心と茶葉を開かせた龍珠夫人
予定では明日、妻が海外から戻って来る。そのため、私は彼女の好きなハーブティーを買いに、行きつけの店に向かっていた。
ハーブティーと一口に言っても様々な種類があり、正直なところ、私は未だによくわかっていない。行きつけの店は店員が親切なので、いつもおすすめを購入する様にしている。
妻が特に好きなハーブがどれだったかを思い出しながら歩いていると、道の途中に、中国語で書かれた立て看板……イーゼルが置いてあるのに気付いた。私は中国語がわからないので、なんと書いてあるのか理解できない。ただ、lunchという単語が英語で書かれていたので食事の店である事は分かった。
中国料理もいいかもしれないと思いつつも一旦店を通り過ぎ、ハーブティーの店に向かう。
ハーブティー専門店の入り口までたどり着くと、ドアに張り紙があった。
「本日臨時休業」
……まいった。電車で時間を掛けてここまで来たというのに、珍しく臨時休業か。電話をしておけばよかった。こんな事は滅多にない。大失敗だ。
仕方なく元来た道を戻る。少し早いが、無駄足よりはマシかと思い、先程見かけた中国料理店らしき店に入った。妻へ渡すプレゼントは、今回は無しでいいだろうと思い始めていた。
「ヒラシャイマセヨ」
中国人の中年女性が出迎えてくれたその店は……店の奥に数席のテーブルと、その横にカウンターがあった。しかし、正面カウンターでは食事ができる様になっておらず、ずらりと中国茶が並んでいる。
「……ここは、もしかしてお茶屋さんですか?」
私は茶の入ったパウチを手にとって尋ねる。
「お客サン、面白イネ! お茶やサンにキマテルヨ!」
女性店員は笑いながら答えた。
「では、ランチというのは」
「お昼ご飯食ベラルヨ! オイシイヨ!」
なるほど。ここは中国茶店だが、ランチとともにここのお茶をいただけるというわけか。
「じゃあ、お昼ごはんを食べます」
「ハイヨ! そこ座ル!」
店員はテーブル席を指した。
「ああ、カウンターで良いですよ」
「お客さん狭いトコ好きカ。面白い人だネ!」
店員はケラケラと笑う。明るい人だ。
私はカウンター席について、メニューを手に取って軽く驚いた。
そこにはオムライス、カレー、ソース焼きそばなど……中国料理ではなく、定食メニューが並んでいる。そして、もちろんセットの茶は中国茶だ。
メニューの中の中国茶は全て中国名表記になっており、カタカナで読み方が書いてあるのだが、中国語読みをカタカナにしただけのもので、烏龍茶とプーアル茶くらいはわかるが、他はよくわからない。
中国茶メニューの中に茉莉、という文字が見えた。茉莉花、ジャスミンだ。ジャスミンティーはペットボトルのものしか飲んだ事は無いが、嫌いではない。本格的な烏龍茶も気になるところだが、今日はこれにしようか。
「オムライス、ジャスミン茶のセットを」
「ハイヨー! オムライス、モーリーファアチャ!」
モーリーファアチャ、というのがジャスミン茶の事らしい。
数分待つと、オムライスとサラダ、杏仁豆腐と一緒に白磁のポットが現れた。
「チョット待ってかラ飲ムヨ? イイ?」
店員がポットの蓋をおさえながら私の顔を見る。
「分かりました」
「せっかち良くないカラネ! 美味しく飲デヨ!」
女性店員は歯を見せて笑う。
ここはビジネス街が近い。せっかちな客が多いのだろう。仕方ない事だが、中国茶の専門店でそれはもったいない。せっかく自分の国からこだわって仕入れた茶なのだから、美味しく飲んで欲しい……店員も、そう思って私に助言してくれたのだろう。
そんなわけでまずは料理に手をつける。固めに焼いた卵にスプーンを通すと、なんと、中からチャーハンが出てきた。食べてみると、醤油で味付けしているのがわかる。天津飯に近い味だが、ケチャップがかかっているため不思議な感覚だ。しかし、美味い。
サラダも美味かったが、やはり杏仁豆腐は流石に本場だ。中国料理店並み……いや、それ以上だ。寒天の様な杏仁豆腐ではなく、トロッとしたマンゴープリンの様な杏仁豆腐は、舌触りもよく、夏にも食べたい味だ。
そして……お茶に手をつける。
ポットから茶を注ぎ入れると、すぐに華やかな香りが鼻腔をくすぐった。 これはたしかに美味そうだ。
一口含むと、ペットボトルのジャスミンティーは全くの別物だったのではないかと思うほど、鮮やかな花の香りがした。
まるで花畑の中にいるかの様なその香りは、おおよそお茶とは思えない芳香を放っている。かといって香料の様な嫌な感覚はなく、茶の味とうまく融合して、私をリラックスさせる。
ジャスミン茶をハーブティーと同じで、ジャスミンの花から抽出しているというイメージを持つ者もいるが、実はそれは間違いだ。
ジャスミン茶は、緑茶にジャスミンの香りをつけるもので、低級なものは香料を噴霧するらしいが、高級なものはジャスミンの花から立ち上る香りを緑茶に吸わせては花を捨てて交換し、それを繰り返し、何日もかけて作り上げるものだと聞いたことがある。このジャスミン茶は、まさにその高級なものだとすぐにわかった。しかし、こんなに違うものなのか。
「すごく、美味しいです」
私は女性店員に微笑みかけた。
「ソリャソーヨ! お客さん、早く来たかラ、サービスしたノ!」
「サービス?」
どういう事だろう?
「モーリーロンヂュウ! 良いヤツ使ったヨ!」
「モーリーロンヂュウ?」
「そうよ! 茉莉龍珠! アー、ドラゴンボール!」
「ドラゴンボール」
つい、おうむ返ししてしまった。こんなところで有名漫画の名前を聞くとは。
「アー、間違えタ。ドラゴンパール。これヨ」
そう言って女性店員は、真珠大に丸められた茶葉を見せてくれた。それは中国で採れる緑茶の葉を細く揉んでから小さなボール状に丸めたもので、たしかに、中国でポピュラーな、細長い龍の体が、球状に丸まった様に見える。
「なるほど……これが龍の珠ですか」
「ソーよ。2杯目オカワリから広がるのヨ」
女性店員はそう言いながら、ポットの蓋を開いてお湯を注ぎ入れた。
丸まっていた茶葉がゆっくりと広がっていく。
「ほぉ……」
中国には湯を入れると花が広がる工芸茶というものもあるが、これはこれで良いものだ。
「気にいっタ? モーリーロンヂュウ、私のイチバンよ!」
店員は嬉しそうに私の顔を覗き込んだ。
「ええ。いただいていきましょうか」
「マイド!」
店員はさらに笑顔になり、既に用意していた茶の入ったパウチを取り出した。商売上手な奥さんだ。
「ここは、もう長いんですか?」
会計をしながら、私は店員に尋ねた。
「そうネ、もう15年。私、この国好きヨ。みんな優しい。日本語は全然うまくならなイけどネ!」
「いやいや、お上手ですよ」
「ありがとネ! 奥さんにプレゼントでショ!」
「え?」
「いつもハーブティー持って嬉しそうに歩いてるの見てたヨ! 仲良くネ!」
「なんと……」
素晴らしい観察眼だ。これは、私が茶を買うのを見越して茉莉龍珠を出したに違いない。
「そうでショ?」
「ええ、おみそれしました」
「お味噌? バカね! オムライスは醤油味ヨ!」
そう言われて私はつい大声で笑ってしまった。彼女も一緒に笑った。
そして、彼女は店員ではなく、この店のオーナーと言うことも、会計の時に知った。
「また来てネ!」
店を出て電車に乗った後で、私はビニール袋の中に茶以外のものが入っている事に気付いた。それは、倒福のステッカー、中国の縁起物だった。
この心配り。日本人の全員が優しい訳などない。彼女はこの15年で、日本人の優しさに触れたのではなく、彼女の優しさに、優しさを返す日本人に囲まれたのだろう。
たしかな観察眼と、客へのサービスにこだわる女店主。
私は電車に揺られながら、凝り固まった心が広がっていたのを感じた。
茶葉を開くとともに客の心をも開かせる女店主の心意気に触れた私は、妻へのプレゼントをぶら下げて、1つ前の駅で降り、茶葉が開く速度のごとく、ゆっくりと歩いて我が家へ向かった。
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