無知を認めさせる素面知らずの香り
「2020年にゃ、どこもかしこも禁煙になるぜ? どうすんのよモガさん」
そう言って私に忠告してきたのは、お得意様の城島社長だった。
城島社長は筋金入りのヘビースモーカーだったのだが、ここ最近禁煙に成功し、タバコを一切吸わなくなった。仕事場の壁紙もすっかり張り替え、かつての黄ばんだ壁は、まっさらなキャンバスのごとく純白に輝いている。
当然、今では彼の居室は完全禁煙だ。
「まあ、私のは趣味ですからね。吸えるところで、吸いますよ」
私はポケットからタバコの入った金属ケースを取り出し、手で弄ぶ。
「そういやそうだったなぁ。でもモガさん、あんた1日に2、3本しか吸わないんだろ? やめちまっても、いいとは思うがなァ」
城島社長は私のタバコケースをまじまじとみつめながら、自身の顎を親指で弾く。この仕草をしている時、城島社長は何か言いたいことがあるのだ。仕事の話はたった今終わったばかりだ。と、なると……
「そういえば社長は、どうやって禁煙したんですか?」
私がそう言うやいなや、城島社長はにっこりと微笑み、応接テーブルの上に見慣れない機械をコトリと置いた。
「こいつだよ」
「これは……?」
それは、ちょうど既製品のタバコの箱ほどの大きさの機械で、何やら吸い口の様な物がついている。丸みを帯びつつも無機質な金属の箱に見えるそれは……なんとも形容しがたい。
「これはな、電子タバコってんだよ。若い奴らの間で流行っててさ。VAPEって呼ぶのさ」
聞いたことがある。最近、コンビニでも売られている、加熱式タバコとは少し違う機械。確か、ニコチンを含まないタバコの様な嗜好品だ。しかし、私の知るその機械はもっと小さい。城島社長の機械は随分と大きくて無骨だ。
城島社長はそのヴェイプとやらを手に取って立ち上がり、吸い口の部分を咥えてボタンを押した。吸い口の辺りからシュー、という音が聞こえ、直後、城島社長の口から大量の煙が吐き出された。
その煙の量は、タバコと言うよりは、もはや煙幕だ。なんだこれは……?
「社長……またとんでもないものを」
「ははは! 面白いだろ! にしても、モガさんが知らない物があるとはな!」
城島社長が立ち上がったのは、この大量の煙を私の顔面に吐きかけないためだろう。ところがその煙は空気より重いらしく、ゆっくりと私の目の前に降りてきた。煙というよりは水蒸気の様で、量もすさまじい。タバコとしては、少々品がない気もする。
「甘い香りがしますね」
水蒸気は、スイカの様な香りを放っている。
「そうなんだよ。こいつはな……バターピーナッツとスイカシャーベットの味がする」
「ばっ……す……? え?」
城島社長が何を言ったのか、一瞬脳が受け付けなかった。どう考えても合いそうにない味の取り合わせだった様な気がする。
「ははは! そこまで驚かれると愉快だな! モガさんのそんな顔、初めて見たよ。こうなったらもう、モガさんには教えてやらん! 自分で探してみてくれよ」
そう言うと城島社長は機械を引き出しの中にに片付け、その後、彼の話はVAPEなど無かったかの様に釣りの話に終始した。私は平静を装いながらその話に付き合ったが、脳内はVAPEの事でいっぱいになってしまった。
私は城島社長の話が終わるとそそくさと自宅に帰り、インターネットでVAPEの事を調べてみた。
どうやら、アメリカや中国では、VAPEはタバコに分類されているらしい。日本で主流となりつつある加熱式タバコとは、全く異なるアプローチだ。
VAPEではリキッドと呼ばれる、グリセリンとプロピレングリコールに香料を添加した混合液を、電熱線で蒸発させ、その蒸気を吸う物らしい。その電熱線には、リキッドを保持させるために綿を挟んである様だ。
海外ではニコチン添加のものもあるが、国内では法制上、ニコチン入りのものの販売は認められていない。ただし、ニコチンまたはニコチン入りリキッドの個人輸入は一定量までなら可能……か。
加熱部の構造やバッテリーの大小で流電量をコントロールし、味わいを変える……吸い込む際の空気の流れも重要……
これは、思ったより奥が深い……。
「何やってるの?」
パソコンのモニターを睨みつける私の背後から声がした。
「……やあ、君か」
私の背後に立ったのは、妻だった。
妻の幸子は国内を飛び回る私とは違い、海外で仕事をする事が多い。そのため彼女と会えるのは月に数回。今日はアメリカにいるはずだった。
「やあ、じゃないわよ。そっけないわね」
妻は両手を腰に当てて私を見下ろす。しまった……。気になる事がある時、まともに挨拶も出来なくなるのは私の悪い癖だ。
「……いや、すまない。おかえり幸子。今日はアメリカにいるんじゃ?」
「そのはずだったんだけどね。先方がマレーシアに用事が出来ちゃって、キャンセル。私も明日、マレーシアに飛ぶことにしたのよ。それより……あなた、VAPEに興味あるの?大好きなタバコ……やめる気にでもなったの?」
なんと、幸子はVAPEを知っていた。そして彼女はポケットから見慣れない機械を取り出した。まさか……これもVAPEか?
幸子が手にしたものは城島社長の使ったものよりもずっと小さなサイズだったが、やはり吸い口がついている。
幸子は城島社長と同じ様にシューという音を立てると、私に煙を吐きかけた。
「うっ……うん?」
私は城島社長の吐いた大量の煙を思い出して身構えたが、幸子の吐いた煙は、タバコのそれと同程度だった。
「煙の量も、調整できるのよ」
妻は私が抱いた疑問を即座に解消した。
「なるほど……しかし君もその、なんだ。ヴェイプをやっていたとは」
幸子も喫煙者で、禁煙の意思は無いと言っていた。そんな彼女がVAPEを使うのは、意外だった。
「まあ、あっちだとニコチン入りが吸えるから」
幸子は再び機械をくわえると、タバコの様に煙を吐いた。
城島社長のVAPEはまるでパフォーマンスの様だったが、幸子のVAPEは煙の量も吸い方もタバコに近く、見た目にも良い。
「で、あなたこそ手巻きタバコが面倒にでもなったの?」
「あ、いや。私もVAPEをやってみようと思ってね」
実はあまり興味はなかったが、城島社長に次に会うまでには、知識をつけておきたかったのだ。
「……あのね。いつも余裕綽々でなんでも知ってる、カッコいいモガミガワさんを演じるのは結構だけど……自分の知らないものを見た時は正直に『それなぁに?』って言えばいいじゃない。あなた、この手のものに興味なんて無いでしょう? すぐこれなんだから」
妻はマウスの上の私の手の上に手を重ね、そのまま私の手ごとマウスを操作して、ウェブブラウザを閉じた。
「おっ、おい」
私は振り向いて幸子の顔を見たが、妻は真顔のまま、ノートPCをパタンと閉じた。
「実はね。アメリカでコレを知って、あなたの分も買ってきたのよ」
そう言うと幸子は私に、彼女が使っているものと同じ形の機械を差し出した。
zippoライターを縦に2つ並べたくらいのサイズに、吸い口の付いた機械。持ち手と思しき部分には、アワビ貝の内側部分、
トランシーバーのミニチュアの様な形のその機械は、城島社長のそれよりも、どことなく高級感のあるデザインだ。
「……君は、いつも予想外の行動を取るね」
「あら。私、貴方の想定内の行動をしたことがあったかしら」
幸子は勝ち誇った様な顔をして、私に機械の使い方をレクチャーしてくれた。
早速、VAPEを吸ってみる。吸い口をくわえ、ボタンを押しながら吸入する。
空気の流量を吸い口の根本にあるリングで調整し、タバコと同じ様に吸うこともできるらしい。
煙を吸い込むと、バニラの香りがした。味もグリセリンのせいなのか、甘い。ゆっくりと肺に取り込み、吐き出す。これは……美味い、気がする。城島社長のものとはやはり、全く趣きが違った。
「こんな味もあるのか」
「貴方好みでしょう?」
妻は勝ち誇った顔を崩さない。
「うーむ……巻きタバコや葉巻とは違うけど、これはこれでなかなか……しかしな……」
私は掌の上の機械を眺めながら呟いた。やはり、これならばタバコの方が良い。
「認めないわねぇ」
幸子は半ば諦めた様な表情で、私から機械を取り上げ、リキッドの入ったタンクを外し、別のタンクを取り付けた。
「こっちが本命」
そう言って、妻は私に機械を差し出す。
吸ってみると……妙な味がする。
ブランデー……微かにバニラ、そして……
「これは、灰、かな……?」
恐る恐る妻に尋ねると、彼女は目を見開いた。
「当たり。よく分かったわね、灰の味なんて。でも、不思議と美味しいでしょう?」
「ああ。不思議だね。この味の方が好みだよ」
そう言いながら、私はこの不思議な煙を再び口に含む。
アルコールもニコチンも入っていないというそのリキッドが生み出す煙は私を、バーでブランデーとともに葉巻を吸っている気分にさせてくれる。
「続けて吸い過ぎると、中の綿が焦げて吸えなくなるから気をつけてね」
無意識に繰り返し煙を吸う私に、幸子は苦笑いを向けていた。
「……気に入り過ぎたみたいだ。気をつけるよ」
「そうそう。私、素直な貴方の方が好きよ」
幸子は私の吐き出した水蒸気の煙の様に掴み所のない、ふわりとした笑みを浮かべて、恥ずかしげもなく好きと言った。
「……私も、私を素直にさせてくれる君が、好きだよ」
夫婦はそれから、少し上等なブランデーを開け、不思議な魅力を持つ水蒸気の香りを部屋に満たしながら、互いに離れている間の事を語り合った。
翌朝、私より早く発った妻の置き手紙には、「マレーシアにも美味しいリキッドがあるそうだから、見てくるわ。私は、カッコつけないあなたの方が好きよ」
と、書かれていた。
次に城島社長に会ったら、あの妙なスイカの味の煙を試飲させて貰おう。きちんと「教えて下さい」と言ってから。
自分が博識であることにプライドやこだわりを持つ必要など無いのだ。
私は、妻からプレゼントされたVAPEの機械を手の上に乗せる。
螺鈿が朝日を反射し、七色に輝いていた。
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