手紙を書きたい人魚姫
その日、私はたまたまオフの日に顧客の元に来ていた。
「いやぁ、すんませんねモガさん!」
小さな不動産屋のオーナーは、私をモガさん、と呼ぶ。私が最上川という苗字だからなのだが、〝モダンガール〟と同じ略称なので毎回笑いそうになる。
「いえ。たまたま近くにいたものですから、すぐお邪魔出来ましたが……あいにく仕事道具は何も持ち合わせておりません」
私は手をひらひらさせて〝丸腰〟アピールをする。しかし、このお客様にはそんなジョークは通用しない。案の定、彼は私の行動に何の反応もせず、話を始めた。
「ちょっとね、ご相談があって……」
「申し訳ない、紙とペンを」
私はオーナーの言葉を遮って、筆記具を要求した。本当にふらっと外出したので、ペンすら持ち合わせていなかった。
「ああ、こりゃ失礼。いつも準備の良いモガさんも休みの日はさすがにアレか」
オーナーは狭いデスク上の書類の山をバサバサと崩しながら、キャップも既に無くした様な油性ボールペンと、チラシを取り出した。
「ちょっと書きづらいけど、これでお願いします」
そう言って渡されたチラシ紙は、今時見ない片面印刷のコート紙。チラシ用のコート紙というものは、普通は市販されない。オフセット印刷と呼ばれる工場印刷用の紙として使われる。ただ、近年では印刷機の進化でコート紙の片面印刷は、ほぼ存在しなくなったと思っていたが……まだ古い印刷機を使う工場もあるのか。さすがの私も新聞に挟まれたチラシにこだわりは無いので、その辺りはあまり詳しくない。
渡された紙はいわゆる「ツルツル面」のチラシの裏だった。この紙はとにかくインクが乗りにくい。渡されたペンが油性だからまだ良いものの、万年筆の水性インクなどは簡単に弾かれてしまう。
しかし文句を言うわけにもいかず、私はそれを受け取り、彼の相談をメモし始めた。
「……と、いうわけなんですよ」
「よく、分かりました」
私はところどころ掠れたメモを折り畳んでポケットに入れた。
「いつもすまないね、モガさん」
オーナーはニヤリと笑った。悪人の悪巧みにしか見えないこの笑顔が、彼の微笑み方なのだ。
「構いませんよ。かえっていつもありがとうございます」
私も微笑み返し、そのまま立ち上がって不動産屋を後にした。
仕事の依頼は難しいものではなかったが、ペンが掠れすぎて、ひどく疲れた。
あのオーナーはあんなペンと紙を使って、ストレスを感じないのだろうか。私には耐えられない。
……よほどのストレスだったのだろう。私の足は行きつけの文房具店に向いていた。何度もお世話になっている、素晴らしい店だ。
私はフェア品や人気文具のある低層階を無視してエレベーターで高層階に上がった。
たどり着いたこのフロアは、紙しか売られていないフロア。それも洋紙だけだ。
和紙にもさまざまな色、種類、産地、性質があるが、洋紙にはその何倍もの種類がある。このフロアだけで、ざっと1000種類以上の紙がある。他には、紙と相性の良い鉛筆類や高級消しゴム、紙で作られた収納箱や高級メモ帳などがあり、まさに紙にこだわったフロアと言える。
沢山の紙達はただ積まれるだけでなく、色とりどりの紙をグラデーションにして置いたり、加工して立体にして額に飾ったり、質感の違う紙を並べるなど、目で楽しめる様になっている。レジカウンターには見本帳が並び、さらにこのフロアに複数ある紙についての案内冊子だけは、全て異なる紙に印刷されている。凄まじいこだわりだ。
そして……一番目を引くのは、色ごとに壁面にズラリと並べられた5cm四方の紙達。これだけの種類の紙は、他の店では類を見ない。壮観だ。
店内に触れられぬ紙は無く、全て手触りを確認してから購入できるようになっている。ガラスケースも天板だけになっており、そこには木の引き出しが収まっていて、取っ手を引くと中には同じ色、同じ紙質の封筒やグリーティングカードが収まっている。
私はここでよく便箋とカードを買い、顧客に手紙を書くのだが、今日は単純に良い紙に筆を走らせたいだけだ。さて、どうしようか。
まずは壁面の紙のサンプルを見る。いつ来てもこのサンプル群は良い。革の様な表面のもの、和紙ではないが小紋の様なエンボスを散りばめたもの、向こうが透けて見えるほど薄いもの……どれもこれも、普通の文房具店ではお目にかかれない紙だ。さあ、どれに字を書こうか。
すっかり機嫌をよくした私が店内を歩き回っていると、小学校2年生くらいの少女が一人でいるのが目に留まった。両親はいないのか?
少女は封筒のコーナーの、一番上の引き出しの中身を確認したい様だったが、彼女の身長では届かず、悲しげな顔で引き出しを見上げている。店員も気付けば良いのだが、残念ながら他の客に当たっており、彼女に気付いていない様子だった。
私の様な中年男性が屋外で小学生に声を掛ければ、途端に通報されるご時世だが、今は周囲に店員しかおらず、両親らしき客も見当たらない。私は屈んで少女に声をかけた。
「お嬢さん、お父さんとお母さんは?」
「一人で来たの」
少女は肩まで伸ばした髪をかきあげ、私は大人なのよ、と言わんばかりの得意げな顔をした。
「それはすごい。なら、そこの引き出し……私がお手伝いせずとも、上手く工夫して開けられる、というわけだね?」
私は引き出しの最上段を指差して微笑んだ。
「……っ。そうね。でも今日は貴方にお手伝いさせてあげる。一番上の段に、そらいろのおてがみが入ってるはずよ?とってくださる?」
少女は一瞬動揺したが、予想通りの答えを返してくれた。
「仰せのままに」
私は接客中の店員に一言断りを入れて最上段の引き出しを取り出し、少女に見せた。
「……やっぱりこの紙だわ。人魚姫。ありがとう!」
少女は満足げに微笑むと、引き出しの中から空色の封筒とカードを2枚、取り出した。
人魚姫と呼ばれた空色の封筒とカード。手触りの良い、厚みのある上質な紙だ。
「お目当ての物が見つかって何よりです」
私も少女につられて微笑んだ。
「リエルちゃん!こんなところにいたの!?」
私が立ち上がろうとした瞬間、後ろから少女の母親がやってきた。
「あら……もしかして、この子がわがままを……? すいません!」
少女の母親は私の姿を見て深く頭を下げた。
「このおじさまが……」
「人のせいにしないの!」
母親は少女の言葉を遮り、彼女の肩を掴んで顔を見た。
「奥さん、これは私が申し出てやったことです。いやぁ、賢いお嬢さんだ。ただ、リエルさん、嘘はいけないな」
私は引き出しを棚に戻しながら、少女に苦笑いを見せる。
「嘘?」
母親は怪訝な顔をした。
「……この階にはひとりで来たもん……」
少女は俯き、消え入りそうな小声で言い訳をした。
「リエル。また一人でお出かけしてるって言ったのね?どうしてそんな嘘をつくの?」
母親は悲しい顔をしている。大人になりたいお年頃なのだろうが、母親から見れば、少し寂しい背伸びでもある。
「……知らない」
少女は封筒とカードを後ろ手に持ったまま、泣き顔で母親に言った。
なるほど。そういうことか。
「奥さん、お嬢さんは私があまりにもこの階をウロウロしていたもので、私に封筒を選んでくれたんですよ。お会計しなくてはね」
私は母親に苦笑いで伝える。
「あ、あらそうだったんですか?リエル、それならそうと……」
「まあまあ。さ、それを私に」
私は母親に見えない様に少女にウインクし、さらに、少女が手に持ったものも母親から見えない様にして、少女から封筒とカードを受け取った。そして同じものをもう1セット、やはり見えない様に取り出し、レジに持って行って購入した。1セットずつ包んでもらい、一つを少女に渡した。
「これは選んでくれたお礼だよ」
私は少女に再びウインクした。
「……ありがとう!」
少女は涙のあとがついた頬をぐっと持ち上げ、にっこりと笑って、中身が見えない様に包装された封筒とカードを受け取って、自分のポーチに入れた。
少女の母親は何度も支払うと申し出たが、数百円程度のものだし、ただの紙ですからと断り、代わりに怪しいものではない事を伝えるために、名刺を渡して店を後にした。
数日後。渡した名刺の住所に、少女から手紙が届いた。
『ママはよろこんでくれました。にんぎょひめのかみをとってくれてありがとうございました』
少女の手紙はファンシーなキャラクターものの封筒と便箋を使って綴られていた。あの時選んだカードと封筒は、やはり母親に手紙を書くためのものだった様だ。
「人魚姫の紙……か」
あの日選んだ封筒とカードは、「マーメイド」という紙だった。正確には人魚姫ではなく人魚だが……少女の名は里恵留。リエル……童話、人魚姫の末っ子の名前はアリエルという。
恐らくは、あの紙の名を母親が少女に教えたのを、彼女は覚えていたのだ。
私は机からマーメイド紙のカードと封筒を取り出し、愛用の万年筆で、全てひらがなの手紙を書いた。
おませな人魚姫。あの年齢で紙に……いや、自分の名前の由来にこだわるとは、大したものだ。
私は近所のポストにマーメイド紙の封筒を投函した。
彼女が与えられた名を愛し続け、そのこだわりがいつしか泡となって消えないで欲しい……そう、願いながら。
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