【番外編】反英雄は歯車を磨き上げる

 早朝の事務所で書類整理をしていると、若い社員が出社してきた。見ない顔だ。

 この時期だ。人事異動でやってきた社員だろう。


「……」

 若者は遠くから私を睨みつけている。


「これは失礼。嘱託社員の最上川です。事務所にはたまに来ますので、よろしくお願いします」

 私は立ち上がって挨拶したが、若者はまだ私を警戒しているらしく、「はあ」と一言言った後すぐに私から離れてしまい、ほかに出社している社員の所へ行って私を見ながら何か話している。何の仕事をしているのかまで名乗る時に言うべきだったか。


「あれ!? 最上川部長! どうしたんですか事務所になんか来て。珍しいですね!」


 私が誤解を解こうと若者の方へ行こうとしたその時、かつての部下である原田が事務所に入って来た。原田は声が大きい。

 彼の声は若者の耳にも入った様で、若者は慌てて走って来た。


「ぶっ、ぶぶぶ部長! 大変失礼致しました! 松屋と申します!」

 そう言って若者は深々と頭を下げた。なるほど。


「いやいや、今は部長じゃないんですよ。松屋さんですね。よろしくお願いします。今の私は、パートのおじさんです。かしこまらないでくださいね」

 私は頭を下げて挨拶をする。


「へっ……? い、いや、でも……」

 松屋社員は戸惑い、どうしたら良いか分からないという顔をした。


 ……これは深刻だ。


「原田課長」


「はい!」

 原田はニコニコしながら大きな声で返事をした。


「ちょっと、7、8分いいですか?」

「もちろん! 何でしょう!?」


「個人的な事です」

 私は薄く微笑む。


「なんですかぁ!?」

 原田は本当に声が大きい。私は松屋社員の方を向いた。


「松屋さん、ちょっと原田課長とお話してきますね。まだ、朝のミーティング時間ではないよね?」


「あ、はい」

 松屋社員はキョトンとしながら答えた。


「会議室で良いかな」

「ええ、どうぞ!」


 私は原田を連れて会議室に入った。



 会議室は相変わらず、ここで何の生産も意思決定もなされていない事を示すかの様に埃っぽく、参加者が皆、眠りこけている姿が思い起こされる。


「どうしたんですか最上川部長、珍しく事務所になんか来ちゃって!」

 原田はニコニコしている。


「もう部長じゃないよ。出社したのは……まあいいよ。それより原田。私は今は君の上司じゃないから……あまりしつこく言う気は無いが、松屋君か。彼は……」

 私は原田を静かに見据える。


「あー! アレですか、部長がいらっしゃったのに、あの様子だと挨拶もしなかったんですよね! すいません!礼儀がなってなくて! きちんと言い聞かせますんで!」

 原田は頭を掻いてニヤニヤしている。


「……違うよ。初対面の人間よりも社内で立場ある人間に媚びへつらう様に育ってしまった彼を、真っ当な営業マンに戻してやるのが、君の仕事だろう」

 私は表情を変えずに原田の目を見る。


「あー、それは……」

 原田は目をそらした。


「……いや、すまない。私はこんな事を言う立場ではなかったね」

 私は笑顔を作る。


「いやいやいやいや! そんな事!僕は最上川部長のおかげで課長になったんですから、いつまでもご指導ください!」

 原田は会議卓に両手をついて頭を下げる。


「原田。私は、その態度を見せる相手じゃあない」


「……たしかに。すいません」

 原田は顔を上げた。




「いやぁ、今の部長になってから、ついつい頭を低くしてしまいます。あの、松屋と一緒に地方支店から異動してきた……」


「君島だろう?」


「えっ」

 原田は目を見開いた。


「君島が部長になって3ヶ月くらいか。私の契約も終わるかもしれないから、少し書類整理をしようと思ってね」


 私はこの会社の本社営業部で部長を務めた後、自営業を始めるため退職した。その際、きちんと引き継いだつもりだったのだが、私の手を離れた後、新しい営業部長の方針が悪かったらしく、多くの顧客が離れてしまった。

そのため、会社は顧客奪還を条件に、私を嘱託社員扱いで営業として会社に所属する様、依頼してきたのだ。

 今は利益分の数パーセント……その中から一定額を上限として、報酬をもらう様にしている。会社は繋ぎ止めのために多額の報酬を提示したが、それは社員に還元する様提言し、断った。

 そんな営業をしてしまった、自業自得の私に対して提示するには、大きすぎる金額だったからだ。

 

そして、そんな生活も、おそらくは間もなく終わる。


「最上川さん……」

 原田は今にも泣きそうな顔をしている。


「君が気に病む事じゃ無い。営業部長や取締役が変われば、社の方針も変わるんだよ」


「でも! いや! 僕は最上川ぶちょ……最上川さんには、まだまだここで仕事をして欲しい!なにかあったら君島さんに言ってやりますよ!」

 原田は元々大きな声をさらに荒げた。


「それは、君に迷惑がかかる。君の立場で、そんなことを言うもんじゃない」

 私は原田を少し睨んだ。原田は身を引いた。


「……でも君島部長が営業部長になって、あの人にごますり出来ない奴はみんな異動になりまして……最上川部長が育ててくださった連中の半数は……」

 原田は苦い表情を作る。


「君島は……いや、まあ、どんな上司でもうまくやれる様に育ってくれたのは君だけかもしれない。悪い事をした」

 私は頭を下げた。そういうことか。


 君島道直。


 私と同期の社員で、私と業績を競い合った男だ。彼は営業力と処世術に長け、誰よりも早く出世した。彼は、私と私のいた本社営業部をライバル視していた。


 君島は自分の処世術を部下にも継承する事を怠らない。彼には上意下達こそが大組織がうまく動くための根幹であるという信念があるため、上司の方針に逆らう者を許さない。


 今日は、君島が本社営業部に着任した後、初の取締役人事が発表された。新しい役員が来たら、いよいよ私の嘱託社員生活も終わると考え、今日は書類整理で出社したのだ。


「さあ、そろそろ朝のミーティングだろう。私は帰るよ」


「最上川ぁ!」


 会議室の扉を勢いよく開けて入ってきたのは、君島だった。


「おや。君島。久しぶりだね」


「お前、また昔の部下を捕まえてナイショ話か!いい加減その汚ねえやり方をやめろってんだ!」

 君島は笑いながら私を批判した。


「お前こそ、相変わらずだそうだね」


「……そりゃそうよ。最近の若いヤツは、怖ぇ上司を知らなすぎる。俺のやり方は俺のやり方で、必要なんだよ」

 君島は苦笑いする。


「確かにね。私の育てた営業マン達……彼らに、私の顧客をつけるために各地に異動させてくれたんだろ?お前らしい、無理矢理なやり方だ」


「え? え?」

 原田は私と君島を見比べて混乱している。


「俺が飛ばした連中は、みんなお前が育てたエースだ。全員喜んで引き受けてくれたよ。そろそろお前もジジイだし、近くの客だけ持ってりゃいいんだよ!」

 君島は高笑いする。


「相変わらず、悪者のフリが上手いなぁ。その様子だと、取締役に掛け合って、私の残留でも決めてきたか」

 私も笑った。君島も同じ顔で笑った。


「まだまだうちに貢献しろよな。おい、原田。お前騙されんなよ。一番腹黒いのは……コイツだからな」

 君島はニヤリと笑って私の肩を叩いた。


「あ、あの、最上川さん?」

 原田は何が何だかわからないという顔をしている。


「そうだなぁ。君島のために黙っておこうと思ったんだが……原田。君は課長だから言うが、恐怖の独裁者君島は、仮の姿だ。この男ほど、優しい部長はいない。こいつについていけば、君も出世するぞ」


「余計な事言ってんじゃねえよ。で……このまま帰るわけじゃ、ねえよな?」

 君島は私の肩を強く掴んだ。


「仕方ないな……昼飯くらい、付き合うよ」


「グルメのお前がひっくり返る店を近くに見つけたんだよ。午前は地方の連中に客を引き継ぐ打ち合わせをさせろ。んで、メシに行こうぜ」

 君島は少年の様な顔を見せる。相変わらずだ。


「了解」


 原田は、私達のやりとりを呆然と見る事しか出来ずにいる。君島は今度は原田の肩を掴んだ。


「原田ぁ……こいつの言うこと真に受けて、俺に馴れ馴れしくしてみろ。お前も飛ばしてやるからな」

 君島は原田を睨みつけた。


「は、はい!」



 仕事の流儀は、人それぞれだ。上司のやり方に従うだけでは、良い仕事などできない。だが、闇雲に逆らったり抑えつけるのもムダだ。人には、役割がある。


 君島は上意下達にこだわる。

 私はコミュニケーションにこだわる。


 こだわりとはなにも、趣味だけのものでは無い。


 君島のこだわりは、大組織に必要なものだと私は思う。

 パワハラのリスクを背負ってでも、君島は自身を恐怖の対象にし続けるつもりだ。




 君島と私は昔話を交えながら打ち合わせをし、彼のイチオシの店に向かうことにした。


 事務所を出るとき、原田が清々しい顔をしていた。納得したのだろう。


 原田もいずれ部長になる。

 その時、彼がどんな道を選び、何にこだわるかを見ることが出来たら、育てた側としては嬉しい限りだ。


 そして、君島のおかげで、これからもこの会社に厄介になりそうだ。


君島の紹介した店はたしかにこの近辺では相当旨い店で、私としたことが、こんな名店を見落とすとは……という感想だった。君島は「それを聞きたかった」と言って満足した。


昔から、私の気づかない事や私のできない事を、君島はやってきた。仕事の流儀も人生の過ごし方も違うが、この男とは馬が合うのだ。


「何ニヤついてんだよ」

「……昔を、思い出したんだよ」


 君島が私を怪訝な顔で見ながら、ジャケットを羽織る。


 彼のジャケットの胸ポケットには、15年前に私がプレゼントした万年筆が挿されていた。

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