16
「ふむ、すべて正常値だ」
データを眺めて博士がペンを走らせる。圭はシャツに袖を通して、硬い診察台に腰掛けた。
「全項目終了、と。今回も問題は無いね」
「そうですか」
「で、毎度のことだが。薬の投与は続けるかね」
椅子を軋ませて、博士がこちらを向く。圭は一拍おいて、迷いなく答えた。
「はい、続けます」
圭の言葉に、博士がなんともいえない表情を浮かべる。母が生きていた頃は淡々と了承するだけだったが、最近の検診では何度も確認をするようになっていた。
「もう、強制ではないんだよ? キミの身体にも負担がかかる。投与を続けたからといって、これ以上大きな変化が得られる可能性も低い」
「もう効果が薄いだろうことは分かっています。でも、少しでも能力の向上に繋がるなら僕は続けます」
この身体は紛い物だ。自分に才能があるなど、一度も感じたことはない。初めからそうなるようデザインされただけ。もし圭に一連の実験が施されていなかったなら、圭はただ非力な子供として育ち、訓練生になることすら困難であっただろう。
様々な薬の投与、幾度となく行われた『改良』。いい思い出などとひとつもないが、その日々があったから今の圭は天才でいられる。
「身一つでは野良に勝てません。『ズル』をしないと、僕はどうしようもなく弱い」
「……そうだね。本来のキミになれ、などと言える立場ではないか」
「気遣いは有難いと、思ってます。あなたは僕を人間として扱ってくれた」
実験体として暮らしていた圭に、一人の子供として接してくれた唯一の関係者だった。今もなお、難しい立場にいながら圭を守る博士には本当に感謝している。
「でも大丈夫です。僕は誰の言いなりにもならない。僕が望んで、自分で選びます」
「……いつかと同じことを言うね。だが、今度は偽りないと信じよう」
博士はゆったりと頷いた。
「次の予定は決まり次第知らせよう。そうだ、司くんの容体はどうかね」
「暇だと嘆いてますよ。動けるまでにはまだしばらくかかりそうです」
「その間彼が仕掛けてこないといいのだが」
ペンで頭を掻く博士を眺めながら服装を整える。ふと、野良の話が出たことで、後回しにしていた疑念がよみがえってきた。
「……博士。野良の報告書についてなんですが」
「ああ、今回の事件のことだね? 荒木場……報告を受けたときは驚いたよ」
「過去の報告書に偽りがあったということなんですか」
「それは分からない。そもそもあれを誰が作成したかも不明だからね、ワタシもデータベースを漁っているところだ」
死んだはずの男が潜伏し、金を集め、異常犯罪者の原因についても関わっている。そして奴は圭についても知っていた。ただのハッタリとは思えない。
「なにかがおかしいのは間違いない。詳しく調べているから、何か分かればキミたちにも教えよう」
「ありがとうございます」
敵が野良だけでないとなれば厄介だ。早急に解決しなくては。
頭を下げ退室しかけたところで、圭はもうひとつの問題を思い出した。一瞬躊躇いそのまま去ろうとしたが、こちらも早急に解決が必要なものではある。ドアの前で立ち止まっている圭に気づき博士がこちらを見やる。
「どうかしたかね?」
「……あの。忙しくなければ、少し相談が」
圭が遠慮がちに言うと、博士はぱっと表情を明るくした。
*
暇だ。
寝て、起きて、補習の課題をこなし、食事をとり、寝る。延々と同じ一日が続く。
まだ体を動かす訳にはいかないし、やることと言えば勉強ぐらいだが、向き合う時間が長すぎて苦手だった暗記作業も達成してしまった。
暇だし自分のための千羽鶴でも折るか、などと考えていたところで病室の扉が開いた。今日の課題だろう封筒を持った圭が静かに扉を閉める。
「いらっしゃーい」
「気の抜けた声だね」
「魂まで抜けそうだ」
心ばかり元気というのも困ったものだ。電動ベッドを傾けて体を起こすと、テーブルに封筒と、小箱が置かれた。
「?」
圭に目線で尋ねると、圭は司から目を逸らして脇の椅子に腰を下ろした。なにか言いたそうであるのは感じ取れたので、大人しく待つ。
「……その。君に」
「……圭から?」
小さく頷く。
「今日、誕生日、だろ」
思いがけない言葉に司はしばし固まった。言われてみれば今日は十月の五日、司の誕生日である。代わり映えのない日々を過ごしていたのでさっぱり気づかなかった。
「オレ言ったっけ?」
「……君のガールフレンドが言ってたろ」
「ああ」
夏休みにそんな会話をしていたかもしれない。話題にしていたのは一瞬だったと思ったが、それを覚えていたのか。
「ふーん? 嬉しいな」
思わず頬を緩ませる。圭は居心地悪そうに身じろいだ。
「開けてみていい?」
「好きにしなよ」
白い小箱を手に取る。掌ほどのそれを上下に開けると、黒いクッション材の間で銀色が控えめに輝いた。
取り出すと、細いチェーンに楕円を象った銀のプレートが二枚繋がっている。よく見るとそこには司の名前がローマ字表記で彫ってあった。
「……ドッグタグ?」
兵士が個人識別用につけるアクセサリーによく似ている。彫ってあるのが名前だけなので正規のものではないだろう。
圭は返事をするかわりに、自分の胸元から同じものを取り出した。それを外して、二枚あるプレートのうち1枚を取ってテーブルに置く。所々に傷がついているところを見ると圭のほうはそれほど新しいものではないらしい。
「こういうの僕はよく分からなかったから、博士に聞いてみたんだけど」
俯いてぼそぼそと呟く。置かれたプレートには圭の名前が筆記体で彫られていた。
「あ……相棒、らしい、かなと」
「……」
にやつきが抑えられない。幸い圭は下を向いてこちらを見ていないようなので、怒ることはないだろうが。
司は自分の真新しいプレートを一枚抜き取った。かわりに圭のプレートをチェーンに通すと、残った司のプレートとぶつかって涼しげな金属音が鳴った。
「いいセンスしてるね」
抜き取った司のプレートを差し出すと、顔を上げた圭がそれをおずおずと受け取った。司のプレートと圭のプレート、一枚ずつがお互いの胸にきらめく。
「へへ、ありがと圭。大事にする」
「……気に入ったなら、なによりだ」
堪えきれず笑い傷に響いて呻く司を眺めて、圭の口角が少しだけ上がったように見えた。
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