15
父が呼んでいる。
盆でも正月でもないのに帰ってくるのは珍しかった。もう朧気になってしまった父の顔が夕陽を浴びて影になる。
「ちょっと見ないうちに大きくなったな」
そう言って司を抱き上げる。もう小学生だというのに扱いが幼児の頃のままだ。
「そうかな。オレまだクラスで前から三番目だよ」
「男の子はこれからさ」
父の逞しい腕が司を優しく包む。普段居ない分を取り返しているつもりなのか、父は司を抱きかかえて話をした。
「なあ司。司は将来なにになりたい?」
「うーん……まだわかんない」
「そうか。司は器用だからな、なんにでもなれるだろうな」
笑った父の顔がよく見えない。
「サッカーは上手くなったか」
「だいぶね。でも負けのほうが多いよ」
「なに、死ななきゃ勝ちだ」
「サッカーじゃ死なないよ」
「ははは、それもそうだな」
父の口癖は極端で、いつもそのあとに『だから生きてる限り連勝だ』と言って笑うのだ。
「今度はいつまでいるの?」
「いや……すぐに戻らないといけないんだ」
「ふーん」
「……ごめんな司。いつも遊んでやれなくて」
「べーつに? 父さんは国を守る大事な仕事があるんでしょ? 気にしないよ」
「それは、そうだけど」
「それにさみしくないよオレ。母さんがいるし、友だちだっていっぱいいるからね」
「はは、そうか。仲間が多いのはいい事だ」
大きな手が司の頭を撫でた。
「なあ司。強くて優しい男になれよ」
司の両肩に手を置いて父が見つめる。真っ直ぐに向き合っているのに、顔がよくわからない。
「母さんのこと、守ってやるんだぞ」
「……うん。こっちは任せといて」
司が親指を立てて言うと、父は満足そうに頷いた。夕日が絵の具で塗ったみたいに赤かった。
母が泣いていた。
黒い枠の写真立てに父の顔が収まっている。線香の煙とたくさんの黒服で、景色が灰色に見えた。
「母さん、泣かないで」
父に負けないくらいの勲章を見せて司は母を励ました。母の悲しい顔は見たくない。笑って。またいつもみたいな笑顔を見せて。
「オレがいるよ」
「……ええ、そうね司……ありがとう」
母は微笑んだが、悲しみは拭えていなかった。ああ、もう二度と元の笑顔は見れないのだろう。輝くメダルがガラクタに見えた。
「お父さんの仇を討ちたくはありませんか」
なんとなく学校をサボって神社で暇を潰していた司に、スーツの男たちが言った。
「……別に、そこまで思い入れないんで」
馬鹿げた提案だ。仇などとってなんの意味があるのか。母から笑顔を奪った無責任なやつのために動いてやる義理もない。
「犯人はまだ、のうのうと生き長らえている」
「知らないですよ。そういうのはあんたらの仕事だろ」
「……このままではお母さんにまで危害が及ぶ、としたら?」
なぜそんな言い方をしたのだろう。脅すような真似をしてまで司を引きこみたい理由があったのだろうか。
渡された日ヶ守学園のパンフレットはなんの飾り気もなかった。
「キミの御父上は立派な指導者だった」
立派と呼ぶにはあまりに粗末な最期。報告書に温度はなく、父が何を思っていたのかは読み取れない。
「……そうか、聞かされていないんだね」
博士の朗々とした声が脳内に反響する。動く唇と聞こえる言葉がちぐはぐになる。
小柄な背中が見える。
彼がそう望んで捨てているのだと思った。だが違った。彼は多くを奪われた人だ。初めから与えられなかったものを、捨てることなどできはしない。
なにか与えられたらいいと思った。そうして捨てるならなにも文句は言わない。なにかひとつでも、変えられたらいいと思った。だから貰ってくれると分かって、もっと与えようと思った。
でも、これは与えたくない。これ以上、喪失を与えるわけにはいかない。
*
司は反射で手を握り返した。
白い天井が見える。全身が重い。点滴が視界の端で雫を落としている。
生きている。
「司……?」
微かに頭をずらして、司は身体を見下ろした。
ベッドの両脇に圭と琴葉、壁際に宗太がいた。琴葉と宗太は眠っているようで、圭だけが腰を浮かせて司を覗き込んでいる。
「……モテモテだね」
掠れた声で言うと、圭は一瞬理解出来ずに瞬きをしたあと、はっとして握っていた司の手を離した。気まずそうに目をそらして椅子に戻る。
「これは、小野がうるさかったから」
もう片方の手は琴葉がしっかりと握っていた。カーテンから差し込む陽に照らされた目元がほのかに赤い。泣いていたのだろうか。
「よかった」
圭が小さく呟いた。消え入りそうな声だった。力の入らない手を持ち上げて俯く頬に当てると、泣きそうな、怒っていそうな瞳が司を見つめた。
「まだ解散には、早いからね」
「……馬鹿」
宗太が動く気配がした。
「ぬ……、! 藤堂」
目を覚ました宗太が飛び起きてベッドに駆け寄る。
「体はどうだ」
「いいとは言えないかな」
「だろうな! 奇跡的に助かったらしいぞ」
心から安心した様子で宗太は司の肩に手を置いた。
「どれだけ寝てた?」
「丸二日というところか」
思ったより時間は経っていないらしい。司は動こうとして激痛に顔を顰めた。命は助かったがしばらくはまともに動けそうにない。
宗太の声で琴葉も目を覚ましたようだ。思い出したように手が握られ、少し疲れた様子で目を開ける。覚醒しきらない意識のまま司を眺めて、その瞳が徐々に見開かれた。
「……つかさ、くん」
琴葉は司を呼んで、瞳を涙で潤ませた。
「おはよ、琴葉ちゃん」
「う……うう、よかったぁ~!」
司の手を両手で握りしめて、琴葉は大粒の涙を零しながら泣き始めた。宗太と圭が面食らったように琴葉を見つめる。
「ごめんね、ごめんねつかさくん……! わたしっ……う、うう」
「あー、そんな謝ることないよ」
「でも……っ! だってわたしのせいでっ」
「お、おい藤堂。女子をここまで泣かせるとは何事だ」
琴葉が謝る意味も責任を感じている理由もわかる。司は困惑する宗太に苦笑を返しながら、琴葉の嗚咽が落ち着くまで待った。
「……父さんどうだった?」
「ぐす……っ、今は、病院で検査してるみたいで……」
「詳しい原因は特定できてない。近々研究棟の方に移されるらしいけど」
鼻をすする琴葉に代わって圭が続ける。
「工場からはなにか出た?」
「なにも。一時的に潜伏していただけみたいだね」
「そっか……」
事の顛末を吐かせようにも本人は殺害されてしまった。琴葉の父親に施されたのがなんなのか、結局分からないままだ。後味の悪い話である。
「……お父さん、もう私のことわからないみたい」
琴葉が暗く呟いた。あとは獣になるだけ、などと荒木場は言っていた。司が最後に見た様子からも、父親がまともでなくなってしまったことは想像に難くない。
「琴葉ちゃん」
「ううん、大丈夫。本当に、ごめんね司くん」
「いいんだよ、ちょっとした事故さ」
「……私、強くなるから」
琴葉が真剣な眼差しで司を見つめた。
「絶対、強くなる。もう二度と足でまといにならないように、二度と司くんやみんなが危なくならないように。今度は私が司くんを守りたいの」
「小野……」
宗太が驚いたように声をもらす。司もさすがに呆気に取られ、力強くこちらを見る琴葉を見つめ返した。
「約束するよ。私頑張るから」
父親のことが気がかりだろうに、それを飲み込んで前を向く。健気だな、と感じながら司は頷いた。目標が見つかったなら、応援してやらねば。
「……そっか。楽しみだ」
微笑んで涙の跡を親指で拭ってあげると、琴葉は再び泣きそうになったのを必死に堪えた。結局一筋涙を零しながら、それでも琴葉は笑ってみせた。
*
「お久しぶりです、百合さん」
浅野は花束を抱えて、目の前の婦人に頭を下げた。たおやかな姿は何年経っても変わらず、過ぎたはずの年月を忘れさせた。
「わざわざ来てくれたんですか」
「命日くらいは、と思いまして」
よく掃除された墓へ花を供える。手を合わせるが、かける言葉は一度も浮かんだことがない。今にもひょっこり出てきそうな、死んでも死なないような雰囲気がこの、かつての友人にはあったのだ。ここで語りかけても意味が無いような気がした。
「六年……ですか」
「ええ。なんだかあっという間に過ぎてしまいました」
そう言って微笑んだ横顔には影が潜む。お前は罪な男だよ、と心の中で呟いて、浅野は膝を伸ばした。これ以上浅野と話して彼女に昔を思い出させるのも良くない。直ぐに帰るべきだろう。
「では……」
「浅野さん。司は馴染めていますか」
優しい母親の顔が浅野を見上げた。
「ええ、とても優秀な生徒です。まあ座学では多少不真面目なところもありますがね」
「そうですか。ふふ」
「嬉しそうですね」
「あの子、夏休みに帰ってきたんです。親友だっていう子を連れて」
浅野は頷いた。彼が帰省のため講習を休むという連絡は受けていた。あの鈴村圭が一緒だと聞いたときには浅野の目が三割増しで開いたものだ。いつの間にそれほど打ち解けていたのだろうか。彼は馴れ合いを避けるような生徒だったはずなのだが。
「……本当に嫌でした。あの子を、あの人と同じ道に行かせるのは」
当たり前の感情だろう。夫を失ったばかりでなく、更に息子を失うかもしれないのだから。
「でも、止めなくて良かったと思ってます。夏に見たあの子は今までで一番楽しそうだった。きっとここに残っていては見れなかった顔だわ」
「そう……ですか」
「毎日、気が気ではないけれど。あの子がそうしたいなら、見守るだけです」
慈愛の瞳が浅野を見つめた。そして深く、頭を下げる。
「司のこと、よろしくお願いします」
「……はい。力の限り司くんをお守りします」
浅野が言うと、彼女は穏やかに笑った。
駅前のベンチに座って、煙草を咥える。頭を掻きながら、煙とともに後悔も吐き出した。
結局司が大怪我をしたことを報告できなかった。幸い内臓があまり傷つかず一命は取り留めたが、重症であることに変わりはない。本来なら真っ先に連絡をすべきだったが、何故か上司に止められた。ただの事件ではなかったか、彼の背後にいる者がそうさせたのか。浅野には全容を掴みきれなかった。
こちらを窺っている尾行へ追い払うように手を振る。いくら隠密に長けた隊員でもこの田舎町では限界があるのだ。この程度の気配を見落とすほど浅野はまだ落ちぶれてはいない。
司が予想より〈ACT〉と深く関わってしまっていることは、今後も彼女に伝えないほうがいいのだろう。一介の教師という立場になった浅野には既に手の出せない領域だ。上層部が彼を囲おうというなら、それに従うことしかできない。
「守る、ね……」
果たしてどこまで約束を果たせるだろうか。次は浅野の手の届く場所にいてくれればいいのだが。もう一度深く息を吐いて、浅野は煙草を灰皿に押しつけた。
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