10

 まるで夢でも見るように、圭の初めての夏休みは過ぎていった。明日にはもう帰らなくてはならないが、上手く感覚が戻るかどうか危ういほどこの一週間は穏やかだった。

 少し陽に灼けた腕を眺めながら、司と共にお使いの帰り道を歩く。夕暮れの町はどこまでものどかで平和だ。数十キロ離れた市内では多くの犯罪が起きているとはとても思えない。司はこの町を何も無いと言ったが、何も無いからこそこの平和は成り立つのだろうな、とぼんやり考える。

 おもむろに司が土手を滑り降りた。そのまま河原でなにかを探し始める。

「なに」

「んー……これならいけるか」

 追って土手を降りると、司は平べったい石を拾い上げた。何の変哲もないただの石だ。

「知ってる? 水切り」

「……知らない」

「こういう石を選んで、こんな感じで、水面に投げる」

 司は独特なフォームで拾った石を川に投げ込んだ。石は水面に跳ね返って五度ほど弾んだあと水音を立てて沈んだ。

「……で?」

「たくさん飛ぶほど子供の尊敬を獲得する」

 司がへらりと笑った。

「くだらないな」

「くだらないことやってる時間が楽しいのさ」

 言いながら司はまた足元を探し、石を拾いはじめた。その中のひとつを圭に渡してくる。

「ちょっと丸まってるのがいいんだ」

「やらないよ」

「どこかでこの技術が役に立つかもしれないだろ」

「ないよ」

「こうやって持って」

 司に半ば強引に石を持たされる。圭は押し返す気力も起きず、適当に司の真似をして石を投げた。水面に波紋が三つ浮かんで弓形に広がった。

「上手いじゃん」

「道草食ってていいの」

「大丈夫さ、少しくらい」

 買ったものに食材はない。圭は土手に座って、しばらく石を投げ続ける司を眺めた。流れの緩やかな川に切り絵のような景色が映り込み、石の立てる波紋を受けて揺れた。

 この数日、圭はずっと考えていた。百合やひめの言葉がいつまでも残っていたからだ。

 なぜ司は圭に興味を抱いているのだろう。なにか確執があったわけでもない。はじめから自身も野良と関わりがあると知っていたわけでもない。初対面は関わりの薄いものだったし、第一印象は良くはなかったように思う。どうして、『圭の力になりたい』などという考えになったのか分からなかった。

「お、今の十回飛んだだろ」

「……いつまでやってるんだ。帰るよ」

「はーい」

 ゆっくり日が落ちていく。明日、市内に戻ればこの静寂も味わえなくなるのだろう。来た時は特に乗り気でもなかったが、時間を気にしない生活もたまには悪くないな、と圭は思った。

 

「古川のやつ怒りそうだな、怠慢は許さんぞ! つって」

「連絡は入れてあるだろ」

 明かりを消したあと、司は珍しく話をしだした。他愛のない、別に今話す必要のない内容だ。ぽつりぽつりと喋り、故意に会話を引き延ばそうとしているのがわかる。本当に、司は何から読み取っているのだろう。圭は観念して切り出した。

「……あのさ」

「うん」

 呼びかけたものの、その先を躊躇う。口を開いては思い留まり、長い沈黙が続いた。

「……君、は」

「うん?」

「僕のこと……どう思ってるの」

 司が動く気配がした。

「あのリトルレディに感化された?」

「……」

「大切な友達だし相棒だと思ってるよ。もっと仲良くなりたいし、できるだけ力になりたい。そんなトコ」

「どうして。僕はなにもしてない。なにも返してないのに」

「うーん……どうしてと言われるとわかんないけど」

「……なんだよそれ」

「うまく言えないな。気づいたらそう思ってたんだよ。はじめはたぶん純粋に興味があったってだけだけど、こう……ほっときたくないなって」

「興味?」

「塩対応って新鮮だったからさ」

 笑いを含んだ声が暗闇に溶ける。

「……あのままオレが身を引いてたら、本当に一人で死んじゃいそうだったし。それは嫌だなって思ったんだ」

「……」

「だから圭がなにかしたからってんじゃなくて、オレが勝手に近づいてっただけ。前も言ったけど返してくれなくて構わないから、圭が焦る必要はどこにもないさ」

 宥めるように司が言った。

「……それじゃ割に、合わないだろ」

「勝手に貰って満足してるからいいよ」

「……」

「あ、もしかしてその気になってくれてる? もちろんお返しくれるなら大歓迎だけど」

 圭が無言のままベッドに背を向けていると、再び動く気配がした。おそらく起き上がったのだろう。

「じゃあさ、圭のほうはどうなの。オレのことどう思ってる?」

「……どうって、分からないよ」

「ふーん? 気味が悪いとは言われたな」

「そう、だね。……君の目が怖い」

「前から何度も言われてるけどそんなに?」

「怖い、よ。君の瞳は」

 圭は身体を丸めて掛け布団を手繰り寄せた。また、言葉が零れ落ちていく感覚がする。

「君は……僕の、中を視てるだろ」

 今度は司が口を閉ざした。

 自分の鼓動がやけに大きく聞こえる。一度言ってしまえば、糸に繋がったように言葉が溢れ出てきた。

「ずっとそうだ。君の視線がこわい。内側を見透かされてる気がしてくる。僕だって分からないものが、君には見えてるみたいでおそろしい。君にはなにが見えているの? 僕は、僕はどんなに惨めに映ってるんだ」

「圭」

「分からない……分からないよ。僕にはそんな価値ないだろう。ただの駒なんだ、人間になんかなれないよ。突然自由を与えられたってどうしようもできない」

 寒くもないのに握りしめた手が震えている。

「……教えてよ。僕は、君になにを求めてるの。僕はなにを望んでる? 君には分かってるんだろ」

 圭の問いに、司はしばらく答えなかった。アナログ時計の針音が司と圭の間に響き渡る。

「……オレに分かるなら、圭も分かってるはずさ」

 囁くように司が言った。

「知らない。そんなのは、」

「素直になれよ。誰に言われたんだ、そんなこと。本気で自分のことそんな風に思ってるのか?」

「……でも」

「オレは、『圭』と喋ってる。冷めてて、意外と喋って、甘い物が好きで、割と流されてくれる『圭』とだ。そうだろ」

「……」

「全部とっぱらってさ、言ってみろよ。誰も咎めるもんか。今聞いてるのはオレだけだ」

 喉の奥が苦しい。室内がしんと静まり返り、耳鳴りしているような錯覚に陥った。司はそれ以上喋らない。きっとこちらを見つめて、圭が答えるのを待っている。

 どのくらい経っただろうか。圭は虫のさざめきに掻き消えそうな声で、ほとんど独り言のように呟いた。

「……きみとともだちに……なりたい……」

 窓の外がうっすら明るくなる。月の光が静かな室内に柔らかく射し込んだ。ベッドの軋む音がして、圭の背後に司が座り込んだ。

「圭」

 呼びかけられて、恐る恐る体を起こす。自分は今どんな顔をしているだろうか。きっと情けないに違いない。力が入らないまま、ゆっくり司を振り返った。

「ただの友達より親友になろうぜ」

 司が目を細めて笑った。月明かりに透き通った褐色の瞳が圭を真っ直ぐ見つめている。

「な、に」

「てか友達って、もうなってるし。むしろそう思ってくれてないの心外だな」

「……」

 体に熱が戻ってきたように感じる。司の眼差しは、圭を脅かしてなどいない。圭の中身を暴こうというのではなく、きっと純粋に、閉じこもった圭のことを知ろうとしてくれていただけだ。

「ごめん……」

「いいよ」

 司はあっさり許して、また笑った。

「遠慮するなよ。気兼ねなく親友だと思ってくれていい」

 本当は小さい時からずっと欲しかったものだ。いつしか奥底に追いやって、それでもどこかに引っかかっていたもの。圭は気付かぬうちにそれを手に入れていたらしい。

「……僕、は」

「うん?」

 今なら言えるかもしれない。いや、今言っておかないと、もう二度と言えないだろう。圭は優しく待っている司から目を逸らさないよう、意を決して口を開いた。

「……あ、……相棒、って言われるの、嫌いじゃない」

 司が驚いた表情を浮かべた。

 声が上ずった気がする。は、と我に返って、熱い顔で俯いた。鼓動が速くなっている。

「ふふ」

「……っ」

「あはは、そっか。……そっかあ」

「笑うな」

「ごめん。でも嬉しくてさ」

「もう言わない」

「えー、もっと言ってほしいな。相棒だろ?」

「うるさい、言わないから」

 覗き込んでくる司から顔を背けて掛け布団を被る。司はしばらく圭に付きまとったあと、諦めたのか立ち上がった。

「ありがと。気持ち聞けて嬉しかった」

「……そう」

「はは、おやすみ圭」

「……おやすみ」

 司がベッドに戻るのを確かめて、圭も布団に倒れ込んだ。まだ心臓が煩く脈打っている。もうこんな感覚は味わいたくないが、圭のなにかが吹っ切れたような気もした。

 圭は満ち足りた気持ちを反芻しながら、強く目をつぶった。

 

 *

 

「それじゃ、次はいつ帰れるかわかんないけど」

「気をつけてね。ずっとあなたたちの無事を祈ってるから」

 母が両手を広げて司と圭を抱きしめた。次来たときはお母さんと呼んでね、と言われ、圭が戸惑ったように頷いた。

 キャリーケースを引いて午前の町を歩く。長年住み慣れた町だ、やはり名残惜しい。司はあまり別れというのは好きではないので、帰る時間は誰にも教えなかった。きっとまた会う機会はあるだろう。大体の友人とはメールを送り合う仲だし、そこまで大仰にすることもない。

 司が感傷に浸っている間、圭は終始無言だった。昨夜のことで気まずさを覚えているのだろうか。司はもう茶化すつもりはないが、司と訓練を始めた時のアレと似たようなものか、と一人納得した。

 がらんとした駅のホームで電車を待つ。過疎化を憂うほど田舎ではないと思うのだが、時間帯によっては全く人とすれ違わないこともある。

 なにか思案している様子の圭を横目で見ながら、司はまもなくやってきた電車に腰を上げた。

「んじゃっ、帰りますか」

「……そうだね、司」

 伸びを止めて圭を振り返る。昨夜のように顔は赤くないようだが、どこかぎこちない。

「なんだよその顔」

「ん、別に?」

 圭がムッとした表情になる。

 司は心からの笑顔を浮かべて、圭の肩を小突いた。

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