第八話: 憧れの味、憧れを超えず




 バイト探しは一旦後回し。



 思い立ったが吉日……というのもなんだが、気付けば彼女はその店に足の前へと足を運んでいた。


 相変わらず、お洒落な空気が滲み出ている……その喫茶店はいわゆる純喫茶というやつで、昔ながらのモダンなイメージを強く残した人気店である。


 とはいえ、人気店とは言っても全国的に……という程ではない。


 いわゆる、知る人ぞ知る人気店というやつで、地元民の間では有名といった感じのお店である。



 で、どうして有名かと言えば、純粋に料理が美味いからだ。



 特に、洋食……『ふわふわオムライス』という、ありふれた名前ではあるが看板商品的な立ち位置にあるソレが、絶品なのだという。


 他にも、出されるコーヒー(紅茶も美味いらしい)はオーナーが厳選した豆を、注文が来るたびに挽くらしく、ソレを目当てに朝から来る者もいるのだとか。



(……高いっすね)



 ガラスの向こうに並べられた模型と一緒に置かれた値札を見て、彼女は内心にて溜息を零す。


 どうしてこれまで行かなかったのかと言えば、それは並べられているソレらが高いからだ。


 こういう店では普通の値段なのかもしれないが、当時の彼にとっては高級品に分類されていた。


 オムライス一つ頼んでも腹5分ぐらいしかならないのに、節約すれば当時の2,3日分の食費を注ぎ込む気持ちにはなれなかったのだ。



 もちろん、心惹かれなかったわけではない。



 本音を言えば、けっこうな頻度で列を作っているこの店を見て、食べてみたいと思った事は一度ではない。行こうと思えば、行けただろう。


 でも、行けなかった。何だかんだ理由を付けて、当時の彼はこの店に足を踏み入れることをしなかった。


 それは、料金だけが理由ではない。そう、料金以外の理由が、当時の彼の足を止めていたのだ。


 自然と、彼女の視線が値札から、ガラス越しに見える店内の人達へと向けられる。人気店なだけあって、店内の椅子はほとんど埋まっている。



 それはひがみか、ねたみか、あるいは両方か。



 どうしてか、彼女の目には……店内の人達全てが、己とは別世界の住人に思えてならなかった。


 場違い……どうしても、当時の彼は、己はそこに足を踏み入れるような身分ではないと思っていた。


 立ち振る舞いが穏やかで、身なりが良くて、お上品で……行くことが出来なかったわけが、そこに詰まっていた。



(今なら……)



 しかし、今なら行ける……そう、彼女は思った。


 金はある。そして、容姿も……立ち振る舞いは別としても、見た目だけは中に居る者たちに引けを取らない……と、思う。


 幸いにも、彼女が来たこのタイミングで列は出来ていない。


 偶々なのか、それともコレが今は普通なのかはさておき、思い至ったら動こうと判断した彼女は、一つ息を入れてから……そっと、ドアを押した。



『いらっしゃいませ』



 途端、店員より声を掛けられた。


 見やれば、可愛い系の女性が手で席の位置を促していた。他の席は……埋まっている。カウンターは嫌いなので、運が良かったなと思った彼女は、その席へと腰を下ろす。


 少し間を置いてから、その店員が水とメニューを持って来る。笑顔と共に一礼して下がって行く様は、実に愛想が良さそう……いや、違うか。



(やっぱり、美人は得っすね……周りからジロジロ見られないから、気が楽っす)



 店員の愛想が良いのは、今のこの身体が美人であるからだ。


 人間ですらなくなった事に関しては思うところはあるが、どうせあのまま生きていたところでロクな人生にならなかっただろう。


 元々が、天涯孤独の身だったのだ。惜しんだところで、所詮は河原に転がっている石ころの一欠けらにしか過ぎない。



 そう思えば、だ。



 夢見るばかりで手など届くわけもなかった豪勢なマンションに住んで、ペットを飼えて、貯金の減り具合を心配する必要がない今の生活は天国では……っと。



(ダメっすね、ぼんやり考え事をして注文しないままってのは、店に迷惑っす)



 軽く頭を振って思考を切り替えた彼女は、メニューを開き……さて、どうしたものかと悩む。


 食べたいものは、ある。いくつも出て来る。お金なら、いっぱいある。


 けれども、どれを選べば良いのかが分からない。食べようと思えばいくらでも食べる事が出来るのは、分かっている。


 メニューにも金を掛けているようで、どれも写真つきで想像しやすく、オムライスもそうだが、ビーフシチューも美味しそうだ。


 でも、美味しそうなのはそれだけではない。特に好き嫌いなどないから、何もかもが美味しそうに見える。



(──っ!? こ、コーラにレモンが!? はえ~……凄いっすね、お店のコーラって、ストローの他にレモンの切れ端を差してあるんすね)



 それは、飲み物とて例外ではない。


 彼女にとって、コーラにレモンというのは未知の領域。ドリンクバーでがぶ飲みしたぐらいの経験しかない彼女からすれば、飲みすらもキラキラと輝いて見えた。



 だからこそ、どれを選べば良いのか……それが、彼女には分からなかった。



 どれを選んでも後悔しない自信がある。


 しかし、どれを選んでも後悔してしまう自信もある。


 どれも好きだから、どれを外せば良いのか迷ってしまう。



「……すみません。オムライス一つ」



 結果、迷いに迷った彼女は……以前、誰かが話していたのを小耳に挟んだ『オムライス』という言葉に促されるがまま、注文した。



『畏まりました。御飲み物は如何致しますか?』



 なので……という言い方もなんだが、続いて掛けられた言葉に、彼女は目を瞬かせ……瞬間、軽く唇を噛み締めた後で。



「こ、コーラで」


『お食事と一緒に持って来る方がいいですか? 食前、食後、どちらでも選べますが?』


「……一緒に持ってきてもらって大丈夫です」



 そう答えれば、店員は手慣れた様子でメモを書き終えると、メニューを手に取り、一礼して店の奥へと向かって行った。



 ……。



 ……。



 …………反射的に水を頼みそうになった彼女は、ホッと内心にて胸を撫で下ろした。



 お店の飲み物って高いから、ついついお水で……さて、どうしたものか、と。


 手持無沙汰になった彼女は、とりあえずスマホを取り出して周囲からの視線を誤魔化しつつ……気付かれないよう静かに当たりの様子を伺う。



 誰も彼もが2人あるいは3人で居るからなのか、誰もこちらに気に止めてはいないようだ。



 頼んでいる物もパスタだったり何なりで、特にオムライスが多く頼まれているわけではない。みんな、好きな物を選んでいるようだ。


 まあ、それは考えるまでもなく当たり前の事なのだが……それはそれとして、だ。


 なんとなく、せっかくこういう店に来たのだから、おススメされているやつを頼んだら良いのになあ……と、彼女は思わずにはいられなかった。



『お待たせいたしました、オムライスとコーラです』



 そうして、特に何かする気持ちにもなれず、スマホで適当に時間を潰していると……店員が料理を持って来た。



 写真通りの、オムライスにコーラだ。


 デミグラスソースがタップリ掛けられたオムライス。乗せる部分全部使われていて、まるでカレーライスのようだ。心持ち、スプーンも大きめに見える。



 そして、コーラ。こちらも写真通りだ。


 写真のよりもレモンが薄いように見えたが、コーラにレモンなんて入れた経験が無いので、普通なのかどうかすら分からない。とりあえず、お洒落な感じがする。



『こちら、サービスのコーンスープです』



 更には、サービスらしいコーンスープまで来た。小さなカップに置かれたそれにはクルトンが数粒浮いていて、何だか高級そうに見えた。



(おお……リッチな昼食っす!)



 思わず、彼女は内心にてバンザイする。もちろん、表面上は何時ものように無表情のまま、さっそくオムライスを一口。



 ──率直に言おう、味は本当に美味しかった。



 間違いなく、彼女(彼であった時を含めて)がこれまで食べてきた料理の中で、最上位に当てはめても良いぐらいに美味しいオムライスだ。


 オムライス本体もそうだが、掛かっているソースも美味い。このソースが市販で売られていたら、これをケチャップの替わりに買っても良いぐらいに美味いと思った。


 同様に、コーンスープも美味い。


 コーンスープなんて自販機で売られているやつぐらいしか飲んだ記憶はないが、それでも、比べ物にならないぐらいに美味いと思った。


 コーラは……正直、よく分からない。


 レモンが差してあるといったって、コーラ自体が甘いからほとんど味はしない。薄らと柑橘の匂いは感じ取れるけれども……まあ、それはいい。



(……?)



 さて、どうしてだろうか。


 それほどに美味い料理だと分かっているのに……不思議と、彼女は……それほど美味い料理には思えなかった。


 いや、美味しいのだ、普通に、美味しい。総額2000円近い金額を支払っても妥当だと思えるぐらいに、美味しい。


 来て良かったと思ったし、店内の雰囲気も静かで落ち着いていて、居心地はけして悪くはない。



(……こんなもん、なんすかね?)



 けれども、それでも……どうしてか、それだけしか思えなかった。


 期待し過ぎたのか、それとも己の好みと合致しなかったからなのか、それは分からない。


 美味しいけれども、一回食べたら満足というか。まあ、二回目は無いかなと思える程度の感想しかなかった。



(これなら、牛丼買ってきてアイツと一緒に食べた方がずっと良かったっす)



 だから、自然と彼女の思考は目の前のオムライスから、家で待っている同居人ならぬ同居猫へと向いた。


 とはいえ、特に何かが有るわけでもない。


 元気いっぱいで病気一つしていないので、思い出したところで、コレといって注目するような事もない。



(……そういえば、名前を決めるのを忘れていたっす。名前……どうしようか、どういうのが良いのだろうか……)



 ただ、一つだけ……店長にも言われたが、まだ名前を付けていなかったことをふと思い出した。


 さすがに、これ以上放っておくと店長から怒られそうだと思った彼女は……帰ってから、改めて考えようと思った。






 そうして、自宅に戻った彼女はさっそく、忘れていた同居猫の名付けに取り組んだわけなのだが。



「さすがに、毛並みの色をそのまま名前にするのは……駄目」


 ──にゃあ



 寝転がりながら、目線を合わせる。猫は彼女の悩みなどお構いなしといった様子で、寝床で丸くなりながら返事だけする。


 傍から見れば『なにやってんの?』みたいな目で見られる格好だったが、ソレを気にする彼女ではない。



「タマ」


 ──にゃあ


「寝太郎」


 ──にゃあ


「食いしん坊」


 ──にゃあ


「フワフワ」


 ──にゃあ


「ニャー」


 ──にゃあ


「チョコ」


 ──にゃあ


「ガーナ」


 ──にゃあ


「こんぶ」


 ──にゃあ


「……おまえ、どれが良いの?」


 ──にゃあ


「困った、決められない」



 案の定というか、何というか……薄らと予感はしていたが、やはり名前を付けることに難航していた。


 面倒臭がりとか横着とか、そういうのではない。純粋に、ペットを始めとして、何かに名前を付けた経験が無いのが原因である。


 それに加えて、彼女(太一)は物欲というか、執着心が薄い。


 掛かった費用によって惜しむ気持ちこそ有るが、根本的な部分が薄い。


 だからこそ、己のこれまでが失われた事に対してサラッと順応したわけだが……で、だ。



「……『ねこ』って呼び名、良いと思うのに」


 ──にゃあ


「良いと思う……でも、人間って名前、確かに駄目だね」


 ──にゃあ


「そうだね、駄目だね」


 ──にゃあ


「……知っているか、ねこ」


 ──にゃあ


「私の名前、太一たいち。由来、分かる?」


 ──にゃあ


「本当は、ふといちって読むらしい。分かる? 私の名前、顔も知らない親父の○ん○がデカかったからって理由らしいよ」


 ──にゃあ


「ろくでもない両親だろ? そんな両親が死んで、私は父方の親戚筋に引き取られた。母方の方は完全に絶縁されていて、拒否されたんだ」


 ──にゃあ


「引き取られた理由も……なんていうか、世間体ってやつ? 屋根のある場所で寝られるだけありがたいと思えって一日1回は言われてさ……一度だけ我慢出来なくて怒ったら、そのまま施設に叩き込まれた」


 ──にゃあ


「有ること無いこと吹き込まれていたせいか、私の扱いって滅茶苦茶悪くてさ……母親の手すら握った記憶が無いのに、引き取られた家の娘の風呂を覗いていた変態ってことにされていたんだ」


 ──にゃあ


「そりゃあもう、ゴミ屑扱いされたよ。何もしていないのに女子連中から冷たい目で見られて、男子たちからは変態扱いされて陰で殴られていたし、施設の人達も診て見ぬふりしてた……知っているか? 1人ぐらいそういう子が居ると、みんな団結するんだ」


 ──にゃあ


「ずーっと、サンドバッグ扱いだった。施設を出た時、やっと自由になれると思っていたけど……残念だけどさ、全然自由になれなかった。やっぱりさ、本当に自由にやれるやつってのは、何かしら持っているやつなんだ」


 ──にゃん


「私には、そんな勇気がなかった。このまま死ぬまで使い潰される人生かなって思っていた。だから、最後に濡れ衣を私に着せたやつらの家でも燃やしてスカッとしてから死のうと思っていた……でも、それすら出来なかった」


 ──っ


「結局、何も出来ないまま、気付けばこんな身体になって……?」



 ふと、彼女は……いつの間にか返事をしなくなった猫を見やれば、これまた、何時の間にか猫はすっかり寝息を立てていた。



「だから、おまえだけは幸せになってほしい」


「おまえが生きている限り、私は頑張るよ」


「幸せに生きていてくれるだけで……私は、幸せなんだろうね」



 その、幼い寝顔を前に、彼女は。



「名前……まだ思いつかないけど、絶対に格好いい名前を付けてあげるから」



 そう、声を掛け……ダラリと、己もまた身体の力を抜いて、ゆっくりと目を閉じるのであった。



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