてしまう。行かないでほしいのに、宗太には小夜を振り向かせるだけの力がない。虚しくさまよった手が、宗太の視界から小夜を隠した。
「野良ッ!」
怒りを伴った声が、宗太の意識を再び浮上させた。
弾き落とされただろうナイフが、カラカラと転がる。霞む視界に映ったのは、黒ずくめの二人と、小夜を背に庇い刃を受けた腕から血を滴らせる『野良』。二人は組み合い膠着していた。
「怒ったの、圭くん?」
「……!」
「へぇ……怒るんだね。ふふ、そうか」
『野良』は小さく笑って、黒ずくめの片方──圭を突き飛ばした。銃を突きつけられていたので迂闊に動けなかったのだな、と意味もなく分析する。今の宗太は意識を保つのでやっとだ。頭を動かして気を紛らわさねば、すぐにでも気絶しそうな痛みが宗太を蝕む。
「今度こそ退散だ、ホントの目的は果たしたしね」
「待て……!」
再び攻撃に転じようと動きかけた二人を煙幕が阻む。機動隊の包囲も間に合わない。白煙に消える小夜が、一瞬だけこちらを見た気がした。
煙を掻き分けて、おそらく司が宗太に駆け寄ってくる。宗太はせめて自分以外の被害がなかったことに安堵して、今度こそ意識を手放した。
*
空気が重い。
野良に初めて大きな傷を負わせたことを喜ぶ気分でもないし、命が助かって良かったと手放しに喜べる状況でもなかった。病院の廊下は暗く冷たく、病室のドアを開ける手が迷う。
意を決して、司たちは病室へ足を踏み入れた。
「ああ、お前たちか」
こちらとは裏腹に宗太が明るい声を出した。心中穏やかでは無いはずだが、それでも笑みを浮かべている。まあ、往々にして見舞われる側は自分を元気に見せようとするものだ。
「古川くん……」
「そう暗い顔をするな小野。命に別状はない」
吊り下げられた右脚は包帯に包まれ痛々しい。宗太の明るく努めようとする声が病室に虚しく響いた。
司が圭に視線を送ると、圭は静かに頷いた。
「怪我の具合は、どうだったの」
宗太の笑みが揺らぐ。
「……アキレス腱が完全に切断されていてな。幸い手術は成功したので、リハビリすれば日常生活に支障がない程度には回復するだろうと。だが、……もう」
その先の言葉を、司は察している。出来れば聞きたくないとさえ思う。宗太も躊躇いを隠さずシーツを握りしめた。四人の沈黙で室内が満たされた。
「情けないことだ。犯罪者と気づかず、懇意にしていたとは」
司たちから顔を背けて宗太が呟いた。言葉から悲しみが滲む。好意を持った相手に裏切られた衝撃は司には計り知れない。
「これは、俺の未熟さが招いた結果だ。だから教訓として、全て受け入れよう」
かける言葉を探しているうちに、宗太は司たちに向き直った。真剣な瞳で圭、司、琴葉と順に視線を合わせる。
「機動隊の第一線という目標は潰えたが、それだけが道ではない。俺はまだ諦めるつもりは無いぞ」
声に力が込められる。
「俺は日ヶ守を辞める。別の学科へ行って、機動隊のサポートへ回るつもりだ」
「別……か」
「ああ。司令部、技術部……お前たちの力になれることは沢山ある。俺はもう一人では何者にもなれないだろう、だからお前たちに、託したい」
真っ直ぐな瞳は司を見つめていた。
「チームから脱落してしまってすまない。心からお前たちを、応援している。将来、同じ場所で戦えることを願っているぞ」
鼻を啜る琴葉の背を優しく叩いて、司は宗太に拳を突き出した。宗太は微かに笑って、自分の拳をぶつけた。
「古川」
圭が宗太を呼んだ。少し身構えたように宗太が圭を見上げる。圭は落ち着いた表情で宗太を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「……待ってるよ」
「!」
宗太の目が見開かれる。そのまま俯いて、司からは彼の顔が見えなくなった。
「ああ……必ず追いつく」
絞り出すような宗太の声を聞いて、司は琴葉の肩を押して扉へと向かった。
「つ、司くん?」
「見舞いはいつでも来れるさ。まずはゆっくり休めよ古川」
宗太の返事を待たず、戸惑う琴葉と共に病室を出た。すぐに圭も退室し、そのまま司を追い越して歩いていってしまう。司は涙目になって困惑の眼差しを向ける琴葉を連れて、足早に病室の前から立ち去った。
少しだけ聞こえた嗚咽は、知らないふりをした。
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