8

 電車に揺られ一時間半。開発の進んだ市内を離れ、景色はコンクリートの集合体から草木の揺れるのどかな町並みへと変わっていく。都市圏で犯罪が急増し、その対策のために街を開発し、さらに犯罪が集中し、といった連鎖のせいでこの辺りの発展は極端だという。

 途中川を渡り、駅の間隔も長くなり、建物よりも自然の比率が高くなったところで電車が目的地を告げた。

「おー、半年も経ってないけど懐かしい」

 司が伸びをしながら弾んだ声を上げた。

 駅舎こそ新しいが、一歩外へと踏み出せば前時代を感じる小さな町並みだ。圭は初めて実際に蝉が鳴いているのを聞いた。

「……思ってたよりも」

「田舎?」

「まあ、そう思うよ」

 風向きが良いのか、市内より涼しく感じる。だがどうあがいても真夏だ、照りつける太陽が皮膚を焼くのに変わりはない。

「あっちー、早いとこ家に行くか」

「そうしてくれると有難いね」

 昼下がりの駅前に人気はない。二人分のキャリーケースを引く音が蝉の声に溶け込んでいく。

「いつもはもうちょっと人いるんだ。多分次の電車ぐらいの時間が賑わうかな」

「へえ……」

「信じてないな? そこまで過疎ってないって」

 だが実際人影は見えない。レンガの敷かれた道をしばらく進んでいくと、ようやく前から自転車に乗った人が現れた。

「あれー? 司くんじゃん」

「あ、棚本さん。久しぶり」

 髪を明るく染めた青年が司に気づき、司も顔見知りだったらしく手を上げる。圭は少し後方で立ち止まってなるべく気配を薄くした。

「そうか夏休みだもんな」

「うん。来週いっぱいいるつもり」

「へえいいね。元気してた? なんか背伸びたな」

「そう? 結構鍛えられてっからね」

「順調そうで何より。で、そちらは?」

 青年は司の肩を軽く叩いて笑うと、自転車のハンドルにもたれ掛かって圭を示した。少し気だるそうな雰囲気は浅野を思わせるが、どことなく司と似ている気がする。

「オレの親友の圭くん。暇そうだったから連れてきた」

 司が肩に腕を回してくる。すぐにでも払い除けたいところだが、あまりそういうところを見せると訝しがられるだろうか。思考で固まっているうちに司は自ら離れた。

「へー、都会の子か。司くんがお世話になってます」

「……いえ」

「まぁクール」

「棚本さんはこれから仕事?」

「そ、今から涼しい職場に退散。二人で司くんちに?」

「うん」

「百合さん喜ぶだろうね。それじゃお休み楽しんで」

「棚本さんもお仕事がんば」

 棚本は軽く手を振って去っていった。司の人懐っこい表情は意外にも新鮮だ。いつもへらへらとはしているがあれは社交的なものだ。

「……身内かなにか?」

「近所のお兄さん。図書館で働いてる」

「近所」

「オレに色々悪いことを教えてくれた先輩だよ」

 司は冗談めかして笑い、再び歩き出した。

 電車で通り過ぎた川が蛇行して町の中を流れている。段々と浅瀬で遊ぶ子供たちや、キャッチボールをする親子を見かけるようになってきた。

 小さな橋を渡り、閑静な住宅街に差し掛かる。司は楽しそうに辺りを見回しながら、一軒の家の前で立ち止まった。

「ここがオレん家」

 しっかりした塀に、庭も確認できる。市内の一戸建てよりよほど大きな家だ。クリーム色の壁と青い屋根が夏の陽射しによく映えた。

「……立派なお宅だね」

「ここらじゃ普通だよ」

 圭の感想を受け流して、司がインターホンを鳴らした。しばらくして、家の中から急ぐ足音が近づいてきた。焦ったように鍵を開ける音がする。

「司ちゃ~ん!」

「おっと」

 ドアが開くと同時に女性が勢いよく飛び出してきた。そのまま司に抱きつき、司が特に慌てる様子もなく女性を受けとめる。圭は内心困惑しながら横でその光景を眺めた。

「久しぶりね、よく帰ってきたね、まあ逞しくなって」

「はは、ただいま母さん」

「おかえりなさい! 今か今かと待ってたの」

 司が母さんと呼んだ女性は満面の笑みで何度も司に頬ずりをした。司は嫌がる素振りも見せずされるがままになっている。

 ひとしきり喜んだあと、女性ははっとして圭の方に向き直った。柔らかな栗毛が空気を含んで揺れる。

「あなたが圭くん?」

「はい、お世話になります」

「まあ、……っ!」

 女性は感極まったかと思うと、突然圭に抱きついた。予想していなかった行動に思わず硬直する。咄嗟に手を動かしかけたが、悪意がないのに振り払うのも失礼ではないか。華奢な肩の向こうで司が愉快そうに笑っている。

「大変だったわね。お母様があんなことになって辛かったでしょう」

「……いえ、あの」

「ね、私のことお母さんだと思ってくれていいから! 私も圭くんのこと二人目の息子だと思うわ!」

「それは」

「ううん遠慮しないで。おかえりなさい! さあ入って、暑かったでしょう」

 まともに返事をする暇もない。押しが強いのは母親譲りか、と考えながら、圭は促されるまま司の家に招き入れられた。

 

 少し挨拶をすれば喜ばれ、土産を渡せば感謝され、ハイテンションのまま司の昔話を聞かされ、気がつけば外は夕暮れ時だ。今日は腕によりをかけたと言って出された料理は明らかに三人分ではなかったが、その美味しさに誤魔化されなんとか皿は空になった。

「お風呂沸いてるから好きなときに入ってね」

 食器を洗いながら司の母親、百合は優しい声で言った。

「ちょっと張り切り過ぎちゃったかと思ったけど、育ち盛りの子で良かった」

「やっぱ母さんの料理には適わないな」

「あらー、私が教えたんだもの司ちゃんも美味しく作れてるわきっと」

 こちらを向かず鼻歌混じりに言う百合に肩を竦めて、司はリビングのソファに寄りかかった。

「美味かった?」

 手持ち無沙汰に座る圭に司が尋ねる。

「ああ」

「そりゃ良かった。本人に言えばハグのお礼が来るよ」

「……普段からあの調子なの」

「喜びは全身で表現する人なんだ。明るくてお茶目だろ」

 そう言って彼は笑った。圭の脳内にマザコンという言葉が過ぎったが思うだけに留めておこう。

 

「お布団、部屋に運んでおいたから」

「ありがと、おやすみ母さん」

「ええ、ゆっくり休んでね。圭くんも」

「はい」

 入浴を済ませ、百合に微笑まれながら階段を上がる。このように無条件で好意を受けるのは少々落ち着かない。どうやっても母とは重ねられないし、周りにも似たような大人はいなかった。強いて当てはめるとすればよく圭を気遣ってくれる博士あたりだろうか。

 木製のプレートに『つかさ』と多少いびつに彫られたものがドアに下がっている。縁が星型のビーズで飾られており、ずいぶん子供っぽい代物だ。

「これオレが小学校のとき作ったやつ。母さんが気に入ってるんだ」

「そう……」

「ようこそオレの部屋へ。ベッド使う?」

「君のベッドだろ」

「布団よりベッド派かと思って」

「特にこだわりないよ」

 青っぽい壁紙の室内は綺麗に掃除されていた。リビングにもいくつかあったが、コンクールや大会のトロフィーと賞状がタンスの上に並んでいる。司が視線に気づき、全て小学生向けの小さな大会だと説明した。

「昔はとにかく母さんを喜ばせたくてさ、あちこち出て回ってたんだよ」

「……殊勝なことだ」

「その反動で中学じゃ何も功績はないけどね」

 司はベッドに腰掛け茶化して言った。司の父親が亡くなったのは幼い頃だと聞いたが、小学生の時期だったのかもしれない。元気の無い親に喜んで貰いたい気持ちは圭にも分かる。

 圭がぼんやりと布団を見下ろしていると、司が携帯電話を操作していた手を止めてこちらを見た。

「やっぱベッドにする?」

「……いや、いいけど」

「なんかあった?」

「……」

 広くはない空間に誰かといるというのは違和感があった。特に、誰かと同じ部屋で寝るというのは経験がない。

「誰かいると寝れないか。親父の部屋片付けて来るかな」

「いいよ、ちょっと……新鮮だっただけだ」

「そ。あ、オレそんなに煩くないと思うけどもし気になったら蹴るなり殴るなりしていいから」

「本当にやっても文句言うなよ」

「上等」

 司がへらりと笑う。風呂上がりだからかいつもの癖毛がしんなりと大人しくなっている。環境の違いもあるだろうが今の司は少し雰囲気が違って見えた。

 柔らかい布団に腰を下ろすと、違和感が強くなる。知らない町、知らない家、知らない匂いだ。微かに身を固くしているこれは不安の表れなのだろうか。一人暮らしを始めたときには感じることのなかった感覚だ。

「電気消すけどオッケー?」

「……ああ」

「おやすみ」

 胸のもやつきをそのままに身体を横にすると、明かりが消え静寂が訪れる。司は言葉通り、少し衣擦れの音をさせた後は身動きする気配もなくなった。

 外から微かに虫の鳴き声が聞こえる。サイレンも車の行き交う音もしない、ただ自然の音だけが流れている。枕に片頬を押しつけると馴染みのない他人の香りがした。

 眠れないかもしれないと思っていたが、それなりに体力は使っていたらしい。司の気配が稀薄なのもあって、圭は程なく眠りに落ちていった。

 

 *

 

「あいつ、何考えてるかわかんないよな」

 遠巻きにこちらを見つめるクラスメイトが囁く。

「ロボットみたい。感情がないんだあいつ」

 誰も近寄りはしない。皆の話題はほとんど分からず、どう会話すればいいかも分からない。

「君は優秀だ」

 大人達はこぞって褒めた。無機質な目が自分ではなくその後ろを見つめていた。

「ムカつくんだよ七光り」

 悪態をついた彼はいつの間にかクラスから消えた。誰もこちらを見なくなった。

「君は本当に強いな」

 憧れの眼差しが刺さった。欲しいのは羨望ではなかった。純粋な彼の足元には明確な線が引かれていた。

 いつも連なって帰る皆を見ていた。一人施設に向かいながら、笑い合う彼らを眺めていた。

「友達も仲間も貴方には必要ないわ」

 そうですね。僕には必要ありません。僕はただ命令を聞くだけ。言われた通りにするだけ。ずっとそう。

 友達なんて今更そんなもの、苦しくなるだけだ。

 

 圭は静かに目を開けた。窓の外が明るくなり、鳥のさえずりが聞こえている。

 端末の表示する時刻は午前五時三十分。いつも通りの起床だ。今となっては意味の無い早起きだが、体がそのように覚えているのでしょうがない。

 なにか夢を見ていたな、と考えながら体を起こし、何の気なしに隣に目を向け思わず動きを止めた。

「おはよ」

 司が携帯電話を弄りながら、普段より少し低い声音で挨拶し微笑んだ。いつから起きていたのだろうか。圭より早起きだとはにわかに信じがたい。

「……おはよう」

「寝れた?」

「それなりに」

「特に予定ないし二度寝してもいいよ」

「あいにくそういう文化がない」

「そう。んじゃ朝練でもしようか」

「……君だけ二度寝したっていいんじゃないの」

 司の表情からしてすっきり目覚めているようには見受けられない。

「サボり癖がつくといけないからね」

「元から真面目でもないだろ」

「何事もほどほどが一番ってこと。よいしょ」

 司はベッドから立ち上がり伸びをした。昨晩は大人しかった髪が奔放に跳ねている。特に寝返りが激しいとは思わなかったがどうしてそうなるのだろう。

「たぶん母さんはまだ寝てるからひっそり庭に出よう」

 司が人差し指を立てて提案した。二人はなるべく音を立てないように顔を洗い、Tシャツ姿で庭に出た。

 広くはないが、軽く組み手をするには十分だ。司が体をほぐして手招くジェスチャーをするので、圭は数回手首を振って構えた。

 仮想空間での訓練もそうだが、司はこちらの呼吸に寄せてくる節がある。瞳が圭の一挙一動を捉え、こちらが思う通りの返答をする。手合わせを繰り返すほどにその正確さは増している。圭にはそれが少し不気味にも感じるが、結果としてはとてもやり易い。

『圭になる』と言い放ったときは本気で彼が奇妙に思えたが、こうまで寄せてこられるとあながち冗談ともいえなくなってくる。なぜ、司はここまで圭の考えを読めるのだろうか。分かりやすい予備動作をしているつもりは毛頭ないのだが。

 あと二打で止めよう、と動いて、やはりその通りに司も動きを止めた。だがさすがに始めから終わりまで息を合わせることはまだ難しいらしい。少し息が上がっている。

「……やっぱり気味が悪いな」

「酷いな、けっこう頑張ってるんだぜ」

「それは認めるけど。いったい何で判断してるんだ」

「んー、勘?」

 司が顎に手を当てて言う。

「何となくだよ。圭なら次はこうするだろうなって」

「その考えに至る根拠は。僕の今までの行動パターンが頭に入ってるとでも?」

「さすがに全部は。でもほら、オレもその場しのぎで受けてるわけじゃないし。痛い目みるのは少ない方がいい」

「……殴られれば学習するって?」

「そんな感じ」

 司は簡単に言うが、それがどれだけ難しいことか分かっているのだろうか。

「圭もそういうのない? オレが次に何するか予想がついたり」

「……ないよ」

「じゃあジャンケンしよう。あいこにしろよ」

 唐突な提案とかけ声に渋々手を出す。何も考えずにパーを出して同じ手。司の動きを見てチョキ、面倒になってグー。

「君が合わせてるだけじゃないのか」

「そうとも言う。いやもっとこうさ……」

「君が先に出してろよ。同時に出すんじゃ意味無いだろ」

「そりゃそうだ。じゃあ、はい。今何を出してる?」

 司が背中に手を回して問いかける。

「チョキ」

「お、当たり。次は?」

「グー」

「当たり。最後」

「……グーのまま」

「ほらな? 分かってるじゃんそういうのだよ」

 したり顔で司が言った。たしかに全問正解ではあるが選択肢が三種類では当たる確率も高い。戦闘面でそれをほとんど当ててくるのとは比べ物にならない。

「出来てもこの程度だよ。君のはなにか違う」

「それは普段の努力の賜物ってことで。だーいじょぶ、オレを信じてくれればそれでいいよ」

「……」

「そのうち鏡合わせに動きそう? そうなれれば理想だね」

「読むな」

 圭は面白そうに見つめてくる司から目を逸らした。彼の瞳は何を見ようとしているのか分からなくて落ち着かない。

「シャワー先浴びていいよ。オレ花に水やってる」

「……わかった」

 じょうろを探す司を置いて、圭は疑念を解消しきれないまま先に家へ戻った。

 

 こんなにすることがないというのも初めてだ。向こうならば休みであってもトレーニングだのなんだのとやる事もあるが、ここには圭にできることがなにもない。

 それでも、話したがりな百合の語る司の思い出を聞いているうちに午前は過ぎていった。

「そうだ、圭くんに町を案内してあげたら?」

 昼食の後片付けをしながら、百合がのんびりと言った。

「いいねぇ、暇を持て余してたんだ」

「……名所でもあるの」

「特に。でもやることないしいいだろ」

 たしかにこれ以上はさすがに間が持たない。まだ休みはたっぷり残っている。毎日延々と司の産声から順に聞かされたのでは気が滅入るというものだ。

 過保護な百合に帽子をかぶせられ、圭は司とともに外へと繰り出した。

「神社でも行くか、この時間なら日陰だ」

 蝉が合唱する中をゆったりと歩く。時間に縛られない移動というのは新鮮だ。元気に走り去っていく麦わら帽子を目で追いながら、その背景を彩る入道雲にいつか読んだ小説を思い出した。

「お」

 司が何かに気づいて声を上げた。前方から自転車が二台近づいてくる。向こうも司を認識したのか笑顔で手を振った。

「司じゃーん!」

「おーおひさ」

「帰ってたなら言えよー!」

「あれ、背伸びてねぇ?」

「昨日も言われたなそれ」

 けらけらと笑う二人はどうやら司の友人らしい。圭は川の土手ではしゃぐ子供を眺めて暇を潰した。

「そんで村田のやつフラれてさ」

「みっちゃんは高望みしすぎだろ」

「だよなー!」

「……なあ、そいつ誰?」

 一人が司の背後を覗き込んで訝しげな視線を圭に向けた。ここで笑顔のひとつでも返せれば丸く収まるのだろうが、圭はそこまで社交性がない。

「オレのズッ友の圭ってんだ。良い奴だよ」

「へー……」

「……」

「そして恥ずかしがり屋。お前らは部活の帰り?」

「あ、聞けよ、こいつエースなんだぜ」

「マジ? すげえじゃん」

「部員が少ないだけ。毎日練習でやってらんねーよ」

 反応の薄い圭にすぐ興味を失って彼らはしばらく近況を話し続けた。そうしてくれた方が気が楽でいい。

「いつまでいんの?」

「あと五日くらいで戻るかな」

「そんじゃどっかで飯食おうぜ、みんなも呼んでさ」

「……いいね、明後日なら空いてる」

「いいじゃん! じゃあとでメールすっから、タケんとこの食堂でいいよな」

「任せるよ」

「おっしゃ、じゃあまたな!」

 彼らは嬉しそうに自転車を漕いで去っていった。司が佇んで見送り、再び歩き出す。

「あいつらは中学の友達。地元の高校行ってんだ」

「そう」

「赤点の常連でさ……ここ登ると近道だから行こう」

 司はうねる道路に隣接した細い階段を指さした。ところどころ柵が錆びて雑草が絡んでいる。コンクリートを固めた簡易的な足場を上がっていくと、やがて雑木林にたどり着いた。

 蝉の声が近くなる。色褪せた鳥居をくぐり、特に手入れのされていない境内で司は立ち止まった。こじんまりした拝殿が蜘蛛の巣だらけになって、戸も壊れている。

「ますます廃れたな」

「廃屋も同然じゃないか」

「オレが小さいときはまだお祭りもやってたんだけどさ。いつの間にかなくなって神主の爺さんが死んでそれっきり」

「……誰も管理してないの」

「たぶんね、これじゃ神様も商売あがったりだ」

 司が頭のかけた狛犬を見上げて言った。

 新興宗教はたまに街中で見かけるが、こうした神社など昔からのものはどんどん風化しているという。圭も詳しくこういったものを知る訳では無いし、縋りたいとも思わない。

「お願いしてみようか、野良を殺せますようにって」

「バカバカしい」

「はは、神様も困るだろうな」

 司は折れた箒を拾い上げると、ところどころ緑に変色した賽銭箱の周りを軽く掃いた。そこを住処にしていた虫が渋々逃げていく。

 司が投げた硬貨が賽銭箱に吸い込まれコツン、と音を立てた。この荒れ具合だと長らく中には何も入っていないだろう。

「圭が死にませんよーに」

「……なんで僕なんだ」

「一人で死ぬなんて言うから」

「あれは……その時が来たらの話で」

「来ないよ。圭は死なない」

「その自信はどこからくるんだ」

「根拠はないけど。そう信じてたほうがいい結果になりそうだろ」

 振り返った司が木漏れ日に照らされて笑った。無邪気なわけでも幼げなわけでもないが、圭はその表情にどこか無垢なものを感じた。きっと彼は本当に、そう信じているのだろう。

「自分の心配をしなよ」

「それは圭がしといて」

 司は石段から降りると圭の肩を叩いて歩き出した。

 了承も否定も出来ず、圭は拝殿を見上げたあと無言で司のあとに続いた。

 

 

「後は図書館が涼しいかな……でも今は混んでるか」

 神社を出たあと、二人は商店街をぶらついてソフトクリームを食べ、しばらく川沿いを歩いた。時折子供の甲高い笑い声が風に乗って聞こえてくる。暑いのに元気なことだ。

「郷土館は隣町だしなー、思ったより何も無いわここ」

「今更な感想だね」

「住んでりゃ穴場は多々あるけどね。大体内輪向けだ」

「君だけで懐かしんで来ても構わないよ」

「寂しいこと言うなって」

 次の行き先に悩む司を放って日光にきらめく河川を眺めた。設置された飛び石で遊ぶ女児たちが転び、ずぶ濡れになって笑っている。視線をふと前方に移すと、全速力で走る少女とその後ろを追いかける人影が目に入った。少女は脇目もふらず一直線にこちらに向かってきているようだった。

「……!」

 なにか叫んでいる。司も少女に気づいた。

「……ツ~カ~サ~!」

「うおっ」

 少女が司の名前を叫んで、減速することなく突っ込んだ。司が小さく声を上げて後退する。

「ツカサっ! もどってきたならっ! わたしにあいさつしてよねっ!」

 息を切らしながら少女が司の胴にしがみついた。短いツインテールにした金髪と赤いリボンが目立つ。見たところ小学生、低学年だろうか。

「やあひめちゃん、久しぶり」

 柔らかい笑顔を見せる司とは裏腹に少女は御立腹だ。

「たなもとから聞いてさがしてたんだから!」

「ごめんごめん。ちょっと見ないうちに一段と可愛くなったね」

「そ、そう? あたりまえね、わたしは自分みがきをわすれないレディなの!」

 司の世辞に少女はころりと態度を変え胸を張った。忙しい子だ。

「それより……あら?」

 少女と圭の目が合う。少女はぱっと目を輝かせると司のTシャツの裾を引っ張った。

「ねえ、ねえだれ? かっこいい人だわ!」

「ひめちゃんこういう顔好きだね」

 少女は頬を染めてこちらを見つめている。こういった反応は今までされた試しがないので対応に困る。

「は、はじめまして! わたし北條ひめともうしますわ!」

「……どうも。鈴村です」

「はわ……かもくなかただわ……」

 ひめが口元を押さえて司にもたれかかった。仕草も口調も絵に書いたようなお嬢様といった風体だ。ひめは興奮した様子でもう一度司に誰、と聞いた。

「オレの相棒なんだ」

 司がさらりと言う。あまり大げさに言いふらさないでほしいものだ。ひめは驚いたようで、何度か圭と司の顔を見比べた。

「……あいぼう? パートナーなの?」

「ん? うん」

 言い換えると語弊が生まれる気がしないでもないが。

「ふうん……」

 ひめは一転、圭を値踏みするように睨んだ。明らかに警戒心を強めている。本当に忙しい少女だ。

「まあ今はいいわ。ツカサ、学校はやめたの?」

「夏休みで戻ってきただけだよ」

「じゃあまたさってしまうのね……いつまでいられるの」

「今週いっぱいはいるよ」

「そうなの! じゃあ、わたしあそびにいくわ! いつにしようかしら」

 ひめが考える素振りをしている間に、後ろを追いかけていた人影がやっとたどり着いた。今にも倒れそうな青年だ。燕尾服が景色から浮いている。

「お、お嬢様、速いです」

「おそいわササキ! そんなことじゃわたしのシツジはつとまらないわよ」

「ひえ……あ、司くん、お久しぶりですね」

「お疲れさまです」

「きめたわ! 明日にする!」

 ふらふらの青年を叱咤して、ひめが高らかに宣言した。

「いいツカサ、明日よ! わたしがたずねるのだから、ちゃんとでむかえるのよ!」

「はいはい、ひめちゃんの仰せのままに」

 司が了承すると、ひめは満足げに頷いた。そしてきっ、と圭を睨みつけると、見せつけるようにそっぽを向いて再び走り出した。

「かえるわよササキ、もたもたしないで!」

「あっ、お待ちをお嬢様、もうちょっと休ませて」

「聞かないわ! ごきげんようツカサ、明日ね!」

「はーい」

「お嬢様ー! し、失礼します!」

「頑張ってくださーい」

 温かい眼差しを向ける司と若干引いている圭に見送られ二人は川沿いの道を駆け抜けていった。彼女たちが去ったあとだと周囲の静けさが強調される。

「なんだったんだ……」

「金持ち夫婦がここを気に入って住んでてさ。そこのお嬢様。いつも両親が出張だかでいなくて、縁あってオレがたまに遊んであげてたんだ」

「思い切り敵意を向けられた気がするけど」

「難しいお年頃だからね」

「何か勘違いしてただろ、あれは」

「にしても明日か、急だなあ」

「話を逸らすなよ」

「もっかい商店街行っていい? 買い物」

「……僕がついていくのに意味があるの」

「あるある、若い子好きなおばちゃんたちに効果絶大」

「断りたいところだね」

「母さんの話がそんなに聞きたいっていうなら止めはしないさ」

「……」

 あまり選びたくない二択だ。司が圭の表情を見て笑う。

 圭は肩を竦めて見せると、愉快そうに謝る司の後ろを歩きだした。少しずつ日が傾きはじめていた。

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