9

「来てあげたわ!」

 玄関を開けて開口一番、ひめは堂々とした振る舞いで言い放った。

「いらっしゃいひめちゃん」

 司が微笑んで迎える。今までのどれとも違う種類の笑顔だ、おそらく子供向けの顔だろう。

 ひめは自分の家と言わんばかりに上がり込み、迷いなくリビングのソファに座った。圭も特に居場所もなくリビングにいたので二人は対面して座る形になった。彼女は相変わらずじっとりと圭を睨んでいる。

「今日は三択だ、どうする?」

 司が給仕よろしくオレンジジュースをテーブルに置いて言った。

「そうね……今日はうらないで二がラッキーナンバーだったの、だから二にするわ!」

「お、二はなんとパンケーキ。運がいいね」

「やった! わたしツカサのパンケーキだいすきよ!」

 ひめがはしゃいだ。三択もなにも司は昨日パンケーキの材料しか買っていないのだが、こういうやり取りが子供には喜ばれるのだろう。面倒見のいい男だ。

「じゃあできるまで少々お待ちを。このお兄ちゃんが相手になってくれるよ」

「……ならないよ」

「ふん、あいにくわたしもおよびじゃないわ」

 ひめが腕を組んで鼻を鳴らすと、司はひめの頭を撫でてキッチンに引き上げていった。微妙な空気がリビングに流れる。状況を打破してくれそうな百合は今日に限って出掛けていた。

「……」

 そんなに睨まれてもどうしようもない。圭は無視をして端末のディスプレイを眺めた。ニュースによると相変わらず野良は暴れており、機動隊に不満が集まっているようだ。街から離れているからかこの地域のテレビ局では報道されていないので、野良の動向は端末頼りだ。

「ねえ」

「……なんでしょう」

「すずむらって言ったわね」

「ああ」

「ツカサのパートナーってほんとうなの?」

「……さあ。あいつが言ってるだけだよ」

 圭が投げやりに答えると、ひめは口を尖らせた。

「あなたっていんけんだわ。ツカサのパートナーにはふさわしくない」

「そう」

「ツカサはわたしのせんぞくパティシエになるのよ、すずむらにはわたさないわ」

 ひめが眉間に皺を寄せる。どうやら司の菓子作りは彼女に起因するらしい。なんとなく始めたにしては最初から完成度が高かった。

「どうしてもって言うならわたしとしょうぶしなさい」

「……こっちの負けでいい」

「どうしてもって! 言うなら! しょうぶしてあげるの!」

 面倒なことになってきた。子供のお守りは全くの専門外だ。司は我関せずといった風に鼻歌を歌っている。このまま放っておくとひめの頬袋はパンパンになるだろう。

「……わかったよ」

「ふふん、ならおねがいしてみるのね」

「……」

「さあさあ!」

「オネガイシマス」

「ふふーん、しょうがないわね! じゃあわたしが出すもんだいにこたえるのよ!」

 ひめは得意げに圭を指さした。

「だいいちもん! ツカサのすきな食べものはなに?」

「……さあ」

 司の好みなど気にしたことがない。

「だめね、ツカサはりんごがすきなの!」

「へえ……」

「それじゃあだいにもん! ツカサのたんじょうびは?」

「知らないな」

「え! しらないの、十月五日よ」

「初耳だ」

「じゃ、じゃあさんもんめよ、ツカサのにがてな生きものは?」

「聞いたことないね」

「……きりんがにがてなのよ……とくに舌が」

「ふうん」

「じゃあ、ツカサのメールアドレスは? これなら知ってるでしょ?」

「わからないよ」

 端末の番号をかろうじて交換しているくらいだ。それも未だに使ったことはない。司は連絡どうこうの前に大体圭の近くにいる。

「なんにもしらないじゃない……」

 ひめが愕然として呟いた。

「だから負けでいいって言ったろ」

「パートナーなのになんでしらないの」

「聞かされてないからね」

「だめよそんなんじゃ!『受け身の男はモテない』ってママが言ってたわ、パートナーならもっとせっきょくてきにならなきゃ」

「相棒を自称した覚えはないけど」

「にえきらないのね、すきならすきって言わないとつたわらないのよ」

「それなら今のままで問題は無いね」

「えっ」

 一人前に心構えを説いていたひめは圭の言葉を聞いて困った顔をした。圭のことがさっぱりわからないと言いたげだ。

「どういうこと? あなたツカサが好きじゃないの」

「……君の思ってる意味で言うなら『好き』ではないよ」

「すきはすきでしょ」

「好きにも種類があると思うけど」

「またへりくつ言うのね。すきじゃないのにいっしょにいるの? そんなのへんだわ」

「連れてこられただけだ」

「なによ、ツカサがわるいみたいに言わないで!」

 ひめは小さな手でテーブルを叩くと、生地を焼き始めた司の元に駆け寄った。

「ねえツカサ! すずむらったらあなたのことすきじゃないって言うのよ」

「そっかー、照れ屋だからね」

「パートナーなんでしょ、かなしくないの」

「いつか言ってくれるさ」

「すずむらなんてやめたほうがいいわ、わたしのパティシエになったほうがしあわせよ!」

 ひめは圭の言い草によほど腹が立ったらしい。司が生地の焼け具合を見ながら顔を赤くするひめに笑いかけた。

「ひめちゃんのパティシエかー」

「そうよ、そうなればわたしが毎日ほめてあげるわ! たくさんごほうびもあげる、だってわたしツカサがすきだもの」

 ひめが司の腰に抱きつく。司はそのまま器用にフライパンを振って生地を裏返した。

「そりゃあ嬉しいけどね。でもそれは出来ないかな」

「どうして」

「うーん、オレはどうせなら『一番』になりたいんだ」

「一番?」

 一枚目を焼き上げ、次の生地をフライパンに広げる。

「ひめちゃんにとって執事の佐々木さんは一番好き?」

「まさか! ぜんぜんだめね」

「じゃあメイドさんは」

「みんなやさしいけどちがうわ」

「パパとママはどう?」

「うーん……パパとママはとってもすきよ、でも、一番にはならないかも」

「じゃあひめちゃんの一番好きな人は誰かな」

「……みらいのおむこさんよ、きっと。だれよりすきになって、だれよりもすきになってもらうのよ」

 想像だけで幸福感に満ちた顔を浮かべるひめに、司は慈しむような表情を向けた。

「じゃあパティシエのオレは一番になれないようだ」

「……そうね。ツカサのこともとってもすきだけど、おむこさんじゃないわ」

「はは、振られちゃった」

「でも、すずむらの一番でもないんでしょ」

「今それを頑張ってるところさ」

 司がこちらを見て片目を瞑ってみせる。な? とでも言いたいようだが正直意味がわからない。ムスッとしてひめが再び圭を睨んだ。

「あんなのひねくれものよ、それでいいの」

「あんまりオレの相棒を悪く言わないでよ」

「むむ……でも……」

「オレが好きになったんだから、それでいいんだよ」

 司は皿にパンケーキを重ねながら言った。ひめの言葉に合わせているのだろうが圭は聞いていて複雑な気分になった。一体なんの話をしていたんだったか。

 程なくして、出来上がったパンケーキを持った司とともになんとか納得した様子のひめがリビングに戻ってきた。ふんわりとした焼き上がりのパンケーキがひめの前と、圭の前にも置かれた。

「おまえも食うだろ?」

「……子供と同列の扱いをするな」

「ふん、あなたもまだまだお子さまよ」

「はーい二人ともそこらへんで終わり。どうぞ召し上がれ」

 勝手に騒いでいるのはひめだけなのだが。圭は抗議の視線を司に躱され、差し出されたフォークを渋々受け取った。

 ほんのり温かいパンケーキの上でバニラアイスが溶けだす。メイプルシロップと絡めて口に運ぶと、シンプルな甘みが舌の上に広がった。

「おいしーい! やっぱりすきだわツカサのパンケーキ!」

「それはよかった」

 すっかり機嫌を良くしたひめが頬を押さえて満面の笑みを浮かべた。ずっとこうなら可愛いものだが。ひめは上品にパンケーキを食べ進めながら、圭の様子をチラチラと窺った。

「ツカサがああまで言うなら、しかたがないわ」

「……諦めたの」

「いいえ、わたしせんぞくのせきはいつまでも空けておくわ! ツカサがあなたにいじめられて帰ってきたら、わたしがやさしくむかえてあげるの」

「お優しいことで」

「ねえ、あなたのお名前はなに?」

「……圭、だ」

「そう、ケイね。おぼえておくわ」

 ひめがフォークを置いて圭をまっすぐ見つめた。圭が手を止めるのを待っているらしい。無視してやろうかとも思ったが、彼女は真剣だ。敬意を払うとしよう。

「いいこと、ケイ。わたしまだあなたをみとめたりしないわ。ツカサはわたしのだいじなボーイフレンドなの、どこの……なんのホネだか知らないひとに遊ばれてほしくないから」

「馬の骨ね」

 司が笑いを堪えて助言した。

「そうウマのホネよ。……とにかく、もしあなたがツカサを泣かせたりしたら、わたしゆるさないんだから」

「泣くようなタマじゃないと思うけど」

「泣かないひとなんていないわ! だめよケイ、もっとパートナーをだいじにして」

「……善処いたします」

「ケイのきもちが決まってないのもわかるわ。でもツカサは待ってるんだから、ちゃんとケイも自分のことを伝えなきゃだめよ」

「……なるほど」

 司の口元が不自然に歪んでいる。これは一体なんの時間だろうか。耐えきれなかったらしく司はキッチンに戻り震えながら俯いた。

「おたがいを知るほど愛はふかまるんだってパパがいってたわ。ケイももっとすなおになることね。そしたらすこしはみとめてあげてもいいわ」

「そうですか……」

「わたしとやくそくして。ツカサをだいじにするって」

 司が吹き出したのを咳払いで誤魔化す。ひめはいたって真面目な表情なだけに、馬鹿馬鹿しいとはねつけるのも多少罪悪感がある。いや、それにしても会話の内容がおかしい。圭は別に相棒にふさわしいと思われなくとも問題ないし、司の気持ちを弄んでいる訳でもない。

「約束、は……できないな」

「どうして」

 ひめの表情が険しくなる。

「……いい加減な返事はしたくないからね」

 司がとうとうキッチンの影にしゃがみこんだ。一人安全圏に逃げて腹の立つやつだ。

「わかったわ。今日のところはそれでゆるしてあげる」

 ひめが貫禄を持って頷き、残りのパンケーキを食べはじめた。やっと満足して頂けたらしい。圭は司が深呼吸するのを横目で見ながら、溶けて液体になったバニラアイスをパンケーキで掬いとった。

 

 天真爛漫なお姫様がようやく帰ったと思えば、町内会の集まりから帰ってきた百合に捕まり、圭は向こう一ヶ月分の会話をこなしたのではないかと感じた。

 濡れた髪を拭きながらため息をつく。携帯電話を操作する司にそれを聞きとがめられ、圭は投げやりに問題ないと伝えた。

 三日目の夜ともなると緊張も解けてくる。はじめに感じた不安も消えていた。身体を布団に預けると、覗き込むように司がベッドから身を乗り出した。

「明日はオレ昼からいないから」

「友達と食事するんだろ、わかってる」

「大丈夫? 母さんずっと家にいるよ」

「……なんとかするよ」

「はは、おまえが疲れてるってそれとなく伝えとく」

「ぜひよろしく」

 母親というのはあんなに個人情報を晒すものなのだろうか。司が幼少期、犬に追い回され川に落ちたエピソードが不特定多数に知られているかと思うと少々哀れに感じる。

「しかしまあ、今日は面白かったな」

「笑い事じゃない。なんだって僕があんな面接を受けなきゃならないんだ」

「そういうお年頃なんだよ」

「……君が相棒だのなんだのと言いふらすから」

「だって相棒だろ?」

「……」

「そんな顔するなって。ふふ、おまえ顔に出すようになったじゃん」

「は?」

「春は能面みたいだったぜ。まあ今も分かりやすいとまではいかないけど」

 眠いのか、司は目を細めて柔らかく笑む。言うほど顔に出ているだろうか。司の読み取り能力が桁違いなだけではないかとも思う。

「君に振り回されてるせいだ」

「そりゃなにより。これからもそのつもりでよろしく」

「……」

「電気消すよ。おやすみ」

 圭の返事を待たず消灯する。もぞもぞとタオルケットに潜るシルエットを見ながら、圭もベッドと反対側を向いて目を閉じた。

 なぜかひめの言葉がしばらく頭の中を巡っていた。

 

 *

 

「うふふ、今日はなんの話をしようかしら!」

 楽しそうに微笑む百合に、圭はぎこちなく頷いた。

 そんなに遅くはならないよ、と司は言ったが数ヶ月ぶりの再会ならば話も弾むだろう。半日の拘束に圭の精神力は耐えられるだろうか。

 外出するという手もなくはないが一人で出歩くというのも気が進まなかった。この町は圭を放っておいてくれるほど他人に無関心ではない。

「りんごジュースでいいかな」

「……はい」

 司の好物がりんごだという情報を思い出す。どうでもいい関連性が付与されてしまった。

 今日も空は晴れ渡って、大げさなほど夏を主張している。毎日端末に届くニュースは野良に関する血なまぐさい事件ばかりだが、ここはそんな世間から隔絶されたように静かだ。今も何人もが犠牲になっているだろうに、圭はここでのんびりしていていいのだろうか。一日でも多く鍛錬を積み野良に備えるべきではないかと焦燥感が募った。

 二人分のグラスを置いて百合が対面に座る。緩くはねる髪と目尻の下がり具合が司にそっくりだ。彼女は自分の麦茶を飲んで喉を潤した。今日はどこから話すのだろう。昨日は司がリレーのアンカーで逆転優勝したところで終わったんだったか。

「ねえ、司、あなたに迷惑かけてないかしら」

 内心身構えた圭に対し百合が口にしたのは、いつものハイテンションなものではなかった。

「……いえ、そんなことは」

 まさか押しが強くて困る、とは言えない。

 百合は普段の少女のような笑みに少しだけ影を落とした。慈愛と思慮を内包した穏やかな笑顔だ。

「連絡くれたとき、あの子が圭くんのこと親友だなんて紹介するから、私びっくりしたの」

「それは、どういう」

「あの子今までそういう特別な子っていなかったから」

 圭は曖昧に首を傾げた。この数日だけでも、司に友人が多いことはすぐに理解出来た。楽しそうに笑っていた彼らともずいぶん仲が良さそうに見えたが。

「仲が良い子はたくさんいるの。商店街の方たちとも仲良しだし、年齢に差があっても関係ないわ。昔から誰とでも上手く付き合える子だった」

 百合は誇らしげに言った。

「誰に聞いても、司はいい子ですね、良い奴だよって言われて。もちろん嬉しいわ、私の自慢の息子だもの。でも……それだけ」

「……というと」

「それ以上でもそれ以下でもないの。良い奴、それだけよ。あの子は誰にでも、同じだけ、優しいのよね」

 堅物の宗太とも上手く付き合い、琴葉を気にかけ励ます司を思い返す。他のクラスメイトとも分け隔てなく接し、耳に入る教師達の評価も問題ない。ああ見えて慎重な博士も、たった数日で彼をこちらに引き込むほど信用している。鼻にかける様子も意識してやっているようにも見えないからあれが司の素なのだろう。

「みんなの中に、『良い奴』としてだけいるあの子が心配だったの。ひめちゃん以外のお友達は家に連れてきたこともないし、そのひめちゃんだって司が誘ってるわけでもないでしょう」

「そう、なんですね」

「恋人だってできたことないのよ? 顔も性格も悪くないと思うんだけど……」

 これは親バカかしら、と百合は笑った。

「でも良かった。圭くんは『良い奴』で終わらなかったのね」

「……」

 なんと答えればいいか分からない。実のところ圭は司の心の中での立ち位置というものが定まっていないのだ。良い奴、ではあるだろう。おそらく感じているのがそれだけではないことも、なんとなくは分かる。でも具体的に言語化できるほどには至らない。

「僕、は」

「ね、一緒にお買い物行きましょう!」

「え」

「私の息子だって自慢したくなっちゃった! 今日のご飯も二人で考えましょうよ」

 いつの間にか百合は普段の明るさを取り戻して眩しく笑っている。有無を言わさず手を引かれ、圭は買い物に連れ出されてしまった。

 

 百合も司のように、すれ違う人々に笑顔を向けて柔らかく接している。皆百合のことを好いているのだろう、向こうから声をかけて来ることも多い。商店街に行けばあちこちから呼び止められ、そのたびに息子だと紹介された。再婚か、などと言われては産んだのよ、と返し、圭はすっかり藤堂家の息子ということにされた。

 おまけのほうが買ったものより多いのではないかと思うほどの食材が詰まったエコバックを受け持ちながら、百合と二人土手を歩く。圭と母がもし一般家庭だったなら、こうして共に買い物をすることもあったのだろうか。他の子供と同じありきたりな人生を歩んでいたのだろうか。もしも、を想像できるほど圭は家族や友達を知らない。

「重くない?」

「大丈夫です」

 どこからかリコーダーの音色が聴こえる。童謡だろうか。独創的にアレンジされた音階のあとに、笑い声が風に乗って圭の耳に届いた。

 不意に、百合が立ち止まって圭を振り返った。白い帽子の下で穏やかに微笑んでいる。

「ありがとうね、司と友達になってくれて」

「……いえ。お礼を言われるような、ことじゃ」

「ふふ、言いたかったの。さ、急いで帰りましょう、お野菜傷んじゃう」

 優しい声が圭の頬を撫でた気がした。駆け足になる百合を追って、圭も緩く走り出した。

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