5

 母親の笑った顔を見たことがない。

 会う度にその視線は冷ややかで、優しい言葉もなく、触れることすら未だにない。

 求められているのは息子としての愛らしさではなく、一つの『データ』としての優秀さなのだろうとは、物心ついた頃には気づいていた。

 他の世界を知らなかったから、母親とはこういうものなのだと思った。不満も嫌悪も抱かなかった。本能として母親に愛を抱き、母親に応えるために行動した。言葉の代わりにつけられる『優良』の文字に喜びを見出した。

 その母親が母親として破綻していると分かったのは年齢を十年以上重ねてからのことで、当たり前のように母親と触れ合う学友に少なからず衝撃を受けた。母親だと思っていたものは、血の繋がっただけの他人であったのだ。

 多くの本を読んだ。多くの人を見た。外界に触れれば触れるほど、今まで過ごした日常は外界にとっての異常であると思い知った。

 だが、今更、己を変えることなど出来なかったのだ。求められるままに数値を出し、母親のために優秀であり続けること。それだけが、生きる理由だったのだから。

 歳を重ねる事に母親への思いが歪んでいく。学友が笑うたびに心が軋んでいく。僕は笑えない。僕は愛されていない。『僕』は、求められていない。

 それでも愛していたかった。父親と違い、結果としていつも傍にいた、いてくれた母を、嫌いにはなりたくなかった。

 初めて彼女を母さんと呼んで、距離を置いた。長い議論の末に猶予は一年となったが、それでも十分だと思った。少し離れて落ち着こう、そして再び戻り期待に応えようと、そう考えていた。

 一人は、馬鹿馬鹿しいぐらいに息がしやすい。自分の物しかない部屋も、自分で決められる予定も、すべてが今までの何より快適だった。

 あれから母親には、一度も会いにいっていない。



 ここのところ、雨が続いている。司はいつも以上に跳ね回る癖毛をつまみながら鏡と睨み合った。

 梅雨はどうしても気分が盛り下がる。強く容姿にこだわっているわけでもないが、この時期の髪型には悩みっぱなしだ。うねる癖毛にも辟易するが、ストレートパーマをかけるのも趣味に合わない。

 結局諦めて鞄を掴むと、司は圭の外出する音に合わせて家を出た。

「おはよ」

「おはよう」

 傘を開きながら圭が無感情に返した。彼はいつも通りサラサラの髪だ。こういう髪質を無性に羨む時期があったな、とぼんやり思い返す。

 雨に色彩を暗くした街はどことなく静かだ。濡れた交差点に傘がひしめき合って、アスファルトにいくつも影を落とした。

「毎日雨で嫌になんなぁ」

「特に」

「マジ? このじめっとした空気に不快感をお感じにならない?」

「全くというわけじゃないけど君ほど憂鬱にはならないよ」

「これは方向性の違いで解散するしかなさそうだな」

「結成もしてないだろ」

 内容のない会話を交わしながら学園へと歩を進める。『異常犯罪者の人権を守る会』という看板を掲げた団体が雨合羽まで着て声を上げているのを素通りして、学園まで交差点をあと二つというところにさしかかった。

 少し前を歩く圭が唐突に立ち止まった。司は不思議に思って、傘の位置を上げて前方を見た。

 数十メートル先に誰かが一人で立っている。傘を前に傾けているので顔が見えないが、おそらく男とみた。その背後の交差点が封鎖されているようだが警報は鳴っていない。いくら雨音がうるさくても鳴れば分かるはずなのに。

 ふと視野を広げて、司は周りに人気がないことに気がついた。

「……もしかしてやばい?」

「黙れ」

 圭に短く制され口を閉じる。

 男は無言でこちらに歩き出した。訝しんで身構えると、圭が司の前に立って傘と鞄を押しつけてきた。臨戦態勢というわけだ。

 踏まれた水溜まりに波紋が広がる。男は数メートルまで距離を詰めてきたが、圭はまだ仕掛けない。表情がいつもより固いように感じた。

「こんにちは、鈴村圭くん」

 男が悠長に挨拶をし、狐と猫が合わさったような仮面が傘の下から覗いた。

「……!」

 圭が息を呑んだのが聞こえた。司には見覚えがないが、彼が何か危ないものであるとは直感できた。普段ほぼ表情筋が働かない圭が、目の前の面に目を見開いているのだ。

「……今すぐ、逃げろ」

 圭が緊迫した様子で司に告げるのと、退路の封鎖壁が閉じるのが同時だった。

 面の男が小さく笑う。彼が傘の柄を離した瞬間に圭が地面を蹴り、水しぶきが司の視界に散った。

 司が追えない程の速さで、二人が攻防を繰り広げた。普段の圭は本気ではなかったのだと頭の隅で考える。頭一つ分程もある体格差をものともせず向かっていく圭と、視界があるかも分からないような面をつけたままそれをいなす男が、動けない司の前で雨を弾いた。

 圭が片目を眇めたのが辛うじて見えた。次の瞬間、圭の腕が絡め取られ、小柄な身体がアスファルトに沈んだ。

「ぐ、ぁ……!」

 男がうつ伏せの圭を踏みつけて、右腕を可動域外に引く。あれ以上捻じられれば関節が外れてしまう。

 司は煩い鼓動の中立ち尽くした。助けなくては。だがどうやって。目の前に伏しているのは学園の誰よりも強い圭だというのに。せめて何か気を逸らさねば。気ばかりが急いで足が動かない。

 圭が苦しげにこちらを睨みつけた。強い瞳が、手を出すなと訴えている。司は奥歯を噛み締めた。今の自分にできることは、無い。

「今日は挨拶にきただけなんだ」

「……っ」

「これから殺り合う機会はいくらでもあると思うし。今回はこのくらいで、ね」

 男は口元だけを晒して、にこりと笑った。

「この度は、ご愁傷様です」

 男の言葉に、圭が意味を掴みかねた表情をした。そのまま腕が解放され、反撃に転じようとした圭を軽くあしらうように男が圭の胴を蹴り上げた。

 圭が水溜まりに転がったところでようやく司の足が動いた。駆け寄って圭の肩に手を伸ばすうちに、男は間合いからすでに離れて放った傘を拾い上げている。

「鈴村!」

「……ゲホッ」

「またね圭くん。次会うのが楽しみだな」

 男はひらひらと手を振って、解除されていく封鎖壁の向こうに消えていった。降り止まない雨の中、重い沈黙を湛えた圭と司が取り残された。

 この日が、司が『野良』と初めて出会った日となった。



 そのニュースは連日にわたり、大々的に報道された。

『昨日早朝、〈ACT〉本部が異常犯罪者による襲撃を受けました。これにより、技術部CEOの鈴村綾博士を含む社員二十八名が死亡したとのことです』

『彼女は崩壊が起こって以来、様々な分野で功績を収めていましたから……ええ、本当に残念でなりません』

『〈ACT〉の警備体制に問題があったのではありませんか?今の国防を担う機関としての責任が』

『公開された情報によりますと、襲撃を行った犯人は単独ということで』

『急にです。警報もなしに道が塞がれちゃって』

『提供された映像ですが、学生を襲ったのは謎の仮面をつけた男で』

『このことについて〈ACT〉は現在コメントを控えており、同日に起こった封鎖壁の誤作動についても関係性を確認中とのことです』


 司は授業をする浅野の声を遠くで聞きながら、右隣の空席を見やった。

 圭の母親が亡くなった。全く知らなかったが、彼の母親はこの学園の創立にも関わる組織の重役だったらしい。続くニュースで音でも文字でもその功績や重要さが流れてくる。

 『奴』がご愁傷様と言ったのはこのことだった。数十人を殺した帰りに司たちは奴に出くわし、敗北を喫したというわけだ。

「おい藤堂、大丈夫か」

 宗太が小声で話しかける。視界の隅で琴葉がこちらを見ているのにも気づいたが、司はどちらも無視して立ち上がった。

「先生、用事あるんで早退します」

「……ああ、話は聞いてる。場所は分かるか」

「大丈夫です」

 クラスメイトたちがこちらを窺っている。大体の生徒には司に何があったか知られているだろう。見上げる宗太に軽く声をかけると、司は不安げな琴葉に笑顔を見せて教室を後にした。

 生徒玄関を出て機械の受付に学生証を見せる。受付は微笑むと学園側とは違う方向の廊下を指し示した。

 日ヶ守学園は独立して建っている訳では無い。広大な敷地内に学園を含む様々な施設が集約されているひとつの機関だ。それを運営するのが話題の〈ACT〉という組織であり、国防や都市部の開発を一手に担っている。

 白い廊下を一人進むと、まもなく技術部の研究棟にたどり着いた。事件後のせいか、忙しなく白衣の男女が走り回っている。司は進路の邪魔をしないよう気をつけながら、技術部の受付に歩み寄った。

「ああ、藤堂さんですね。今少々ごたついてますからちょっとここの部屋でお待ちください、すみませんね」

 ここの受付は人間のようだ。司は前髪の長い研究員に場所の説明を受けて、辺りを見回しつつ歩き出した。

 事件から二日が経っていた。あの日、司は圭と共に機動隊に保護された後、一人家に帰された。去り際に圭を探したが見つけられず、その後も出会えていないままだ。

 司は思い返して顔を顰めた。何も出来ず立ち尽くすしかなかった自分に腹が立っていた。

 教えられた部屋にたどり着く。改めて事件のことが聞きたいと要請を受けて、司は今ここに来ていた。呼び出した者の名前は忘れたが、なぜ開発を担う技術部に呼ばれたのだろうか。

 スライド式のドアに学生証をかざすと、機械音と共に自動でドアが開いた。学生証一枚でここまでできるとは驚きだ。司は幾何学模様の絨毯にそっと踏み込んで、水の循環する音に迎えられた。

 部屋の中は大小様々なガラスの筒で溢れていた。カラフルな液体だけが入ったものもあれば、透明な水の中で熱帯魚が泳ぐものもある。

「なんだ、これ……」

 司はトカゲに羽根が生えたような生き物をまじまじと見つめた。薄い皮膜を羽ばたかせて、液体の中を漂っている。司の知識にはない生物だ。空想上で言うならドラゴンに当たるのだろうか。

「失礼、遅れてしまったね」

 しばらくして、ドアが開くと同時に謝罪しながら白衣が飛び込んできた。顔に合っていない大きめの眼鏡を掛けた金髪の女性だ。

「おや、それに興味が?」

「え、いや、まあ」

「それは現実的に検証した結果生み出されたドラゴンでね。だがまあ見ての通り失敗作だ、この貧弱な翼では空を飛ぶことはできない」

「はあ……」

 司が曖昧に返事をすると、女性は一拍置いてそれより、と仕切り直した。

「会いたかったよ藤堂クン。呼び出してすまないね」

「いえ。協力は惜しみませんよ」

「それは頼もしい。ああまず自己紹介が必要だね、そこに座ってくれたまえ」

 ソファを促され浅く腰掛ける。外国人かと身構えたが流暢に話すようで安心した。

「初めまして藤堂クン。ワタシは技術部で副……いや、もう最高責任者になってしまったか、を務めるドーラ・カノンという。よろしく」

「どうも」

「本来なら事件に関する聴取は別部門がやるんだが、今回は少々特殊でねぇ……彼、『野良』については非常にデリケートな問題なんだ」

「のら……?」

 司が聞き返すと、ドーラはうんうん、と頷いた。

「君たちが出会った彼のコードネームを『野良』という。異常犯罪者の中でもトップレベルの危険人物でね。その存在は世間に秘され、〈ACT〉内部でも一部が知るのみだった」

「危険なのに隠していた?」

「ああ、残念なことに。素性も動向も一切掴めず、民衆に危険を知らせるにはあまりにも情報がなかったのでね。下手に公開すればあの手のキャラクターは簡単に模倣されていくだろう」

 仮面をつけた殺人鬼。これほどキャッチーでありきたりな要素はないだろう。そこらに溢れる模倣犯を想像して、司は苦い顔をした。

「しかし今回の事件で彼は広く周知されることとなった。この情報流出は彼に仕組まれたものと見ていい。今まで闇に紛れていた彼が、ついに表舞台で動くというわけだ」

 ドーラはどことなく楽しそうに言った。

「キミが見た彼の全てを教えてほしい。圭クンにも聴取はしたが、別視点からの情報も対抗の糸口となるだろう」

「鈴村に会ったんですか」

 司が思わず圭の名に反応すると、ドーラが少し驚いた顔をした。

「そういえば圭クンとの関係についてはノーマークだった。事件は通学途中に起こったようだが、もしや一緒に登校を?」

「そうですけど……」

 司の返答に、ドーラはほう、と身を乗り出した。

「彼とは仲が良いのかな」

「悪くはないと思いますけど。チームメイトですし、話も割と」

「ほう。ほうほう」

 ドーラが嬉しそうに笑った。よく分からない人だ。

「いや、失礼。この話は置いておこう。ではキミの話を」

 ひとつ咳払いをして、ドーラは司に説明を促した。司はできるだけ状況を細かく思い出し、奴の言動なども彼女に伝えた。

「……彼は圭クンの名前を口にしたんだね?」

「はい。はっきりフルネームで」

「そうか……」

 息をついてドーラがソファにもたれかかった。そのまま足を組んで何やら独り言を始めた。司が筒の熱帯魚を眺めながら待っていると、彼女は納得したようにふむ、と頷いた。

「これは彼の身が危険だ」

「……鈴村がですか?」

「ああ、今後『野良』は圭クンを狙うだろう」

「それは、どうして」

 司が信じたくない気持ちで問うと、ドーラはじっと司を見つめてきた。眼鏡の奥でこちらを見抜くような瞳が司を観察している。

「……キミ、命を懸ける気はあるかね」

「は?」

 突拍子もない質問に思わず声を漏らすと、ドーラは静かに口角を上げた。

「重要なことだ。この先を語るには、キミもこちら側になって貰わねばならない。知らずに学園に帰るというなら、キミは『謎の犯罪者』に襲われた不運な学生でいられるだろう」

 司は困惑しながらドーラを見つめ返した。

 言い方からして、『野良』の秘匿は先程の理由だけではないと分かる。奴にはもっと重大な秘密があり、そしてそこには圭も深く関わっているだろうと司は理解した。いや、理解させられた。ドーラはあえて司にこんな言い方をしている。彼女は言外に、司を手招いている。

「……それは、今の生活を壊す?」

「そうとも言えるが、全てが変わる訳ではないよ。キミが学園の生徒であることは同じだ」

「……」

「ワタシのほうはすでにキミを受け入れてもいいと決めた。あとはキミの返答次第だ」

 今のままでも命は懸けている。このご時世に軍人への道を進んでいるのだから。それより更に命を危険に晒すというなら、待っているのはなんだろうか。

 面の下で笑う顔が、ざらりと司の脳裏をよぎった。

「それで鈴村の力になれますか」

「……それも、キミ次第だが。理解はしてくれたようだね」

 ドーラの笑みが深くなった。

「いいんだね。後戻りは許さないよ」

「……はい」

「では、そのように。改めてよろしく頼むよ、藤堂司クン」

 司は差し出されたドーラの手を、力強く握った。


 案内されたのは、技術部の地下だった。地上階とは雰囲気が変わり、黒色で統一された壁に青白くランプが灯る。ロビーのような人気はなく、何か低い音が廊下に響いていた。

 ドーラはひとつのドアの前で立ち止まると、開けて司に部屋の中を見せた。壁に固定された寝台と、小さな鏡が壁に取り付けられただけの殺風景な部屋だ。硬質な床と壁のせいか、ひどく冷たく感じた。

「ここが圭クンの部屋だった」

「……え」

 司は室内を二度見した。独房のようなここで、圭が暮らしていたというのか。

「特に片付けなどもしていない。彼は生まれてから中等部を卒業するまでここで寝起きし、技術部で日々の殆どを過ごした」

 呆然とドーラの横顔を見つめる。司の幼少期とはあまりにも違う。幼い子供が過ごすには、この部屋は冷たすぎる。

「どういうことですか」

「圭クンは技術部の実験体だったのさ」

「実験、体」

「母君の鈴村綾博士が指揮をとり、およそ人権など無視して生体実験を行った。もちろんこれは法に触れる許されざる行為だが、技術部はこれを隠蔽し続けている」

「……」

「ワタシが彼女と出会いココに来たのは圭クンが十三の頃だったから、過去のことは詳しく知らないがね。簡単に言うと、人体の性能を限界まで高めるといった研究をしていた」

 ドーラは部屋のドアを閉めると、再び廊下を進み出した。司は情報を上手く飲み込めないまま後に続いた。

「『野良』が初めて現れたのは六年前。その時圭クンは十に満たない子供だったが、博士は彼に執着し、圭クンを以て打ち倒さんと考え始めたらしい」

 二人分の足音が廊下に響き渡る。同じような景色をいくつも通り過ぎて、司は一人で帰れる自信がなくなった。

「それから圭クンは『野良』を殺すためだけに育てられた。今持てる最高の技術を注がれ、彼はあのように天才とまで言われるに至った」

「……それは、鈴村の危険とどう」

「おそらく『野良』は先日の襲撃の際、その記録を手にしたのだろう。そして圭クンの前へ現れた。自分を殺すために作られた彼のことを、『野良』は認識してしまった」

 人生を賭して自身を狙う輩の存在を知った『野良』は何を思ったのだろう。怒りか、恐れか。いや違う。奴は笑っていた。容易く組み伏せられたにも関わらず、圭を生かした。おそらくは命のやり取りを楽しむために、あえて見逃したのだ。奴はきっと、圭という存在に喜んでいる。

「『野良』抹殺のプロジェクトは博士をリーダーとした十数名によって動いていた。今回の襲撃で、偶然にも、その全員が亡くなった。プロジェクトは白紙に戻り、本来ならもう圭クンが『野良』と戦う理由はない」

「でも見つかってしまった」

「ああ。彼は望もうとも望まざろうとも、命の限り『野良』と向き合うことになってしまった」

 もうやめました、と言われて引くような相手ではないだろう。圭はこれから、身を隠すでもしない限り常に危険に晒されることになるのだ。

「彼を憐れむかね、司クン」

 ドーラが振り向いて問いかけた。

 司は押し黙って考えた。可哀想、といえばそうなのだろう。今までの境遇も、これからの暮らしも。だがそれを可哀想だと言えるほど司は圭を知らなかった。圭が毎日、何を考え、過去をどう感じて生きているか、司には分からない。何よりどんなものであっても、これは圭のただひとつの人生だ。

「……それは、あいつを否定することになる」

「結構。ワタシ好みの返答だ。では次の段階に移るとしよう」

 ドーラは廊下の突き当たりまで進み、ドアもないただの壁にプレートをかざした。司が疑問を抱ききらないうちに壁に異変が起こる。黒色の壁は縦に何本も線を刻み、魔法よろしく上下に口を開けた。

「ここからは『野良』の誕生についてだ。キミにも益のある情報だと約束しよう、『藤堂の息子』」

 ドーラが意味深に語り、司は困惑と共に唾を飲み込んだ。



『左上腕部被弾。ペナルティ加算』

『非戦闘オブジェクト破損。ペナルティ加算』

 仮想の街が爆ぜる。データとしての一般人が死んでいく。息を切らして走っても、あと一秒が間に合わない。残弾のなくなった銃を捨て、ナイフで張りぼての敵を切り裂く。だが致命傷には至らない。

「ッ!」

『右側頭部被弾。ミッション失敗』

 全てが虚構の世界で、痛みだけが本物だ。強い衝撃を頭に受け、圭は息を切らしてマシンに全身を預けた。

「クソ……」

 モニターが空間と圭の再構築を始める。全身の神経が電子世界に没入していく。圭はもう一度グリッドの上に降り立った。

 こんなことでは奴を殺せない。もっと、もっと速く。敗北は許されない。完治した肋が疼く。もう『次』はない。

 母親が死んだ。最後に会ったのはいつだっただろう。いつもと変わらない冷たい瞳が記憶の中で圭を見つめている。久しぶりに対面した青白い寝顔がちらつく。

『脳波に異常を確認。接続を停止します』

「……」

 マシンが空間から圭を弾き出した。柄にもなく思考がぶれている。圭は荒くなった息を吐いてヘッドセットを外した。

 意外にもショックを受けている自分がいた。母親が死んだことではない。母親が死んだのに、何の感情も抱かなかったことにだ。

 やり直せる、修正できると思っていた。思っていたはずだった。好きだから離れたのだと、そう思い込んでいた。

「……は、」

 とっくに終わっていたのだ。圭の愛情は消えていた。会いにいかなかった後悔も、悲しみも、怒りも、何も無い。彼女が死んだのだという事実だけが圭の中にある。

 圭はマシンから降り、傍らの椅子に座って天井を見上げた。

 圭には生きる意味がなくなった。圭がこの先どんなに優秀でいようと、そうでなかろうと、それにこだわる人はもういない。奴に勝てなかったとしても、それを嘆く人達はもういない。

「圭クン、いいかね」

 不意にドアの向こうから声が聞こえて、圭は静かに立ち上がった。

「どうぞ」

 ドアが開き、いつものように白衣をはためかせて博士が入ってきた。圭は二人分の足音を訝しんで、博士の後ろの人物に内心動揺した。

「よ。元気?」

 呑気そうな表情を浮かべて、司が手を上げた。

「……なんで君がここに」

「古川が心配してたよ、一週間も顔出さないから」

 司はへらへらと笑いながら言う。変わらず真面目さをどこかに置いてきたような奴だ。

「博士、どういうことですか」

「なに、彼にもこちら側へ来てもらっただけのことさ」

「な……、冗談でしょう」

 博士は微笑んで動かない。司はどこか物珍しそうな表情でこちらを見ている。

「仲間は必要ないと言ったはずです。『野良』は僕一人で殺す」

「それが難しいとキミも思い知っただろう」

「っ、だとしても。なぜこい……彼を」

「オレが志願したんだよ天才くん」

 こちらの事情などお構いなしに司が自分を指さしてアピールする。圭は博士と話をしているのだから少し遠慮してほしいものだ。

「君に何ができるっていうんだ」

「確かに今は役立たずだけど、オレって伸びしろの塊だろ?すぐおまえに追いついて見せるさ」

「調子に乗るなよ。関係もないのにでしゃばるな」

「いーや、実はあったりする」

 意表を突かれて閉口すると、司はいつも琴葉にするみたいに微笑んだ。

「『野良』のことを教えてもらった。で、奴にはオレの……親父も関わってた」

「……君の……?」

「ああ。それで親父は死んだ。『野良』はオレにとっても仇ってわけだ」

 司はなんでもない風に言って肩を竦めた。司が関係者の身内だったとは初耳だ。博士のほうを見ると、彼女は頷いて肯定を示した。

「すでに彼にもキミのようなトレーニングを受けてもらっている。飛躍的とまではいかないかもしれないが、十分戦力として育成可能だろう」

「そういうワケなんで、どうぞよしなに」

「……」

 胸の奥に違和感がある。司がおどけてのぞき込んでくるその動作がやけに癇に障った。

「仇だっていうならそっちはそっちでやってくれ」

「……頑固だな」

「仲間は要らない。邪魔になるだけだ」

 司が片眉を上げて不快を示す。入学日のときもそうだ。あえて見せてくるのが強かで鬱陶しい。

「君のチームごっことはわけが違うんだよ」

「ごっことは言ってくれるな」

「『野良』のやり口を知ってるの?奴はまず人質をとる。隙を見せたやつから盾にして、こっちが躊躇ううちに殺すんだ」

「記録にあったけど」

「仲間はいればいるだけ不自由になる」

「それはおまえの想定する仲間が弱いからだろ」

「強くたって同じだ。連携には限りがある」

「おまえくらいのが二人ならやりようがあるかも」

「仮に君が僕ほど腕を上げたとしても、僕は僕で君は君だ。隙のない連携なんて出来ない」

「それはやってみなきゃ」

「やらなくても分かりきってる」

「もっと信じる心を持てよ」

「信じて何になる」

「強情め。じゃあその時はオレごと奴を殺ったらいい、隙ができるまえに」

「っ……僕は!」

 思わず声を荒らげると、司が面食らったように目を見開いた。やはり思考がぶれている。普段こんなヘマをすることなどないのに。

「……僕は、機械じゃない」

 発した声が思ったより弱々しい。これでは言い負かされた子供じゃないか。

「……」

「……盾に取られて、躊躇わない……自信がない」

 いつの間にか床を見ている。

「だから僕は一人でいい。一人で戦って死ぬ。それだけだ」

 司が身じろいだ。顔を上げる気にもならない。物分りはいいほうだろう、早くこのまま出ていってくれ。

「じゃあなるよ」

「……何に」

「おまえになる」

「……、は?」

 言葉の意図を理解出来ずに圭は顔を上げてしまった。黙って傍観していた博士も、流石に頭上に疑問符を浮かべて司を見ている。

「オレがもう一人の鈴村圭になれば連携も百パーセントシンクロ。どう?」

「何言ってるんだ君」

「いたって真面目に考えたんだけど」

「頭がおかしいんじゃないのか。不可能に決まってるだろ」

「いやできる。やってみせるさ」

 呑気にのたまう司に腹が立ってきて、圭は司を睨みつけた。

「「いい加減にしろよ」」

 声が重なって、圭は一瞬思考を停止した。司がにやりと笑って、博士が楽しそうな表情を浮かべた。

「「ふざけるのもたいがいに」」

 再び二人の声が重なる。自分は今どんな表情をしているだろう。首筋に鳥肌が立った。

「昔から真似は得意な方でね」

「……そ」

「そういう問題じゃない?」

「ひとを」

「馬鹿にしてるわけじゃないよ」

「っ、」

「言葉をとるなって?読みが当たって何より」

「……」

 圭はすっかり言葉を失って、脱力しながら椅子に座り込んだ。体裁云々を考える余裕もない。

「お、負けた?」

「……なんなんだよ君は……」

「試してみようぜ。なかなか相性良いと思ってんだよね、オレ」

 司がしゃがんでまた圭の顔をのぞき込んでくる。もう睨む気力すら湧かない。

「人質だの盾だのは置いといてさ。よろしく頼むよ相棒」

「……君は」

「うん?」

「何が楽しくて僕なんかに構うんだ」

「なんでも楽しいさ。毎日楽しんでる」

「……」

「おまえの力になりたいんだよ。よくわかんないけど、そう思ってるんだ」

「気の迷いだ、表面だけだ、そんなのは」

「なあ、仲良くしようぜ。オレは『圭』と仲良くなりたい」

 胸の奥が痛い。今日はずっと不調だ。頭が働かないまま、言葉が零れ落ちていく感覚がする。蓋をしていたものが漏れだしているような気持ちになる。

「必要ないよ、そんな関係」

「あると嬉しいもんだよ」

「嬉しくったって」

「難しく考えるなって。オレがあげて、おまえが受け取る。いつもとおんなじだろ」

 それを『仲良し』と言うのか。データの妨げになるだけで、不必要なものをそう呼ぶのではないのか。

「……何度、くれても」

「返さなくていいよ。勝手に貰ってくから」

「……図々しいな」

「はは」

 司が右手を差し出した。

「オレ、一瞬で追いつくから。追い越しちゃうかもね」

「驕るなよ」

「もちろん。これからもご鞭撻の程よろしく」

「……こんなことに命を張るなんて馬鹿な奴だ」

「そりゃどうも」

「……褒めてないよ」

 そのまま手を握り返すのは完全に負けのような気がして、圭は腹いせに司の掌を叩いた。

「いえーい」

 笑う司にタイミングを合わされて、小気味好い音が室内に響いた。

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