14

「あ~、待てよ、あとちょっとで思い出せる」

「すれ違った通行人の服装は一度で覚えるくせに、勉強に限っては君の記憶力働かないよね」

 圭に出された問題の答えに唸りながら白い廊下を歩く。もうすぐ試験があるため圭に付き合ってもらっているのだが、思ったより授業内容の記憶がおぼろげだ。

「嘘。全然出てこない」

「大人しく教材を暗記したほうがまだマシだと思うけど」

「いやー、それだと即寝ちゃうからオレ。なんで教科書ってあんなつまらないんだろな」

「典型的だね」

 圭が溜息をつく。昔から机に向かう勉強は苦手なのだ。ただ壊滅的という程悪い訳でもないので成績は中の中をキープしている。司はなにもしなくてもそれなりの点数は取れるのでまあいいか、とそれ以上の努力をやめるタイプの人間だ。

「成績上位に入れなければ権限剥奪だ、退屈でもなんでも真面目にやりなよ」

「善処しまーす……」

 研究棟を抜けて施設の出入口へと向かう。〈ACT〉の敷地へ入る入り口は大きく分けて二つしかない。関係者専用の扉を除けば、学校もその他の部署も同じロビーから正面玄関を通ることになる。技術部がある研究棟はロビーから離れているので少し面倒だ。

「お疲れ様です。ご用件をどうぞ」

 アンドロイドの受付がにこやかに対応する。武器所持の申請をしながら、司はホールの椅子に座る男を軽く観察した。

「圭」

「……ああ」

 圭も気づいていたらしく、司と共に手続きを待ちながら様子を窺った。

 年は五十前後だろうか。目元が窪み頬がこけているため正確には分からない。ぶつぶつと独り言を漏らしながら、体を小刻みに揺らして落ち着きがない。時おり親指の爪を噛んでは、なにかに怯えるように目をギラつかせている。服装からして職員ではないだろう。

「だいぶ怪しいなぁ」

「たぶん正気じゃないよ」

「だろうね。誰か待って、」

「お父さん!」

 言い終わらないうちに馴染みのある声が聞こえ、司は生徒玄関の方を振り返った。

「琴葉ちゃん?」

 こちらに目もくれず、琴葉は男の元へ駆け寄った。お父さんと呼んだが、あの怪しげな男が父親なのか。

「どうしたの、急に連絡してきて」

「あ、ああ、琴葉」

 男は琴葉を見ると幾分正気を取り戻したように見えた。琴葉が訝しげに見つめると、男は右腕をさすって目を泳がせた。よく見ると右の手首から先がない。

「そ、その、……か、金を貸してくれないか」

「お金……?」

「じゅ、十万。いや、五万でいいんだ」

「なにかあったの? 毎月充分な額入れてるじゃない」

 琴葉が戸惑ったように言う。何やら立ち入った話のようだが、よその家庭の事情で流すわけにもいかない気がした。圭も同意見らしい。

「義手はどうしたの?」

「う……売った」

「ええ!? 大事な物じゃない!」

「金、金が要るんだ。い、一万でもいいから」

「ねえどうしちゃったのお父さん。具合も悪そうだよ、こんなに痩せて」

 元からあのような出で立ちではなかったようだ。琴葉が食い下がると、男は言葉を無くして顔を覆った。なにかを必死に抑え込むように俯いて震える。

「お父さん?」

「う、うう、あああぁ」

「あっ、お父さん!?」

 声を上げて走り去る男を、すっかり混乱した様子の琴葉が呆然と見つめる。司は圭とともに頷いて、琴葉の元へ向かった。

「琴葉ちゃん」

「つ、司くん、鈴村くん」

「君の父親なの?」

「そうなんだけど、なんだか様子おかしくて」

「とりあえず追ってみるか」

「ああ」

「ま、待って! 私も行く」

 司は圭と顔を見合わせた。男の様子はどう見ても普通ではない。おそらく薬物かなにかの影響を受けているだろう。男を追えばその先が危険地帯である可能性は高い。

「お願い……」

 必死な表情で琴葉が嘆願する。あんな状態の父親を心配するなというのは酷だ。

「危険だと判断したらすぐに離脱してもらう。それでいいね」

 圭の提案に琴葉が何度も首を縦に振った。

 

 *

 

「前はあんな様子じゃなかったんだよね?」

「うん……夏休みに会った時は元気だったはずなの」

 一定の距離を保って父親を尾行する。彼には周囲を気にする余裕もないらしく、ふらふらとどこかへ向かっているようだった。

「あの手は?」

 人混みを警戒しつつ圭が尋ねる。

「仕事の怪我、だっけ」

「そう、機械に巻き込まれちゃって……それから義手を着けて生活してたのに、まさか売っちゃったなんて」

 琴葉は不安そうに眉を顰めた。今の父親は彼女の認識と大きく異なっているらしい。

 通行人とぶつかるのも気にせず、父親は一心不乱に歩き続ける。まるで、あえて他に意識を向けまいとしているように。

「……なにか塞ぎ込んだりとか、してた?」

「私にはそんな素振り一度も。昔からちょっとだけお金の使い方は荒かったけど、……麻薬に手を出しちゃうような弱い人じゃなかったよ」

「なら何かに巻き込まれてるのかもね。金に困ってたみたいだし」

 自分で手を出したなら罪だが、何者かに強要されたのなら救いようがある。親が犯罪者になるなど、今のご時世どんなに辛いことか。落ち着けるように琴葉の背を叩くと、彼女は少しだけ笑顔を見せた。

 やがて司たちは工業地区に入り、ひとつの工場にたどり着いた。それほど大きな建物ではなく、人気もない。父親は逃げ込むように工場へと入っていった。

「ここ、お父さんが働いてた工場……」

「……人がいないようだけど」

「うん。少し前に移設されて、ここは取り壊される予定だったと思う」

 つまり良い隠れ家ということだ。司はなんらかの集団が関わっていると確信して、気を引き締めた。

「小野はここで待機」

「……はい」

 圭の指示に琴葉が大人しく従う。圭はおもむろに自分の通信機器を外すと、琴葉に手渡した。

「なにかあれば司に報告して。機動隊はまだ呼ばなくていい」

「気をつけてね」

「大丈夫、待ってて」

 頷く琴葉に笑みを浮かべて、司は圭に続き足音を殺しながら工場へと潜入した。

 

 しばらく放置されていたらしい屋内は埃っぽく、ほとんどのものが運び出されてがらんとしている。父親のものと見られる足跡を追って、二人は事務室のドアの前までたどり着いた。ドアに付いた小窓から静かに中を伺うと、父親の背中が見えた。

 突如その姿が横に吹き飛び、物が倒れる音が響き渡った。

「できませんでした、じゃねーだろがぁ」

 続いて怒号。

「ひぃぃ……」

「いいんだぜ? お前一人狂っちまっても俺は痛くも痒くもねーからよ」

 鋭い目の男が倒れた父親の傍にしゃがみ込む。その顔に見覚えがあって、司は圭のほうを見た。

 圭が驚いている。男の存在に疑念を抱いているようだった。圭は司の視線に気づくと、後で、とハンドサインを出した。

「た、頼む、お願いします、もう限界なんだ」

「そうだろうなぁ。抑制剤がほしいよなぁ?」

 男の足に縋って父親が必死に訴える。抑制剤とはなんのことだろうか。父親に投与された薬はただの麻薬ではないのかもしれない。

「『あんなもの』にはなりたくないもんな?」

「は、はい、いやだ、うう」

「だから金を取ってこいって言ってんだよ」

 男が父親の頭を床にねじ伏せる。その眼前に携帯電話をぶら下げて、男は冷酷に笑った。

「元同僚のよしみだ。最後のチャンスをくれてやる」

「ぅぅ……」

「娘に連絡しろ。ここまで金を持って来させるんだ」

 司は思考を巡らせた。男の目的、父親の置かれた状況、琴葉が被る危険。男の性格から予測し、奴が描くであろうシナリオに行き着く。

 奴は恐らく金さえ手に入ればいいと思っている。ならば、琴葉を呼び出せた時点で父親は用済みだ。そして金を運んできた琴葉を生かしておく理由はない。このまま事が進めば、待っているのは父娘の死だ。

 司は琴葉へ無線を飛ばした。声を出せば気づかれるので、指で機器を叩き代わりにする。

 父、電話、長く。

 圭もハンドガンを静かに構えた。電話に気を取られているうちに男をどうにかすれば、父親も助けられるかもしれない。

 父親が震える手で電話をかける。男は口角をつり上げて父親を引きずり、無理矢理パイプ椅子に座らせた。事務机に携帯電話を置いて琴葉が出るのを待つ。

『……もしもし、お父さん?』

「あ……こと、は」

 スピーカーから琴葉の不安げな声が聞こえた。どこまでメッセージが通じただろうか。

 入口は窓を除いてこのドアだけ。男との間に障害物もなく仕掛ける側としては分が悪い。速さが重要だ。

「あの、金なんだが」

『さっきはごめんね。驚いちゃっただけなの』

「い、いや」

『お金、要るんだよね?』

 思ったより話の進みが早い。会話としては自然だがこれでは時間が稼げない。圭が頭を振って、ドアノブに手を伸ばした。

『来月の分先に出しちゃうから。二十万で大丈夫……?』

「!  あ、ああ。それで、すまないんだが、届けてくれないか」

『……うん、わかった』

 男が愉快そうに笑う。

「ば、場所は」

『あ、待って。バスが来ちゃう』

 圭が手を止めた。

「え」

『今からお金下ろしてくるから。また連絡するから、ちゃんと出てね』

「い、いやその」

『あ、別の人に頼んじゃダメだからね? 前にも知らない人に携帯預けて大変だったでしょ』

「……わ、わかったよ琴葉。頼むな」

 通話が切れる。男が思惑の外れた表情を浮かべ、父親がどこか安堵した顔になった。

 司は感心した。少なくない額を提示し、相手に諦めにくくさせる。一度で済む連絡を分けさせたことで、父親の始末は先送りにせざるを得ない。代理は駄目、と釘をさしたおかげで、父親の代わりに男がやり取りをする訳にもいかなくなった。加えて今から行動すると伝えたので時間に猶予がある。司が教師なら満点をあげるところだ。

「けっ、しっかりしたお嬢さんだな」

 男が吐き捨てる。どうやら琴葉が日ヶ守の生徒だとは知らない様子だ。司は父親の無事を確認して、圭とともにいったん工場を後にした。

 

「ごめんなさい、勝手な真似して」

「いやいや、プロ並の仕事だよ」

「でもこれだと小野も作戦に組み込むことになるよ」

「私、囮くらいにならなれるから」

「それは……」

 琴葉の強い瞳が司を見る。気力十分なのは構わないが、これは訓練ではない。男の懐には銃が下がっていたのを確認したし、琴葉には危険すぎる。

「あ、そうだ圭。あいつに見覚えがあった」

 司はふと思い出して振り向いた。漠然と記憶に残っているだけで、どこで目にしたかまではわからない。

「……あいつは荒木場だ」

「アラキバ……」

 圭はちらりと琴葉を見たあと、司の腕を引いて声を潜めた。

「六年前のあの事件。自爆したはずの男だよ」

 得心がいった。六年前の、『野良』が生まれるきっかけになったあの事件だ。生徒を人質に取り自爆した、二人組の異常犯罪者のうちの一人。

「死んで死体も処理されたって」

 圭のほうに寄って小声になる。過去の野良についての事件は公にされていない。琴葉に聞かせるのは好ましくないだろう。

「他人の空似とは思えない。理由はわからないけど生きていたんだ」

「元傭兵って話だろ、ならなおさら琴葉ちゃんが危ないな」

「さすがに替え玉は無理だろ。……だけど機動隊を呼べば」

 そこで言葉を切る。圭が案じているのは父親の様子についてだ。司も薄々感じてはいた。あの表情や仕草、ある意味見慣れているものだ。

 今の琴葉の父親は、異常犯罪者に似ている。

「あいつらが何故揃いも揃って狂ってるのかは分かってない。でも、荒木場が言ってたことから考えると」

「『奴ら』は薬でああなってるってことか? そうだとしたら琴葉ちゃんの父さんはこのままだと」

「僕たちが勘付くんだ、機動隊は間違いなく父親を攻撃対象と見るよ。小野がこのまま傍にいるつもりなら……良くないんじゃないの」

「……ぐだぐだ悩んでる時間もないな。なるべくオレたちで無力化して、父親を保護するか」

「小野の安全は」

 司は少し考えて、上着を脱いだ。続けて中に着ていた黒のベストを外す。

「琴葉ちゃん」

「は、はい」

「ちょっとサイズ大きいけど。これ防弾ベストだから中に着てくれる?」

「えっ」

「おい、君はどうするんだ」

「まあなんとかなるさ。オレまだ左腕上がりきらないし、保護優先で動くわ」

 おろおろと二人を見比べる琴葉にベストを渡して、端末の時刻を見遣る。初めの電話からもうすぐ十分が経つ。

「琴葉ちゃんは電話の用意して。出来ればさっきみたいにお父さん守るような感じで」

「そ、それはわかったけど……本当に大丈夫なの?」

「あいつは手強そうだし、やばそうなら父親保護して逃げる方向で行こう。時間差で機動隊呼んどけばいいかな」

 圭が若干不服そうに司を見るが、文句までは言わない。司が渡さなければ圭がベストを渡しただろう。この少人数では保護と制圧をこなすのは困難で、隙を作るためにどうしても琴葉が必要になる。

「時間差はどうするの」

 圭の疑問に答えるべく端末を操作する。

「……もしもーし、オレオレ」

『なんだ藤堂。電話とは珍しいな』

 電話越しでも聞き取りやすい声が返ってきた。声音からして悩みはそれなりに解消したらしい。

「ちょっと頼みたいことがあるんだよね。古川にしか頼めないコト」

『……なんだ。言ってみろ』

「詳細は省くぜ。今から、そうだな、二十分後。機動隊に通報してほしい」

『通報? 何をやってるんだお前』

「説明する時間がない」

『……。わかった、場所を教えろ』

「ありがと。じゃあ言うよ」

 工場の所在地を伝え、通話を切る。数十分なら万が一不測の事態があっても生存する確率が高い。振り返ると圭と琴葉が連絡の打ち合わせを進めているところだった。

「小野の役割は伝えた。君は防御力ないんだ、間違っても誰かを庇うなよ」

「わかってるって。あいつの力量は」

「僕も詳しく読み込んでるわけじゃない。……いざと言う時は小野だけ連れて逃げろ」

「琴葉ちゃんだって訓練生だ、逃げるくらい一人で出来るさ」

「君は、」

「つれないこと言うなよ相棒。まだ解散には早い」

「……」

 まだなにか言いたげにする圭の口に指を置いて、琴葉に向き直る。携帯電話を握りしめて、琴葉は頷いた。

「よし、作戦開始といこう」

 

 荒木場が不愉快そうな顔で机に座る。何度も琴葉に電話を掛け直されるせいで、邪魔になった父親を処分しきれずにいるからだ。当の父親は目も虚ろになり、荒木場にも怯えなくなってきていた。抑制剤とやらがなければこのまま理性を失っていくのだろうか。

 着信音が室内に響く。荒木場は父親を平手打ちして電話に出させた。

「ああ……琴葉……」

『工場まで来たよ。どこにいるの?』

「事務、室だ……」

『ここ入って大丈夫なのかな。事務室ってどのあたりだったっけ』

 琴葉が工場へと入る。入口から事務室まではほぼ直線だ。ドアの小窓から姿を確認して、荒木場はほくそ笑んだ。机から降り、トレンチナイフを取り出してドアの横に張り付く。あれは殺人を楽しむ顔だ。

 琴葉の足音が事務室へと近づく。父親はまだ琴葉の声に相槌を打ってはいるが、いつまで意識を保っていられるかわからない。最悪縛りあげて担ぐことも考えなくては。

『入るね』

 ドアノブがゆっくりと回る。荒木場が口角をつり上げて、ナイフを握りこんだ。

 司は勢いよく事務室の窓を叩き割って、室内へ転がり込んだ。荒木場が驚いてドアから司へと意識を向ける。流れるように銃を手に取る動きはよく訓練されたものだ。

 事務机を盾にして銃弾を避ける。司がわざと外して壁を撃つと、荒木場の司に対する警戒が一気に引き上がった。

 荒木場が動き出しドアに背を向けた瞬間、圭が音もなく荒木場に襲いかかる。気配を察知して応戦する荒木場と圭が窓側に移動した。その隙に、呆然と座る父親を引き寄せて荒木場の対角に移る。ドアの陰で琴葉が手を伸ばすが、まだそこまで行くには遠い。気づいた荒木場がこちらに発砲し、慌てて琴葉が手を引っ込めた。

「なんだてめぇら、機動隊じゃねえ……」

 間髪入れず圭が蹴りを叩き込む。だが体格差がありすぎる。耐えられて銃を向けられ、圭もやむなく事務机を引き倒して隠れた。

「……!  そうか、てめぇの娘、訓練生だな」

 荒木場が大きく舌打ちする。このうちに父親を外へ出したいが、何故か脱力しきって動かない。ドアまで片腕で引っ張っていくには重すぎる。

「道理で隙がねえと思った! ついてねぇ」

 棚に隠れながら荒木場が笑う。圭が発砲し、それを避けて荒木場は並ぶ机に飛び乗った。初めに圭を潰そうと襲いかかる。これを好機と見た琴葉が駆け寄り、司とともに父親を廊下へ引きずり出した。これで司の手が空く。

「ぐっ!」

 司が机に手をついて放った蹴りが荒木場の左腕を封じる。その間に圭が荒木場の脚を撃ち、蹴り上げでトレンチナイフが部屋の隅に吹き飛んだ。

 よろけた荒木場が床に落ちる。容赦なく圭が銃を握ったままの左腕を捻りあげ、手から零れた銃を司が踏みつけた。

「は……っガキのクセによ……」

「質問に答えてもらおうかな。抑制剤ってのはなんだ」

 司は荒木場を見下ろした。父親は保護したが、このままでは危うい。症状を抑える方法があるなら早急に施さなくては。

「ふん……大したもんだ、なあ鈴村の坊ちゃん」

 荒木場は司の態度に鼻を鳴らしたあと、意味ありげににたりと笑った。何故こいつが圭のことを知っているのだろうか。

「相変わらず、〈ACT〉の飼い犬やってんのか、よ」

「……人違いだろ、余計な事を喋るな」

「間違えるもんかよ! 俺ぁよーく坊ちゃんを知ってるぜ、へ、へへ」

「なにがおかしい」

「いやぁ? まだ、素直に信じてんのかと思うと、可哀想でな」

「なんのことだ? 何を知ってる」

 荒木場の思惑が掴めない。荒木場は身じろいで楽しそうに顔を歪めると、司を精一杯見上げた。

「抑制剤だったな……ふっ、そんなもんねぇよ」

「……」

 なんとなく予想はしていた答えだ。荒木場は益々可笑しそうに肩を揺らし、圭に強く押さえつけられた。

「もう手遅れさ、あとは獣になるだけだ」

「どうやって狂わせた? 何を使った」

「くははは、お利口な頭でよーく考えろよガキ共ぉ!」

「お父さん?」

 叫ぶ荒木場の声に重なって、琴葉の声が小さく聞こえた。

「司!」

 司が振り向くのと、圭が気づいて声を上げるのと、司の身体に衝撃が伝わるのがほぼ同時だった。

「……っ、」

 琴葉の父親が、荒木場の落としたナイフを深々と司の鳩尾あたりに刺している。白く濁った目で嗤いながら、父親は勢いよくナイフを抜いた。

「おらよ!」

「!」

 圭が隙をつかれ、荒木場に突き飛ばされた。そこに正気を失った父親が飛びかかる。

 傷が熱い。押さえた指の隙間から血が流れ落ちる。荒木場に気を取られて警戒を怠っていた。司は歯を食いしばって、父親の足を薙ぎ払った。バランスを崩した体を壁際に押し込み、圭から引き離す。

「司くん!」

 鉄の味がする。呻く父親を何とか押さえ込んで、司は血に咳き込んだ。霞む視界に圭の背中が入り込む。荒木場が銃を拾い、司たちに突きつけた。

「才能ある若者を殺すのは気が引けるなぁ」

 おぞましい笑顔で、荒木場が引き金を引く。

「ぐあっ!?」

 銃声とともに、眼前で荒木場の手が弾けた。

「あの時も同じ台詞だったね」

「ぐ、お前……!」

 言いかけた荒木場の眉間に穴が空いた。崩れ落ちる荒木場など忘れたように、圭が困惑してドアのほうを見る。飛びそうな意識をつなぎとめて視線の先を追い、司は愕然とした。

「あ、殺しちゃった。もう一人の居場所聞こうと思ったのに」

 銃を指先で回して野良がにこりと笑った。

 最悪だ。傷口から溢れる血が圭の足元にまで広がっていく。こんな状況で野良の相手など出来るものか。司を庇うように広げた圭の手が迷いに揺れている。

「どうしようか圭くん。戦力外一人、瀕死一人。どこまで楽しませてくれる?」

「……ッ」

 野良は座り込んだ琴葉と息も絶え絶えの司を順に見て、面白そうに首を傾げた。逃げろ、と言うだけの余裕も今の司にはない。

 野良が静かに銃口を圭の頭に定めた。

 長い沈黙、に感じた。

「……駄目だよ圭くん。そんなんじゃ、オレは殺せないよ」

 どこか優しい声色で野良が囁いた。そのまま銃を下ろし、背を向けて事務室を出て行ってしまう。誰も動けず、ただそれを見送るしか出来なかった。

 呆気に取られていた琴葉が我に返り、こちらに駆け寄ってくる。司は暴れる父親を押さえきれず、床に倒れ込んだ。

「う……」

「司!」

「司くん!」

 悪いがさすがに限界だ。二人の呼ぶ声を遠くに聴きながら、司は深い闇に落ちていった。

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