夕涼みの香りに火を点けて

 今年の夏は暑い。


 新陳代謝が落ちてきた私の年齢でも、スーツを着ていれば汗をかいてしまう。

 ハンカチ代わりにポケットに入れた、3分の1に切った手ぬぐいが役立ってくれているが、速乾性のある手ぬぐい生地ですらしっとりと湿る様な状況だ。


 今日は早朝から顧客の元へ行く予定があり、私はレンタカーを使って目的地へ向かっていた。車移動なので快適ではあるが、降りた後が心配だ。



「最上川さん、こんな早くからすまないねぇ!」

 お得意様の一人である、大農園経営者の久崎社長が野良仕事姿で出迎えてくれた。

 周辺一帯が全て畑。久崎農園の敷地は広く、どこまでが久崎社長の所有地かは、10年の付き合いになる今でもよく分かっていない。


「久崎社長のご要望とあらば、深夜でもお伺いしますよ」

 私は麦わらで編んだ黒いハットを脱いで、暑さを堪えながらなんとか笑顔を見せた。

 早朝だというのに、身体中に太陽の熱が刺さる。



「それにしても、今年は暑いねぇ」

 畑の横に建てられた小屋の中で、久崎社長は麦茶を差し出した。

 小屋の中は太陽が遮られている分、幾分か涼しいが、クーラーの無い建物は、やはり暑い。


「ええ……もういい歳なのにこの汗です」

 私は手ぬぐいで汗をぬぐいながら応える。


「まあ、飲んでよ」

 そう言うと久崎社長は自分の分の麦茶を飲み干してグラスに注ぎ直す。私もグラスの半分ほどを飲むと、そこに麦茶が継ぎ足された。


「それで……今日はどの様なご用件で」


「それがさァ、俺も困っちゃって。ご存知の通りここで毎年、ウチ主催の花火大会をやってんだけど……若い奴らが今年は一味違った出店を出したいってんでさ。俺は農家周りにゃ顔がきくが、その他はサッパリで」


「なるほど。ではどんな業界とお顔繋ぎしましょうか」


「話が早いねェ!」



 打ち合わせが終わって小屋から出てきた頃には、中年男二人は汗だくになっていた。


「助かったよ最上川さん」

 久崎社長は満面の笑みを見せる。


「いやいや。私の方こそ助かりました。ご紹介の御礼で契約なんて……今月は嘱託社員の私が売上トップになってしまいますね」

 私は軽く苦笑いをして見せ、額の汗を拭いた。


「おっといけねえ! 最上川さんに渡したいものがあったんだよ」

 そう言うと久崎社長は慌てて小屋に入り、平たい箱を持って出てきた。


「今度の花火大会に合わせて……ウチの社員が最上川さんにってよ。体型が俺とおんなじだからってんで俺が試着させられちゃって」

 久崎社長が箱を開けると、中に浴衣が入っていた。


「そんな……こんな立派なもの、受け取れませんよ」


「いいんだよォ。これは普段からウチの奴らに沢山良くしてくれてるから。アイツらからの、ささやかなお礼だ」

 久崎農園は事務員や営業マンを合わせても15人の小さな所帯なので、訪問時にはいつも差し入れを持っていくのだが、彼らがそんな風に思ってくれていたとは。


「では、ありがたく」


「おう、できればそれ着て、花火大会に来てくれよな!」


「もちろんそうします」



 今日は久崎農園の後に昼までは車で周る案件があり、それらはサッと済ませる事ができた。

 これで今日の仕事は終わり。私は自宅近くの店舗にレンタカーを返して、すぐに帰宅してシャワーを浴びた。


 せっかくなので、浴衣を着てみる。たしかに、久崎社長と私は体型がほぼ同じで、浴衣もぴったりだった。


 夏に浴衣を着るのは理に適っている。

 浴衣は胸元が開いているし、袖や裾から風が入ってくるので、見た目以上に涼しいのだ。

 また、あまりガッチリと密着させずに着ると、洋服と違って肌に密着する面積が減って、より涼しくなる。


 私はベランダで夕涼みでもしようと思い、蚊取り線香の入っている引き出しを開けた。

 いつもの蚊取り線香。我が家は昔ながらの渦巻き型を使う。

 蚊遣りは色々な形が売られているが、結局は蚊取り線香を買うときに付いてくる金属製のY字台か、不燃マットのついたホルダーが一番コンパクトだ。


 と、引き出しの中に見慣れないものが2つ、入っていた。


 まずは紙の小箱。名前に「涼」という文字が含まれており、箱を開けて見てみると、さわやかな香りのする、短めの線香が入っていた。

 そして、もう一つは……竹の台座の上に乗った、U字型に窪んだフェルトの塊の様なもの。窪みの所に何か汚れがついている。


「……なるほど」


 私はその二つと蚊取り線香を取り出し、ベランダへ出た。


 我が家のベランダには椅子2つと小さなテーブルがあり、夏はここで妻と夕涼みをする。


 私は蚊取り線香に火を点けてホルダーに納め、フックに吊るした。


 そして、もう一つの線香にも火を点けて、先程の黒いフェルトの塊の上に横にして置いた。

 蚊取り線香の煙は頭上を漂い、お香の煙は手元を漂った。

 思った通り、これは蚊取り線香ホルダーの不燃マットと同じものだ。

 蚊取り線香ホルダーの不燃マットは、その上で蚊取り線香を燃やすことで、最後まで蚊取り線香を燃やし切る事ができる。

 思えば、お香立てというものは海外の軸付き線香に使われていたものなのかもしれないと考える。

 お香立てに日本の線香を挿すと、燃え残りが数ミリできてしまうのがいつももったいないと思っていた。しかしこの形なら、線香を横にするので全て燃えてくれる。

 線香にも蚊取り線香と同じ発想。今まで無かったのが不思議だが……蚊取り線香はお香の店には売っていない。別物という考えだったのかもしれない。


 不燃フェルトのトレイの上でゆっくりと燃える線香は、煙だが涼やかな香りで、心なしか涼しい空気を呼び込んでいる気がした。


 そんな香りに包まれているうち、私はまどろんでいたらしい。あたりは暗くなっていた。


 ふと、部屋の方から柔らかな風が吹いた。

 妻が帰ってきたのだろう。


 さて……彼女には去年買った水うちわで、涼を取ってもらおうか。


 私は立ち上がって浴衣を直す。温泉地に行くたびに、着方がなっていないと言われて直されるのだが……今日の先生の採点は、何点だろうか。


 そんな事を考えていると、後ろから破裂音がした。


「花火大会か……」


 花火に素麺、そして線香。

 暑い夏に、涼を求めて火を使う。日本の文化は、考えてみると不思議なものだ。


 そう思いながら、私はライターを取り出し、煙草に火を灯した。

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