第四話: 隠そうと思っていたわけではないけれど

 



 それから、瞬く間に十数日間の月日が流れた。



 子猫はあれから、元気になった。店長の指示通りペースト状のフードを中心に、ふやかしたドライフードをたっぷり与え続け、彼女が用意した安心出来る寝床でぐっすり眠り続けたのが良かったのだろう。



 おかげで、たった十数日間とはいえ、子猫の状態は目に見えて改善していった。



 持っただけで不安に駆られる程に痩せていた身体には肉が付き始め、毛の艶も良くなり、みゃあという鳴き声にも力強さが伴い始めている。


 まだまだ小さいが、拾った時とは別人(あるいは、別猫?)といっても過言ではなくなっていた。と、同時に、その子は常に彼女の傍を離れようとはしなかった。


 寝ていても彼女が傍を離れれば目を覚ましてしまうし、一度胸元に抱き着けばしがみ付いて離れない。汚れた身体を洗う時ですら、優しく彼女がやればみゃあと鳴きはするが、嫌がりはしなかった。



(猫って、普通はお風呂を嫌がるものっすけど……こいつは違うんすね)



 お湯を溜めた桶の中でわちゃわちゃと捏ね回しながら、彼女は思う。猫に限らず、入浴というのは人間が行うことで動物が行うのは稀なこと(例外もあるけど)である。


 その中でも、猫は入浴を特に嫌う方だ。少なくとも彼女はそう思っていたし、テレビなんかでは、入浴を好む猫は珍しい存在として扱われていた。


 実際、猫は基本的に必要でなければ入浴をしなくてよい(目に見えるほどの酷い汚れ、または害を及ぼす場合を除き)とされている動物である。


 そんな猫を彼女がこうして洗っているわけは、体毛の奥にこびり付いているノミを駆除する為で。既に病院にて感染症や持病の検査をクリアしているので、後は綺麗にすれば……というのが、入浴に至るまでの経緯であった。



 ……さて、話が逸れた。



 まず、猫が入浴をしなくてよい理由だが、それは猫が他の動物よりも頻繁にグルーミング(毛づくろい)をする動物であり、入浴などで自分の臭いが消されてしまう(入浴そのものを怖がるのもそうだが)ことを非常に嫌がるからだ。


 だが、こうして猫を撫でていると……彼女はどうしても、それが嘘に思えてきてしょうがなかった。



 ……何せ、彼女の両手に捕まれている子猫は、だ。



 どう贔屓目に見ても、嫌がっているようには見えなかった。湯船に身を浸しているからか、それとも彼女の両手に捕まっているからなのかは定かではないが、実に心地よさそうに、うっとりと目を細めている。


 白と黒のまだら模様の身体は今、泡だらけになっている。猫用のシャンプーを使用しているわけだが、成分が違うのだろう。人間が使うシャンプーとは異なる匂いがして、泡立ちもそれほど強くはない。


 ……個人的には良い匂いだとは思うが、動物的には良い匂いなのだろうか。


 ふと、気になった彼女は猫の顔を見て……堪らず、苦笑する。どうしてかといえば、子猫の顔は安心しきっていて、ともすれば、今にも眠りに落ちてしまいそうなほどのリラックス具合であったからだ。


 その表情からは、全幅の信頼しか感じ取れない。前触れもなく腕を外される……という可能性を欠片も抱いていないのだろう。わしゃわしゃとお腹周りを撫でても、脱力しっぱなしである。



 ……もしかしたら、この子は自分をご主人様というよりは、母親として見ているのかもしれない。



 そう思いながら、桶片手に猫を持ったまま、桶のお湯を入れ替える。浴槽には、たっぷりお湯を溜めてある。なので、いくらでもじゃぶじゃぶお湯を用意出来た。


 ついでに自分が入るのも兼ねての初めての猫シャンプーではあったが、よく考えると洗い終わったらすぐに身体を乾かさないとならないことに気づいたのは、浴槽にお湯が溜まり終わった後。


 まあ、シャワーだと水圧が強すぎて猫が流れてしまうし、こうして桶のお湯を入れ替えやすい。結果オーライというやつだったので、彼女は特に気にすることなく猫の身体に付いた泡をすすぎ落としたのであった。



 ……。


 ……。


 …………そうして、タオルで優しく身体を拭った後、ドライヤーでしっかり身体を乾燥させる。ふわふわの体毛をめくるように撫でながら、すすぎ残しがないことを入念に確認してから、さらに30分後。


 ちゃっちゃと着替えて準備を終えた彼女が向かったのは、最寄りのペットショップである、『アニマル・フレンド』。最初に店を訪れてから何度か相談を重ねている、店長の下にであった。


 店長とは、あれから何度か相談に乗って貰っている仲である。


 動物病院を紹介してもらったり、改めて猫を飼うに当たって必要となる道具一式を用意してもらったり、しなければならない躾の方法などを細やかに教えてもらったりと、色々と世話になっている。


 ――なので、今日は子猫のお披露目である。


 子猫がこうまで元気になったのは、間違いなく店長のおかげでもある。迷惑かもしれないが、店長のおかげで元気になった猫の姿を見て欲しい。その意味も込めて、今日は猫のシャンプーを行ったのだ。


 当然、お披露目するので猫も連れて行く。『アニマル・フレンド』で買った猫用のキャリーバッグに猫を入れた(この子は、コレも嫌がらなかった)彼女は、最初の時とは異なり、頭上にバッグを掲げたまま走って向かっていた。



 どうしてそうなっているかといえば、純粋にそちらの方が、効率が良いからである。



 自転車を介した状態では振動をカバー出来ないし、いくら気を付けても相当な不安を覚えるはずだ。彼女にとっては自転車も徒歩も大した違いはないから、そうした方が色々と簡単なのであった。


 ……まあ、そのせいで頭上にキャリーバッグを掲げたまま顔色一つ、呼吸一つ、姿勢一つ乱さずに爆走する美女がいると噂がちらほらと立っているのだが……人付き合いが皆無な彼女(太一であった時も含めて)は、未だ気付いていなかった。



「――やだぁ、超ぷりち~! 前よりも肉が付いて来て安心だわ~!」



 そうして、店に到着した彼女が、猫を店長にお披露目した直後。相変わらずの口調で出迎えた店長が、キャリーバッグより出された猫を見た今回の感想が、それであった。


 ちなみに、店長は相変わらずの強面である。最初の時とは違い、しっかり髭を剃って頭にバンダナを撒いて、幾らか雰囲気が柔らかくなってはいるが、強面は強面。率直に言えば、かなり不気味である。


 しかし、悪い人ではない。いや、むしろ親切であることを、彼女は知っている。


 売上そっちのけで『生き物を飼う覚悟』を説いたぐらいなのだ。おそらく、この店で買い物をする人たちの幾らかは、そんな店長の想いに感銘を受けているのだろう。


 その証拠に、この店の商品は注目を浴びる程安くはなく、中には定価で売っているのもある。それでも、厳つい強面のオネエ系が店長であっても、この店が存続しているのは……その辺りにあるのだろうと彼女は思っていた。


 ちなみに、今のところは店内に店長と彼女以外の気配はない。そのおかげか、店長のそんな姿を見るのは彼女一人であり、興奮している店長を宥める人は誰もいなかった。


 どうしてなのかと話を聞けば、「お店って、不思議と混む時と閑散な時がきっちり別れたりするものなのよ」ということで、今はちょうど閑散としている時なようであった。


 まあ、そうであろうという時間を予測して狙って来たのだから、閑散としていないと店長にお披露目する時間が取れないので困るのだが……まあいい。



「……あら、もしかして、来る前にシャンプーしたの? 前の検査では、ダニはいなかったのでしょう? そう何度もシャンプーをしなくてもいいんじゃないかしら」



 くんくん、と。店長を前にしても何ら怯えることなく大人しい猫の腹に鼻先を当てて臭いを嗅いだ店長は、不思議そうに首を傾げた。


 獣医ではないが、店長とて店を経営する以上は、相応に知識も蓄えている。拾ってきた野良猫にシャンプーをする重要性は知っていた。「シャンプーをするのは、今日で最後」だから、彼女も獣医より言われたことをそのまま答えた。



「薬は飲みきって、肌の具合も良くなっている。後はこの子の抵抗力だけで十分と医者から言われた」

「なるほど、それじゃあもう病院には通わなくてもいいってわけね」

「そう、何か異常が起こらない限りは来なくてもいい」

「良かったわね、ね~こちゃん! 人間だって病院は嫌なんだから、あなたも怖かったでちょうね~」



 赤ちゃん言葉なのか、それともオネエ言葉なのかは分からないが、よく分からない口調で店長は猫に話しかけている。


 正直、見た目とのギャップが有り過ぎるだろうと彼女は思ったが、猫は気に留めた様子もなく瞬きを繰り返していた。



(……前から思っていたけど、こいつって実は相当な大物な気がするっす)



 あるいは、相当な馬鹿なのだろうか。思えば、うっかり地面を陥没させた己を前にしても怯えることなく近づいてきた辺り……と。



「――そういえば、もうこの子の名前は決めたの?」

「え?」



 唐突な問い掛けに、彼女は軽く目を瞬かせた。「いや、何を驚いているのよ」それを見て苦笑した店長は、次いで、猫を彼女へと差し出し……受け取った彼女に、「まあ、今更な話だとは思うけどね」そう言葉を続けた。



「一通りの道具は揃えたし、病院からも健康体の太鼓判を押されたのでしょう? 舞子ちゃんも猫ちゃんも落ち着いた頃合いでしょうから、そろそろ名前を決めた方が良いんじゃないかなって思ったの」



 ……言われて納得した彼女は、はっきりと頷いた。


 確かに、店長の言う通りである。子猫を拾ってから今日まで病院だのお店だの薬だの病院だのお店だのと、色々とやることがあったせいで『名前』のことをすっかり忘れていた。


 頃合いだと店長の言う通り、何時までも子猫呼ばわりするのも変だ。野良猫ならそれでも良いだろうが、家猫として飼うと決めた以上は、名前を決めておいた方が良いだろう。



 しかし、名前……か。



 改めて突き出された問題に、彼女は内心にて唸った。何故なら、彼女太一は動物を飼った事がない。つまり、生き物に限らず、名前というモノを考えたことが一度としてないからだ。



(名前……名前っすか。ガン○ムとかそういう……いくら何でも駄目っすね)



 あくまで無表情のまま、彼女は考える。平凡に『タマ』……いや、安直過ぎる。では、『ポチ』なら……猫だぞ、犬じゃない。ならば、食べ物から……どうも、しっくり来ない。



「……ちなみに、病院ではどんな名前を書いたの? たぶん、仮っていう形で問診票か何かに名前を書いたでしょ?」



 傍目には無表情のまま直立不動で、内心ではうんうん唸り声を上げている彼女を見て、何かを察したのだろう。はっきりと苦笑を浮かべた店長の質問に、「――書いた」彼女は顔をあげた。



「それって、どんな名前?」

「思いつかなかったから、『ねこ』って書いた」

「……『ねこ』?」

「そう、『ねこ』。どうしても思いつかなかったから、そう名付けた……そうだ、この子の名前は『ねこ』に――」

「それだけは止めなさい」



 呆気に取られていた店長ではあったが、寸でのところで我に返って彼女の暴走を止めた。「……なぜ?」無表情のままに首を傾げる彼女に、「舞子ちゃん、本当に貴女って子は……」店長は再び苦笑した後……不意に屈むと、真剣な面持ちで彼女と目線を合わせた。



「いい、舞子ちゃん。この子は、貴女の家族になるのよ。それは、分かっているわよね?」



 それぐらい、分かっている。だから、彼女ははっきりと頷いた。


 それを見て、それじゃあ、と店長は言葉を続けた。



「貴女、家族になる子に『人間』なんて名前を付けたりするの?」

「あっ――」



 ぎゅん、と。自身の目が見開かれている感覚を彼女は覚えた。それは、この身体になって初めてとなる表情の変化であり、まだ、そうなれる事に……彼女は、心から驚いた。



「……舞子ちゃん、そんな顔も出来るのね」



 と、同時に。ある意味では彼女以上に驚いて呆然とする店長の姿があったが……まあいい。「――と、とにかく!」先に我に返った店長は、己の動揺を誤魔化すように少しばかり声を大きくした。



「これから、長い付き合いになるのよ。だったら、人間なんていう名前じゃなくて、ちゃんとした……この子だけの、特別な名前を付けてあげればいいとあたしは思うの」



 ――別にね、急いでいないから今すぐ決めなくてもいい。

 ――文字通り、家族へ送る最初のプレゼントなんだもの。

 ――悩んで悩んで悩んで、思いつかなくて当たり前よ。

 ――でも、決まったら教えてちょうだいな。



 そう、店長は言い聞かせるように彼女の肩をぽんぽんと叩くと、おもむろに彼女に背を向けた。思わず、その背中に声を掛けようと彼女は手を伸ばした……が。



 ――その直後、店内に客が入って来た。



 どうやら、店長はソレに気付いて接客に向かったようだ。その証拠に、「あら、先週ぶりね」店長は朗らかな笑みを浮かべてその客へと向かっていった。



 いったい、誰なのだろうか。


 手に持った猫を己が胸を足場にするようにして一旦乗せた彼女は、片手に掴んだキャリーバッグの中に猫を入れつつ、客に気付かれないようにぐるりと回り……見やる。


 彼女の目に映ったのは、その客は80を超えている男性であり、片手に杖を持った、優雅な帽子を被った品の良さそうなお爺さんであった。


 ……その顔には、見覚えがあった。


 名前はたしか、菊治(きくじ)。以前、店長との会話で名前を盗み聞いただけなので、それ以上のことはほとんど何も知らない。まあ、当たり前だ。


 奥さんが居るのかどうかも不明だし、何を飼っているのかも不明だし、来る時間も不明。ふらっと姿を見せては猫缶を幾つか飼っていく辺り、猫を飼っているのだろうが……せいぜい、分かっているのはそれだけだ。


 客のプライバシー故に店長は当然として、彼女自身も元々が社交性のある性格ではない。なので、これまでにも何度か顔を合わせて会釈し合った事はあったが、挨拶らしい挨拶もした覚えはない相手であった。



 しかし……今日は、何時もよりも来る時間が早いような気がする。



 老人の……菊治の顔を遠くより観察していた彼女は、はて、と首を傾げる。記憶が正しければ(まあ、100%正しいのだけれども)、遭遇するのは何時も夕方頃……今はまだ、11時を回った辺りだ。


 たまたま……しかし、恰好は何時もと同じだ。彼女の知る老人(以前住んでいた自宅の隣の老夫婦が、そうだった)は一日の行動がだいたいルーチンとなっているから、普段とは違う行動は用が無い限り取ったりはしないはず。



(もしかして、病院か何かの帰りっすかね?)



 まあ、年齢的には何処かの病院へ定期的な通院をしていてもおかしくはない。というか、通院していない方が稀だろう……そう思うと、途端に興味が薄れていくのを彼女は実感した。


 ……とりあえず、当初の予定は果たした。客が増えない内に、適当にご飯やら何やらを色々と買って帰ろう。


 そう決めた彼女は、バックのチャックを閉める。次いで、中の猫が大人しくしているのを確認してから、傍の積み重なっているカゴを手に取り、手早く猫缶やら何やらを入れてゆく。


 家にはまだ在庫の猫缶があるけど、より多くの味を知って好みを増やして貰った方が良い。幸いにもお金にはまだまだ余裕がある(何せ、20億だ)から、彼女は何ら躊躇うことなくカゴに詰め込み……それを、レジカウンターへと置いた。



「店長……」



 呼べば、菊治と談笑をしていた店長が振り返った。途端、店長は菊治に軽く頭を下げてカウンターへと小走りに向かい……手早く、バーコードを読み取ってゆく。


 その手付きは見事という他なく、無駄がない。この店では店長以外の従業員を見たことがないが、もしかしたらレジも一人で……いや、たまたまだろう。


 どうでもいい事を考えていると、レジに合計金額が表示された。


 万札を一枚出して、お釣りをもらう。「……使用済みのダンボールなら用意出来るけど、いるかしら?」小分けされているとはいえ、途中で穴が開きそうな感じがするビニール袋を見た店長が、そう提案してくれた。


 お願いすると頷けば、ちょっと待ってなさいとだけ言い残して、小走りに店の奥へと向かった。戻って来るまでの間、手持無沙汰となった彼女は、何気なく店内を見回し。



「――沢山、買うのですね」



 唐突に話しかけられて、ちょっと驚いた。まあ、驚いたといっても内心だけで、表面上は1mmとて変化はないが……振り向けば、こちらを見上げている菊治と目が合った。


 その手には、猫缶が四つ。視線を上げれば、「何匹、買っていらっしゃるのですかな?」菊治はそう尋ねてきた。



「……一匹」



 身の回りに高齢者がいなかった事もあって、慣れていない彼女の言い方はどこかぶっきらぼうであった。


 たった一言で、どう接したら良いのかが分からずに困惑しているのが傍目にも見て取れる彼女(いや、太一だ)を前に、菊治は気にした様子もなく笑みを浮かべた。



「そうですか。かなり、大きい猫なのですか?」

「いや……小さい。まだ、子猫」

「なるほど、それなら沢山必要だ。ちなみに、雄ですか、雌ですか?」

「雄だと、獣医からは……」

「雄ですか、良いですね。私も昔は雄猫を飼っていたんですよ。元気で暴れん坊でしたが、優しくて頭の良い子でした」



 ……今は、違う猫を飼っているということなのだろうか。


 そんな言葉が、彼女の脳裏に浮かんだ……と。「――お待たせ!」店の奥から、店長が少し息を乱しながら戻ってきた。


 急いで、用意したのだろう、その手が掴んでいるダンボールは、ガムテープで底などが補強されている。万が一、底が抜けると大変だから……という親切心からだと店長からウインクされた。


 ……正直、嬉しいと彼女は思った。


 優しくされた経験なんて、そう多くはない。少なくとも、『太一』であった時には。この身体……人に好かれやすいようにと変化した見た目のおかげなのだろうか?



(……たぶん、そうっす)



 内心にて、彼女はすぐに納得した。でなければ、店長もここまで優しくはしてくれないだろう。目の前で手際よく彼女が買った猫缶をダンボールに詰めてくれる店長を見やりながら、彼女はそう思った。


 ……出なければ、店長もこうまで優しくはしてくれないだろう。


 この身体(生体兵器)になってしまった不便さには辟易していたが、考えてみれば以前(太一であった時)の生活が満たされていたのかと問われれば、そうでもない。


 むしろ、逆だ。アルバイトや派遣で食い繋いでいた生活は、安定からは程遠い。理不尽な目に合う事はしょっちゅうで、何時も……格下の存在として見られ続けてきた。



 その日々と比べたら、今は何と気楽なのだろうか。



 無職であるのは未だ心に引っ掛かりを覚えはするが、それでも以前よりはずっとマシだ。毎朝毎夜、憂鬱になる事もない。仄暗い不安感にうっすらと食欲が落ちるようなこともない。



(……この生活も、悪くないかもしれないっすね)



 ぼんやりと店長の手捌きを眺めていると、気付けば用意が済んでいた。「……持てる? 後で返しに来てくれるなら、台車を貸すわよ」心配そうに向けられる視線に大丈夫だと首を横に振った彼女は、数十個は詰め込まれたであろうダンボールを……苦もなく抱える。



 ……思った通り、大した重さを感じない。



 どれ程に重いのかという事は分かるのだが、それだけだ。おそらく、バランスを取りやすくするよう自動的に少しばかりの負荷が掛かるようになっているのだろう。


 これならと判断した彼女は、それをそのまま片手で頭上に掲げる。もう片手で猫入りのキャリーバッグを抱えると、「それじゃあ、店長……」二人へと振り返り……はて、と首を傾げた。


 何故かは知らないが、二人とも呆気に取られた顔をしている。菊治もそうだが、特に店長の方が凄い。ぽかん、と開かれた大口をゆっくり両手で隠した店長は……深々と、息を吐いた。



「あの、舞子ちゃん。一つ聞いていいかしら?」

「……? なんでしょうか?」

「貴女、重量挙げか何かの選手……ってわけじゃないわよね?」

「学生の時は、映画部所属」

「……そ、そう。若いって、凄いのね」


(何でいきなり若さを? 変な事を聞くっすね)



 店長の言わんとしている事が分からず、彼女は首を傾げた。なので、店長の隣にいる菊治へと視線を向けたが……困った様子で曖昧な笑みを浮かべるばかりで、何も言わなかった。



 ……もしかして、気付かぬうちに変な事を仕出かしてしまったのだろうか。



 それならば、あまり長居するのはまずい。余計なボロが出る前に退散すべきだと思った彼女は、最後にもう一度店長たちに軽く頭を下げ、身体でガラス扉を押して外へ――ん?


 店の外へと出た彼女がそのまま帰路へ就こうとしたのと、ほぼ同時。駐車場へと入ってくる車が目に止まった。


 車自体は何ら珍しいものでもないし、高級車というわけでもない。ただ、運転している男性がずいぶんと高齢で、菊治よりもさらに10歳ぐらいは年上に見えた。


 次いでを述べるなら、妙に車の挙動が激しいというか、何というか。


 ずいぶんと荒い運転をするなと思いながら眺めていると、車は敷地内(要は、駐車場内)でぐるりと反転し、バックでコンクリートに記されたラインへと下がる、下がる、下がる……あっ。



 停止位置を超えた車が――一気に、加速した。



 停止位置に置かれたタイヤ止めをぐわんと乗り上げ、さらに加速。その勢いはあまりに強いが、彼女の位置から見えた運転手の男性は――気づいた様子もなく、ぽかんと目を見開いていた。



(――っ!)



 考える間は、なかった。するりと、キャリーバッグとダンボールを地面に置く。と、同時に、彼女は半ば本気になって踏み込んで――等身大の弾丸となった。


 踏み砕いたシューズとコンクリートの感触の直後、距離にして十メートル。それを瞬時に0にした彼女の眼前には……迫り来る鉄の塊。まだ状況を理解していないであろう運転手を他所に、彼女の片足がコンクリートに突き刺さる。



 ――直後、両腕を広げた彼女にナンバープレートが直撃した。



 衝撃が、がくんと彼女の身体に響く。残っている片方の足が、がりがりと固いコンクリートを削る。広げた腕と身体の形にボンネットが凹んで軋み、フロントガラスがヒビ割れて、歪に曇る。


 常人なら……いや、屈強な男性であっても跳ね飛ばされて大怪我を追うであろう衝撃。実際、衝撃の半分を受けた車の前面はひしゃげ、ばすん、とエアバックが作動するのが彼女にも見えた。



(……ビックリしたっす)



 けれども、彼女は無事であった。衝撃で飛び出た車の部品やら何やらで衣服が破けたのが分かったが、彼女自身には何の問題もなかった。自然と大股開きになっていた彼女は、斜めに抱えていた車を……ゆっくりと、下した。



 どすん、と。



 大地からおさらばしていたタイヤが、たわむ。直後、ぶしゅう、と、傍のタイヤの一つから空気が噴き出した。どうやら位置が……やり方が些か乱雑過ぎたようだ。


 ……見れば、歪んだ車のフレームの一部がタイヤの方へと飛び出している。


 下ろした衝撃で、それがゴムを切ってしまったのだろう。悪い事をしてしまったなあと思いつつ、コンクリートから足を抜いた彼女は、ぱんぱんと身体に付着した細かい破片を払った。



 ……念のため、自分の身体を自己診断してみる。



 時間にして、僅か2秒程で……負傷無しの無傷であるという結果が出たことに、彼女は安堵のため息を零した。


 さすがは、銀河の彼方を行き来する異星人が作った生体兵器だ。暴走車の直撃を受けても何ともない。反面、車の方は酷い。普通に店に突っ込んだ場合よりも損傷が激しいのではないだろうかという状態であった。



「――舞子ちゃん! 怪我しなかった!?」



 少しばかりの間を置いて、店の中から飛び出して来たのは店長であった。振り返れば、店の方には何の被害もない。咄嗟な判断とはいえ、頑張って良かったと彼女は――あっ。



 ――猫は!?



 思い出した途端、彼女は急いでキャリーバッグの下へ向かう。「あっ、ちょ、ちょっと!?」背中に店長の声が届いたが、構わない。破片やら何やらが降りかかっていないのを見やった彼女は、次いで、チャックを開けた。



 中の……猫は、無事であった。



 また、何が起こったのかを理解出来ていないのだろう。じたばたと少しばかり暴れながらも、みゃあ、と鳴くその姿に……彼女は心から安堵して、猫を抱き締めた。


 名前を……呼ぼうとしたが、名前をまだ付けていなかったことを思い出す。


 なるほど、店長の言う通り、早めに名前を付けておかなければならないようだ。そう思った彼女は、しばしの間……ごろごろと鳴り続けている猫の喉の音に耳を澄ませていた。



「……舞子ちゃん」



 背後で、呆然としている店長の姿が有った。その後ろから遅れて、菊治も。しかし、気付いていながらも彼女は……それからしばらくの間、振り返らなかった。




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