第六話 気づかぬ片鱗、気づかぬ忠告




 思い返してみれば、そうだ。



 実際、今の彼女のサイクルは猫に構っている時以外は、大して面白くもないテレビや動画を眺めているか、コンビニで三食分を買ってくるか、猫の日用品などを買って来るか……それぐらいだ。


 それ以外は……何もしていない。


 いちおう、家事はしている。けれども、所詮は一人暮らしだ。することだってそう多くはないし、このマンション自体が新しいおかげで、大掃除をするような汚れもない。


 そもそも、そこまで綺麗好きでもない。食事だって腹が膨れればそれで良いと思っているし、着る服だって値段が第一、趣味らしい趣味も、持ち合わせてはいないのであった。



(……そういえば、アルバイト……どうしようかな)



 暇を、持て余しているせいだろう。これまで、幾度となく思い浮かべてはまだ早いと却下してきた考えが、再び脳裏にてぐるぐると渦を描き始める。



 ……ぷかりぷかりと目に止まる、淡い光。



 見上げた夜空に浮かぶ、丸い月。今日は、雲が一つもないようだ。都会より少しばかり離れた場所の住宅街、星々を見るには些か周囲が明る過ぎるようだ。



 ――けれども、彼女の前では無意味だ。



 彼女がちょいと目を凝らせば、それだけで成層圏を超え、その先に広がる広大な宇宙を観察することが出来た。


 事実、彼女の目に映っているのは月ではなく、その衛星のバックに広がる……星々の輝きであった。



 ……考えてみれば、だ。望遠鏡を軽く凌駕する、この視力だけではない。



 飛行機なんて使わなくても、何処へだって行ける。


 死に怯える必要もないから、事故を心配することもない。


 例外は、自分の不注意で誰かを害するぐらいだが……それも、時期に心配事ではなくなるだろう。


 そう、今の己は思いつく限りのことは大体出来るのだ。


 ただ、やらないだけで、やろうと思えば何時でも達成出来る……それが出来る身体になってしまったのだ。



(……なんか、持て余しているような気がするっす。やっぱり、バイトを探すことに決めたっすよ)



 それが原因なのか、それとも、もっと別の理由が無意識に潜んでいるのか……今の彼女には、答えが出せなかった。



(少しでも自給の高いバイトを選んでいたあの頃。それが今や、少しでも暇を潰す為にバイトを考えている……何の冗談なんすかね、これって……)



 まあ、とりあえずは、だ。人生、何が起こるか分かったものじゃない。


 かつては時折耳にしたその言葉を、まさか己が体感する日が来ようとは……あの時の己は、それこそ夢にも思わなかっただろう。


 そう思い、何気なく夜空から眼下の(彼女が現在住まうマンションは、高層である)地上へと視線をやった彼女は、ついで、部屋へと戻ろうと――。



「……?」



 ――した、その時であった。



 ほんの、僅か。瞬きよりも短い刹那の一瞬、フクロウよりも夜目が利き、望遠鏡よりも遠くを認識する彼女の瞳が、何かを捉えたのは。



 それを、彼女の中にある何かが、違和感だと認識した。それは、普段であれば気にも留めず即座に忘れてしまうぐらいの、僅かな感覚であった。


 彼女がそのまま部屋に戻らずに立ち止まったのは、只の偶然であった。


 何時もよりも、少しばかりアンニュイな気分だったから。


 何時もよりも、大目に暇を持て余している気分だったから。


 ただ、それだけの事でしかなかった。


 しかし、それだけの事ではあったが、彼女は違和感に気を引かれた。


 特に何かを思うわけでもなく、いったい何に違和感を抱いたのかと、もう一度地上に目を向け――そして。



「……あっ」



 そして、理解した。


 と、同時に、気付けば彼女は――柵を乗り越えていた。ふわり、重力から解き放たれる感覚……それを知覚した瞬間、彼女は、そこへと飛んでいた。






 ……。


 ……。


 …………その日、何時ものように仕事を終え、何時ものように電車を乗り継ぎ、何時ものように夜道を歩いていたスーツ姿のその女性は、正しく不運であった。



 世界的に見ればそう珍しい話ではない。だが、紛れもなく、これ以上もなく、どうしようもないぐらいに、不幸であった。


 女性は、あまり気の強そうな風貌ではなかった。髪は肩口に掛かる程度の長さで、背は平均より少しばかり低いぐらいだろうか。体格は華奢な方で、あまり力仕事には向いてなさそうな女性であった。



 ――その女性は今、車に乗り込もうとしていた。



 ああ、いや……違う。乗り込もうとしているのではなく、乗せられようとしていた。己が周囲を囲う、三人の大柄な男たちによって。その三人が手にした、刃渡り数センチほどの、刃によって。


 冷や汗と涙を垂れ流し、がちがちと歯を鳴らしている女性は、傍目にも分かるほどに挙動不審であった。考えるまでもなく、そんなのは当たり前である。



 『悲鳴一つ、妙な動きをした瞬間、刺すぞ』



 男たちと遭遇したのは、今より時間にして2分前。たった2分前まで、女性は己が命の心配など欠片も考えていなかった。


 それが、たった2分前の事であり、その時に男たちが発した言葉が、ソレであった。



 ……女性は、己の未来をはっきりと予感していた。



 間違いなく、己はこの男たちにレイプされるだろう。いや、レイプされるだけではない。


 まず、その後は……殺される。何故なら、己は男たちの顔を見てしまっているから。


 けれども、女性は逃げられない。逃げられるわけが、ない。


 既に、己は囲まれてしまっている。武器を所持した、己よりも屈強な異性が三人。


 対して己は手足が震え、履いている靴はパンプス。不意を突けたとしても、直後に、間違いなく追い付かれるだろう。


 声は、出せない。逃げることも、出来ない。男たちに強制されるがまま、男たちの仲間の物と思われる車が眼前に。そこに来て、女性は必死になって辺りに視線を向ける。


 だが、彼女は知っていた。今の時間、この辺りからは人影が消えるということを。

 と、同時に、彼女は思い知ってしまった。この男たちのこの行動は、周到に計画されたモノだということを。


 それでもなお、彼女は必死になる。誰でもいい、何でもいいから、助けが来て欲しいと心より願う。


 しかし、現実は非情で……何の助けも来ないまま、遂に車の中へと乗り込んでしまう。目に見えて震えている己が身体を動かせば、遅れて男たちが乗り込んで来て……扉が、閉まった。



 ――瞬間、女性の目から涙が零れた。かちかちと痙攣する口元からは涎が零れ、震えはいよいよどうしようもならなくなる。



 なのに、男たちは誰一人気にも留めていない。いや、それどころか、怯えている女性の反応を見て、仄暗い喜びすら抱いているようで。静まり返った車内に、ボボボッ、とエンジンの始動音が――。



「――げぇ」



 ――響いた、瞬間。女性がこれまで耳にした音の中でも異質な、それでいて特大な爆音が車内に響いた。と、同時に、形容しがたい振動が女性の全身を揺さぶった。



「――きゃあああ!!!」



 まるで、巨大な手で全身が揺さ振られたかのような衝撃であった。


 あまりに突然で、あまりにも意識外に起こった事に、女性は状況も忘れ、固く目を瞑って身体を丸めて反射的に悲鳴を上げていた。


 直後、女性は口元を両手で押さえた。声を上げればどうなるかを、思い出したからだ。


 だから、女性は逃げようとした。何処に逃げるかなんてことは考えず、とにかく身をよじって男たちから逃れようとした――のだが。



 …………?



 何時まで経っても、痛みが来ない。加えて、男たちが迫ってくる気配もない。


 いったい、何が起こったのだろうか……どうしようもない恐怖はあったが、それでも、固く瞑っていた目を恐る恐る開けた女性は……えっ、と目を瞬かせた。



 何故なら、女性は車の外にいたのだ。



 目を瞑る前は、確かに車の中にいた。その上で、男たちが後から乗り込んできた。反対側から逃げようにも、ロックが掛かっていた……なのに、車から少しばかり離れた場所にて腰を下ろしている。


 それに、そうだ……車も、おかしかった。


 率直に述べるのであれば、車は『くの字』に折れ曲がっていた。窓は割れ、タイヤはパンクし、車体の一部が変形している。まるで、頭上から隕石でも直撃したかのような有様であった……と。



 ――ふわりと、視界が何かに隠された。



 あっ、と女性が声なき声をあげた瞬間、ふわりと浮遊感を覚える。直後、ぼん、と腹奥まで響くほどの爆発音がした。


 ギョッと目を見開くに合わせて、視界を遮った何かが離れれば……数十メートル先に、炎を噴き上げている車が見えた。



「……え、え、え?」



 己の状況も、頭から吹っ飛んだ。何が起こったのか分からないまま、女性は辺りを見回し……ふと、己の傍に立つ人物を見上げ――絶句した。


 何故なら、そこに立っている人物は女性で……そのうえ、己が人生においても断トツだと断言出来るぐらいの容姿と、それ以上に注意を引かれる特徴的な恰好をしていたからだった。


 手足は、己よりも細く長い。なのに、胸は己よりも二回り以上大きい。Tシャツにデニムのショートパンツという辺りは別だが、何よりも目を引くのは… …彼女の膝あたりまである、『赤いマント』だ。



 ――まるで、コミックスに出てくるヒーローのようだと、女性は思った。



 その想いを補足させるかのように、その赤マントのヒーローは、重さを欠片も感じさせることなく、ばさりとマントを払った。


 亜麻色のブーツに亜麻色の手袋。目元を仮面が隠しているせいで、女性の目には、赤マントを纏った彼女の表情をうかがい知ることが出来なかった。



「――怪我は、ない?」



 唐突に尋ねられた女性は、「……あ、だ、大丈夫、です」少しばかり間を置いてから返事をした。


 ……それ以上のことは何も言えなかったし、何も尋ねられなかった。


 数十メートル先にて燃え盛っている車のことや、己をどうやってあの場から連れ出したのか等、気になる点が頭の中で次々に浮かんではいた。



「――そう、良かった」


 だが、しかし。


「じゃあ、私はこれで――」



 己は助かったのだと女性自身が状況を理解するよりも早く、地を蹴って地上高くへと浮上した赤マントの彼女は、飛び去ってしまったからだ。


 何処へって……そんなの、夜空の向こうへ、だ。


 赤マントの後ろ姿を追いかける暇は、なかった。


 気づけば、女性の眼前からは赤マントは消えていた。


 それぐらいに彼女は素早く、もはや何処へ飛んで行ったのか、それすら分からなかった。



「……これは、夢?」



 ぽつりと呟かれたその問い掛けに、返事をする者はいなかった。


 ざわざわ、と。燃え盛る車体の黒煙に気付いて、人々の注意が集まってくる。


 その中には、今しがた夜空へと消えた彼女を探すかのように、頭上を見上げる者が何人かいたが……誰一人、赤マントの彼女を見付けられた者はいなかった。






 ……。


 ……。


 …………ふわりと、彼女はベランダへと降り立った。


 ちらりと、眼下のざわめきを見やった彼女は、それから逃れるかのように室内へ入り、窓を閉める。そして、しっかりとカーテンを隙間なく閉めた彼女は……ふう、と息をついた。


 ――それは、傍目から見れば不思議な光景であった。


 何故なら、窓もカーテンも独りでに閉まったからだ。そこには誰もいないのに、勝手に窓とカーテンが動いた。きっちりと、鍵まで掛けられている。


 仮にこの場を目撃した人がいたら、誰しもが似たような事を思い浮かべるのかもしれない。透明人間……あるいは、幽霊が行ったのではないか……と。


 普通に考えれば、一笑されるところである。この御時世に幽霊等と思う人は、けして珍しいわけではないからだ……そして、皮肉なことに、それは当たっていた。



(……ちゃんと、見えないようになっているっすよね?)



 そう、彼女が思った直後。何も無かったその場所に、ぬるりと……空気から溶け出して来たかのように、突如として赤マントの彼女が姿を見せた。


 いったい、彼女は何をしたのだろうか?


 簡潔に述べるのであれば、人命救助である。


 連れ去られようとしている女性を助ける為に車内へ突入し、女性を保護して連れ出した。その反動で車が炎上し、あの有様となった……というわけである。


 今しがたの彼女が行ったのは光学迷彩……よりもずっと高度なモノで、消去されることなく残った彼女の機能の一つである。


 その精度は、人類が作り出すステルス性能など足元にも及ばない。肉眼は当然のこと、あらゆる電子機器(センサーや監視カメラなど)、X線などをもすり抜ける。発動中は、音や熱源すら完全に周囲に同化してしまう。


 故に、一度発動すれば人類の科学力では絶対に発見することが出来ないレベルの、驚異的といっても過言ではない迷彩機能であった……と。



(――あ、お風呂が沸いたっす)


 部屋の奥から、すっかり聞き慣れたミュージックが聞こえて来る。ある意味、タイミングが良かったなあ……そう思って、パパッと服を脱ぎ捨て……ん?



「あ、起きている……」



 何気なく猫に視線を向ければ、猫はまん丸な瞳を彼女に向けていた。


 足音を立てないよう気を付けてはいたのだが……ああ、車の爆発音に驚いたのか。


 独り、納得した彼女は、「ごめんね、起こした」そう言って猫へと手を伸ばした――その、瞬間。



 ぱしん……と。



 初めて、伸ばした指先を叩かれた。「……え?」思わず面食らう彼女を他所に、猫はにゃーん、と小さくか弱い声で鳴くと……すりっ、とその指先に頬を擦り付け……再び丸くなり、目を瞑ってしまった。





 ……。


 ……。


 …………しばしの間、彼女は呆然としていた。正直に言えば、混乱していた。



「……ああ、血の臭いに反応したのか」



 だが、そう己を納得させれば、後はそうでもなかった。


 女性を助ける為とはいえ、少々手荒なことをしてしまった。おそらく、猫には嗅ぎ取れる程度に臭いが付着していたのだろう。


 寝起きにいきなりそんなモノを嗅ぎ取れば、警戒して攻撃の一つぐらいはしてくるだろう。動物を飼ったことがない彼女は、疑問に対して、そう結論付けると……内心にて機嫌良く、風呂場へと向かった。


……その際。



「……?」



何かが、心に引っかかったような気がしたが……すぐに忘却してしまった彼女には、もう分からないことであった。



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