器に宿る繊細さと豪快さのマリアージュ

 居酒屋とバー、どちらが良いかと問われると、私は迷わず居酒屋と答える。


 大人数でワイワイと飲むのも一興だが、居酒屋は独りでゆっくりと酒を楽しむ事もできるし、大将や女将さんとの会話が楽しい店もある。何より色々な意味で気楽なのだ。


 バーも行かないわけではない。特にシガーバーにはよく行く。その店のバーテンダーが創意工夫した、四季折々のカクテルとともにいただく、きちんと湿度管理された葉巻。シガーバーではご丁寧にカットまでしてくれるため、私は自分で葉巻は買わず、シガーバーで葉巻を喫うことにしている。

 バーの良いところは、全てがお膳立てされている事だ。若者が行く様なネオン輝くバーについては分からないが、私の様な中年が通うバーは、バーテンダーの技術と店の雰囲気、用意されたグラス、皿、料理……その全てがその場に似つかわしい。そこへ来る客もまた、その場に似つかわしくありたいと、個人的には思っている。だからこそ、私はバーに行く時はその店の雰囲気に合わせた格好をして行く様にしている。


 しかし今日はそんな余裕はなく、私は仕事帰りのスーツ姿で、くたびれたカバンを手に、馴染みの居酒屋に入った。


「よぉ、モガミさん、100年ぶりだな」

 居酒屋の大将が私を満面の笑みで冗談と共に私を迎える。実際には10日ぶりだ。そして私の名前は最上川なのだが、どうもこの苗字は長いらしく、皆一様に短縮して呼ぶのだ。まあ、珍しい苗字というだけで、そこに誇りを持っているわけではない。どの様に呼んでくれても構わないというのが本音ではある。


「いやあ、久しぶりに仕事で苦戦してね。疲れた時はこの店かな、と」

 私はカウンターにつき、苦笑いで大将に言った。


 この店は狭く、カウンター席が10席のみ。いつもは満席なのだが、今日は時間が遅い事も手伝って、1番奥の席で常連の老夫婦が晩酌をしているだけだった。


「モガミさんが苦戦?信じられねぇなぁ!」大将はガハハと笑いながらお通しを出した。


「私も苦戦くらいするさ。仕事は何歳になっても、勉強だね……お、ホタルイカか。いいね」


 出された翡翠色の美しい小鉢の中に、野菜と酢味噌が添えられたホタルイカが入っていた。

 チェーン店の居酒屋ではまずお目にかかれない、工夫を凝らしたお通し。ここの大将は元ホテルマンで元和食の板前という変わった経緯の持ち主。料理はお任せ、と伝えた途端、豪快なその性格からは想像もできない様な繊細な逸品が、次々と飛び出してくるのだ。

 彼の豪快さと、繊細な技術。そしてセンスある器選びのミスマッチが、上質な割には高級感からはかけ離れた様な、雑多で気楽な雰囲気を作り出している。


「水割りかい?」

 大将はお通しに続けて刺身を出しながら言う。


「そうだね……何がいいかな」

 私は壁一面に貼られた紙の札を見回す。全て大将が筆で書いたもので、その文字は読みやすい草書。大将は書道の有段者でもある。多才な男だ。

 大将のセレクトした焼酎はどれもこれもそこらの居酒屋には置かれないものばかりで、それを原価ギリギリの価格で提供している。良い酒を安く出せば、自慢の料理をたくさん食べてもらえる、というのが大将の持論だ。


「じゃあお疲れのモガミさんにゃ……これなんかどうだい」

 大将の手には、「十四代」と書かれた瓶が握られていた。


「そりゃ日本酒……じゃないのか。焼酎も作っているんだね」


 十四代といえば有名な日本酒の名前だと思っていたのだが、瓶には焼酎と書かれていた。


「たまにゃこういうのもいいだろ。ほんとは前割りをコッソリ……と思ったがモガミさん、そういうのはダメだ、って言うだろ?」

 大将は困った様な顔で言う。


「まあ、法律違反は、ね」

 前割りとは、焼酎をあらかじめ水で割って寝かせ、まろやかさを際立たせる飲み方なのだが、酒税法で規制されているため個人で楽しむ範囲しか許されておらず、他人に飲ませてはいけない事になっている。


「だろ? まあ、店が潰れたら困るって言われちゃ仕方ねえがよ……」

 大将はぶつぶつと文句を言いつつ、流れる様な手つきで酒器に透明度の高い氷を入れ、焼酎を注ぎいれた後、陶器のサーバーから水を注いだ。

 この陶器サーバーは大将のこだわりの一つで、このサーバーに入れられた水は特殊な釉薬の効果でアルカリイオン水になる……という事だそうだ。普通の信楽焼のサーバーもあるのだが、そちらは前割り焼酎をさらに美味しくするためのもので、また少し違うそうだ。


「ほい、お待ちかねの水割り」


 出された陶器の酒器は底に向かって広く、丸くなっており、自立するために脚が付いている。この酒器は焼酎の「香り」が対流する構造になっている。以前、私がこの酒器を持ち込んで大将と酒を飲み、大将が惚れ込んで焼酎用の器を全てこれに変えたほどの品だ。


「……日本酒の様な香りの焼酎だね」

 酒器の効果だけでなく、酒そのものが美味い。


「ああ。どうだい? 今日は日本酒も十四代でいくかい?」

 大将は満足気な顔をしながら、いつのまにか揚げていた生姜の天ぷらを出した。


「そうだね」

 生姜の天ぷらはもちろん、緑の部分をそのまま残して揚げてあり、そこを持ってかぶりつくと、口にさわやかで優しい辛味と旨味が広がった。


「じゃ、今日は……」


 そう言うと大将はこぶし大くらいのグラス……足のないワイングラスの様なものをカウンターに置いた。


「グラス……?」


「ああ。いつもはスズのお猪口だが、今回はこいつで飲んでくれ」


 大将は、とっておきの日本酒はいつも錫の酒器で出していた。錫も信楽焼と同様、日本酒を旨くする性質があるからだ。そんな大将がグラスで日本酒を出すのだから、何かあるはずだ。


 グラスに日本酒が注がれていく。


「じゃ、飲んでくれ」

 大将はやはり、いつのまにか用意していた鯛の酒盗を差し出しながら言った。


 グラスを顔に近づけると、ふわっと甘い香りがした。


「お。今日の十四代は中取りだね」

 詳しくは省くが、中取りとは日本酒製造工程のうち、もろみを絞る際、最初と最後の部分を除いた途中の部分……と言えば分かりやすいだろうか。味と香りのバランスが良いと言われる部分のことを指す。


「いや? いつものだよ」

 大将はニヤニヤしている。なるほど、私を試したのか。この酒器が香りをよくしているという事だ。やられたな。


 グラスに口をつけると、その驚くほど薄い飲み口に驚いた。こんなにも薄くガラスを作れるものなのか。噛めば割れてしまいそうだ。そして、口に運んだ日本酒が、キリリと冷たく、何より美味い。

 あんなに香りを出していたのに、この冷たさと華やかな味わい……グラス全体が薄く、すぐに日本酒の温度と馴染んだ事に加え、飲み口の薄さも味に貢献しているのだろう。


「これはやられたな……大将、いいものを見つけたね」

 私は握れば割れてしまいそうな薄いグラスを掲げた。


「へへへ……焼酎の器はモガミさんの真似っこだからよ……日本酒の器でモガミさんをびっくりさせてやろうと思って」

 私と同い年の大将は、少年の様にはにかみながら言う。この大将を見ていると、こだわりとは自分の満足のためだけではなく、誰かを喜ばせたい、驚かせたいという想いも動機になるのだと、改めて思う。



 晩酌をしていた老夫婦が会計を済ませて店を出ると、大将は彼らを見送って、表の暖簾を下げて店内に戻ってきた。


「ああ、店じまいか……」

 私はカウンターに代金を出す。


「そうだな。つまり……」

 そう言って大将は私に出した物と同じグラスを出し、一升瓶をカウンターにドン、と置いた。


「こっからは、モガミさんと俺の、飲み会って事だ」

 同じ少年の様な笑い方でも、今度はイタズラを成功させた様な顔をしていた。私も釣られて、笑顔になった。



 私は疲れも忘れて大将と夜が明けるまで飲んだ。彼はいつも、いつのまにか料理を出す。そして私も、いつのまにか彼に癒されていた。


 隣の席でいびきをかいて眠る大将に来客者用のブランケットをそっと掛けた私は、朝焼けの街を背に、家路へと向かっていった。

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