滑らかな語りと柔らかな折り鶴


「……」

 私は新聞を少し離しながら構えて読んでいた。元々、さほど視力は悪くないため、眼鏡は使わなかったのだが……いよいよ、その時が来てしまった様だ。


「正隆さん、おじいさんみたいな新聞の読み方してるわよ」

 妻は私が新聞を前後させているのを見ながら、クスクス笑っている。


「もう、いい歳だね……老眼鏡でも買おうかな」

 妻にそう告げると、彼女はポーチから眼鏡ケースを取り出した。


「実は、私も人の事が言えるものでもなくて。この間、良いお店があったから一足先に買ったのよ」

 妻は上機嫌にケースから眼鏡を取り出し、かけて見せる。

 派手すぎない、つや消しのピンクゴールドのフレーム。元々聡明そうな彼女の顔が、まるでどこかの教授の様に見えた。


「よく似合ってるよ。昔からかけていたみたいだ」


「昔から老眼みたいってこと?」

 妻はそう言っておどけてみせる。


「いやいや……君はサングラスもよく似合うけど、普通の眼鏡はどこかの教授センセイみたいで凛々しいよ」


「……最上川君は口説き文句が下手くそだから、落第ね」

 妻は左手で眼鏡を持ち上げながらわざと、怪訝な顔をした。

 私は頭を掻いて苦笑いした。


「……口説き文句と言えば、我々の出会いは、同じサングラスを取ろうとしたところだったね」


「そうねぇ。今思えば、昭和のドラマみたいな出会いだったわね」


 眼鏡一つで会話は意外と弾み、私達はその日、出会ったばかりの頃の話に花を咲かせた。



 翌日。


 妻が紹介してくれた店は、自宅のある駅から3駅先の小さな店で、賑わった街中にあった。

 眼鏡を取り扱うにも資格があるらしく、「量販店とは検査の質も調整の技術も違う」と、眼鏡利用の先輩である妻が語った通り、検査は眼科の様な本格的な内容だった。


「はぁ〜、最上川様はとにかくダンディでいらっしゃる!」

 対応してくれたのは店長で、彼は驚くほど人当たりがよく、まるで結婚式の司会者のような流暢な語り口で接客をしてくれた。


「ダンディとはまた……」

 私は苦笑いをして見せるが、店長は調子よく続ける。

「いやいや最上川様をダンディと言わず何をダンディと言うのかと言うほどダンディでございますよええ。眼鏡も似合いに似合って選び放題掛け放題、何をオススメして良いのやら迷い倒してしまいますねこれは!」


「褒めますねぇ」


「あ、いや、ははは! 昔々、パチンコ店でホールの煽り口上をやってたもので、つい……」

 店長は申し訳なさそうに笑った。


 最終的に店長が勧めてくれたのは、ノーフレームの眼鏡。レンズに直接、つるが付いたものだった。私は調子の良さだけでなく、抜群のセンスと技術を持つ店長を信じ、オススメされたその眼鏡を購入する事にした。

 掛けてみると、本当に文字がよく見える。


「眼鏡ふきはケースに入ってございますので、そちらをお使いください。拭くときは、柔らかい布以外はお使いにならない様にお願いします」

 店長は眼鏡をケースに収めて、丁寧に紙袋に入れた。


「調整は無料ですので、またいつでもお越しください!」

 店長は深々と頭を下げる。私も会釈し、店を後にした。


 時間はちょうど昼時。この周辺には、私の行きつけの店が無い。純喫茶も見当たらないので、止むを得ず、フランチャイズのカフェに入った。


 そこそこの味のパスタをいただき、食後のコーヒーを飲んで一服しながら、眼鏡を掛けて新聞を読む。

 文字がよく見える。本当に良い買い物をした。


 そして、私が新聞を読み終え、畳んだ瞬間の事だった。


「きゃあ!」

 喫煙席のドアを開けて入ってきた女性が入り口につまずいた。サンダルが脱げ、彼女は思い切り前につんのめった。

 私は慌てて立ち上がり、間一髪のところでその女性を支えたが、彼女の持っていたカフェオレが撒き散らされ、周囲をカフェオレまみれにしてしまった。幸い、私の顔以外、人にはかからなかった。


「ご、ごめんなさい!」

 彼女は慌ててハンカチを取り出す。


「ああ、その可愛らしいハンカチが汚れるといけません。これを使いましょう」


 私は彼女にハンカチを返し、ちょうど読み終えた新聞で床を拭いた。


「すみません……」

「いえいえ」


 店員が慌てて雑巾を持ってきたが、床はすっかり拭き終えた後で、店員は新聞を弁償すると言ったが辞退した。


 あとは私自身。顔に少しかかっただけで良かった。

 私は椅子の背もたれにに掛けたジャケットのポケットから、手ぬぐいを取り出してカフェオレを拭いた。


 私は、ハンカチよりも手ぬぐいを持ち歩く様にしている。単純に便利だからだ。


 ハンカチによく使われる、洋晒という織り方は短時間で繊維に大きな負荷をかけながら処理するため、サラサラの手触りになるという利点があるが、実は利便性が低い。繊維同士に隙間がないため、吸水性も速乾性もない生地になっているのだ。


 それとは対照的に、手ぬぐいは実に何十時間という時間をかけて織る。そうすると生地にストレスがかからず、適度に残った毛羽立ちと、空気を含んだ生地が出来上がる。それが吸水性と速乾性を生む。



 顔と手の汚れ程度なら、いつも持ち歩いている3分の1にカットした手ぬぐいで事足りる。

 手ぬぐいは元々、量り売りをしていたこともあり、両端が切りっぱなしになっている。そのため、私はハンカチとして持ち歩くために1つの手ぬぐいを手で割いて三等分にしている。


 流石にコーヒー汚れは落ちにくいので、これは自宅のキッチン用にしよう。手ぬぐいとは、本来そういう使い方をしていくものだ。


「本当にすいません!」

 女性はつまずいた拍子にズレた眼鏡を直しながら、何度も頭を下げる。


「いやいや。お気になさらず。怪我がなくて良かったです」


「ありがとうござ……あっ、眼鏡が汚れてます」

 彼女は私の眼鏡を指差す。


「え? ああ……本当だ」

 私は眼鏡を外して汚れを確認し、そのまま手ぬぐいで拭こうとしたが、その腕を掴まれた。


「待ってください。眼鏡ふきならあります」

 そう言うと彼女はバッグから……眼鏡クリーナーのスプレーと折り鶴を取り出した。


「鶴……?」


 私が頭上に疑問符を浮かべていると、彼女はスプレーを眼鏡にかけ、布でできた折り鶴を開いて眼鏡を拭き始めた。


「それは……?」


「え? ああ。これ、眼鏡ふきなんです。綺麗になりましたよ。どうぞ」


「ああ、どうも……」

 私に眼鏡を手渡した彼女は、開いた布を手の上でポンポンと跳ねさせる。布は彼女の手の上で、魔法の様に勝手に鶴の形に戻っていった。


「それ、すごいですね」

 私は畳まれた鶴を指差す。


「あ、これ……お気に入りなんです。形状記憶なんですって。私、眼鏡ふきが好きで。変な趣味でしょう?」

 彼女は微笑み、バッグに鶴を入れた。


「いやいや。何かにこだわりがあるというのは、素敵な事です。しかしスプレーまでお持ちとは……眼鏡を大事になさっているのですね。私は眼鏡というモノ自体、今日初めて買ったものでして。手入れもよくわかっていないんですよ」

 私が照れ笑いすると、彼女はご主人と待ち合わせの間ならと言って、眼鏡初心者の私に眼鏡ふきについておしえてくれた。


 彼女の話によると、最近の眼鏡のレンズはガラスではないため、眼鏡ふきはレンズを傷つけない様、マイクロファイバーや柔らかい生地を使うべきだという。店長が言っていた通りだ。私は手ぬぐいについて説明した。


「……なら、最上川さんの手ぬぐいでも一応、大丈夫ですね。私、手ぬぐいには詳しくなかったので」

 新しいカフェオレを飲みながら、彼女はスマホをちらと見た。


「あ、そろそろご主人がいらっしゃるのですか? ではお邪魔なのでそろそろ……」


「あれ? 最上川様じゃありませんか! いやちょうど良かった! 咲子とお知り合いでしたか!」

 喫煙席に入ってきたのは、先程対応してくれた眼鏡店の店長だった。


「おや。店長の奥様でしたか。偶然ですね。で、ちょうど良かったとは……?」

 何か不足があったのだろうか。


「実は無料でお渡ししているコレを忘れてまして!」

 店長はポケットから小さなスプレーを取り出した。それはたった今、私の眼鏡を綺麗にしたものと同じものだった。


「なるほど……本当にちょうど良かったですね」


 店長夫婦と眼鏡について色々と話した後、私は先に店を出た。



 眼鏡拭きにこだわる妻と、眼鏡を売る夫。彼らの出会いもまた、同じ眼鏡に手をかけようとしたところから始まったそうだ。


 2人に不思議な縁を感じながら街を歩いていると、雑貨店のギフトコーナーに、先程見かけた眼鏡ふきの折り鶴が陳列されているのに気づいた。

 そういえば、眼鏡を外すのを忘れていた。この眼鏡をかけていなければ、見逃していたかもしれない。


 私は折り鶴の眼鏡ふきを購入し、帰路に着いた。


 妻の前で眼鏡を拭き、折り鶴を作る自分を想像して、少し、楽しみになる。彼らの馴れ初めを聞けば、さらに驚くだろう。


 さて……次はまともな口説き文句を考えておかねば。


 カフェオレの様な咲子さんと違って、私の妻は少し、ビターなのだから。

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