11
午後の座学は眠気を誘う。いくら自分が気の抜けない世界にいるのだと言い聞かせても、やはり長年の習慣は治らないものだ。
馴染みのない専門用語の並ぶ授業をなんとか眠らずに受け、終業のベルに伸びをする。教材をまとめる生徒たちに混じりながら、琴葉はそっと左方を窺った。
ペンをしまう圭の向こう、眠そうな顔をしている司が見える。机にもたれかかっていた彼が体を起こすと、一番奥の席の宗太にたどり着いた。
やはり、いつもより元気がないように見える。微々たる違いだが、いつも琴葉の実技練習に付き合ってもらっているためかなんとなくの変化が感じ取れた。
琴葉は号令に従って起立しながら、これから話そうとしている言葉を頭の中で繰り返した。
「あの、司くん」
早々に鞄を背負い圭とともに教室を出ていこうとする司を呼び止める。彼は人の良さそうな笑顔で振り返った。
「ん? どしたの琴葉ちゃん」
「えっと、ちょっとだけ時間あるかな」
「もちろん。圭、先行ってて」
司は即答して、圭に声をかけた。ここ最近いつも二人で行動しているようなので少し悪い気もするが、琴葉一人では解決できるかどうか怪しいので司に頼るしかない。
琴葉は教室内の生徒がまばらになるのを待って、司の袖口を引っ張り声を潜めた。
「古川くんのことなんだけどね」
どこか心ここに在らずといった様子の宗太が教室を出ていくのを司とともに見つめた。背中が完全に見えなくなったのを確かめて屈んだ司の耳元から顔を離す。
「うん」
「あんな感じで、最近元気がないみたいなの」
「ああ、どっかふわふわしてるよね」
司も気づいていたらしく、同意して頷いた。宗太には適当に対応することが多い彼だが、気配りは欠かさない良い人だ。
「ちょっと心配で。疲れてるのかなって思ったんだけど、悩んでるようにも見えるし」
「うーん、たぶん悩んでるほうかな」
「やっぱりそうかな。ねえ、司くん話聞いてみる時間とかある? 私も聞いてみようと思ってるけど、男の子同士のほうが話せたりするかもって」
琴葉が話を聞いてあげられるならそうしたいが、いささか相談事というのには自信がない。琴葉の不安を晴らしてくれた司なら、宗太の悩みも解消できるのでは、と思ったのだ。
「そうだなあ……」
司は頬を掻いて呟いた。入学時より背が伸びたな、と思いながらぼんやり見上げる。周りのクラスメイトもどんどん逞しくなっていくが、琴葉はちんちくりんのままで少し悔しい。体力はずいぶん向上したと思うのだが。
「悪いけど、琴葉ちゃんが聞いてみてくれないかな」
予想外に断られ、琴葉は一瞬反応が遅れてしまった。
「え、っと、そっか。そうだよね、なんだか司くん休み明けから忙しそうだもんね。ごめん」
「いや、それは全然。忙しいとかじゃなくて」
司は手を振って否定すると、意味ありげに微笑んだ。
「たぶん、オレが聞くべきじゃないと思うからさ」
「……それって?」
「最近元気ないねって言ってみるだけでもいいと思うよ。あいつ自分でなんとかするタイプだろうし」
「そうかな」
「このあと二人で練習あるの?」
「うん、ライフルの練習見てくれるって」
「じゃあ終わったときに聞いてみたらいいかもね。任せちゃって悪いけど」
「ううん、大丈夫。ありがとう」
なぜ司が聞くべきでないのかは、宗太の悩みを知らない琴葉には分からないが、彼がそういうならおそらくそれがいいのだろう。
もう一度謝って立ち去る司を見送って、琴葉は宗太が待つであろう射撃訓練場へと向かった。
練習の間、宗太は普段通りだった。気持ちの切り替えが上手いのだろうか。琴葉もそこまで宗太を気にする余裕もなく、練習は一時間ほど続いた。
人型の的に空く穴が急所にだいぶ近くなってきたところで宗太から合格サインが出た。肉弾戦やナイフと違って、銃というのは静かでいい。落ち着いて行動出来るなら琴葉にも戦力になれる場面が出てくる。もちろんこれだけでは通用しないのは分かっているが、適材適所だと宗太に言われてからはあまり焦らずに過ごせている。
「まだ撃ったときにブレやすいが、ずいぶん上達したな。やはり遠距離の方が当てやすいか」
「うん、遠いほうがスッキリ見える感じがする、かな」
「将来有望なスナイパーだ」
満足げに笑う宗太は元気なように見えたが、後片付けを始めると再び表情が微かに曇ってしまった。
「ねえ、古川くん」
「……ん、すまない。なんだ?」
少し遅れた返事にはいつものような声量もなく、覇気も感じられない。
「最近疲れてない? なんだか元気なさそうだよ」
琴葉が言うと、宗太はきょとんと瞬きをして、そのあとバツが悪そうに小さく唸った。
「休息は十分取っているはずなんだがな。出てしまっていたか」
「私宗太くんの時間奪っちゃってるから」
「いやそれは問題ないぞ。小野に付き合うのも計算に入っているからな」
「そ、そうなんだ。でも調子悪いなら多めに休んだ方がいいかもだね」
「ふむ、そうだな……」
「あ、明日は私用事あるから練習お休みでいいよ! 宗太くんもしっかり休んで」
「そうか。わかった、ではそうさせてもらおう」
宗太は頷いて琴葉の提案を受け入れた。
これで少しは気が晴れたらいいのだが。結局悩みに関しては聞くタイミングもなく、その日は解散となったのだった。
*
宗太は焦っていた。
時間に追われているわけではない。広義で見ればそうなのかもしれないが、今感じている焦りは具体性のない漠然としたものだ。
部屋にこもっていては駄目だと思い、街の郊外をぶらついて休日を過ごす。ビルの密集する中心部とは違い、この辺りには公園も存在する。走り込むなどして体を動かせば少しは気が紛れるだろう。
夏休み後半、嫌々ながら講習に通っていた司が来なくなった。音を上げたかと思ったが、帰省すると連絡を受けた。家のことなら仕方がないとそこで追求をやめたものの、そんなに期間を空けて大丈夫なのか、という心配もあった。
だが、どうだろう。夏休み明けの集会で唐突に、彼は圭と並んで『特例』として壇上に上がったのだ。宗太は愕然とした。確かに司の伸びしろには目をみはるものがあったが、まさかこんなにも易々と自分を飛び越えられるとは思っていなかった。
「特別巡回……鈴村と」
本来なら優秀な成績を収めた、三年生でもごく一部が賜るべき職務だ。圭だけならばまだしも、入学して半年にも満たない司が選ばれるなど信じがたかった。
宗太は司に困惑と疑問、嫉妬を覚えた。そして、そんな自分にショックを受けた。宗太は心のどこかで思っていたのだ。『圭の隣に立つのは自分だ』と。
犯罪者と戦い市民を守る機動隊に憧れ、期待に胸を躍らせて日ヶ守学園に入学した。厳しい訓練に脱落する者が後を絶たない中、圭は涼しい顔で頂点にいた。その孤高さ故に人は寄りつかなかったが、それがまた宗太の目には崇高な存在に映った。次第に、いつか彼のようになりたい、いつか彼の隣に立てるほど強く、と思うようになった。圭は宗太の目標であり、憧れのヒーローでもあった。
死にものぐるいで圭の一つ下に順位を上げ、会話もするようになり、宗太は頂点が見えた気がしたのだ。圭の待つ頂き、そこに自分も仲間入りできる日は近いとそう実感した。高等部で仕上げ、ゆくゆくは圭とともに活躍したい、そんなふうに思って過ごしてきた、のだが。
「……くそっ、俺はなんと浅ましいことを」
宗太は吐き捨てて立ち止まった。少しの緑とベンチしかない公園は閑散として人気がない。今日び、良い天気だからと公園を散歩する人もなかなかいないだろう。宗太が苛立って独りごちても気にする者はいない。
完全な宗太の慢心だ。努力を怠ったわけではないが、向上心が足りていなかったのは確実。単に司が自分より優れていて、それが認められただけのことだ。それを棚に上げて嫉妬など、到底自分が許せない。
だが、恥ずべき考えだとは理解しながらも、どうしてもその思いを払うことが出来ないでいた。圭に選ばれた司が、羨ましい。彼に応えられる司が妬ましい。こんなに努力を続けていても、宗太には届かなかったのに。
宗太は深く息を吐いて、澱んだ気持ちを振り払った。なにか違うことを考えよう。琴葉にも心配されてしまったし、チームワークに支障が出る前になんとか解決しなくては。
再び走り出そうとして、宗太は微かな話し声がしたのに気がついた。数本先の樹の陰で数人が屯しているようだ。まあ何もおかしいことはない。ここは誰でも利用出来る公共の場だ。
そのまま意識を外そうとして、ちらりと見えた制服に再び視線を集団へと戻す。そっと近づいてよく見てみると、集団は四人の若い男と、一人の女学生だった。
「やめてください」
「大人しくしとけば痛いことなんかしないって」
「ギャハハ、早いとこ車行こうぜ」
下品な輩だ。ああいう意識の低い男には反吐が出る。男たちは女学生の腕を鷲掴んで、無理矢理連れていこうとしたところで宗太と鉢合わせした。
「あ? んだよガキ」
「その人を離せ」
「ハ、イキがってんじゃねーぞ!」
横から迫る大振りな攻撃を難なくいなす。相手が驚いている間に拳で顎を撫でてやれば、図体ばかりが立派な男はあっさりと地面に伏した。
残りの男たちが血相を変え、宗太に飛びかかってきた。三人とはいえ腕力に頼りきった攻撃は宗太にとってなんの脅威でもない。急所に一撃を叩き込み二人を黙らせると、追い詰められた一人がバタフライナイフを持ち出した。だが所詮はこんな所ででかい顔をしている小物だ。構え方も殺気もまるでなっていない。宗太は覚束無い男の手元を蹴りで弾くと、そのままもう一回転して踵を横面にめり込ませた。
「これ以上抗うというなら機動隊を呼ばせてもらうぞ。今すぐ失せろ」
悶絶する四人に言い放つと、男たちはふらつきながら退散していった。危険分子はすぐさま逮捕されるべきではあるが、異常犯罪者の対応に追われ軽犯罪の取り締まりまで手が回らないという機動隊の事情もある。救助活動が認められても逮捕権のない宗太ではこれが限界だ。
男たちが車のほうへと逃走するのを確認してから、宗太は女学生を振り返った。
「怪我はないか、小夜さん」
濡羽色の髪を揺らしながら小夜は静かに頷いた。相変わらずどこか憂いを帯びた表情だが、それが彼女の見目と相まって奥ゆかしい美しさを醸し出している。
「また会えるとは思わなかった」
「ありがとうございます、また助けてくれて」
「なんの。あれくらいどうということは無い」
にこやかに返すと、小夜は言葉を探すように手で髪の毛を梳いた。今日は学校は休みのはずだが、初めに出会った時と同じく制服を着ている。確かあのときも休日だったか。
「強いんですね。なにか、やってるんですか」
「ああ。俺は日ヶ守の生徒でな」
「日ヶ守の……?」
小夜が興味を示して長い睫毛を持ち上げた。
「そう、だからあのときも、一人で……」
「む、たとえ一般市民だったとしても俺は迷わずそうしたぞ。見くびらないでもらおう」
「……ごめんなさい。肩書きで人を見るのはいけないことだわ、どうか忘れて」
「いや、俺もつまらないことで引っかかった」
小夜は緩く頭を振ると、じっと宗太を見つめてきた。なにかを見定めているような、思慮深い瞳だ。若干落ち着かない気持ちになり身じろぐと、ふ、と我に返ったように彼女は瞬きした。
「ごめんなさい、なんだか顔色が悪そうに見えて。無理をさせてしまったのかと」
「え、いや、そんなことは」
まだ二度目の対面である小夜にまで心配され、宗太は動揺して返事の歯切れを悪くした。表情が豊かなほうだという自覚はあるが、そんなにわかりやすい顔をしていたとは情けない。
宗太が思わず頬を捏ねていると、小夜がバイブレーションに反応して端末を取り出した。宗太の知る女子たちはキーホルダーやデコレーションケースなどで飾っていることが多いが、彼女の端末は少し分厚い加工がしてあるだけでシンプル、無骨とも言える。誰かからの連絡だったのか、小夜は軽く操作をして再び端末をしまう。そういえばなぜ一人でこんな場所にいるのだろう。
「なにかこのあたりに用事でもあったのか?」
「……ええ、少し。あなたこそどうして」
「俺は、まあ気分転換にな」
嘘は言っていない。宗太が曖昧に答えると、小夜の瞳が首をさする宗太の手を追った。
「もしかして、何か悩んでいるの」
落ち着いた小夜の声に、宗太の心臓がどきりと鳴った。聡明な眼差しが宗太を見据えている。
「立ち入ったことを聞いたみたい」
言葉を忘れた宗太を気遣って小夜が身を引く。それを見て、宗太は自分でも分からないが、彼女に助けを求めたいと感じた。
「じ、実は、そうなんだ。ちょっと伸び悩んでいるというか」
はっきりしない文言は宗太の嫌いとするところだが、そっくりそのまま話してしまうわけにもいかない。成績という枠で繰くればだいたいぼかせるだろう。
小夜は少し間を置いて、後方にあったベンチを示した。
「お話、聞くだけならできそう。お返しになるかしら」
小夜は〈ACT〉が運営する学校のひとつ、暁女子高校の二年生だという。年上だと分かると、大人びた印象が強くなる。これまでの態度を詫びると、彼女はそのままで構わないと言った。
「それで、気持ちばかり焦ってしまってな」
「そう……」
小夜が真剣に話を聞いて相槌を打つ。肝心なところは全てぼかしてあるが、部外者に話せたことで多少整理がついた。学友ではすぐに当事者が分かってしまうし、そもそもこういった相談をするような友人はいない。
「わたしも、そうだったの。学業が行き詰まってしまって」
「小夜さんも」
「ええ。原因はわたしにあるし、どうしようもないことなのだけど。宗太くんと、同じね」
宗太は小夜の横顔を見つめながら深く頷いた。誰かに同じだと言われると、少し安心できた。
「小夜さんはそんなときどうしたんだ」
「わたし……わたしは、投げ出したわ」
睫毛が白い頬に影を落とす。
「何もかも嫌になって、逃げ出したの。でも、そのあと違う道もあるって教えてもらって。今は……別のことをしてるの」
「違う道、か……」
そんな方法も効果的ではあるだろう。だが、宗太にとっては幼少から一直線に進んできた道だ。半ばで夢を諦めたくはないし、どうにも別のことをする自分が想像出来ない。
「俺には、機動隊に入るという夢がある。今回の悩みはそこにはあまり……影響がないと思うから」
圭の隣に立てないのは残念だが、圭と司、の隣にいることはできる。結果的に圭と同じ仕事ができるならそれでいいではないか。
「大切な夢なのね」
「ああ。小さい頃からの憧れだからな」
「……がんばってね。わたし、それくらいしか言えないけど」
「いや、話を聞いてくれてありがとう。おかげでもやが晴れた気分だ」
「そう。それなら、よかった」
小夜が目元を和らげた。笑顔ではなかったが、笑ってくれた、と宗太は感じた。
「可憐だ……」
「うん? 何か言った?」
「い、いや、なんでも」
都合良くざわめいた木々に感謝しながら、端末に表示された時刻を見やる。思ったより話し込んでいたようだ。そろそろ帰らねば寮の門限に間に合わない。
「小夜さんはこのあとどうするんだ。奴らが戻ってこないとも限らない、帰るなら送ろう」
「……いいえ、待ち合わせがあるの」
「む、そうか。それまで待っていたいが、急がねばならなくてな……すまない」
「もうじき来るから大丈夫。宗太くんも、気をつけてね」
「ああ。今日は本当にありがとう。また会えたら嬉しい」
宗太が立ち上がってそう言うと、小夜は少し戸惑った表情を見せた。
「……ええ。またね、宗太くん」
風に散る長髪を押さえて手を振る小夜に見送られて公園を後にする。敷地を囲む柵を過ぎたあたりで振り返ると、そこにはすでに小夜の姿はなかった。
鼻歌交じりの足音が小夜の背後に近づく。ほのかに香る血の匂いで、報復が済んだのだと理解出来た。
「まったく、ケダモノが多いったらないよねー」
大袈裟にため息をついてベンチの背もたれに肘が置かれる。
「……ありがとう。仕返ししてくれたのね」
「どういたしまして。進捗どう?」
「この辺り一帯のスキャンは終わったわ。今システムに侵入して書き換えてるところ」
「さすがだね」
赤毛を風に揺らしながら野良が楽しそうに言った。いつもの仮面はつけていない。彼いわくあれはキャラ付けで普段までつけるほど気に入ってるわけでもない、らしい。初めは素顔を隠すためだと思っていたが、本人は特に顔がばれようと気にしないようだ。
「でも、こんなに広いスペースを確保してどうするの」
彼の仕事は実にスピーディで、今まで長く一つ所に留まった試しがない。公園を丸ごと貸切にして、と言われそのように準備しているが、一体何をする気なのだろうか。
「そりゃあもちろん」
ベンチで端末を操作する小夜の隣に座って、野良は整った顔を愉快そうに歪めた。
「デートのためさ」
表情と裏腹に冷めた声音が、侵食の完了を示すアラームと重なった。
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